異世界の言葉
水の匂いと、金属の匂いが混ざり合っていました。
湿った空気が、肺の奥にねっとりと絡みつく。
けれど、それは湖畔の冷たい夜気とも、
邸の医務室の乾いた匂いとも違っていました。
(……ここは)
ゆっくりと瞼を持ち上げると、
そこには見慣れた天井も、テントの布もありませんでした。
代わりにあったのは――
薄暗く、輪郭の曖昧な空間。
真っ黒ではないのに、どこまでも奥行きが測れない灰色。
床と壁と天井の境目が曖昧で、
遠くでは水滴がぽたり、と落ちる音がしています。
足元には、薄く水が張っているようでした。
靴底に触れる感触は冷たいのに、
波紋はほとんど立ちません。
それなのに、
どこかでかすかに、金属の軋む音がしていました。
水辺と、鉄の箱の中。
相反するはずのものが、
無理やり一つに重ねられたような空間。
そして、その正面に――
あの“異形のスーツ”が、座っていました。
◆ ◆ ◆
厚い布と金属で覆われた身体。
全身を包む鈍い藍色のスーツ。
頭部には丸い透明な殻のようなものがあり、
そこから淡い光が漏れています。
胸元付近に取り付けられた、
小さな灯りがひとつ。
それが、この空間をかろうじて照らしていました。
私を救い上げた“影”――
あれと同じ姿。
スーツの人物は、
こちらを見ている……ように感じました。
実際には、
顔も目も見えません。
けれど、
透明な殻越しに向けられた視線は、
確かに私一人を捉えていました。
喉が、ひゅ、と鳴ります。
「……」
声が出ませんでした。
恐怖か、驚きか。
自分でも判別できない感情が喉に詰まり、
舌がうまく動かない。
そんな私を、
“異形”はしばらく黙って見つめていました。
やがて、
彼――と仮に呼びましょうか――は、
ヘルメットの側面にそっと手を触れました。
指先が何かをなぞり、
見えない部分で小さな光が点滅します。
そのあとで、
低く、柔らかい声が響きました。
「……聞こえるか、“こちら側の人”」
耳に届いたのは、
聞き慣れた音と、
そうでない音の混じった言葉でした。
私たちの古言――
古い祈りや詠唱に使われる言葉に、
発音も文の構造も、確かによく似ている。
けれど、
ところどころで母音がずれ、
抑揚の置き方が違いました。
精霊への詠唱を、
わざと少し間違えたときのような、
奇妙な違和感。
「これは……そうだな」
彼は少し言葉を探すように間を置き、
続けました。
「君たちの言葉で言うなら、
“古き潮流の言葉”に近い、はずだ。
伝わっているか?」
古き、潮流――
“潮”という単語は、
古言でもあまり使われません。
私は一度喉を鳴らし、
自分の声を確かめるように、口を開きました。
「……聞こえておりますわ。
あなたの言葉は――少し癖がありますけれど」
久しぶりの古言に、
舌がわずかにもつれました。
自分でも気づくほどの拙さに、
思わず頬が熱くなります。
「本来なら、
もっと滑らかに話せるはずなのですけれど……」
言い訳のような古言を継ぎ足した私に、
スーツの人物は小さく笑ったようでした。
透明な殻の奥で、
肩がわずかに揺れます。
「いや、十分だよ。
こっちの発音のほうが、よほど怪しいだろう」
古言で、冗談めいた言葉を聞くのは、
少し不思議な感覚でした。
精霊への祈りに使ってきた、
きっちりとした形式の言葉が、
知らない誰かの口でこんなにもくだけて響くなんて。
「ここは……どこですの?」
私は周囲を見回しながら尋ねました。
「湖の底……にしては、
少し様子が違うように思えますわ」
「そうだな。
正確には、君の世界と、僕らの世界の“壁”の上、みたいなものだ」
彼は言葉を選ぶように、
ゆっくりと区切りながら続けました。
「君たちの湖の“底”に、
偶然薄くなった場所があってね。
そこで君が、落ちかかっているのを見つけた」
「偶然……」
私は眉を寄せました。
「本来なら、ここに来るつもりはなかった」
スーツの人物――探査員、と呼ぶべきでしょうか――は、
はっきりとそう言いました。
「僕らは“外海”を歩いている。
君たちの世界の外側の海だ。
壁の向こう側を調査していたら、
たまたま薄い場所で君と目が合った。
それだけの話さ」
外側の海。
壁。
薄い場所。
単語だけを聞けば、
意味は分かるのに。
それがどういう構造のものなのか、
私の頭ではうまく組み立てられません。
「あなたは……
精霊、ではありませんわよね」
「違うね」
あっさりとした否定でした。
「精霊王とやらは、
さっき少しだけ声が聞こえた。
“触るな”って、
けっこう怒っていたよ」
思わず息を呑みました。
「精霊王様の声が、
あなたにも?」
「断片だけね。
君を通して、少し漏れてきた」
探査員は少し肩を竦めました。
「君たちの世界の“王”なんだろう?
でも、僕らから見れば、
壁の内側の自治領の長、くらいの感覚だ」
「自治領……」
私たちが神と呼び、
精霊たちの王として敬っている存在を、
まるで近隣の領主のように言ってのける口ぶりに、
背筋がぞわりとしました。
それは、
無礼というより――
世界のスケールの違いを思い知らされる感覚でした。
「もちろん、
君たちの世界の中では、
あれは絶対的なんだろう。
だけど、壁の外側には、
僕らのような探査員もいれば、
僕らの“上”もいる」
「あなた方の……上」
「ああ」
一拍置いてから、
彼は首を横に振りました。
「ただ、その話は今はしないほうがいい。
君の精神に悪い」
「精神に、悪い」
「世界の枠を一度に広げすぎると、
人間の心はひびが入る」
古言で“ひび割れ”という単語を聞いたのは、
初めてだったかもしれません。
「君はまだ、
自分の世界を守るので手一杯だろう?
その上に、さらに外側の構造を全部積み上げたら、
きっと潰れてしまう」
言葉は淡々としているのに、
そこには妙な優しさがありました。
「だから、今は簡単なことだけ話そう」
探査員は、
自分の胸を軽く叩きました。
「僕らは“外海”を歩く者。
本来、君の世界に干渉する予定はなかった」
そして、
透明な殻の向こうから、
真っ直ぐに私を見ます。
「でも、君は落ちてきた。
壁の薄いところから、
外へ向かって」
「……私が?」
「そう。
たぶん、君自身の意思じゃない。
世界のほうが少し緩んでいた。
それで、君の“縁”がこちらに引っかかった」
縁――
運命や、
見えない糸を指す古言。
私は自分の胸に手を当てました。
水に落ちる直前の感覚が、
まだ皮膚にこびりついています。
足元が崩れたときの軽さ。
終わらない落下。
上下が分からなくなる恐怖。
そして、
あの腕に抱きとめられたときの、
奇妙な安堵。
「私は、
あなたに助けられたのですわね」
「結果だけ見れば、そうなる」
探査員は、
少しだけ視線を逸らしました。
「本当は、
手を伸ばすべきではなかったのかもしれない。
壁の外側のものが内側に干渉すると、
いろいろ面倒が増える」
「それでも、
手を伸ばしてくださった」
「“目の前で落ちかけている人間”を見て、
無視できるほど僕は冷たくないつもりだ」
淡々とした古言で、
さらりとそう言われると、
どきりとします。
精霊王様のような、
広くて重い優しさではありません。
もっと、
狭くて軽くて、
それでいてとても人間らしい感覚。
(……この方は)
やはり、
概念ではなく、
“現場で動いている誰か”なのだと、
改めて思いました。
「本来なら、
ここで出会うはずじゃなかった」
探査員は、
少し困ったように肩を竦めました。
「君は君の世界の中だけで、
僕らは外海を歩くだけで、
互いの存在を知らないまま終わるはずだった」
「それは……
少し、寂しいような気もいたしますわね」
口に出してから、
自分でも驚きました。
なぜ、
そんなことを思ったのでしょう。
彼は一瞬だけ黙り、
透明な殻の向こうで
表情を変えた気配を漂わせました。
「そう言ってもらえるなら、
少しは救われるかな」
柔らかくそう言ってから、
彼は続けます。
「一度縁を持ってしまった以上、
“完全に無関係だ”と突き放すのも、
僕の性分には合わない」
胸元の灯りが、
ほんの少し明るさを増したように見えました。
「だから――」
彼は右手を軽く持ち上げ、
指先で空間の一点を示しました。
たぶん、
そこは彼らの世界から見た“湖の底”なのでしょう。
「どうしようもない困りごとができたら、
この湖の底を思い出して」
古言で紡がれたその言葉は、
静かな水面に落ちた石のように、
私の胸で波紋を広げました。
「僕らがまだこの外海を歩いている限り、
手を伸ばせるかもしれない」
「……助けてくださる、と?」
「状況次第だけどね」
あくまで軽く、
あっさりと。
「僕らにも事情がある。
全部に介入することはできない」
そう前置きしながらも、
最後の一言には、
確かな温度がありました。
「それでも、
“縁を持った誰か”が溺れかけていたら――
もう一度くらい、手を伸ばす価値はある」
理屈ではありません。
私の世界の、
どこからどう見ても“外側”にいる存在の言葉。
その約束が、
実際どこまで果たされるのかも分からない。
それでも。
胸の奥が、
少しだけ軽くなるのを感じました。
(ああ)
この世界の外にも、
“理不尽に奪うだけの何か”ではなく、
こうして手を差し伸べてくれる誰かがいる。
その事実が、
こんなにも心強いなんて。
「ありがとう存じます」
私はスカートの裾――
実際には水に濡れた寝間着の裾なのですが――を
ぎこちなくつまみ、
古言で一礼しました。
「あなたの世界の理も、
あなた方の事情も、
私にはまだほとんど分かりません」
「それでも――
縁を繋いでくださったことに、
感謝いたしますわ」
探査員は一瞬、
驚いたように固まり。
次いで、
静かに片手を上げました。
こちらの世界で言うところの、
軽い敬礼のような仕草。
「礼を言うのは僕のほうかもしれない」
「なぜ、ですの?」
「外側から世界を覗き込む仕事をしているとね」
彼は、少しだけ目線を遠くへ投げました。
「その世界で必死に踏ん張っている誰かと、
直接言葉を交わす機会は、
そう多くないんだ」
透明な殻の奥で、
微笑んだような気配がしました。
「君の世界は、君が守るんだ」
今度は、
はっきりと私を見て言います。
「僕らは、壁の向こうから見ている。
口出ししすぎないよう気をつけつつ、
それでも、縁ある場所が沈まないことを願っている」
「……それなら、
少しだけ頼っても、よろしいでしょうか」
自分でも意外な言葉が、
ぽつりとこぼれました。
「全部を外側任せにするつもりはありません。
この世界は、この世界の手で守りたい」
でも、と続けます。
「どうしても私たちの手では届かない何かが、
いつかこの世界を飲み込もうとしたなら――」
湖の底。
外海。
薄くなった壁。
古言の単語を並べながら、
自分でも信じられないほど落ち着いた声で言いました。
「そのときは、
今日のことを思い出しても、よろしいでしょうか」
探査員は、
少しだけ黙りました。
空間の奥で、
水滴がひとつ落ちて、
静かな音を立てます。
やがて、
彼は小さく息を吐きました。
「――ああ」
短く、それでもはっきりと。
「思い出して。
ここで君を引き上げた“誰か”がいたことを」
胸の灯りが、
さきほどよりも少しだけ強く光りました。
「僕らがまだ外海を歩いているなら、
きっとまた会える」
◆ ◆ ◆
空間が、
きしり、と軋みました。
視界の端から、
色と形が少しずつ剥がれていくような感覚。
世界そのものが、
丁寧に畳まれていくみたいです。
「時間だ」
探査員は立ち上がりました。
厚いスーツの足音が、
水面をほんのわずかに揺らします。
「ここは長くいられる場所じゃない。
君の身体も、向こうで心配されている」
彼は、
透明な殻の向こうから手を上げました。
「じゃあ、リヴィア」
奇妙に流暢な発音で、
私の名前を呼びます。
「君の世界で、君のやり方で戦え。
僕は壁の外側から、
君が“泣きそうになったときだけ”を探す」
「……泣きそうになったとき、ですの?」
「泣いてもいい。
でも、一人で沈むな」
どこか、
精霊王様の嫉妬混じりの加護の言葉と
重なるような、
それでいて違う響きでした。
「それでは、
また、いつか」
私はもう一度、
小さく頭を下げました。
世界が傾きます。
床も壁も天井も、
水滴の音も、
金属の匂いも、
すべてが遠ざかっていく。
最後に見えたのは、
透明な殻の向こうでわずかに揺れる、
灯り。
それが星のように瞬き、
暗闇に溶けるのを見届けた瞬間――
◆ ◆ ◆
「リヴィア様!」
鋭く、それでいて必死な声が、
耳元で弾けました。
瞼を開けると、
そこには仮設のテントの天井がありました。
粗く張られた布。
铁の支柱。
外から差し込む、薄い日の光。
湿った土の匂いと、
焚き火の煙の匂い。
さっきまでいた空間とは違う、
確かな“現実”の重さ。
「……レオン」
視界の端に、
見慣れた銀髪が飛び込んできました。
レオンが、
椅子から半ば身を乗り出すようにしてこちらを覗き込んでいます。
その隣には、
神父様と侍女がひとり。
心配そうな目を向けていました。
「ここは……」
「湖畔のテントです。
あなたはあのあとしばらく意識を失っておられました」
レオンの声は、
安堵と疲労で少し掠れていました。
「高熱などは出ていません。
ただ、何かに強く魔力を引かれたような反応があったと、
神父が」
「夢を、見ていた気がしますわ」
私は、
自分の胸に手を当てました。
そこには、
厚いスーツの感触も、
冷たい水もありません。
代わりにあるのは、
湿った寝間着の布と、
心臓の静かな鼓動だけ。
「少し、不思議な夢を」
「悪夢でしたか?」
神父様が穏やかに尋ねます。
「いいえ」
私は小さく首を振りました。
「いいえ――
むしろ、少しだけ……安心できる夢でしたわ」
レオンが、不思議そうに眉を寄せます。
「安心、ですか」
「ええ。
あれが全部、夢だったとしても」
私は目を閉じ、
湖の底で交わした言葉を、
胸の中でそっとなぞりました。
世界の外側から伸びたその手は、
私の世界を奪うためではなく、
ただ“いまここ”の私を引き上げるためのものだった。
それだけで――
十分すぎるほど、安心できたのです。
(……あれが夢でも現でも、構いませんわ)
枕を少しだけ握りしめながら、
心の中でそっと呟きます。
(この世界の外に、
敵でない誰かがいる――
そう信じていても、
誰にも叱られませんわよね)
湖の底。
外海。
薄くなった壁。
それらの言葉を、
私はそっと胸の内にしまい込みました。
誰にも話さない、
私だけの“秘密の頼み所”として。
「ご心配をおかけしました」
私はレオンたちに向き直り、
いつもの調子を取り戻すように微笑みました。
「どうやら――
私の人生には、
まだ少しばかり続きがあるようですわ」
レオンは一瞬ぽかんとしたあと、
安堵の苦笑を零しました。
「その続きが穏やかなものであるよう、
私も全力を尽くしましょう」
「ええ。
穏やかで――
それでいて、退屈でないものですと嬉しいですわね」
湖の水音が、
テントの外から微かに聞こえました。
世界の外側から見ている誰かに、
ほんの少しだけ胸を張れるように。
私はもう一度だけ、
心の中で湖の底に向かって
小さく礼をしてから、
深く息を吸いました。




