恐怖という噂
「ねえ、知ってる? お城の床はね、悪い人だけ食べちゃうんだって!」
そんな言葉を、最初に耳にしたのは、
集いの家の中庭でした。
昼下がり。
読み書き学校が終わったあと、
子どもたちが持ち寄った木切れと石で、
なにやら即席のお店ごっこをしている、そんな時間です。
「ほんとうに? 石でしょ、床なんて」
「ほんとだもん。だって、お父さんが言ってた。
“公爵様に刃向かうと、足元がぱっくり割れて飲まれるぞ”って」
「うちのお母さんも言ってた。
“ここで悪さしたら、お城に連れていかれて、そのまま帰ってこられないからね”って」
子どもたちの声は、
ひそひそ話のつもりなのでしょうけれど、
中庭ではよく響きます。
(……おや?)
私は、窓辺で書類を確認していた手を止めました。
「ねえねえ、その人を食べるのって、お城? それとも——」
別の子が、いたずらっぽく声を潜めます。
「奇跡のリヴィアさま?」
「ば、ばか! リヴィアさまは人なんて食べないよ!
食べるのは床!」
「でも、床とおしゃべりしてるかもしれないじゃん。
“今日は誰を食べましょうか”って」
中庭に、くすくすと笑い声が広がりました。
(……城と、おしゃべり)
思わず、窓枠に額を預けてしまいます。
(さすがに床とは話しませんわよ?)
そう心の中でつぶやきながらも、
笑いきれない刺のようなものが、胸に小さく引っかかっていました。
◆ ◆ ◆
同じ日の夕方。
今度は、集いの家の玄関先で、
旅の商人らしき男が、マルコに向かって笑い話をしているのが聞こえました。
「いやあ、噂は聞いてたが、本当にあったとはねえ」
「噂?」
マルコが片眉を上げます。
「“人を飲む城”さ。
おたくの領地にあるっていう、あれだよ」
「……ずいぶんと物騒な観光名所になってますねえ、うちは」
マルコの肩が、わずかに揺れました。
商人は、面白そうに身を乗り出します。
「“奇跡の公爵令嬢”ってのがいるって話は前から聞いてたけどよ。
最近は、それにおまけが付いててな」
「おまけ、ねえ」
「“そのお嬢様に刃向かうと、城が人を飲む”ってさ。
床がぱっくり口を開けて、悪い奴だけ根こそぎ持っていくんだと。
商売敵を連れてきたくなる話じゃねえか」
「やめてくださいよ、物騒な冗談は」
マルコが呆れたように笑います。
「そんなことされたら、あたしの取り分まで床に飲まれちまう」
玄関の影から様子を伺っていた私は、
そっと息を吐きました。
(また、ずいぶんと……)
最初は苦笑いで済ませようとしました。
噂というものは、得てして大げさになっていくものです。
それでも——
子どもたちの「床は人を食べる」という声と、
商人の「人を飲む城」という言葉が、
妙に重なってしまうのを、
頭のどこかで、振り払えませんでした。
(……床が人を飲み込む、噂、ですか)
あの夜の、石畳の亀裂を思い出します。
誰も叫ばず、血も流れず、
ただひとりだけが世界から抜け落ちた、静かな場所。
(私が知らないところで、本当に——)
胸の奥で、
小さなざわめきが膨らみ始めていました。
◆ ◆ ◆
その日の夜。
邸の食堂で、
簡素な夕食を囲みながら、
私はマルコとレオンに、噂の話を切り出しました。
「……というわけで、どうやら最近、
この辺境では“人を飲み込む城”があるらしいのですけれど」
マルコは、スープをすすっていた手を止め、
ふっと肩を震わせました。
「聞いちまいましたか、嬢ちゃん」
「ええ。子どもたちの口からも、商人たちの口からも」
私は、苦々しく笑います。
「私、いつの間に人食い城の主になったのかしら」
「いやあ、噂ってのはなあ」
マルコはパンをちぎりながら、
楽しそうとも呆れたようともつかない表情で続けました。
「恐怖と願望がごちゃ混ぜになって、
勝手に肥大していくもんなんですよ」
「願望、ですの?」
「“悪い奴だけ飲み込んでほしい”って願望さ」
彼は肩をすくめました。
「“悪意を持って公爵様に刃向かったら、床が飲み込んじまう”——
そういう話なら、案外みんな安心してる節もある」
「安心、ですか」
「“正直に生きてりゃ大丈夫だ”って、
そう自分に言い聞かせられるからね」
なるほど、と私は思いました。
恐怖の噂でありながら、
どこか願いの形もしている。
悪意を持つ者だけが罰せられ、
自分たちは守られる世界。
人はきっと、
そういう物語を求めずにはいられないのでしょう。
「抑止力として働いている面もあります」
レオンが、静かに言葉を継ぎました。
「あなた様に安易に刃を向ける者が、
確実に減っております。
“城そのものが主を守る”と恐れられているのですから」
言っていることは分かります。
実際、刺客の気配が濃くなってからというもの、
あからさまな怪しい動きは、一時的に減っているのも事実でした。
ですが——。
「抑止力、ですか」
私はスプーンを置きました。
「私が望んだ覚えのない“脅し文句”が、
一人歩きしているようで、
少し居心地が悪いですわ」
マルコが、ふっと笑みを深めます。
「“人を飲む床付き公爵邸”——
見世物小屋に出したら、いい客寄せになりそうですけどね」
「……マルコ」
思わず低い声が出てしまいました。
隣でレオンも、
わずかに眉をひそめます。
「マルコ。
さすがに、その冗談は笑えません」
「おっと、これは失礼」
マルコは両手を上げて見せました。
「まあ、あたしとしては正直なところ、
悪さする連中が勝手に怖がってくれるなら、
それはそれで商売がやりやすいって側面もあるんだがね」
「……そういう打算を、あまり堂々と言わないでくださる?」
「善意だけで守るには、世の中ちょっとばかし荒っぽいって話ですよ、嬢ちゃん」
マルコは、少しだけ真剣な目をしました。
「“リヴィア=優しい聖女様”って像だけじゃ、
どうしたって舐めてかかる連中は出てくる。
“リヴィア=人を飲む城の主”って裏の顔があるくらいで、
ちょうどいい時もある」
「……褒めてくださっているのか、
茶化しているのか分かりませんわね」
「両方だよ」
彼は、悪びれもせず笑いました。
レオンは、少しだけ視線を落としてから口を開きます。
「私も——
噂そのものを歓迎しているわけではありません」
「レオン」
「ですが、事実として。
“この城は主を守る”という認識が広がっているなら——
それは、あなた様に向けて安易に刃を振るう者にとっての、
強力な抑止になる」
彼は真っ直ぐに私を見ました。
「あなたが直接、誰かを脅す必要はありません。
噂が勝手に、あなたを“近づけば飲み込まれる存在”に仕立て上げてくれる」
「……それは、良いことなのでしょうか」
分かっています。
理屈では。
けれど、胸の奥が少しだけ、
ひやりとしたままなのです。
「私、そんなに怖く見えます?」
つい、そんな問いが口からこぼれました。
マルコが「いや、それはない」と即座に首を振り、
レオンが「……少なくとも、私の知るあなた様は」と言い淀みました。
「レオン?」
「……怖いというよりは。
“怒らせてはいけない”と、誰もが本能で理解する存在、でしょうか」
「それは、
けっこう怖いと言われている気がいたしますわね」
思わず、肩から力が抜けました。
食堂には、
ほんの少しだけ柔らかい笑いが戻ります。
それでも、
胸の奥に残ったざわめきは、
完全には消えませんでした。
◆ ◆ ◆
その夜遅く。
私はひとりで廊下を歩いていました。
灯された燭台が、
一定の間隔で石壁を照らしています。
足音が、
静かな邸の中に小さく響きました。
視線を落とすと、
あの日の亀裂は、もう目立たなくなっています。
石は元通りにはめ込まれ、
上から磨かれ、
誰かがここで消えた痕跡など、
どこにもありません。
(……本当に、なかったことにしてしまうのですね)
床をじっと見下ろしながら、
私は思いました。
「私は人を救いたくて、この力を使ってきたつもりでした」
小さく、
誰に聞かせるでもなく呟きます。
「病に倒れた人を、
飢えた村を、
行き場のない祈りを——」
それなのに、
救われなかった人から見れば。
「最初から、私も城も、“怪物”だったのかもしれませんわね」
奇跡を受けられなかった人。
列の最後尾で、順番が回ってこなかった人。
私の力が届く前に、
静かに息を引き取った人たち。
そういう人々の目から見れば——
私はきっと、
とっくに “人を選んで食べる城の主”だったのだと思います。
それにようやく、
少しだけ追いついただけなのかもしれません。
自分の知らないところで、
自分の名がどのように語られているのか。
自分の力が、
自分の意図しない形で、
どこまで広がってしまっているのか。
それを思うと——
少しだけ、足元が心許なくなります。
(守るための力が、
人を縛る檻に変わってはいないかしら)
善意という名の柵。
奇跡という名の鎖。
「守られるからここにいなさい」と、
気づかぬうちに人を囲んでしまうことだって、
きっとある。
「……怖いですわね」
思わず、本音がこぼれました。
私自身が知らない“私の恐ろしさ”に、
少し、手が震えます。
けれど——。
「それでも、ですわ」
私は足を止めて、
石畳の真ん中に、まっすぐ立ちました。
「“怖いから”という理由だけで、
私の立ち位置を変えるつもりはありません」
噂がどうであれ。
私を怪物だと呼ぶ声があろうと、
聖女だと持ち上げる声があろうと。
私が守りたいものは、
変わらないはずです。
——この領地で、
明日のパンを心配している人たち。
——今日をどうにかやり過ごそうとしている人たち。
その人たちの明日を、
ほんの少しでも楽にしたいと願うこと。
それが、
私が選んだ場所なのだと、
何度でも自分に言い聞かせます。
「噂が私より先に歩いていくのなら——」
私は小さく笑いました。
「せめて、その噂に追いつける私でいたいものですわね」
“優しい聖女”の噂にも。
“人を飲む城の主”の噂にも。
どちらにも負けないように、
どちらにも嘘にならないように。
私は今日も、
足元の石を確かめながら、
この城を歩いていくのです。




