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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第3章_愛と怒りと、歌えば国が揺らぐ夜
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精霊の逆鱗

 その夜、私はいつもより早く、ベッドに沈み込んでいました。


 教会の査察。

 偽りの奇跡。

 祈りの場を守るための書類仕事。

 刺客の気配を聞かされた、レオンとの夜の作戦会議——。


 積み重なった疲れが、骨の髄まで沁み込んでいるのが自分でも分かります。


(今夜だけは——少しだけ、精霊王様に甘えてもよろしいですわよね)


 心の中でそう呟いて、

 いつもより長めに、静かに祈りを捧げました。


「どうか、皆が無事でいられますように。

  ついでに、私も——」


 そこまで考えたところで、

 思考はふっと途切れます。


 最後に覚えているのは、

 遠くから、誰かに見られているような、

 薄い視線の気配。


(……気のせい、ですわよね)


 そこまでが、私の意識の端でした。


◆ ◆ ◆


 朝、目を覚ましたとき、

 私はひどく深く眠ったあとのような、妙な倦怠感を覚えました。


 まぶたが重く、

 夢を見ていたような気もするのに、

 内容はするりと指の間を抜けていきます。


(よく眠れたような、落ちていたような……)


 そんな曖昧な感覚を抱えたまま身支度を整えていると、

 扉の向こうから、いつもより少し早いノックの音がしました。


「リヴィア様。レオンです。

  至急、お伝えしたいことがございます」


 声の張りが、いつもと違う。

 まだ髪をすべて結い終える前でしたが、

 私は「どうぞ」と扉を開けさせました。


 入ってきたレオンの表情は、

 冷静さの奥に、微かな緊張を含んでいます。


「おはようございます、レオン。

  ……朝から物騒そうな気配ですわね」


 冗談めかしてみせると、

 彼は一瞬だけ目を伏せ、すぐに顔を上げました。


「おはようございます、リヴィア様。

  申し訳ありませんが、本日は挨拶よりも先に——

  状況のご説明をさせてください」


「分かりましたわ。場所を移しましょう」


 私たちは、寝室に隣接した小さな応接室へ移動しました。

 湯気の立つお茶が一杯、

 私の前に置かれます。


 レオンは、テーブルに一枚の簡易地図と、

 巡回記録の紙束を広げました。


「まず、結論から申し上げます。

  昨夜——おそらく、あなた様の寝室の扉の前まで、

  ひとりの侵入者が辿り着いていた可能性が高い」


 手にしたカップが、かすかに揺れました。


「……侵入者」


「はい。

  夜間の巡回記録のうち、この一角だけが不自然に途切れております」


 レオンの指が、地図の上を滑り、

 私の寝室へ通じる廊下をなぞりました。


「廊下の見張りだった兵がひとり、

  “少し離れた物陰で気を失っていた”状態で発見されました。

  幸い命に別状はありませんが——

  本人は、背後から一瞬で意識を刈り取られたと証言しています」


「毒ではなく?」


「魔法か、特殊な術具。

  身体に異常は見られませんでしたので、

  おそらくは短時間の睡眠を誘う類いのものです。

  殺す意図はなく、行動の邪魔だけを排除したのでしょう」


 私の喉の奥に、ひやりとしたものが張り付きます。


「そして——

  もう一人」


 レオンは、別の紙束を取り出しました。


「昨夜から行方の分からなくなっている男がいます。

  教会筋の用件で何度か出入りしていた、信徒を名乗る者」


「信徒……」


「実際には、どこかの貴族の従者である可能性も高い」


 彼は目を細めました。


「巡回記録と照らし合わせると、

  その男の最後の姿が目撃されたのが——

  ちょうど、この廊下に続く階段付近なのです」


 地図の一点に、指先が止まります。


「そこから先の足跡が、

  どこにも繋がっていない」


 足元が、少し冷えるような感覚がしました。


「……レオン。

  つまり、昨夜この城の中に刺客が入り込んでいて、

  私の寝室を、目指していた可能性があると?」


「“可能性”ではなく——

  ほぼ、そう断じてよいと考えております」


 レオンの声は、静かでした。


◆ ◆ ◆


 現場を見ておきたい、と私が申し出ると、

 レオンは一瞬だけ躊躇しましたが、

 すぐに頷きました。


「では、くれぐれも足元にお気をつけて」


「……そんなふうに言われると、余計に怖くなりますわね」


 苦笑しながらも、私は立ち上がりました。


 まだ完全に目覚めきっていない身体を引き連れて、

 昨夜、私が深い眠りに落ちていたそのすぐ近く——

 問題の廊下へと向かいます。


 普段と変わらぬ、石造りの廊下。

 窓から差し込む朝の光に照らされて、

 灰色の床は、どこまでも無表情に見えました。


「ここです」


 レオンが立ち止まった場所には、

 ほんのわずかな違和感——

 目を凝らさなければ見落としてしまいそうな、

 微細な亀裂が走っていました。


 一枚分の石畳の境目が、

 他の場所よりも、少しだけ歪んでいるのです。


「昨夜の巡回で、この位置に立っていた兵士が、

  背後から眠らされて倒れていた」


 レオンは淡々と説明します。


「その少し先——

  あなた様の寝室の扉の前で、足跡がぷつりと途切れている」


 足跡。

 床に血はなく、

 擦れた跡もない。


「……まるで、世界のほうが、彼を飲み込んでしまったかのように」


 思わず、口から言葉が漏れました。


 石畳の亀裂を、じっと見つめます。


 そこは、誰かが躓くほど大きな穴ではありません。

 けれど、昨夜——

 ほんの一瞬だけ、その石が口を開けて、

 ひとりの男を選んで呑み込んだのだと、

 そう言われたなら。


(……そうとしか、思えませんわね)


 足元の石を、ついと爪先で軽くつついてみました。


「……これ、つまずいたら痛そうですわね」


 場違いな感想だと分かっていながら、

 そんな言葉がこぼれます。


 レオンが、困ったように、しかし僅かに安堵したようにも見える顔で息を吐きました。


「リヴィア様」


「冗談ですわ。半分くらいは」


◆ ◆ ◆


「叫び声は?」


 私は脇に立つ騎士に尋ねました。


「……聞こえておりません。

  夜の巡回中、異常な物音も報告されていません」


「血の跡や、布切れの一つも?」


「それも、ありません」


 騎士は、申し訳なさそうに首を振りました。


「ただ、この石の上だけが——

  まるで、夜の間に一度外され、

  またはめ直されたかのような、僅かな歪みを見せております」


「魔法、か。

  何らかの罠にかかったのだろう」


 レオンは冷静に言いました。


「ですが、この城にそんな罠を仕掛けられる者は、

  限られているはずです」


 その言葉に、私は胸の奥で、

 別の可能性をひそやかに思い浮かべます。


(あの方、なのでしょうか)


 先日見た夢。

 白い空間で、拗ねたように私を見下ろしていた存在。


『お前が泣くような真似をする者は、

  我が許さぬ』


 あのときの声が、

 耳の奥で微かに蘇りました。


 昨夜——

 精霊王は、私の眠りを覗いていたのでしょうか。

 それとも、

 私に向けられた“明確な殺意”が、

 自動的にあの方の側へ届いたのか。


 答えを、直接尋ねる勇気は、さすがにありません。


「レオン」


「はい」


「行方不明になっているという、その男について——

  どれほど情報が集まっていますの?」


「名義上は教会筋の信徒ですが、

  出自は曖昧です。

  王都の一部貴族と繋がりがあるとの噂も」


 レオンは眉をひそめました。


「祈りと正義を口にしながら、

  裏では“神の名を借りた処理”を請け負ってきた者たちがいます。

  彼も、おそらくはその一人」


「……なるほど」


 祈りを言い訳にした殺し。

 信仰という衣をまとった刃。


 私の胸の中に、

 冷たいものと、少しだけ熱いものが同時に広がりました。


「行方不明のまま、ですのね」


「はい。

  城内は隅々まで探しましたが、痕跡はなく——

  城外へ出た形跡もありません」


 つまり——

 この廊下のあたりで、

 彼は“どこかへ消えた”。


 世界のほうが、

 彼を飲み込んだのだとしか思えないほどに、

 痕跡を残さずに。


◆ ◆ ◆


 私はしゃがみ込んで、

 問題の石畳にそっと触れてみました。


 ひんやりとした感触。

 いつもの城の床と、何ら変わりのない温度と硬さ。


 けれど、

 耳を澄ませると、

 この場所だけが、

 ほんの僅かに“沈黙”しているように感じられました。


(ここで誰かが消えたのだとしても、

  その痕跡すら残さないほどに、

  世界のほうが口を閉ざしている)


 それは、

 私を守るための行為だったのかもしれません。


 けれど同時に、

 ひとりの人間の命を、音もなく、

 何の告げ口もなく飲み込むということでもあります。


(……私を殺そうとした人、ではありますけれど)


 思わず、胸の内で呟いてしまいました。


(それでも、“当たり前”のように消えていただいていいのかと言われると——

  少し、息苦しくなりますわね)


 彼は、おそらく、

 祈りや正義を言い訳にしながら、

 これまでにも何人もの命を奪ってきたのでしょう。


 人を“処理”してきた側が、

 今度は世界そのものに“処理”されたのだと言われれば、

 それはある種の因果応報なのかもしれません。


 けれど、

 その一文で簡単に片づけてしまうには——

 あまりにも、静かで、跡形のない消え方でした。


 私を守るための暴力でさえ、

 どこかで重く受け止めてしまう自分が、

 少し、厄介だと分かっています。


「……レオン」


「はい」


「私、そんなに危なっかしく見えます?」


 思わず、そんな言葉がこぼれました。


 レオンは、珍しく表情を変えます。


「危なっかしいと申しますか——

  狙う側から見れば、“価値が高すぎる標的”です」


「褒められている気が、まったくしませんわね」


 ため息とも笑いともつかない息が漏れました。


「ですが」


 レオンは真面目な声で続けます。


「あなた様を狙う者がいるからこそ、

  このような“何か”が働いたのだとしたら——」


 彼は言葉を濁し、

 石畳からそっと視線を逸らしました。


「……精霊王様、なのかもしれませんわね」


 私は小さく呟きました。

 聞こえるか聞こえないかの、ぎりぎりの声音で。


 その瞬間——

 胸の奥で、

 誰かの笑い声のような、ため息のような気配が、

 ほんの一瞬だけかすめました。


『泣かぬうちに済むなら、それで良い。

  我は、ただそうしただけだ』


 確かに、

 そんな声がした気がして——

 すぐに、霧のように消えていきます。


 私だけが、その気配を捉えたのか。

 それとも、ただの思い込みなのか。


 分かりません。


 ただ、ひとつだけ理解できるのは。


(やはりあの方は——

  本気で怒れば、この程度の“理の書き換え”は、

  ひどく容易いのだということ)


 そしてそれは、

 私に向けられた好意であると同時に、

 同じくらい、恐ろしいものでもありました。


◆ ◆ ◆


 部屋に戻る途中、

 私は廊下の窓から、外の庭を一瞥しました。


 朝の光に照らされた庭は、

 何事もなかったかのように、

 いつもの姿を見せています。


 けれど、

 ほんの少しだけ——

 世界の輪郭が、昨日よりも「鋭く」感じられました。


 私の知らないところで、

 私のために誰かが消されたという事実。


 それを、

 安堵だけで受け取ることは、きっと、

 この先もできないのでしょう。


 それでも——


(昨夜、私は泣かなかった)


 何も知らずに眠り、

 何も知らないまま朝を迎えた。


 そのことを、

 どこかで、誰かが

 「それで良い」と判断したのだとしたら。


「……世界のほうが、彼を飲み込んでしまったのですね。

  私を守るために——とても静かに、残酷な仕方で」


 小さくそう呟き、

 胸の中に、その事実をそっと仕舞い込みました。


 今日もまた、

 城下では人々の生活が続いていきます。


 私が知らないところで起きた暴力も、

 私が知らないまま祈られた救いも、

 すべてを抱えて——

 それでも、朝は訪れる。


 私は深く息を吸い、

 いつものように微笑みを整えました。


 刺客の気配は、

 昨夜ひとつ、姿を消したに過ぎません。


 視線も、殺意も、

 まだ遠くからこちらを窺い続けている。


 それでも私は——

 この城の窓を開け、

 いつも通りの一日を始めるのです。


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