湖の異変
湖の噂を最初に耳にしたのは、
いつも通りの相談時間の合間でした。
◆ ◆ ◆
「……湖が、光る?」
書類に目を落としていた手を止め、
私は思わず顔を上げました。
目の前の椅子に腰掛けているのは、
湖近くの村に住む老農夫でした。
日に焼けた顔に刻まれた皺が、
今は不安と戸惑いで歪んでいます。
「はい、公爵令嬢様。
夜も更けたころでございました。
星も出ておらんのに、湖が……こう、ぼうっと」
手を丸く広げて、
水面の様子を示そうとする仕草が、
かえって説明の難しさを物語っていました。
「灯りが映っていた、というわけではなくて?」
「そりゃあ、最初はそうかと思ったんですがねえ。
村の誰も、灯りなんざ持っておりませんでしたし……
それに、光は、湖の真ん中のほうから、
ふっと浮かぶように出ては、すぐ消えるんでさあ」
別の日には、
マルコが半ば冗談混じりに、こんな話を持ってきました。
「嬢ちゃん、最近湖の酒場で面白ぇ噂が出回っててな」
「面白い噂、ですの?」
「夜中に酔って帰った漁師がよ。
湖のほとりで転びかけて、
水面覗き込んだら――
底のほうに、でっけえ目玉がひとつ、こっち見てたって」
「……あまり素敵なお話ではありませんわね」
「だろ? だから“飲み過ぎたんだ”って皆で笑ってたんだが、
同じようなこと言う奴が三人、四人と増えてきてな」
マルコは肩をすくめます。
「商売柄、変な噂にも慣れてるが……
ちょいと数が多すぎる。
さすがに笑えねえ」
さらに別の日には、
教会に来た信徒が、
神父を通じて、こう伝えてきました。
「水辺で祈っていたとき、
背中から視線を感じたそうです。
振り返っても誰もおらず……
けれど、“見下ろされていた”感覚だけが残ったと」
「見下ろされていた?」
「はい。
頭上からではなく、
もっと……高いどこかから、という表現でした」
ひとつひとつは、
酒の席の笑い話や、
暗闇が生んだ見間違いと片づけてしまえるのかもしれません。
けれど、こうも立て続けに、
似たような話が集まってくるとなれば――
「……放ってはおけませんわね」
私はペンを置き、
窓の外に目を向けました。
薄曇りの空の下、
遠くに、湖へ続く森の稜線が見えます。
病の噂でも、
魔物の出没でもない。
けれど、
「理由の分からない不安」が、
少しずつ領民たちの心を侵し始めているのが分かりました。
「レオンを呼んでください」
侍女にそう告げると、
ほどなくしてノックの音がします。
「湖近くの村からの報告……ですか」
事情を聞き終えたレオンは、
短くそう確認しました。
「ええ。
魔物であれば対処が必要ですし、
精霊の異常であれば、なおさら放置できません」
「危険の程度は不明、というわけですね」
「申し訳ありませんが、そうなりますわね」
自嘲気味に笑うと、
レオンはかすかに眉を下げました。
「……本来なら、私が先行して様子を見に行くべきでしょうが」
「いえ、今回は私も同行します」
即座に答えると、
レオンの視線がわずかに険しくなります。
「理由をうかがっても?」
「“理屈の分からない不安”ほど、
人を疲弊させるものはありませんもの」
私は机の上の報告書に触れました。
「魔物と断定できれば、“退治する対象”になります。
精霊の機嫌であれば、“なだめる対象”になります」
「けれど今は、何かも分からず――
ただ“怖いもの”として噂になっている」
私は息を吸い、
レオンを見据えます。
「この目で見て、
精霊王様のお声を聞いて、
判断したいのです」
短い沈黙。
やがてレオンは、
静かに頷きました。
「分かりました。
護衛は最小限に抑えます。
湖畔までご同行を」
◆ ◆ ◆
夕刻の湖畔は、
いつもなら静かで穏やかな場所です。
以前、子どもたちとピクニックに来たときには、
水辺で小さな魚が跳ねる音や、
鳥たちのさえずりが、
絶え間なく耳を楽しませてくれました。
――今日は、違いました。
「……静か、ですわね」
湖を見下ろす小高い丘に立った私は、
無意識のうちに声を潜めていました。
太陽はすでに山の向こうに沈み、
薄暗い宵の青が湖面に落ちています。
風は、ほとんどありません。
それ自体は珍しいことではないはずなのに――
「静かすぎる」
隣に立つレオンが、
低く呟きました。
そう。
静かすぎるのです。
水の音もしない。
虫の声もしない。
葉擦れのささやきすら、
どこか遠くへ追いやられてしまったかのように。
世界から、
音だけがそっと抜き取られたみたいでした。
「リヴィア様」
レオンの声が、
かすかに近づきます。
「無理はなさらぬよう」
「ええ……」
本当に“無理”をしているのは、
どちらなのかしら。
そんな言葉を飲み込んで、
私は湖面を見つめました。
水は、
おおむねいつも通り、
風のない日の静かな揺らぎを見せています。
ただ――
「……ここ」
半歩、前へ出て、
目を凝らしました。
湖の中央から、
少し外れたあたり。
そこだけが、
不自然なほど、動いていませんでした。
風がないのだから、
止まっているのは当然なのかもしれません。
けれど、
他の場所に見える細かなさざ波すら、
その一点だけを避けているかのようで。
そこだけが、
この世界から切り離された一枚の鏡のように、
平らなまま、夜の色を溜め込んでいました。
「……」
背筋に、冷たいものが走ります。
恐ろしい、と思う前に――
“こちらのほうが下位だ”と、
骨の髄から思わされる感覚。
まるで、
大きな大きな天秤の片側に、
自分ひとりだけが乗せられているのに気づくような、
心許なさ。
「リヴィア様?」
気づけば私は、
レオンの袖を強く掴んでいました。
「……申し訳ありません。
少し、……その」
「構いません」
レオンは、
掴まれたままの腕を微動だにさせず、
静かに視線だけを湖に向けました。
「何か、感じられましたか」
「ええ……でも、上手く言葉にできません」
私はそっと目を閉じ、
いつものように、
周囲の精霊たちに意識を向けようとしました。
――何も、いません。
普段なら、
このあたりの木々や水面には、
小さな精霊たちが集っています。
人の気配に興味を示すもの。
水遊びをせがんでくるもの。
ただ、そこにいるだけで心を和ませてくれるもの。
そのどれもが、
姿を消していました。
ぴたり、と。
誰かが合図をしたかのように、一斉に。
空気が、重い。
肺に入った空気が、
喉の奥で固まってしまいそうでした。
(……精霊王様)
心の中で、
そっと呼びかけます。
返事は、すぐにありました。
『――触るな』
遠くから、
水を通して届くような声でした。
いつもなら、
耳元で囁かれているように感じるお声が、
今日はやけに遠い。
それでも、
その一語には、
今まで聞いたことのない種類の緊張が含まれていました。
『それには、触るな』
(“それ”……?)
思わず問い返しかけた私の呼吸を、
精霊王の次の言葉が止めます。
『これは我の支配する“内側”ではない』
湖面の、動かない一点。
『我の知らぬ“外側”だ』
外側。
その響きに、
心臓が一度、大きく波打ちました。
『決して、名を与えるな』
『形を測ろうとするな』
『数えようとするな』
ひとつひとつの言葉が、
水底の石のように重く落ちていきます。
『それは、“敵”ではない』
『少なくとも、今はまだ』
『だが――
決して、敵にしてはならぬ』
恐ろしい、と感じる前に、
頭のどこかが理解してしまっていました。
これは、
刃を向けるべきものではない。
封じようとする対象でもない。
ただ、
頭を垂れて、やり過ごすべきもの。
大海に浮かぶ小舟が、
はるか沖を横切る黒い影を見送るときのように。
ふっと、
湖面の一点が、光りました。
「……!」
息を呑む間もなく、
星のような、小さな光が、
鏡の中央にぽつりと灯ります。
空には、
まだ星はほとんど出ていません。
それなのに、
湖面だけが、
夜空の未来を先取りしたみたいに輝く。
次の瞬間には、
もう消えていました。
けれど、
その短い瞬間のあいだに――
何かが、
こちらを覗き込んでいた。
そうとしか言いようのない感覚が、
肌を刺しました。
上からではなく。
下からでもなく。
ここではない、
どこか高く遠い場所から。
顎を指でつままれて、
ぐい、と持ち上げられたみたいに。
「リヴィア様」
レオンの声が、
現実に引き戻してくれます。
気づけば、
私は小刻みに震えていました。
恐怖で、ではありません。
もっと――
原始的な意味での“格の違い”を、
身体ごと思い知らされた震えでした。
『構えるな』
精霊王の声が、
再び低く響きます。
『視線を返すな』
『ただ、通り過ぎるのを待て』
私は、ゆっくりと膝を折りました。
「リヴィア様……!」
「大丈夫ですわ」
レオンの驚きの気配を手で制し、
私は湖に向かって、
小さく頭を下げました。
何に対して礼をしているのか、
自分でも分かりません。
けれど、
そうせずにはいられませんでした。
「何者かは存じませんが」
静かに口を開きます。
「どうか、今は――
通り過ぎてくださいますように」
祈りでも、
命令でもなく。
ただ、
小さな存在が大きなものに対して、
ごく自然に抱くべき、
願いの形として。
どれくらいの時間が経ったのか、
よく分かりません。
やがて、
ぴん、と張り詰めていた空気が、
ほんのわずかに緩みました。
静止していた水面が、
ようやく思い出したように揺れ始めます。
遠くで、
虫の声が戻ってきました。
木々の間を、
小さな風がすり抜けていきます。
精霊たちの気配も、
薄く、まだ迷いがちではありますが、
少しずつ戻ってきていました。
『……戻る』
精霊王の声が、
かすかに遠のきます。
『今はまだ、“観測”の域を出ぬ』
『だが、湖を軽々しく使うな』
そこで言葉が途切れました。
私は、そっと立ち上がります。
「リヴィア様」
レオンが、まだ警戒を解かない目で、
周囲を見渡していました。
「何か、見えましたか」
「いいえ」
首を横に振ります。
「何も、見えませんでした。
ただ……“見られていた”気がいたしました」
レオンの眉がわずかに動きましたが、
それ以上の問いはありませんでした。
代わりに、
私の手首をそっと支えます。
「本日はこれ以上の滞在は危険と判断します」
「異論はございません」
足を一歩踏み出した瞬間、
ふくらはぎが笑いました。
緊張で力が入りすぎていたのでしょう。
「……」
思いのほか頼りない足取りに、
自分で自分が少し可笑しくなりました。
次の瞬間、
石につまづきかけて、
危うく前のめりになります。
「っ」
とっさにレオンの腕を掴んで、
なんとか転倒を免れました。
「申し訳……」
「本当に、大丈夫ですか」
真剣な顔で尋ねられ、
余計に気恥ずかしくなります。
「ええ、ただ……」
湖から少し離れたところで振り返ると、
さっきまで異様な静けさを漂わせていた水面は、
何事もなかったかのように、
夕闇を映して揺れていました。
「……情けないところを、お見せしましたわね」
「いえ」
レオンは、
すぐに首を振りました。
「先ほどの“何か”を前にして、
膝を折らない者のほうが、
よほど無謀かと」
その言葉に、
少し救われた気がしました。
◆ ◆ ◆
帰りの馬上、
私は何度も湖のほうを振り返りました。
けれど、
森の向こうに広がる水面は、
もうこちらからは見えません。
ただ、
精霊王の言葉だけが、
胸の奥に残っていました。
(これは、精霊王様の“内側”ではない)
(その外側から、覗いてくる何かがいる)
この世界は、
てっきり精霊王様のもので、
その内側を私は少しだけ歩かせていただいているのだと、
どこかで当然のように思っていました。
けれど――
「……世界の全部を、
分かったような顔をしていたのは、
私のほうだったのかもしれませんわね」
ぽつりと漏らした独り言は、
冷たい夜風に紛れていきました。
恐ろしい、と思う前に――
“敵にしてはいけない”と、
どこかで理解してしまったあの感覚。
あの湖は、
きっとまだ何かと繋がりかけている。
その「何か」が、
私たちの知らない“外側”から来るものであるなら――
「深入りは、禁物ですわね」
それでもきっと、
私はまた、あの湖のほとりに立つのでしょう。
守りたい人たちが、
その近くで暮らしているのですから。
精霊王様の警告と、
骨の髄まで刻まれた本能の恐怖と。
その両方を抱えたまま、
私は静かに、
この世界の夜を見つめ続けることにしました。




