祈りの場を守る
特別礼拝から、まだそう時間は経っていないというのに――
教会の前に立つと、空気の色が、はっきりと変わっているのが分かりました。
「やっぱり、全部茶番だったんだよ」
「でもよ……俺、あの時ほんとに身体があったかくなったんだ。嘘とは思えねえ」
行き交う人々の声が、刺のように耳に届きます。
「あんなもん、煙と光でどうとでも出来るんだ」
「けど、あの礼拝のあと、ちゃんと立てるようになった人もいるんだろう?」
信じている側も、疑っている側も、どちらも本気。
その真剣さが、余計に空気を重くしていました。
石畳の上に、足音がもうひとつ近づきます。
「……なかなか、厄介な火種ですね」
隣に並んだレオンが、小さく呟きました。
「教会を責めたい者と、庇いたい者。
どちらも“ここに救われた”という実感がある分、譲れないのでしょう」
「ええ。だからこそ、ややこしいのですわ」
私は視線を教会の扉へ向けます。
「信仰が薄かったから騙されたのだ、と切り捨てることも出来ませんし、
全部が茶番だったと断じてしまうのも、違うように思えます」
扉の前には、今日も人影がありました。
真面目で、少し頼りなげな、この辺境の神父が、
戸口の掃除をしながら、行き交う信徒たちにぎこちない笑みを向けている。
私たちに気づくと、彼は慌ててモップを置き、駆け寄ってきました。
「リヴィア様……お越しくださったのですね」
「ええ。少し、お話を伺いたくて」
神父の顔には、疲労と困惑が、隠しきれずに滲んでいました。
◆ ◆ ◆
教会の小さな控え室に通されると、
神父は深く頭を垂れ、それからゆっくりと口を開きました。
「……あの日の礼拝以来、
私には、何が“正しい”のか、よく分からなくなってしまいました」
その声は、震えていました。
「本部の指示に従えば良い、
そう信じてここまでやってきたはずなのに……」
彼はぎゅっと拳を握りしめます。
「あなた様の顔を見ると、
それだけでは足りないように思えてしまうのです」
「……私に会うと、迷いが増す、ということですの?」
思わず冗談めかして言うと、
神父は慌てて首を振りました。
「い、いえ、そういう意味ではなく……! ただ、
あなた様が“本物”を見ていらっしゃるのだと、あの日、ひしひしと……」
言葉を探すように、彼は視線を泳がせます。
「偽りの光の下で、皆が喜んでいるのを見て、
“これでいいのだ”と言い聞かせようとした自分と――」
彼は唇を噛みました。
「“これは違うのではないか”と問うてくる自分とが、
どうしようもなく、ぶつかってしまいました」
胸の奥がきゅっと痛みました。
(この人もまた、板挟みなのですわね)
教会という組織と、目の前の信徒たち。
本部の命令と、自分の良心。
どちらの側に立っても、
もう片方を裏切ってしまうような気がして、動けなくなる。
神父は机の上から、一通の封書をそっと差し出しました。
「そして……本部から、こんなものが」
重そうな封蝋。
教会本部の印章。
開いてみると、そこにはきっちりとした文面で――
『辺境教会の建物および財産を、
本部直属の管理下に置く案について、検討中である』
『現地の状況にかかわらず、
礼拝の運営・人員配置・財の流れは、本部の監督に服するものとする』
などと、柔らかい言葉遣いで書かれていました。
つまり、噛み砕けば——
「この建物も、ここで祈る人々も、
“教会本部の都合どおりに”動くべきだ、ということですわね」
私は静かに紙を置きました。
「もしこの案が通れば――」
神父の声は、かすれています。
「辺境の教会は、実質的に“本部の支部”として、
政治的な意図のために使われることになるでしょう」
祈りの場ではなく。
人々が心を預けてきた時間の積み重ねでもなく。
ただ、誰かの命令を書き込む、ひとつの装置として。
「……お辛いですわね」
私がそう言うと、神父は目を伏せました。
「私は、ここで祈ってきた人たちの時間が、好きでした。
祭壇の前で、誰かが膝をつき、
ひっそりと涙を流し、誰にも見られずに立ち上がる――
その背中を、遠くから見守ることが出来るのが、好きでした」
彼は、ぎゅっと胸の前で手を握りしめます。
「それを、ただの“票数”や“報告数”に変えられてしまうのなら……
私は、自分が何をしているのか分からなくなってしまいそうで」
――この人を、責めることは出来ない。
強く、そう思いました。
◆ ◆ ◆
「でしたら、少し考え方を変えてみませんか」
私は顔を上げました。
「考え方、でございますか?」
「ええ。
この建物を、“教会だけのもの”だと考えるのをやめてみるのです」
神父が、きょとんと目を瞬きます。
「ここはたしかに、教会として建てられました。
祭壇も、聖句も、教義も、この場所と共にありました」
私はゆっくりと言葉を紡ぎます。
「けれど同時に、
この石の壁には、ここで祈ってきた人たちの息遣いも染み込んでいるはずですわ」
嘆き、感謝し、震えながら、
それでも明日へ足を運ぼうとしてきた人たちの、祈りの跡が。
「だから――ここを、“組織の建物”から、
“皆の祈りと集いの場所”にしてしまえばよろしいのではなくて?」
「……集いの、場所」
神父が、まるで異国の言葉でも聞いたように呟きました。
「はい。
看板を、半分だけ下ろしてしまいましょう」
「か、看板を……?」
「この建物を、“教会 聖○○堂”という名だけでなく――
“集いの家 兼 礼拝堂”という形にするのです」
私の頭の中には、既に具体的な図が浮かび始めていました。
「平日の昼は、ここを読書や勉強、相談に使える“集いの場”として開放する。
祈りたい人は、祭壇の前に座ればいい。
日曜日には、これまで通り礼拝を行う」
「そんなことをしたら、本部が黙っていないのでは……」
神父は青ざめます。
「建物は教会の所有物です。
そこを勝手に“集いの家”にしてしまえば、罰則が……」
「罰なら、私が受けますわ」
私はさらりと言いました。
「この辺境の教会建物は、“公爵家からの寄進”という形になっているはずですわよね?
所有権の一部には、まだ私の名前が残っているはず」
これは以前、ルークから聞いていたことでした。
「でしたら、公爵家の管理財として、
一部を“慈善事業施設”として登録し直せばよろしい」
「じ、慈善事業……?」
「教会の看板はそのまま、
ただ書類上、この建物の一部を“孤児や貧民のための集会所”として申請するのです」
私は指先で、テーブルの上に簡単な図を描きました。
「たとえば――祭壇より前の空間を“礼拝堂”、
後ろ半分を“集いの家”として登録する」
神父はぽかんと私を見つめていましたが、
やがて、おずおずと口を開きます。
「そ、そんな抜け道のようなことを……」
「抜け道、と言われればそうかもしれませんわね」
私は微笑みました。
「でも、組織というものは、
いつだって“抜け道”を使って、自分たちに都合の良いように世界を操作してきました」
「でしたら、たまには――
その抜け道を、人の祈りのためにも使ってよいのではなくて?」
神父の表情に、迷いと、わずかな希望が混ざりました。
「……もし、そんなことが本当に出来るのなら」
「出来るように、しますわ」
私は言い切りました。
「書類の細工は、ルークに手伝ってもらいましょう。
マルコも、こういう時には妙に頼りになりますしね」
黒寄りの商人の顔が頭に浮かび、
思わず小さく笑ってしまいました。
「本部から罰が来るとしたら、それも私が受けます」
「この場所を守る責任も、
辺境の領主である私が負うべきでしょう」
「……リヴィア様」
神父は、何度も瞬きをしてから、
深く、深く頭を下げました。
「私は、あなた様にばかり頼ってしまっているのではないでしょうか」
「いいえ。
あなたがここで祈りを続けてくださるからこそ、
私はこうして動く意味を持てるのです」
私は椅子から立ち上がりました。
「信仰は、本来、誰かの所有物ではありませんわ」
「だからせめて、この場所だけは――
あなた方のものであり続けてほしいのです」
◆ ◆ ◆
数日後。
私は教会の前に立ち、
看板から外すべき文字の位置を、侍女と一緒に確認していました。
「ここを……この“○○教会”の“教”の字の脇に、小さく“集いの家”の板を掛けるのですわ」
「本当にご自分で外されるのですか、リヴィア様?」
「たまには、こういう作業も楽しいものですわよ?」
そう言って、私は釘抜きを手に取り――
数分後には、指先が煤と木の粉で真っ黒になっていました。
「……またレオンに怒られますわね」
苦笑しながらつぶやくと、
侍女が小さく吹き出します。
「きっと、『怪我をなさらなくて良かった』と仰いますよ」
「それはそれで、否定できませんわね」
看板には、新しい小さな板が掛けられました。
『○○礼拝堂 兼 集いの家』
派手なものではありません。
けれど、その一枚だけで、
この建物の意味が、ほんの少しだけ変わるような気がしました。
◆ ◆ ◆
日曜。
礼拝の始まりを告げる鐘の音が、
いつもより少し柔らかく響いていました。
聖堂の前半分には、
いつも通りの長椅子と祭壇。
後ろ半分には、
粗末ながらもテーブルと椅子が並べられ、
本や紙が置かれています。
今日は、その“境目”に、
私が立つことになっていました。
胸の前で、原稿も何も持たず、
ただ両手を組み合わせます。
(……噛みませんように)
内心でそう祈りながら、一歩前へ。
「本日は、少しだけ、私からお話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
集まった人々の視線が、一斉にこちらへ向きました。
喉が、きゅっと狭くなります。
「この場所について、です」
私はゆっくり、言葉を探しながら話し始めました。
「ここは、長い間、“教会”と呼ばれてきました」
「祈りを捧げる場所として、
多くの方がここに通い、
涙を流し、感謝を述べ、
ただ静かに座って帰る方も、いらっしゃいました」
遠くの長椅子で、
年配の婦人がこくりと頷いているのが見えました。
「最近、この場所のあり方をめぐって、
いろいろな考えが交わされています」
「“偽りの奇跡”だ、と怒る声もありました。
“あれでも救われた”と庇う声もあります」
ざわり、と空気が動きます。
私は、そこでいったん息を吸いました。
「私は、どちらの声も、間違っているとは言えません」
はっきりと、そう言いました。
「偽りを嫌うことも、
偽りにすがることで今日を生き延びようとすることも――
どちらも、人として、とても自然な反応ですわ」
「だからこそ、
この場所だけは、誰かの“判断”のためだけの場所にはしたくありません」
私は背後のテーブルと椅子を、指先で示しました。
「ここは、祈りたいときに祈るための場所であり、
誰かと肩を並べたいときに座る場所でもあります」
「泣きたいときに泣き、
感謝したいときに感謝し、
どうしようもない日には、ただ座っているだけでも許される場所」
「――そんな場所であってほしいのです」
言葉を重ねるほどに、
胸の内側が、熱くなっていくのを感じました。
「ここで捧げられる祈りの行き先は、
本部の帳簿や報告書ではありません」
私は祭壇のほうを見やり、
それから、ひとりひとりの顔を見渡しました。
「あなた方の心と、
あなた方が信じたいと思う“誰か”のもとへ向かうものです」
隣に立つ神父が、
静かに私の言葉を引き継ぎます。
「私は、教会の者として――
あなた方の祈りが、どこへ向かうかを管理するつもりはありません」
彼の声は、震えてはいませんでした。
「ただ、その祈りが届くための言葉をお手伝いし、
ここで膝をつくあなた方の傍らに立ちたいと、そう願うだけです」
聖堂の中に、静かな沈黙が落ちました。
すぐに拍手が起こるわけではありません。
誰かが涙を流すわけでもない。
けれど、
椅子の上で手をぎゅっと握りしめる人。
胸に十字を切る代わりに、
ただ静かに目を閉じる人。
そのどれもが、
「ここは自分たちの場所だ」と、
ほんの少しだけ思えたのではないか――
そんな気配が、
空気の底に、かすかに芽生えていました。
◆ ◆ ◆
数日後。
教会本部から、再び一通の書簡が届きました。
封を切ったルークが、眉をひそめます。
「『辺境教会における独自運営の懸念』……
『指導が必要と考えられる』……
『公爵令嬢殿にも改めて信仰の在り方を――』」
「まあ。随分と“遺憾”なご様子ですわね」
私は苦笑しました。
「本部の心証は、確実に悪化しています」
ルークが真面目な顔で言います。
「今後、より厳しい査察や、
権限の制限が提案される可能性も――」
「ええ、分かっておりますわ」
私は手紙をそっと折りたたみました。
「でも、それでも」
窓の外では、
教会の扉が開き、
子どもたちが数人、笑いながら中へ入っていくのが見えました。
手には本と、紙と、小さな鉛筆。
彼らの後ろから、
いつもの神父が少し緊張しながらも、
優しい顔で出迎えている。
「祈りそのものは、誰のものでもありません」
私は小さく呟きました。
「だからせめて、この場所だけは――
誰かのための政治装置ではなく、
あなた方のものとして、あり続けてほしいのです」
世界の“外側”から覗く何かと、
世界の“内側”で帳簿を握る誰か。
そのどちらとも、賢く付き合わなければならない。
その上でなお、
人が静かに目を閉じていられる場所を、
守っていきたい。
私は手紙を机の中にしまい、
インク瓶の蓋を開けました。
「さあ――“遺憾”と仰るなら、
こちらも“丁寧な弁明”を差し上げなくてはなりませんわね」
ペン先を紙に滑らせながら、
私は小さく笑いました。
祈りの場を守るためなら、
文書の海を泳ぐくらい、いくらでも付き合ってさしあげますわ。




