教会の査察
鏡の前で、私はひとつ深呼吸をしました。
「……顔に“本音”は出ていませんわよね?」
侍女が、少し困ったように笑います。
「いつものリヴィア様でございますよ。
ただ、ほんの少しだけ――目が鋭いかもしれません」
「それはよくありませんわね」
額に手をあてて、表情筋をなだめるように撫でました。
湖でのことを境に、
私の世界は、静かに輪郭を変えつつあります。
世界の外側から伸びた手。
そのことを、教会にも、王家にも、誰にも話していない。
話せば信じてもらえないか。
それとも、信じられすぎてしまうか。
どちらにせよ、
あれを彼らの議題の上に乗せるわけにはいかない――
そう決めている以上、
今日の私は「何も知らない顔」を貫かなければなりません。
「そろそろお時間です」
レオンが扉の外から声をかけました。
「教会査察団が、城門に到着しました」
「ええ。参りましょう」
私はドレスの裾を軽く揺らし、背筋を伸ばしました。
鏡のこちら側の私と、さよならをするような気持ちで。
◆ ◆ ◆
邸の前庭には、白い法衣と鎧の列が整然と並んでいました。
前列には、金糸で紋章を縫い込んだ神官服。
その後ろに、書板や巻物を抱えた書記。
さらに奥には、白銀の鎧に身を包んだ聖騎士たち。
彼らの鎧に刻まれた紋章は、
エリアス様――教会監査団長の系統のもの。
つまり今日は、
彼の“目”がここに来ているということでもあります。
「ようこそ、おいでくださいました」
私は階段を降り、
代表と思しき神官へと歩み寄りました。
四十代ほどに見える男。
穏やかな笑みを浮かべていますが、
その目だけは冷えた湖面のように揺らぎません。
「辺境公爵家当主代理、リヴィア・フォン・グラウベルグです」
「初めてお目にかかります、公爵令嬢殿」
男は恭しく頭を下げました。
「我らは教会本部監査局より参りました。
本日は、あなた様の素晴らしいお働きを確認し、
正しく記録に残すための訪問でございます」
(素晴らしいと褒めておきながら、“記録”と“確認”で縛ろうとなさるのですね)
心の中でだけ、ため息をつきます。
「遠路はるばる、ありがとうございます。
辺境の現状は、喜ばしいことばかりとは言えませんが――
私の見ているもの、してきたことは、隠さずお見せいたしますわ」
「感謝いたします、公爵令嬢殿」
代表神官は、目だけで私の全身をじっと測りました。
奇跡を起こした女として。
辺境を立て直しつつある領主として。
そして何より――教会にとって、「従わせるべき駒」として。
「それでは、早速お話を伺っても?」
「ええ。応接室をご用意しております。
どうぞ、こちらへ」
私はいつもの笑みを貼り付けたまま、踵を返しました。
◆ ◆ ◆
応接室の空気は、
普段より少しだけ重く感じられました。
代表神官と数名の神官、書記が対面に座り、
レオンが私の斜め後ろに控える。
机の上には、
すでに教会側の書類が何枚も広げられていました。
「まずは確認から」
代表神官が穏やかに口を開きました。
「これまであなたが行使された“奇跡”について、
教会本部に提出いただいた記録を拝見いたしました」
彼は書類をめくりながら、
淡々と読み上げます。
「疫病に侵された村の浄化。
魔物の群れに襲われた街道の防衛。
荒廃した土地の回復――」
そこまで読んで、ちらりとこちらを見ました。
「そして最近では、“雪解け前の畑の活性化”も」
「その通りですわ」
私は静かに頷きました。
「いずれも、領民の生活と命を守るために行ったものです。
喜んでくださる方もいれば、
怖いとお感じになる方もいらっしゃいますけれど」
「怖い?」
代表神官は、少し首を傾げました。
「奇跡というものは、
人々を畏れさせながらも、
神への敬虔を深めるものであるべきです」
「ええ」
私は微笑みます。
「ただ、彼らが畏れているのは、
神の栄光そのものというより――」
一拍置いて、言葉を選びました。
「“自分たちの暮らしている世界が、
自分たちの理解から外れていくこと”なのだと思いますわ」
代表神官の目が、ほんのわずかに細められました。
「興味深いご見解です」
書記が忙しなくペンを走らせます。
「では、お伺いいたします。
奇跡を行使なさる際、
必ず祈りと聖句を伴っておられますか?」
予想していた質問でした。
「はい。
私の持てる限りの敬意をもって、
精霊王様と、
この世界を支える理に祈りを捧げております」
「“教会の教義に基づいた聖句”を、でしょうか」
「教会からいただいたものも、
この辺境に古くから伝わる祈りも、両方ですわ」
彼の瞳が、わずかに揺れました。
わざと、そう答えました。
「辺境には、
教会がここまで手を伸ばす以前から、
人々の生活を支えてきた祈りがあります。
それらを、すべて“間違い”と切り捨てることは、
私にはできません」
「しかし――」
別の神官が口を挟もうとしたのを、
代表神官が手で制しました。
「あなたご自身の判断で奇跡をお使いになることに、
不安はありませんか?」
声の調子はあくまで穏やかです。
「人は誰しも迷い、誤るもの。
教会の許可があれば、
もっと安心してお使いになれるとは思われませんか」
(来ましたわね)
私は心の中でだけ、苦笑しました。
それはつまり、
奇跡の行使を教会の許可制にしたい――
以前手紙で示されていた意向の、
口頭での確認でもあります。
「不安が、まったくないと言えば嘘になります」
私は正直に認めました。
レオンの気配が、
背後でわずかに動きます。
「私の判断で誰かを救えば、
私の判断で誰かを見捨てることにも繋がる。
その重さは、
日々、骨の髄まで感じておりますわ」
「であればこそ――」
「だからこそ、です」
私はそっと言葉を被せました。
声の高さも、柔らかさも変えずに。
「だからこそ、
“現場にいる人間”の判断を、
すべて誰かの許可待ちにするわけにはいきません」
代表神官の瞳が、
わずかに鋭くなりました。
「現場と言われましても、
あなたは“特別な立場”にいらっしゃる」
「ええ」
私は頷きます。
「公爵令嬢であり、
辺境の領主代理であり、
そして、奇跡を起こしてしまった人間」
一つ一つを認めてから、
静かに続けました。
「だからこそ、
人の命を前にして、
“許可が下りないから今日は救えません”と、
そう言い訳をする自分にはなりたくありませんの」
部屋の空気が、
少しだけ冷たくなった気がしました。
しばしの沈黙のあと、
代表神官は、ゆっくりと息を吐きました。
「慎重でいらっしゃるのは結構です」
彼は微笑みを崩しませんでした。
「ただ――
慎重すぎて、“神の栄光”を曇らせてしまうことのないように」
「栄光が曇るとすれば」
私は、
自分の手を膝の上で組みました。
「それは、
神の御業そのものが足りないからではなく、
それを“帳簿に綴じ込めようとする人間の手”が、
曇りを生むのだと、私は思っています」
書記のペンが一瞬止まりました。
代表神官の目も、ほんの少しだけ細くなります。
(あら、少し言いすぎましたかしら)
心の中でだけ肩をすくめながら、
表情は変えません。
「真実をすべて話すことが、
いつも正しいとは限りません」
私はゆっくりと言葉を継ぎました。
「とくに――
“聞く側”が、それを扱いきれないと分かっている時には」
湖で見たもの。
外海で出会った誰か。
精霊王様でさえ「触るな」と言った“外側”。
あれを、
この場の誰かに渡してどうなるのか。
彼らがそれを「教会の管理下」に置こうとするのは、
火を見るより明らかです。
世界の外に伸びた手を、
帳簿に記載し、
許可制に組み込もうとするでしょう。
その瞬間――
きっと、この世界と外海のバランスは崩れます。
だから私は、
湖のことを口にしない。
それは秘密であると同時に、
守るべき境界線でもあるのです。
◆ ◆ ◆
査察は一日がかりでした。
教会。
集いの家。
読み書き学校。
雪解けの畑。
査察団は、
それぞれの場所を隅々まで見て回りました。
集いの家では、
「ここは祈りの場か、それとも単なる集会所か」と問われました。
「祈りたい人には、教会をお勧めしておりますわ」
私は笑って答えました。
「ここは、祈る力も残っていない人が、
今日をなんとかやり過ごすための場所ですもの」
学校では、
「教会の教義以外の書物を教えていないか」と念入りに訊かれました。
「読み書きと、簡単な計算だけです。
神の御言葉を理解するためにも、
字が読める方がよろしいでしょう?」
畑では、
「自然の摂理を乱していないか」と疑われました。
「土に無理をさせたわけではありません。
眠っている種に、“そろそろ起きてもいいですよ”と声をかけただけですわ」
どの質問にも、
私はできる限り正直に――
けれど、言質を与えないように答えていきました。
(本当に尋問のようですわね)
日が傾き始めた頃には、
さすがに肩が凝ってきました。
◆ ◆ ◆
夕刻。
邸の玄関先で、
査察団を見送る時間が来ました。
「本日のご協力、感謝いたします、公爵令嬢殿」
代表神官が、
馬車に乗り込む前にこちらを振り返りました。
「辺境の信仰と教義の遵守状況は――今のところ許容範囲内。
そう本部へ報告させていただきます」
「それは光栄ですわ」
私は丁寧に礼をしました。
「ただし」
彼は、少しだけ声を落としました。
「あなた様の行動には、今後とも注意深い観察が必要。
そう付記せねばなりますまい」
「ええ。
私自身も、自分を注意深く観察し続けるつもりですわ」
その答えに、
彼はわずかに笑みを深めました。
「あなた様のような方は、
この時代にはとても貴重です」
ふと、声の調子が変わります。
「どうか――
教会の外にこぼれてしまわないように」
それはまるで、
「枠から出るつもりなら、そのときは」と
続きを飲み込んだような言い方でした。
私は微笑みを崩さず、
頭の中でだけその言葉を言い換えます。
(枠に収まらないものは、壊すか囲い込むしかない)
(彼らは、まだどちらにするか決めかねている――そういうことですわね)
「ご忠告、ありがたく受け取っておきます」
私は最後まで、礼儀正しく答えました。
「どうか、教会もまた、
“世界の外側”にこぼれ落ちないように」
代表神官の目が、一瞬だけ細くなります。
けれど彼は、それ以上何も言わずに馬車へと乗り込みました。
白い列が動き出し、
やがて夕焼けの向こうへと消えていきます。
◆ ◆ ◆
馬車の音が完全に遠ざかったあと、
私はようやく肩の力を抜きました。
「ふぅ……」
小さく息を吐くと、
隣でレオンが苦笑しました。
「お疲れ様でした、リヴィア様」
「私、変なことは言っておりませんでしたわよね?」
「いくつか、教会側から見れば“生意気”な発言はありましたが」
レオンは、
わざと真面目な顔で言いました。
「概ね許容範囲かと」
「“概ね”という言葉が、地味に気になりますわね……」
口を尖らせながらも、
自分でも笑ってしまいます。
その笑いが引いていったところで、
レオンの表情が少しだけ真剣なものに変わりました。
「……湖のことは」
彼はゆっくりと言いました。
「お話されなくて、よろしかったのですか」
「ええ」
私は迷いなく頷きました。
「あれは、教会に差し出してよいものではありませんもの」
レオンは、
しばらく黙って私の横顔を見ていました。
「教会に敵対する理由には、なり得ます」
「そうですわね」
「それでも、話さない」
「ええ」
私は湖の方角にちらりと目をやりました。
「世界の外側に伸びた手と、
世界の内側で私を見ている目」
精霊王様。
教会。
王家。
そして――外海の探査員。
「そのどちらとも、賢く付き合っていかなければなりません」
私は自分の胸に手を当てました。
「全部を信じることも、
全部を明かすこともできませんわ」
「だからこそ、選ぶのです」
レオンが静かに言いました。
「何を話し、何を伏せるか。
誰を信じ、どこから疑うか」
「ええ」
それは、
正直でありたい私には、
酷な選択でもあります。
けれど――
真実をすべて話すことが、
いつも皆を守るわけではない。
そのこともまた、
この辺境で学んできた事実でした。
「レオン」
「はい」
「もし、私が……」
一瞬だけ迷ってから、
言葉を探します。
「もし、私がどこかで“盤をひっくり返す”と決めたとき」
王家でも、教会でも、他国でもない、
私自身のために。
「その時も、あなたは――
私の背中を守ってくださいます?」
レオンは、
驚くほど迷いのない声で答えました。
「もちろんです」
夕焼けの光の中で、
彼の瞳は静かに輝いていました。
「あなたがどこに立たれるとしても、
私の役目は変わりません」
心の中で、
湖の底を思い出します。
壁の外側から伸びた手。
「泣きそうになったら探す」と言った誰か。
世界の内側で見ている目と、
外側から見ている目。
そのどちらにも、
まだ私は「大丈夫ですわ」と笑ってみせたい。
「では、今日のところは」
私は軽く顎を引きました。
「少しだけ、“賢く立ち回れた”と自分を褒めても……よろしいでしょうか」
「ええ」
レオンは、ほんの少しだけ口元を緩めました。
「本音の顔も、上手に隠せておられましたよ」
「それは、それで少し寂しい褒め言葉ですわね」
くすりと笑いながら、
私は邸の中へと歩き出しました。
窓の向こう、遠くの湖面が、
夕陽を受けてわずかにきらめいています。
(――どうか、今は静かに見ていてくださいませね)
世界の外側の誰かに。
世界の内側の誰かに。
そして何より、
今日もどうにか“正しい顔”で立っていた自分自身に向けて。
私はそっと、心の中でだけ頭を下げました。




