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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
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雨の街道と、ぬれねずみの子ども

 雨の匂いがする――そう思ったときには、もう空はすっかり重く曇っていた。


 朝からどんよりしていた雲が、昼を少し回った頃には、すっかり地面にまで落ちてきそうなほど低く垂れ込めている。


 ぽつ、ぽつ、と。

 最初は遠慮がちだった水の粒が、やがて窓ガラスを叩く音へと変わっていった。


「降ってきましたわね」


 馬車の窓に指先を添えて、外を見やる。

 さっきまで白く乾いていた道が、もうじわじわと暗い色に変わり始めていた。


 王都から離れるほどに、舗装された石畳は姿を消していく。

 代わりに現れるのは、泥を含んだ土の道。

 車輪が深く刻んだ轍に雨が溜まり、そこからじくじくと茶色の水が溢れ出している。


 馬車が大きく揺れるたび、体がふわりと浮いて、すぐに座面に押し戻された。


「王都の道とは、ずいぶん違いますのね」


「申し訳ありません」


 向かいに座るレオン様が、いつものように硬い声音で言う。


「街道の整備は、王都からの距離に比例して疎かになります。

 この先はさらに悪くなるかと」


「謝られることではありませんわ。

 むしろ、『私の仕事の範囲』がはっきり見えてきて、ありがたいくらいです」


 そう返すと、レオン様は一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく首を傾けた。


 窓の外では、雨脚が目に見えて強くなっていく。

 水の幕の向こうに、ぼんやりと街道宿の看板が見え始めていた。


「少し先に、街道宿がございます。

 本降りになる前に、そこで休憩を兼ねて雨宿りを――」


 御者に指示を飛ばそうとした、そのときだった。


 視界の端を、小さな影が横切った。


「……え?」


 思わず身を乗り出す。

 雨の筋をかき分けるように、道の脇を歩く小さな背中。


 薄い布切れのような上着。

 膝までしかない裾から覗く、細い足。

 裸足に近い足元は、泥水をはね上げながら、とぼとぼと前へ進んでいる。


「子ども……?」


 言葉が零れると同時に、胸の奥がざわりと騒ぎ出した。


 こんな雨の中を、一人で。

 傘も、まともな靴もなく。


「止めてください!」


 気づけば、私は窓を叩いていた。


 外にいた御者が驚いたように振り返る。

 馬車がぎしりと軋んで減速しようとした、その瞬間――


「お待ちください」


 レオン様の声が、それより一歩早く私を制した。


「リヴィア様、あれは……」


「レオン様?」


「ああいった子どもは、野盗の囮である場合がございます。

 こちらが情けをかけて馬車を止めれば、周囲の茂みから一斉に――」


 たしかに、理屈としては理解できる。

 このあたりの治安が悪いことも、頭では分かっている。


 分かっているけれど。


「見なかったふりを、しろと?」


 自分でも驚くほど、低く声が出た。


 レオン様が、わずかに目を見開く。


「見知らぬ子だから助けない、という理屈を、

 私はどうしても飲み込めそうにありませんの」


 言いながら、自分の心臓が早鐘を打つのが分かった。

 危険であることは、分かっている。

 でも、それでも――。


「この程度の雨で動けないようでは、辺境など守れませんわ」


 そう言い切って、私はドアに手をかけた。


「待ちなさい、リヴィア様――!」


 レオン様の制止を背中で受けながら、外へ出る。


 途端に、冷たい雨が全身に降りかかった。


 髪が一瞬でぺたんと額に張りつく。

 裾の長い旅用のスカートも、ふくらはぎにまとわりついて重くなった。


(……貴族としてどうなのかしら、これは)


 内心で小さくため息をつきながらも、構っていられない。

 目当ての小さな背中は、もう数十歩先へ進んでいた。


「危険です!」


 背後から、鎧の擦れる音が近づいてくる。

 レオン様も結局、馬車から飛び降りたらしい。


「周囲は俺が警戒します。せめて、あまり離れすぎないでください」


「最初からそう言ってくださればよろしいのに」


 軽口を返しつつ、泥を跳ねながら駆け寄る。


「待って!」


 呼びかけると、小さな肩がびくりと震えた。


 振り向いたのは、まだ十にも満たないだろう、痩せた子どもだった。

 雨に濡れた髪が額に張り付き、大きな瞳だけが異様に印象的だ。


「……なに」


 少年か、少女か。

 声はまだ高く、服も性別が分かりにくい粗末なものだった。


 どちらでも構わない。

 今の私にとって重要なのは、その子が「一人で」「この雨の中を」歩いている、という事実だけだ。


「どこへ行くの?」


 しゃがみ込んで視線を合わせると、子どもは一歩だけ後ずさった。


 足元の泥が、ぴちゃりと音を立てる。


「……あっち」


 小さな指が、街道の先を指し示す。

 そこには、確かにぼんやりと街道宿の屋根が見えていた。


「宿に?」


「……わかんない。

 でも、行けって言われたから」


「誰に?」


 子どもは唇を噛みしめた。

 雨の筋が頬を伝っているせいで、それが涙かどうかは分からない。


「家族は?」


 問いかけると、しばらく黙ってから、ぽつりと答えが落ちてきた。


「いない」


 声が、雨音に紛れる。


「前はいたけど……

 もう、いらないって言われたから」


 胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛む。


 親に捨てられたのか。

 奉公先を追い出されたのか。

 それとも、どこかに売られる途中で逃げてきたのか。


 詳しい事情は、この場では分からない。

 けれど、「このまま歩かせておいていい理由」は、一つもなかった。


「寒いでしょう」


 私の声は、自分でも驚くほど柔らかくなっていた。


「お腹は、空いていなくて?」


 子どもの視線が、私の肩越しにちらりと馬車を見た。

 続いて、レオン様や兵たちの姿も。


 その目には警戒があり、それ以上に――期待があった。


「……ちょっとだけ」


 小さな声が、ようやく絞り出される。


「ちょっとだけ、空いてる」


「そう」


 私はそっと手を差し出した。


「じゃあ、まずは屋根の下へ行きましょう。

 あなたが生きていく場所は、この道の上じゃないわ。

 せめて、屋根の下を選びましょう」


 子どもは、迷うように私の手を見つめ――

 やがて、おそるおそる指先を伸ばしてきた。


 細くて、泥だらけで、冷たい手。


 それを包み込んだ瞬間、私はもう、後戻りするつもりなど毛頭なかった。


◇ ◇ ◇


 街道宿の扉を押し開けたとき、中の空気が一気に肌を包んだ。


 暖炉の火と、人の吐く息と、煮込まれたスープの匂い。

 それらすべてが混ざり合って、外の冷たさが嘘のように思える。


「おや、珍しい。こんな時間に御一行様とは」


 カウンターの奥から、恰幅のいい宿の主人が顔を出した。

 外套姿の旅人たちが数人、こちらをちらりと見やる。


「すみません。雨宿りと、馬の休憩をお願いしたくて」


 そう言いながら、私は後ろを振り返った。


 レオン様と兵士たちが入ってくる。

 その隙間から、私に連れられた子どもが、小動物のようにするりと入り込んだ。


「……なんだ、その子は」


 主人の目が細くなる。


 この世界で、「余分な口」がどれだけ重い意味を持つか、私は知っている。

 宿の懐事情が苦しいことも、容易に想像がついた。


「旅の途中で、雨の中を一人で歩いているのを見かけまして」


 私は、できるだけ穏やかに事情を説明する。


「暖炉の前で少し温まらせて、そのあとでご相談したいことがあるのです」


「相談?」


「ええ」


 主人が渋い顔をする前に、私は腰のポーチから小さな革袋を取り出した。


「もちろん、ただでとは申しませんわ」


 銀貨を数枚、カウンターの上に並べる。

 ルナが三枚。宿代としては、決して安くない額だ。


 主人の喉が、ごくりと鳴るのが見えた。


「この子の今夜の宿代と、食事代。

 それから――」


 私は少しだけ声を落とした。


「あなたにとっての“将来の手”としての分、ですわ」


「……手?」


「ええ。

 この子が、皿を運べるくらいに体力が戻ったら。

 あるいは、床を拭いたり、薪を運んだりできるようになったら。

 少しで構いませんから、仕事を教えてあげてほしいのです」


 主人は、テーブルの向こうで腕を組んだ。


「つまり、お嬢さんは……

 その子を、ここに置いていきたいということか」


「“置き去りにする”つもりはありませんわ。

 “居場所を少しだけ借りる”のです」


 言葉を選びながら、はっきりと主人の目を見る。


「この子がこれからどう生きたいかは、この子自身が決めることです。

 でも、その選択肢が『泥の道の上で凍えながら倒れること』しかないなんて――

 そんな国に、私はしたくありません」


 主人が、深く息を吐いた。


 暖炉の前では、子どもが濡れた服のまま、火にあたっている。

 レオン様が宿の女中に事情を説明し、乾いた布を持ってこさせていた。


「お姉ちゃん、髪びしょびしょ」


 子どもが、こちらを振り返って言った。


 ……お姉ちゃん。

 ほんの少しだけ、胸がくすぐったくなる。


「ええ、そうですわね。

 貴族としては、なかなか残念な状態ですわ」


 前髪がぺたんと額に張り付き、普段の自分とは似ても似つかない。


「でも、“おば”ではなく“お姉ちゃん”と呼ばれたので、

 それだけで今日のところは元が取れましたわ」


 ぼそ、と付け足すと、近くにいた兵士が不意に吹き出した。


「リヴィア様……」


 レオン様が、困ったような顔で眉を寄せる。


 宿の主人は、そんなやり取りをしばらく黙って見てから、やがて肩をすくめた。


「……銀貨三枚じゃ、その子のことを一生面倒見るには足りねえがな」


「それは承知しておりますわ」


「その代わり」


 主人は、カウンターの上の銀貨を一枚だけつまみ上げた。


「ここに置いていくのは、今日から数日だ。

 その間に、この子が“ここにいたい”のか、“どこかへ行きたい”のか、自分で決める」


 残りの銀貨二枚を、私の方へ押し戻してくる。


「その選択に、あんたも、俺も、口を出さない。

 そいつが“ここで働きたい”って言ったら、その時は――そうだな」


 主人はちらりと子どもを見やる。


「皿洗いと床掃除からだ」


 荒っぽい言い方だけれど、その目は完全な拒絶ではなかった。


 私は、押し戻された銀貨を見つめ、少しだけ迷ってから、また一枚だけ主人の側へ滑らせた。


「では、もう一枚だけ。

 『最初の失敗は見逃す』代として、受け取ってくださいませ」


「……まったく、妙な譲歩を思いつくお嬢さんだ」


 主人が鼻を鳴らしながらも、それをしっかりと懐に入れるのを見て、胸を撫で下ろす。


 暖炉の火のそばで、女中が子どもの髪を拭いていた。

 乾いた布を肩にかけられ、まだ少し警戒した目をしながらも、子どもはじっと火を見つめている。


「……あの方は、本当に全員を拾ってしまう気か」


 ふと耳に入った兵士の小声。


 私は、聞こえないふりをした。

 でも、胸の奥が少しだけざわついた。


(全員を拾うことなんて、できるはずがないのに)


 そう分かっているからこそ、この手の届く範囲に入ってきてしまった命を、見捨てることができない。


 それは、自分でも「危うい」と思う。


 レオン様が、わずかに険しい顔で私を見ている。


 きっと彼は、こう思っているのだろう。


 ――この人はきっと、戦場でも同じことをするだろう、と。


 倒れている者を見つければ、矢が飛び交う中でも駆け寄ろうとする。

 敵味方の区別ではなく、「目の前の苦しんでいる人間」を優先してしまう。


(……それでも)


 暖炉の前の子どもが、こちらを見て、恐る恐る笑った。

 ほっとしたような、信じられないような、そんな表情。


「お姉ちゃん」


「はい」


「ありがとう」


 その一言で、膝が少しだけ笑いそうになった。


「どういたしまして」


 とても貴族らしくない返事をしてしまった気がするけれど、もう遅い。


 私は、火にあたる子どもの横にしゃがみ込んだ。


「ここで少し、温まって。

 それから、ご飯を食べて――」


 そして、できるなら。


「あなたがこれからどう生きたいかを、ゆっくり考えて」


 道の上ではなく。

 せめて、屋根の下で。


 外では、まだ雨が降っている。

 窓ガラスを叩く音が、さっきよりも遠く感じた。


 それでも、この道の先には、まだ見ぬ「辺境」が待っている。


 ぬれねずみのような子どもを一人拾ったところで、世界が劇的に変わるわけではない。

 でも、少なくとも――この子の世界の「今日」は、もう先ほどとは違う。


 そんな小さな変化を、できるだけ多く積み重ねていきたいと。


 暖炉の前で濡れた髪を拭きながら、私は静かにそう思った。


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