雨の街道と、ぬれねずみの子ども
雨の匂いがする――そう思ったときには、もう空はすっかり重く曇っていた。
朝からどんよりしていた雲が、昼を少し回った頃には、すっかり地面にまで落ちてきそうなほど低く垂れ込めている。
ぽつ、ぽつ、と。
最初は遠慮がちだった水の粒が、やがて窓ガラスを叩く音へと変わっていった。
「降ってきましたわね」
馬車の窓に指先を添えて、外を見やる。
さっきまで白く乾いていた道が、もうじわじわと暗い色に変わり始めていた。
王都から離れるほどに、舗装された石畳は姿を消していく。
代わりに現れるのは、泥を含んだ土の道。
車輪が深く刻んだ轍に雨が溜まり、そこからじくじくと茶色の水が溢れ出している。
馬車が大きく揺れるたび、体がふわりと浮いて、すぐに座面に押し戻された。
「王都の道とは、ずいぶん違いますのね」
「申し訳ありません」
向かいに座るレオン様が、いつものように硬い声音で言う。
「街道の整備は、王都からの距離に比例して疎かになります。
この先はさらに悪くなるかと」
「謝られることではありませんわ。
むしろ、『私の仕事の範囲』がはっきり見えてきて、ありがたいくらいです」
そう返すと、レオン様は一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく首を傾けた。
窓の外では、雨脚が目に見えて強くなっていく。
水の幕の向こうに、ぼんやりと街道宿の看板が見え始めていた。
「少し先に、街道宿がございます。
本降りになる前に、そこで休憩を兼ねて雨宿りを――」
御者に指示を飛ばそうとした、そのときだった。
視界の端を、小さな影が横切った。
「……え?」
思わず身を乗り出す。
雨の筋をかき分けるように、道の脇を歩く小さな背中。
薄い布切れのような上着。
膝までしかない裾から覗く、細い足。
裸足に近い足元は、泥水をはね上げながら、とぼとぼと前へ進んでいる。
「子ども……?」
言葉が零れると同時に、胸の奥がざわりと騒ぎ出した。
こんな雨の中を、一人で。
傘も、まともな靴もなく。
「止めてください!」
気づけば、私は窓を叩いていた。
外にいた御者が驚いたように振り返る。
馬車がぎしりと軋んで減速しようとした、その瞬間――
「お待ちください」
レオン様の声が、それより一歩早く私を制した。
「リヴィア様、あれは……」
「レオン様?」
「ああいった子どもは、野盗の囮である場合がございます。
こちらが情けをかけて馬車を止めれば、周囲の茂みから一斉に――」
たしかに、理屈としては理解できる。
このあたりの治安が悪いことも、頭では分かっている。
分かっているけれど。
「見なかったふりを、しろと?」
自分でも驚くほど、低く声が出た。
レオン様が、わずかに目を見開く。
「見知らぬ子だから助けない、という理屈を、
私はどうしても飲み込めそうにありませんの」
言いながら、自分の心臓が早鐘を打つのが分かった。
危険であることは、分かっている。
でも、それでも――。
「この程度の雨で動けないようでは、辺境など守れませんわ」
そう言い切って、私はドアに手をかけた。
「待ちなさい、リヴィア様――!」
レオン様の制止を背中で受けながら、外へ出る。
途端に、冷たい雨が全身に降りかかった。
髪が一瞬でぺたんと額に張りつく。
裾の長い旅用のスカートも、ふくらはぎにまとわりついて重くなった。
(……貴族としてどうなのかしら、これは)
内心で小さくため息をつきながらも、構っていられない。
目当ての小さな背中は、もう数十歩先へ進んでいた。
「危険です!」
背後から、鎧の擦れる音が近づいてくる。
レオン様も結局、馬車から飛び降りたらしい。
「周囲は俺が警戒します。せめて、あまり離れすぎないでください」
「最初からそう言ってくださればよろしいのに」
軽口を返しつつ、泥を跳ねながら駆け寄る。
「待って!」
呼びかけると、小さな肩がびくりと震えた。
振り向いたのは、まだ十にも満たないだろう、痩せた子どもだった。
雨に濡れた髪が額に張り付き、大きな瞳だけが異様に印象的だ。
「……なに」
少年か、少女か。
声はまだ高く、服も性別が分かりにくい粗末なものだった。
どちらでも構わない。
今の私にとって重要なのは、その子が「一人で」「この雨の中を」歩いている、という事実だけだ。
「どこへ行くの?」
しゃがみ込んで視線を合わせると、子どもは一歩だけ後ずさった。
足元の泥が、ぴちゃりと音を立てる。
「……あっち」
小さな指が、街道の先を指し示す。
そこには、確かにぼんやりと街道宿の屋根が見えていた。
「宿に?」
「……わかんない。
でも、行けって言われたから」
「誰に?」
子どもは唇を噛みしめた。
雨の筋が頬を伝っているせいで、それが涙かどうかは分からない。
「家族は?」
問いかけると、しばらく黙ってから、ぽつりと答えが落ちてきた。
「いない」
声が、雨音に紛れる。
「前はいたけど……
もう、いらないって言われたから」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛む。
親に捨てられたのか。
奉公先を追い出されたのか。
それとも、どこかに売られる途中で逃げてきたのか。
詳しい事情は、この場では分からない。
けれど、「このまま歩かせておいていい理由」は、一つもなかった。
「寒いでしょう」
私の声は、自分でも驚くほど柔らかくなっていた。
「お腹は、空いていなくて?」
子どもの視線が、私の肩越しにちらりと馬車を見た。
続いて、レオン様や兵たちの姿も。
その目には警戒があり、それ以上に――期待があった。
「……ちょっとだけ」
小さな声が、ようやく絞り出される。
「ちょっとだけ、空いてる」
「そう」
私はそっと手を差し出した。
「じゃあ、まずは屋根の下へ行きましょう。
あなたが生きていく場所は、この道の上じゃないわ。
せめて、屋根の下を選びましょう」
子どもは、迷うように私の手を見つめ――
やがて、おそるおそる指先を伸ばしてきた。
細くて、泥だらけで、冷たい手。
それを包み込んだ瞬間、私はもう、後戻りするつもりなど毛頭なかった。
◇ ◇ ◇
街道宿の扉を押し開けたとき、中の空気が一気に肌を包んだ。
暖炉の火と、人の吐く息と、煮込まれたスープの匂い。
それらすべてが混ざり合って、外の冷たさが嘘のように思える。
「おや、珍しい。こんな時間に御一行様とは」
カウンターの奥から、恰幅のいい宿の主人が顔を出した。
外套姿の旅人たちが数人、こちらをちらりと見やる。
「すみません。雨宿りと、馬の休憩をお願いしたくて」
そう言いながら、私は後ろを振り返った。
レオン様と兵士たちが入ってくる。
その隙間から、私に連れられた子どもが、小動物のようにするりと入り込んだ。
「……なんだ、その子は」
主人の目が細くなる。
この世界で、「余分な口」がどれだけ重い意味を持つか、私は知っている。
宿の懐事情が苦しいことも、容易に想像がついた。
「旅の途中で、雨の中を一人で歩いているのを見かけまして」
私は、できるだけ穏やかに事情を説明する。
「暖炉の前で少し温まらせて、そのあとでご相談したいことがあるのです」
「相談?」
「ええ」
主人が渋い顔をする前に、私は腰のポーチから小さな革袋を取り出した。
「もちろん、ただでとは申しませんわ」
銀貨を数枚、カウンターの上に並べる。
ルナが三枚。宿代としては、決して安くない額だ。
主人の喉が、ごくりと鳴るのが見えた。
「この子の今夜の宿代と、食事代。
それから――」
私は少しだけ声を落とした。
「あなたにとっての“将来の手”としての分、ですわ」
「……手?」
「ええ。
この子が、皿を運べるくらいに体力が戻ったら。
あるいは、床を拭いたり、薪を運んだりできるようになったら。
少しで構いませんから、仕事を教えてあげてほしいのです」
主人は、テーブルの向こうで腕を組んだ。
「つまり、お嬢さんは……
その子を、ここに置いていきたいということか」
「“置き去りにする”つもりはありませんわ。
“居場所を少しだけ借りる”のです」
言葉を選びながら、はっきりと主人の目を見る。
「この子がこれからどう生きたいかは、この子自身が決めることです。
でも、その選択肢が『泥の道の上で凍えながら倒れること』しかないなんて――
そんな国に、私はしたくありません」
主人が、深く息を吐いた。
暖炉の前では、子どもが濡れた服のまま、火にあたっている。
レオン様が宿の女中に事情を説明し、乾いた布を持ってこさせていた。
「お姉ちゃん、髪びしょびしょ」
子どもが、こちらを振り返って言った。
……お姉ちゃん。
ほんの少しだけ、胸がくすぐったくなる。
「ええ、そうですわね。
貴族としては、なかなか残念な状態ですわ」
前髪がぺたんと額に張り付き、普段の自分とは似ても似つかない。
「でも、“おば”ではなく“お姉ちゃん”と呼ばれたので、
それだけで今日のところは元が取れましたわ」
ぼそ、と付け足すと、近くにいた兵士が不意に吹き出した。
「リヴィア様……」
レオン様が、困ったような顔で眉を寄せる。
宿の主人は、そんなやり取りをしばらく黙って見てから、やがて肩をすくめた。
「……銀貨三枚じゃ、その子のことを一生面倒見るには足りねえがな」
「それは承知しておりますわ」
「その代わり」
主人は、カウンターの上の銀貨を一枚だけつまみ上げた。
「ここに置いていくのは、今日から数日だ。
その間に、この子が“ここにいたい”のか、“どこかへ行きたい”のか、自分で決める」
残りの銀貨二枚を、私の方へ押し戻してくる。
「その選択に、あんたも、俺も、口を出さない。
そいつが“ここで働きたい”って言ったら、その時は――そうだな」
主人はちらりと子どもを見やる。
「皿洗いと床掃除からだ」
荒っぽい言い方だけれど、その目は完全な拒絶ではなかった。
私は、押し戻された銀貨を見つめ、少しだけ迷ってから、また一枚だけ主人の側へ滑らせた。
「では、もう一枚だけ。
『最初の失敗は見逃す』代として、受け取ってくださいませ」
「……まったく、妙な譲歩を思いつくお嬢さんだ」
主人が鼻を鳴らしながらも、それをしっかりと懐に入れるのを見て、胸を撫で下ろす。
暖炉の火のそばで、女中が子どもの髪を拭いていた。
乾いた布を肩にかけられ、まだ少し警戒した目をしながらも、子どもはじっと火を見つめている。
「……あの方は、本当に全員を拾ってしまう気か」
ふと耳に入った兵士の小声。
私は、聞こえないふりをした。
でも、胸の奥が少しだけざわついた。
(全員を拾うことなんて、できるはずがないのに)
そう分かっているからこそ、この手の届く範囲に入ってきてしまった命を、見捨てることができない。
それは、自分でも「危うい」と思う。
レオン様が、わずかに険しい顔で私を見ている。
きっと彼は、こう思っているのだろう。
――この人はきっと、戦場でも同じことをするだろう、と。
倒れている者を見つければ、矢が飛び交う中でも駆け寄ろうとする。
敵味方の区別ではなく、「目の前の苦しんでいる人間」を優先してしまう。
(……それでも)
暖炉の前の子どもが、こちらを見て、恐る恐る笑った。
ほっとしたような、信じられないような、そんな表情。
「お姉ちゃん」
「はい」
「ありがとう」
その一言で、膝が少しだけ笑いそうになった。
「どういたしまして」
とても貴族らしくない返事をしてしまった気がするけれど、もう遅い。
私は、火にあたる子どもの横にしゃがみ込んだ。
「ここで少し、温まって。
それから、ご飯を食べて――」
そして、できるなら。
「あなたがこれからどう生きたいかを、ゆっくり考えて」
道の上ではなく。
せめて、屋根の下で。
外では、まだ雨が降っている。
窓ガラスを叩く音が、さっきよりも遠く感じた。
それでも、この道の先には、まだ見ぬ「辺境」が待っている。
ぬれねずみのような子どもを一人拾ったところで、世界が劇的に変わるわけではない。
でも、少なくとも――この子の世界の「今日」は、もう先ほどとは違う。
そんな小さな変化を、できるだけ多く積み重ねていきたいと。
暖炉の前で濡れた髪を拭きながら、私は静かにそう思った。




