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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第3章_愛と怒りと、歌えば国が揺らぐ夜
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湖に落ちる

 もう二度と、あの湖には近づくべきではない――

 そう頭では分かっていたはずなのに。


◆ ◆ ◆


「本当に、行かれるおつもりなのですね」


 朝一番の執務室で、

 レオンは珍しくあからさまなため息をつきました。


 机の上には、湖近くの村から届いた新しい報告書が並んでいます。


「先日の夜とは少し様子が違うようです」


 私は紙を指で軽く叩きながら言いました。


「“湖面の光”は弱まりましたが、

  水位が微妙に上下している日がある、

  岸辺の地面がところどころ沈んだ、――など」


「地盤の変化、ですか」


「ええ。

  魔物の仕業ならともかく、

  単なる地形の変動だとしても、

  湖畔で暮らす方々には危険ですわ」


 精霊王様の

 『決して深入りするな』

 という声が、

 耳ではなく胸の奥をじわりと掠めました。


 それでも、

 報告書に並ぶ村人たちの不安の言葉を、

 見なかったことにはできません。


「今回は夜まで粘るつもりはありません」


 私はレオンに向き直りました。


「日が高いうちに地形だけ確認して、

  おかしな気配があればすぐに引き上げましょう。

  前回と同じ異変が続いているのかどうか、

  それだけでも確かめたいのです」


「……承知しました」


 レオンは、

 ほんの一瞬だけ目を閉じてから、

 観念したように頷きました。


「護衛は、私を含め四人。

  精鋭だけを連れていきます。

  村人を案内役に立たせることも、極力控えましょう」


「ありがとうございます」


「ただし、足場の悪い場所には決してお一人では近づかないこと。

  約束していただけますか」


「もちろんですわ」


 ――その約束を、

 まさかあんな形で破ることになるとは、

 このときの私はまだ知りませんでした。


◆ ◆ ◆


 昼下がりの湖は、

 前回とは違う表情を見せていました。


 冬の名残を抱えた空は淡く曇り、

 水面には薄い光が散っています。


 前回のような、

 世界から音を抜き取られたような静けさはありません。


 鳥の声もする。

 風が波を立てる音もする。

 岸辺では、村の子どもたちが石を投げては

 「ちゃぽん」と笑っていました。


「今日は、“普通の湖”に見えますわね」


 私は小さく息を吐きました。


 レオンと、護衛の騎士たちが、

 周囲を注意深く見回しています。


「見た目にそうであっても、油断は禁物です」


 レオンは私の少し前を歩きながら言いました。


「湖畔の地盤調査が主目的でしたね。

  崩れやすいと言われている場所から確認しましょう」


「お願いします」


 村の古老から聞いた話によれば、

 湖の北側には、

 昔から「足を取られやすい岩場」があるのだそうです。


 雪解けの水が染み込み、

 表面だけ固まって中が空洞になる――

 そんな地形は、

 この辺りでも珍しくはありません。


 けれど、

 湖の異変と重なれば話は別です。


 ひとつ間違えば、

 足を滑らせた誰かが水に引きずり込まれる危険があります。


「岩肌が露出している場所は、特に気をつけてください」


 レオンの忠告に頷きながら、

 私は慎重に足を運びました。


 湖面へ突き出すような岩場は、

 遠目にはしっかりと見えますが、

 その足元には、

 ざらついた泥と小さな石が溜まっています。


 ひとつひとつ踏みしめるたびに、

 靴底から伝わる感触が微かに変わる。


「……こうして歩いてみると、

  思ったよりも高さがありますわね」


「近づきすぎないように」


 レオンは、

 私と岩の先端の間にさりげなく身を差し入れました。


「風が強くなっても危険です。

  今日のところは、

  ここから眺めるだけでも十分かと」


「心配性ですわね」


 つい口からこぼれた言葉に、

 レオンがわずかに目を細めます。


「……心配する理由が、

  日々増えているのです」


「それは、

  私のせいでございますの?」


「ええ、大半は」


「正直でよろしいですわね」


 かすかに笑い合った、その直後でした。


 足元の土が、

 ふっと軽くなる感覚がしました。


「……?」


 視線を落としたときには、

 もう遅かったのだと思います。


 靴の先が乗っていた薄い土が、

 ざり、と音を立てて崩れました。


 それに引きずられるように、

 膝から下、腰、その下――

 支えを失った身体が前のめりに傾きます。


「あ」


 短い声が漏れました。


 レオンの腕が伸びるのが、

 視界の端に見えました。


 けれど、

 握るにはわずかに遠く。


 手袋の先が触れるか触れないかというところで、

 私の足場は、

 丸ごと湖へと滑り落ちました。


「リヴィア様――!」


 レオンの叫びが、

 空気を震わせます。


 次の瞬間、

 視界が水の色に塗りつぶされました。


◆ ◆ ◆


 水に落ちたときの感覚は、

 本来なら一瞬です。


 冷たい衝撃。

 肺から空気が押し出され、

 耳がきゅうと痛む。


 ――そういうものだと、

 私は知っていました。


 けれど、このとき私を包んだのは、

 そんな単純な感覚ではありませんでした。


 落ちる。


 落ちる。


 まだ、落ちている。


 水を打った瞬間の衝撃は、

 確かにあったはずなのに、

 落下は終わりませんでした。


 上と下の感覚が、

 ぐにゃりとねじれる。


 自分がどちらの方向に落ちているのかすら、

 分からなくなっていきます。


 光が、遠ざかるのではなく、

 周囲でぐるぐると回っていました。


 耳に届くはずの水音は、

 遠い鐘のように歪み、

 レオンの叫び声も、

 誰かのものではないノイズへと変わっていきます。


(――また、だ)


 第十二話の夜、

 湖のほとりで感じたあの視線が、

 背骨をなぞりました。


 今度は、

 足元の下からではありません。


 もっと遠くから。

 水の内側からでも、

 空の上からでもない、

 別の方向から。


 頭のどこかにある「上下」という概念そのものが、

 くるりと裏返されていくような感覚。


(精霊王様――)


 心の中で呼びかけようとした瞬間、

 何かが、

 耳の奥で軋みました。


『……ッ、そこは――』


 聞き慣れた声が、

 水とノイズと混ざって歪みます。


『我の……声が……届き……』


 言葉の一部が、

 意味を保ったまま切り取られ、

 残りが砕け散りました。


 まるで、

 ひとつの文章を何枚もの鏡で反射させ、

 バラバラにしてしまったみたいに。


 恐怖。

 と同時に、

 なぜか胸の奥には、

 説明のつかない高揚がありました。


 底のない井戸に落ちているような、

 どこまで行っても終わらない落下。


 そのくせ、

 身体がどこにもぶつからない不思議。


(――どこへ)


 私は一体、どこへ落ちているのでしょう。


 湖の底?

 それとも、

 さきほど精霊王様が「外側」と呼んだ場所?


 考えようとした刹那、

 視界の片隅に“何か”が現れました。


 影。


 黒ではありません。

 深い藍とも、鉄の色ともつかない、

 どこか鈍く光る輪郭。


 人の形をしているようで、

 そうでないようでもありました。


 厚い何かに覆われた身体。

 全身を包む、

 重たそうなスーツ。


 私たちの世界にあるどんな鎧よりも、

 無駄がなく、

 異質で、

 水に沈むというより、水を切り裂いて進んできました。


 頭部を覆う丸いもの――

 透明な何かの向こうに、

 顔らしきものがあるはずなのに、

 闇と光の反射に隠れて見えません。


 その胸元あたりで、

 淡い光が瞬きました。


 灯り。

 けれど、焚き火とも魔道具とも違う、

 真っ直ぐで冷たい光。


(……これは)


 湖の主でも、

 精霊でも、

 魔物でもない。


 この世界のどの分類にも、

 すっと収まらない“異形”でした。


 恐怖が、

 遅れてやってきます。


 けれど、その恐怖は――

 精霊王様や、

 先日湖の向こうから覗いてきた“外側”の存在に対して抱いたものとは、

 少し違っていました。


 あれらに感じたのは、

 「敵にしてはならない」と本能が叫ぶような畏怖。


 今目の前にいる“影”に対して私が抱いたのは、

 それよりももう少し、

 地に足のついた怖さでした。


 「分からないもの」に対する、

 普通の恐れ。


 そのほうが、

 不思議と安心できるような気さえします。


(逃げ――)


 そう思ったときには、

 もう遅く。


 影が、

 手を伸ばしてきました。


 乱暴に掴まれるのだと、

 瞬間、身体がこわばりました。


 けれど、その手は――


 ぐい、と引き寄せるのではなく。


 そっと、

 支えるように。


 落ち続けていた私の身体を、

 途中で受け止めるようにして、

 抱きとめました。


 厚いスーツ越しに、

 腕の感触が伝わります。


 硬い。

 けれど、その奥には、

 確かに何かが脈打っている気がしました。


 骨でも、

 金属でもなく。


 温度を持った、

 何か――そう、

 “生き物”の存在感。


(……あ)


 これは、

 私を殺しに来た手ではありません。


 そのことだけは、

 不思議とすぐに分かりました。


 私を“どこかへ連れていく”ための手なのか。

 それとも“ここから連れ戻す”ための手なのか。

 そこまでは分かりません。


 ただ、

 落下の感覚が、

 ふっと変わりました。


 今まで終わりなく続いていた落下が、

 逆回転し始めます。


 上へ。

 どこが上なのかも分からないはずなのに、

 確かに「上」へと押し上げられていく感覚。


 まるで、

 底なしの井戸の途中で、

 誰かが抱き留めてくれて、

 そのまま地上へ向かって

 ぐい、と持ち上げてくれるような――


 胸の奥に、

 別の痛みが走りました。


 肺が、

 水を求めています。

 いいえ、空気を。


 ぐちゃぐちゃになった感覚の中で、

 唯一はっきりと分かるのは、

 苦しさだけ。


(……レオン)


 どこかで名前を呼びながら、

 私は薄れゆく意識の中で、

 異形の腕に縋りつきました。


 スーツの表面は冷たいはずなのに――

 その下にある“彼か彼女か何か”の体温が、

 微かに伝わってくる気がしました。


 精霊王様のような、

 概念そのものの温度ではなく。


 村の子どもたちや、

 レオンや、

 マルコたちが持っているような、

 生きている人間の温度。


(……現場の、人……?)


 意味を成さない言葉が、

 脳裏をかすめました。


 世界を外側から覗く高位の存在ではなく。

 地面の上で、

 泥と汗にまみれながら動いている“誰か”。


 そんな印象。


 恐怖よりも、

 先に浮かんだのは――

 安堵でした。


 ああ、これは。


 私を、

 支えてくれる手だ。


 そう思った瞬間。


 視界の上方――どちらが上なのかはやはり分からないのですが――

 遠くで白い光が弾けました。


 次の瞬間、

 顔に冷たい空気がぶつかります。


「――ッ!」


 肺が、勝手に空気を吸い込みました。

 むせるような苦しさと一緒に、

 喉の奥から水が逆流します。


 耳に飛び込んできたのは、

 水音ではなく、

 怒鳴り声と、足音。


「リヴィア様!」


「しっかりなさいませ!」


 複数の声が、

 重なって響きました。


 肩を掴まれ、

 腕を取られ、

 私は岸へと引き上げられます。


 目を開けると、

 水面が視界に揺れました。


 さっきまで落ち続けていた場所は、

 今やただの湖面に戻って見えます。


 ――あの異形の影は。


 探そうとしたときには、

 もう視界の隅からも消えていました。


 代わりに、

 レオンの顔が、

 目の前にありました。


 濡れた前髪が額に張り付き、

 肩で息をしています。


「リヴィア様、聞こえますか」


「……ええ」


 掠れた声が、

 自分のものとは思えませんでした。


「大変……失礼を。

  また、湖に落ちてしまいましたわね」


 こんなときに出てくる言葉がそれなのかと、

 自分でおかしくなります。


 レオンは、

 しばし呆れたように瞬きをしてから、

 深く、深く息を吐きました。


「お気づきになったなら、何よりです」


 騎士たちが、

 急いで外套をかけてくれます。


 服は水を吸って重く、

 指先まで震えていました。


 寒さのせいか、

 恐怖の残り香のせいか――

 きっと両方なのでしょう。


「……落ちたのは、私だけですわね」


「ええ。

  足元の土が想定以上に脆くなっていました」


 レオンは悔しそうに歯を噛みました。


「もっと距離を取らせるべきだった」


「いいえ。

  あれは、私の油断です」


 私は首を振りました。


「“ここから眺めるだけ”と仰ってくださったのに、

  もう一歩だけと欲張ったのは、私ですもの」


 湖のほうを、ちらりと見やります。


 さきほどまで私を飲み込んでいた水面は、

 何事もなかったかのように、

 波を寄せては返していました。


 ――あの異形は、

 どこへ消えたのでしょう。


 私は確かに、

 何かに抱きとめられた感触を覚えています。


 厚いスーツ越しの硬さと、

 その奥にかすかにあった温度。


 それが何かを考える前に、

 意識がふっと、薄くなりました。


「……少し、眠く」


「今は休んでください」


 レオンの声が、

 すぐそばで響きます。


「詳しい話は、後でいくらでも。

  今は、あなたが生きていることだけで十分です」


「それは……少し、大げさですわ」


「いいえ」


 彼の声は、

 はっきりとした否定でした。


「本当に、十分なのです」


 その言葉を最後に、

 世界が少しずつ遠ざかっていきました。


 暗闇の縁で、

 私はもう一度だけ、

 さっきの“影”のことを思い出しました。


 底のない井戸に落ちているような恐怖の中で――

 それでも不思議と、

 “完全な悪意”だけはそこになかったと分かったこと。


 あれは、

 脅威ではなく、

 救いの手だった。


 そう信じられることが、

 ただひとつの救いでした。


 そしてその救いが、

 この世界の“外側”から伸びてきたものであるのだとしたら――


 私たちの物語は、

 すでに、

 想像していたよりもずっと広い盤の上に

 乗せられているのかもしれませんわね。


 そんな場違いな感想を抱きながら、

 私は静かに、

 意識の底へと沈んでいきました。


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