精霊の逆鱗
その夜、私はいつもより早く、ベッドに沈み込んでいました。
教会の査察。
偽りの奇跡。
祈りの場を守るための書類仕事。
刺客の気配を聞かされた、レオンとの夜の作戦会議——。
積み重なった疲れが、骨の髄まで沁み込んでいるのが自分でも分かります。
(今夜だけは——少しだけ、精霊王様に甘えてもよろしいですわよね)
心の中でそう呟いて、
いつもより長めに、静かに祈りを捧げました。
「どうか、皆が無事でいられますように。
ついでに、私も——」
そこまで考えたところで、
思考はふっと途切れます。
最後に覚えているのは、
遠くから、誰かに見られているような、
薄い視線の気配。
(……気のせい、ですわよね)
そこまでが、私の意識の端でした。
◆ ◆ ◆
朝、目を覚ましたとき、
私はひどく深く眠ったあとのような、妙な倦怠感を覚えました。
まぶたが重く、
夢を見ていたような気もするのに、
内容はするりと指の間を抜けていきます。
(よく眠れたような、落ちていたような……)
そんな曖昧な感覚を抱えたまま身支度を整えていると、
扉の向こうから、いつもより少し早いノックの音がしました。
「リヴィア様。レオンです。
至急、お伝えしたいことがございます」
声の張りが、いつもと違う。
まだ髪をすべて結い終える前でしたが、
私は「どうぞ」と扉を開けさせました。
入ってきたレオンの表情は、
冷静さの奥に、微かな緊張を含んでいます。
「おはようございます、レオン。
……朝から物騒そうな気配ですわね」
冗談めかしてみせると、
彼は一瞬だけ目を伏せ、すぐに顔を上げました。
「おはようございます、リヴィア様。
申し訳ありませんが、本日は挨拶よりも先に——
状況のご説明をさせてください」
「分かりましたわ。場所を移しましょう」
私たちは、寝室に隣接した小さな応接室へ移動しました。
湯気の立つお茶が一杯、
私の前に置かれます。
レオンは、テーブルに一枚の簡易地図と、
巡回記録の紙束を広げました。
「まず、結論から申し上げます。
昨夜——おそらく、あなた様の寝室の扉の前まで、
ひとりの侵入者が辿り着いていた可能性が高い」
手にしたカップが、かすかに揺れました。
「……侵入者」
「はい。
夜間の巡回記録のうち、この一角だけが不自然に途切れております」
レオンの指が、地図の上を滑り、
私の寝室へ通じる廊下をなぞりました。
「廊下の見張りだった兵がひとり、
“少し離れた物陰で気を失っていた”状態で発見されました。
幸い命に別状はありませんが——
本人は、背後から一瞬で意識を刈り取られたと証言しています」
「毒ではなく?」
「魔法か、特殊な術具。
身体に異常は見られませんでしたので、
おそらくは短時間の睡眠を誘う類いのものです。
殺す意図はなく、行動の邪魔だけを排除したのでしょう」
私の喉の奥に、ひやりとしたものが張り付きます。
「そして——
もう一人」
レオンは、別の紙束を取り出しました。
「昨夜から行方の分からなくなっている男がいます。
教会筋の用件で何度か出入りしていた、信徒を名乗る者」
「信徒……」
「実際には、どこかの貴族の従者である可能性も高い」
彼は目を細めました。
「巡回記録と照らし合わせると、
その男の最後の姿が目撃されたのが——
ちょうど、この廊下に続く階段付近なのです」
地図の一点に、指先が止まります。
「そこから先の足跡が、
どこにも繋がっていない」
足元が、少し冷えるような感覚がしました。
「……レオン。
つまり、昨夜この城の中に刺客が入り込んでいて、
私の寝室を、目指していた可能性があると?」
「“可能性”ではなく——
ほぼ、そう断じてよいと考えております」
レオンの声は、静かでした。
◆ ◆ ◆
現場を見ておきたい、と私が申し出ると、
レオンは一瞬だけ躊躇しましたが、
すぐに頷きました。
「では、くれぐれも足元にお気をつけて」
「……そんなふうに言われると、余計に怖くなりますわね」
苦笑しながらも、私は立ち上がりました。
まだ完全に目覚めきっていない身体を引き連れて、
昨夜、私が深い眠りに落ちていたそのすぐ近く——
問題の廊下へと向かいます。
普段と変わらぬ、石造りの廊下。
窓から差し込む朝の光に照らされて、
灰色の床は、どこまでも無表情に見えました。
「ここです」
レオンが立ち止まった場所には、
ほんのわずかな違和感——
目を凝らさなければ見落としてしまいそうな、
微細な亀裂が走っていました。
一枚分の石畳の境目が、
他の場所よりも、少しだけ歪んでいるのです。
「昨夜の巡回で、この位置に立っていた兵士が、
背後から眠らされて倒れていた」
レオンは淡々と説明します。
「その少し先——
あなた様の寝室の扉の前で、足跡がぷつりと途切れている」
足跡。
床に血はなく、
擦れた跡もない。
「……まるで、世界のほうが、彼を飲み込んでしまったかのように」
思わず、口から言葉が漏れました。
石畳の亀裂を、じっと見つめます。
そこは、誰かが躓くほど大きな穴ではありません。
けれど、昨夜——
ほんの一瞬だけ、その石が口を開けて、
ひとりの男を選んで呑み込んだのだと、
そう言われたなら。
(……そうとしか、思えませんわね)
足元の石を、ついと爪先で軽くつついてみました。
「……これ、つまずいたら痛そうですわね」
場違いな感想だと分かっていながら、
そんな言葉がこぼれます。
レオンが、困ったように、しかし僅かに安堵したようにも見える顔で息を吐きました。
「リヴィア様」
「冗談ですわ。半分くらいは」
◆ ◆ ◆
「叫び声は?」
私は脇に立つ騎士に尋ねました。
「……聞こえておりません。
夜の巡回中、異常な物音も報告されていません」
「血の跡や、布切れの一つも?」
「それも、ありません」
騎士は、申し訳なさそうに首を振りました。
「ただ、この石の上だけが——
まるで、夜の間に一度外され、
またはめ直されたかのような、僅かな歪みを見せております」
「魔法、か。
何らかの罠にかかったのだろう」
レオンは冷静に言いました。
「ですが、この城にそんな罠を仕掛けられる者は、
限られているはずです」
その言葉に、私は胸の奥で、
別の可能性をひそやかに思い浮かべます。
(あの方、なのでしょうか)
先日見た夢。
白い空間で、拗ねたように私を見下ろしていた存在。
『お前が泣くような真似をする者は、
我が許さぬ』
あのときの声が、
耳の奥で微かに蘇りました。
昨夜——
精霊王は、私の眠りを覗いていたのでしょうか。
それとも、
私に向けられた“明確な殺意”が、
自動的にあの方の側へ届いたのか。
答えを、直接尋ねる勇気は、さすがにありません。
「レオン」
「はい」
「行方不明になっているという、その男について——
どれほど情報が集まっていますの?」
「名義上は教会筋の信徒ですが、
出自は曖昧です。
王都の一部貴族と繋がりがあるとの噂も」
レオンは眉をひそめました。
「祈りと正義を口にしながら、
裏では“神の名を借りた処理”を請け負ってきた者たちがいます。
彼も、おそらくはその一人」
「……なるほど」
祈りを言い訳にした殺し。
信仰という衣をまとった刃。
私の胸の中に、
冷たいものと、少しだけ熱いものが同時に広がりました。
「行方不明のまま、ですのね」
「はい。
城内は隅々まで探しましたが、痕跡はなく——
城外へ出た形跡もありません」
つまり——
この廊下のあたりで、
彼は“どこかへ消えた”。
世界のほうが、
彼を飲み込んだのだとしか思えないほどに、
痕跡を残さずに。
◆ ◆ ◆
私はしゃがみ込んで、
問題の石畳にそっと触れてみました。
ひんやりとした感触。
いつもの城の床と、何ら変わりのない温度と硬さ。
けれど、
耳を澄ませると、
この場所だけが、
ほんの僅かに“沈黙”しているように感じられました。
(ここで誰かが消えたのだとしても、
その痕跡すら残さないほどに、
世界のほうが口を閉ざしている)
それは、
私を守るための行為だったのかもしれません。
けれど同時に、
ひとりの人間の命を、音もなく、
何の告げ口もなく飲み込むということでもあります。
(……私を殺そうとした人、ではありますけれど)
思わず、胸の内で呟いてしまいました。
(それでも、“当たり前”のように消えていただいていいのかと言われると——
少し、息苦しくなりますわね)
彼は、おそらく、
祈りや正義を言い訳にしながら、
これまでにも何人もの命を奪ってきたのでしょう。
人を“処理”してきた側が、
今度は世界そのものに“処理”されたのだと言われれば、
それはある種の因果応報なのかもしれません。
けれど、
その一文で簡単に片づけてしまうには——
あまりにも、静かで、跡形のない消え方でした。
私を守るための暴力でさえ、
どこかで重く受け止めてしまう自分が、
少し、厄介だと分かっています。
「……レオン」
「はい」
「私、そんなに危なっかしく見えます?」
思わず、そんな言葉がこぼれました。
レオンは、珍しく表情を変えます。
「危なっかしいと申しますか——
狙う側から見れば、“価値が高すぎる標的”です」
「褒められている気が、まったくしませんわね」
ため息とも笑いともつかない息が漏れました。
「ですが」
レオンは真面目な声で続けます。
「あなた様を狙う者がいるからこそ、
このような“何か”が働いたのだとしたら——」
彼は言葉を濁し、
石畳からそっと視線を逸らしました。
「……精霊王様、なのかもしれませんわね」
私は小さく呟きました。
聞こえるか聞こえないかの、ぎりぎりの声音で。
その瞬間——
胸の奥で、
誰かの笑い声のような、ため息のような気配が、
ほんの一瞬だけかすめました。
『泣かぬうちに済むなら、それで良い。
我は、ただそうしただけだ』
確かに、
そんな声がした気がして——
すぐに、霧のように消えていきます。
私だけが、その気配を捉えたのか。
それとも、ただの思い込みなのか。
分かりません。
ただ、ひとつだけ理解できるのは。
(やはりあの方は——
本気で怒れば、この程度の“理の書き換え”は、
ひどく容易いのだということ)
そしてそれは、
私に向けられた好意であると同時に、
同じくらい、恐ろしいものでもありました。
◆ ◆ ◆
部屋に戻る途中、
私は廊下の窓から、外の庭を一瞥しました。
朝の光に照らされた庭は、
何事もなかったかのように、
いつもの姿を見せています。
けれど、
ほんの少しだけ——
世界の輪郭が、昨日よりも「鋭く」感じられました。
私の知らないところで、
私のために誰かが消されたという事実。
それを、
安堵だけで受け取ることは、きっと、
この先もできないのでしょう。
それでも——
(昨夜、私は泣かなかった)
何も知らずに眠り、
何も知らないまま朝を迎えた。
そのことを、
どこかで、誰かが
「それで良い」と判断したのだとしたら。
「……世界のほうが、彼を飲み込んでしまったのですね。
私を守るために——とても静かに、残酷な仕方で」
小さくそう呟き、
胸の中に、その事実をそっと仕舞い込みました。
今日もまた、
城下では人々の生活が続いていきます。
私が知らないところで起きた暴力も、
私が知らないまま祈られた救いも、
すべてを抱えて——
それでも、朝は訪れる。
私は深く息を吸い、
いつものように微笑みを整えました。
刺客の気配は、
昨夜ひとつ、姿を消したに過ぎません。
視線も、殺意も、
まだ遠くからこちらを窺い続けている。
それでも私は——
この城の窓を開け、
いつも通りの一日を始めるのです。




