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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第3章_愛と怒りと、歌えば国が揺らぐ夜
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湖の異変

 湖の噂を最初に耳にしたのは、

 いつも通りの相談時間の合間でした。


◆ ◆ ◆


「……湖が、光る?」


 書類に目を落としていた手を止め、

 私は思わず顔を上げました。


 目の前の椅子に腰掛けているのは、

 湖近くの村に住む老農夫でした。

 日に焼けた顔に刻まれた皺が、

 今は不安と戸惑いで歪んでいます。


「はい、公爵令嬢様。

  夜も更けたころでございました。

  星も出ておらんのに、湖が……こう、ぼうっと」


 手を丸く広げて、

 水面の様子を示そうとする仕草が、

 かえって説明の難しさを物語っていました。


「灯りが映っていた、というわけではなくて?」


「そりゃあ、最初はそうかと思ったんですがねえ。

  村の誰も、灯りなんざ持っておりませんでしたし……

  それに、光は、湖の真ん中のほうから、

  ふっと浮かぶように出ては、すぐ消えるんでさあ」


 別の日には、

 マルコが半ば冗談混じりに、こんな話を持ってきました。


「嬢ちゃん、最近湖の酒場で面白ぇ噂が出回っててな」


「面白い噂、ですの?」


「夜中に酔って帰った漁師がよ。

  湖のほとりで転びかけて、

  水面覗き込んだら――

  底のほうに、でっけえ目玉がひとつ、こっち見てたって」


「……あまり素敵なお話ではありませんわね」


「だろ? だから“飲み過ぎたんだ”って皆で笑ってたんだが、

  同じようなこと言う奴が三人、四人と増えてきてな」


 マルコは肩をすくめます。


「商売柄、変な噂にも慣れてるが……

  ちょいと数が多すぎる。

  さすがに笑えねえ」


 さらに別の日には、

 教会に来た信徒が、

 神父を通じて、こう伝えてきました。


「水辺で祈っていたとき、

  背中から視線を感じたそうです。

  振り返っても誰もおらず……

  けれど、“見下ろされていた”感覚だけが残ったと」


「見下ろされていた?」


「はい。

  頭上からではなく、

  もっと……高いどこかから、という表現でした」


 ひとつひとつは、

 酒の席の笑い話や、

 暗闇が生んだ見間違いと片づけてしまえるのかもしれません。


 けれど、こうも立て続けに、

 似たような話が集まってくるとなれば――


「……放ってはおけませんわね」


 私はペンを置き、

 窓の外に目を向けました。


 薄曇りの空の下、

 遠くに、湖へ続く森の稜線が見えます。


 病の噂でも、

 魔物の出没でもない。

 けれど、

 「理由の分からない不安」が、

 少しずつ領民たちの心を侵し始めているのが分かりました。


「レオンを呼んでください」


 侍女にそう告げると、

 ほどなくしてノックの音がします。


「湖近くの村からの報告……ですか」


 事情を聞き終えたレオンは、

 短くそう確認しました。


「ええ。

  魔物であれば対処が必要ですし、

  精霊の異常であれば、なおさら放置できません」


「危険の程度は不明、というわけですね」


「申し訳ありませんが、そうなりますわね」


 自嘲気味に笑うと、

 レオンはかすかに眉を下げました。


「……本来なら、私が先行して様子を見に行くべきでしょうが」


「いえ、今回は私も同行します」


 即座に答えると、

 レオンの視線がわずかに険しくなります。


「理由をうかがっても?」


「“理屈の分からない不安”ほど、

  人を疲弊させるものはありませんもの」


 私は机の上の報告書に触れました。


「魔物と断定できれば、“退治する対象”になります。

  精霊の機嫌であれば、“なだめる対象”になります」


「けれど今は、何かも分からず――

  ただ“怖いもの”として噂になっている」


 私は息を吸い、

 レオンを見据えます。


「この目で見て、

  精霊王様のお声を聞いて、

  判断したいのです」


 短い沈黙。


 やがてレオンは、

 静かに頷きました。


「分かりました。

  護衛は最小限に抑えます。

  湖畔までご同行を」


◆ ◆ ◆


 夕刻の湖畔は、

 いつもなら静かで穏やかな場所です。


 以前、子どもたちとピクニックに来たときには、

 水辺で小さな魚が跳ねる音や、

 鳥たちのさえずりが、

 絶え間なく耳を楽しませてくれました。


 ――今日は、違いました。


「……静か、ですわね」


 湖を見下ろす小高い丘に立った私は、

 無意識のうちに声を潜めていました。


 太陽はすでに山の向こうに沈み、

 薄暗い宵の青が湖面に落ちています。


 風は、ほとんどありません。

 それ自体は珍しいことではないはずなのに――


「静かすぎる」


 隣に立つレオンが、

 低く呟きました。


 そう。

 静かすぎるのです。


 水の音もしない。

 虫の声もしない。

 葉擦れのささやきすら、

 どこか遠くへ追いやられてしまったかのように。


 世界から、

 音だけがそっと抜き取られたみたいでした。


「リヴィア様」


 レオンの声が、

 かすかに近づきます。


「無理はなさらぬよう」


「ええ……」


 本当に“無理”をしているのは、

 どちらなのかしら。


 そんな言葉を飲み込んで、

 私は湖面を見つめました。


 水は、

 おおむねいつも通り、

 風のない日の静かな揺らぎを見せています。


 ただ――


「……ここ」


 半歩、前へ出て、

 目を凝らしました。


 湖の中央から、

 少し外れたあたり。


 そこだけが、

 不自然なほど、動いていませんでした。


 風がないのだから、

 止まっているのは当然なのかもしれません。


 けれど、

 他の場所に見える細かなさざ波すら、

 その一点だけを避けているかのようで。


 そこだけが、

 この世界から切り離された一枚の鏡のように、

 平らなまま、夜の色を溜め込んでいました。


「……」


 背筋に、冷たいものが走ります。


 恐ろしい、と思う前に――

 “こちらのほうが下位だ”と、

 骨の髄から思わされる感覚。


 まるで、

 大きな大きな天秤の片側に、

 自分ひとりだけが乗せられているのに気づくような、

 心許なさ。


「リヴィア様?」


 気づけば私は、

 レオンの袖を強く掴んでいました。


「……申し訳ありません。

  少し、……その」


「構いません」


 レオンは、

 掴まれたままの腕を微動だにさせず、

 静かに視線だけを湖に向けました。


「何か、感じられましたか」


「ええ……でも、上手く言葉にできません」


 私はそっと目を閉じ、

 いつものように、

 周囲の精霊たちに意識を向けようとしました。


 ――何も、いません。


 普段なら、

 このあたりの木々や水面には、

 小さな精霊たちが集っています。


 人の気配に興味を示すもの。

 水遊びをせがんでくるもの。

 ただ、そこにいるだけで心を和ませてくれるもの。


 そのどれもが、

 姿を消していました。


 ぴたり、と。

 誰かが合図をしたかのように、一斉に。


 空気が、重い。


 肺に入った空気が、

 喉の奥で固まってしまいそうでした。


(……精霊王様)


 心の中で、

 そっと呼びかけます。


 返事は、すぐにありました。


『――触るな』


 遠くから、

 水を通して届くような声でした。


 いつもなら、

 耳元で囁かれているように感じるお声が、

 今日はやけに遠い。


 それでも、

 その一語には、

 今まで聞いたことのない種類の緊張が含まれていました。


『それには、触るな』


(“それ”……?)


 思わず問い返しかけた私の呼吸を、

 精霊王の次の言葉が止めます。


『これは我の支配する“内側”ではない』


 湖面の、動かない一点。


『我の知らぬ“外側”だ』


 外側。


 その響きに、

 心臓が一度、大きく波打ちました。


『決して、名を与えるな』


『形を測ろうとするな』


『数えようとするな』


 ひとつひとつの言葉が、

 水底の石のように重く落ちていきます。


『それは、“敵”ではない』


『少なくとも、今はまだ』


『だが――

  決して、敵にしてはならぬ』


 恐ろしい、と感じる前に、

 頭のどこかが理解してしまっていました。


 これは、

 刃を向けるべきものではない。


 封じようとする対象でもない。


 ただ、

 頭を垂れて、やり過ごすべきもの。


 大海に浮かぶ小舟が、

 はるか沖を横切る黒い影を見送るときのように。


 ふっと、

 湖面の一点が、光りました。


「……!」


 息を呑む間もなく、

 星のような、小さな光が、

 鏡の中央にぽつりと灯ります。


 空には、

 まだ星はほとんど出ていません。


 それなのに、

 湖面だけが、

 夜空の未来を先取りしたみたいに輝く。


 次の瞬間には、

 もう消えていました。


 けれど、

 その短い瞬間のあいだに――


 何かが、

 こちらを覗き込んでいた。


 そうとしか言いようのない感覚が、

 肌を刺しました。


 上からではなく。

 下からでもなく。


 ここではない、

 どこか高く遠い場所から。


 顎を指でつままれて、

 ぐい、と持ち上げられたみたいに。


「リヴィア様」


 レオンの声が、

 現実に引き戻してくれます。


 気づけば、

 私は小刻みに震えていました。


 恐怖で、ではありません。


 もっと――

 原始的な意味での“格の違い”を、

 身体ごと思い知らされた震えでした。


『構えるな』


 精霊王の声が、

 再び低く響きます。


『視線を返すな』


『ただ、通り過ぎるのを待て』


 私は、ゆっくりと膝を折りました。


「リヴィア様……!」


「大丈夫ですわ」


 レオンの驚きの気配を手で制し、

 私は湖に向かって、

 小さく頭を下げました。


 何に対して礼をしているのか、

 自分でも分かりません。


 けれど、

 そうせずにはいられませんでした。


「何者かは存じませんが」


 静かに口を開きます。


「どうか、今は――

  通り過ぎてくださいますように」


 祈りでも、

 命令でもなく。


 ただ、

 小さな存在が大きなものに対して、

 ごく自然に抱くべき、

 願いの形として。


 どれくらいの時間が経ったのか、

 よく分かりません。


 やがて、

 ぴん、と張り詰めていた空気が、

 ほんのわずかに緩みました。


 静止していた水面が、

 ようやく思い出したように揺れ始めます。


 遠くで、

 虫の声が戻ってきました。


 木々の間を、

 小さな風がすり抜けていきます。


 精霊たちの気配も、

 薄く、まだ迷いがちではありますが、

 少しずつ戻ってきていました。


『……戻る』


 精霊王の声が、

 かすかに遠のきます。


『今はまだ、“観測”の域を出ぬ』


『だが、湖を軽々しく使うな』


 そこで言葉が途切れました。


 私は、そっと立ち上がります。


「リヴィア様」


 レオンが、まだ警戒を解かない目で、

 周囲を見渡していました。


「何か、見えましたか」


「いいえ」


 首を横に振ります。


「何も、見えませんでした。

  ただ……“見られていた”気がいたしました」


 レオンの眉がわずかに動きましたが、

 それ以上の問いはありませんでした。


 代わりに、

 私の手首をそっと支えます。


「本日はこれ以上の滞在は危険と判断します」


「異論はございません」


 足を一歩踏み出した瞬間、

 ふくらはぎが笑いました。


 緊張で力が入りすぎていたのでしょう。


「……」


 思いのほか頼りない足取りに、

 自分で自分が少し可笑しくなりました。


 次の瞬間、

 石につまづきかけて、

 危うく前のめりになります。


「っ」


 とっさにレオンの腕を掴んで、

 なんとか転倒を免れました。


「申し訳……」


「本当に、大丈夫ですか」


 真剣な顔で尋ねられ、

 余計に気恥ずかしくなります。


「ええ、ただ……」


 湖から少し離れたところで振り返ると、

 さっきまで異様な静けさを漂わせていた水面は、

 何事もなかったかのように、

 夕闇を映して揺れていました。


「……情けないところを、お見せしましたわね」


「いえ」


 レオンは、

 すぐに首を振りました。


「先ほどの“何か”を前にして、

  膝を折らない者のほうが、

  よほど無謀かと」


 その言葉に、

 少し救われた気がしました。


◆ ◆ ◆


 帰りの馬上、

 私は何度も湖のほうを振り返りました。


 けれど、

 森の向こうに広がる水面は、

 もうこちらからは見えません。


 ただ、

 精霊王の言葉だけが、

 胸の奥に残っていました。


(これは、精霊王様の“内側”ではない)


(その外側から、覗いてくる何かがいる)


 この世界は、

 てっきり精霊王様のもので、

 その内側を私は少しだけ歩かせていただいているのだと、

 どこかで当然のように思っていました。


 けれど――


「……世界の全部を、

  分かったような顔をしていたのは、

  私のほうだったのかもしれませんわね」


 ぽつりと漏らした独り言は、

 冷たい夜風に紛れていきました。


 恐ろしい、と思う前に――

 “敵にしてはいけない”と、

 どこかで理解してしまったあの感覚。


 あの湖は、

 きっとまだ何かと繋がりかけている。


 その「何か」が、

 私たちの知らない“外側”から来るものであるなら――


「深入りは、禁物ですわね」


 それでもきっと、

 私はまた、あの湖のほとりに立つのでしょう。


 守りたい人たちが、

 その近くで暮らしているのですから。


 精霊王様の警告と、

 骨の髄まで刻まれた本能の恐怖と。


 その両方を抱えたまま、

 私は静かに、

 この世界の夜を見つめ続けることにしました。


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