はじめての反発
最近の辺境には、
少しだけ――本当に、少しだけですが、柔らかな風が吹くようになってきた気がします。
◆ ◆ ◆
「先生、“り”ってこうでしたっけ?」
「そうです、その下の線をもう少しだけ伸ばしてみましょう」
教会隣の小さな教室には、
今日も子どもたちの声が響いていました。
ぎこちない板書。
黒くなった指先。
自分の名前を書けた子が、
紙を宝物のように握りしめて帰っていく背中。
教室の後ろからその様子を眺めながら、
私はそっと胸に手を当てました。
(……少しずつ、形になってきましたわね)
畑もそうです。
雪解けを早めたあの荒れ地には、
いま、細いながらも確かな緑が並んでいます。
「ここまで育てば、あとは天候次第ですな」
「今年は、ちゃんと収穫を数えられる年になるといいな」
顔を見合わせる農民たちの表情には、
前よりも少しだけ、笑い皺が増えました。
集いの家では、
相変わらず愚痴と、ささやかな笑い声と、
温いスープの湯気が混ざり合っています。
「ここに来ると、なんだか肩の力が抜けるねえ」
「字も覚えられて、飯も食えるなんて、贅沢だな」
そんな言葉を聞くたびに、
胸の奥がじんと温かくなります。
(この調子で、少しずつでも――)
そう、思っていました。
――この調子で、
少しずつ前に進んでゆけたらと。
けれど同時に、
背中のほうから小さなざわめきも、
確かに聞こえ始めていたのです。
「最近、なんでもかんでも変わりすぎじゃないか」
「学なんてなくても、今まで生きてこられたんだ」
「あのお嬢様は立派だが……あの方がいなくなったら、どうするつもりなんだ」
市場の隅。
井戸端。
酒場の片隅。
年配の方々のそんな声が、
少しずつ、大きさを増しているのを感じていました。
◆ ◆ ◆
その日は、
村ごとの代表を集めた定例の集会の日でした。
集会所の扉の前で、私は小さく息を吸い込みます。
「リヴィア様、手袋が……」
「え?」
侍女に指摘されて、自分の両手を見下ろしました。
――左右、逆。
指先が微妙に余った手袋に、
じわじわと恥ずかしさが込み上げてきます。
「……これは、緊張している証拠ですわね」
「直させてくださいませ」
侍女が慣れた手つきで手袋を外し、
正しいほうに嵌め直してくれました。
革の感触が、指にぴたりと馴染みます。
「ありがとうございます。
こんな顔で皆さまの前に出るわけにはいきませんものね」
自分に言い聞かせるように微笑んでから、
扉を開けました。
◆ ◆ ◆
集会所には、
既に多くの人々が集まっていました。
若い農夫たち。
読み書き学校に子どもを通わせている母親。
地元商人たち。
そして――
皺の刻まれた顔に、長い年月の重さを刻んだ年長の方々。
レオンとルークが後方に控え、
神父様も静かな面持ちで席に着いています。
「本日は、お集まりいただきありがとうございます」
前方に立ち、挨拶の言葉を述べました。
「今日は、学校の拡張と、
いくつかの農地の試験的な改革について、
皆さまにご説明し、ご意見を伺いたく――」
そこまでは、いつもの流れでした。
読み書き学校を、
もう少し大きな世代にも開放すること。
村ごとの休耕地を見直し、
負担を均等にするための方法を探ること。
準備してきた内容を、
ひとつひとつ、丁寧に説明していきます。
若い人たちの多くは、真剣に耳を傾けてくれていました。
しかし。
「――なあ、お嬢様」
低く、乾いた声が、
集会場の空気を切り裂きました。
年長の農民の一人が、
ゆっくりと立ち上がったのです。
「……はい。
ご意見がおありでしたら、どうぞ」
私は促しました。
彼は、ぎゅっと拳を握りしめたまま、
こちらをまっすぐに見据えています。
「俺ぁ、この村でずっと土をいじって生きてきました。
爺さんも、そのまた爺さんも、そうやって暮らしてきた」
「はい」
「字なんか読めなくたって、
土の具合は手で分かる。
天気の機嫌は、空の匂いで感じる。
それで今まで、どうにかやってきたんです」
その言葉に、何人もの年配者が頷きました。
「ところがここ最近、
あんたが来てからというもの、
何もかもが変わりすぎる」
言葉には、怒りと――それ以上に、
はっきりとした「怖れ」が混じっていました。
「学校だの、集いの家だの、
畑だって、あんたが一晩で芽を出させちまう」
「子どもらは嬉しそうだ。
腹を空かせた大人が減るのもありがてえ。
そこまでは、分かる。分かりますよ」
彼は一度息を吸い、
ぐっと声を強めました。
「けどな、お嬢様」
会場に、
ぴんと張り詰めた沈黙が降ります。
「あんたがいなくなったら、どうするつもりなんです?」
胸の奥を、
鋭く指で突かれたような感覚がしました。
「あんたが病気になったら?
あんたがどこかに呼ばれて、帰ってこなくなったら?
王都に連れて行かれて、
俺らの手の届かないところに置かれちまったら?」
彼の声は震えていました。
「奇跡に頼る暮らしなんて、
俺には怖くて仕方ねえんです」
「今はいい。今は、あんたがここにいる」
「けど、種を撒くのを忘れて、
水のやり方を忘れて、
全部“お嬢様がどうにかしてくれる”って心持ちになっちまったら――」
彼は首を振りました。
「いざ、あんたの奇跡がなくなったとき、
俺ら、自分の足で立てなくなるんじゃねえかって」
別の老人が、
ゆっくりと立ち上がりました。
「昔からのやり方で生きてきたんだ」
「悪い年もあったが、
それでも“こうすりゃ乗り切れる”って勘が、
身体に染みついてる」
「一気に変わると、その勘が通用しなくなる。
変われば変わるほど、元には戻れなくなる」
別の男が、
酒焼けした声で呟きます。
「あんたは善意でやってるんだろう。
それは分かる。
けど、あんたを利用しようとする連中は、
そうじゃねえ」
「教会だの、王都だの、
隣の国だの……
あんたを札みてえに切ったり拾ったりする奴らが、
これからいくらでも湧いて出てくる」
その言葉に、
使節団や刺客たちの顔が脳裏をかすめました。
「そうなったとき、一番先に割を食うのは、
いつだって俺らみたいな、
端っこの人間だ」
「だから俺は、怖えんです」
年長の農民は、絞り出すように言いました。
「変わるのが怖い。
奇跡に頼る暮らしが怖い。
あんたがいなくなったあと、
何も残らねえんじゃねえかってことが、怖くてたまらねえ」
集会所の空気が、
重く、渦を巻いていきます。
若い人たちの中にも、
複雑そうな顔つきでうつむく者がいました。
私は――
一瞬、言葉を失いました。
(……そう、ですわよね)
“良かれと思ってやってきたこと”が、
誰かの生活を、
「理解の外側へ」連れ出してしまっている。
守るつもりで差し伸べた手が、
知らぬ間に「依存」という鎖になってしまうかもしれない。
それは私が、
何度も心の中でぐるぐると考え続けてきたことでもありました。
「……ご意見、ありがとうございます」
私は、出来るだけ声を震わせないように努めながら、
口を開きました。
「怖いと感じてくださることは、
間違いではありません」
ざわ、と、
小さなざわめきが走ります。
「変わるのが怖い。
奇跡に頼るようになるのが怖い。
私がいなくなったあとを考えると、
不安でたまらない」
ひとつひとつ、
先ほどの言葉をなぞるように口にしました。
「そのお気持ちは、
私にもよく分かりますわ」
胸に手を当て、
そっと視線を落とします。
「私自身、
自分の奇跡が皆さまを縛ってしまうのではないかと、
何度も考えました」
「“リヴィア様がなんとかしてくださる”と、
そう思っていただけるのは、ありがたくもあります」
「ですが同時に、
もし私が倒れたとき、
その期待ごと皆さまを奈落に突き落とすことになるのではないか――
そんな恐怖を、
私もまた抱いております」
顔を上げ、
集会所の人々を見渡しました。
「だからこそ、学校を作りました」
「文字が読めて、
計算ができれば、
私がいなくても、契約書を前にして立ち尽くさずに済みます」
「畑の奇跡も、
全部を私の力だけで賄うつもりはありません」
「土の修復は一部。
種を撒き、水をやり、育てるのは、
これまで通り、皆さまご自身です」
年長の農民が、
じっと私を見つめていました。
「私は、皆さまを“奇跡に頼らせたい”わけではありません」
ゆっくりと、言葉を紡ぎます。
「変わらなければ守れないものが、
この辺境には確かに存在します」
「税の仕組みも。
戦の火の回り方も。
隣国の思惑も。
私が来る前よりもずっと、
この土地は外から見える場所になってしまいました」
「その中で、
皆さまが“自分の足で立つ”ための土台を作りたいのです」
「学校では、
私がいなくなっても使える知恵を教えます」
「集いの家は、
私の名前ではなく“ここにいていい”という感覚を育てる場所にしたい」
「奇跡は、
出来る限り“最後の手段”としてしか使いません」
沈黙が、
ゆっくりと、集会所に降り積もります。
「それでも――」
私は、拳を握りました。
「それでもなお、怖いと感じられるのなら、
どうかその怖さを、
私にぶつけ続けてください」
驚いたように、
何人かが顔を上げました。
「怖さを口にできる人は、
きっと前にも進めますから」
「“何も言わずについてきてください”とは、
私にはとても言えません」
「どうか、迷ってください。
怒ってください。
不安を抱えたまま、
それでも一歩だけ、
昨日より前に進むかどうかを、一緒に考えてくださいませ」
年長の農民は、
しばらく黙ったまま立ち尽くしていました。
やがて、
深く、深くため息を吐きます。
「……あんたは、本当に、面倒なお嬢様だな」
ぼそりと漏れたその一言は、
怒りと諦めと、
ほんの少しの――
笑いに似た響きを帯びていました。
「簡単に“分かりました”と言えねえところが、
なおさらタチが悪い」
そう言って、
彼はゆっくりと席に戻りました。
集会所には、拍手は起きませんでした。
代わりに、
重い沈黙と、
ほんのわずかな「理解の芽」のようなものが、
入り混じった空気が残ります。
それは、
決して気持ちの良い終わり方ではありません。
けれど――
私は、それでいいのだと思いました。
◆ ◆ ◆
集会が終わり、
人々が三々五々に散っていったあと。
裏手の小さな通路で、
私は壁にもたれかかりながら、
ようやく深い息を吐き出しました。
「……やっぱり、怖いですわ」
誰もいないつもりで口にした本音に、
すぐそばから返事が返ってきました。
「それは、当然でしょう」
「レオン」
いつの間にか、
すぐ隣に立っていた彼が、
わずかに口元を緩めています。
「初めて、あなたに真正面から反発した人たちですから」
「はい」
「けれど、彼らは“ここで”反発しました」
レオンは、
さきほど年長の農民が座っていた方向をちらりと見やりました。
「裏で不満を溜めるだけでなく、
あなたの目の前で怒りと怖れを口にした」
「それはきっと、
まだあなたに期待している証拠でもあります」
「……期待、ですか?」
「“言えば、何か変わるかもしれない”と、
どこかで思っていなければ、
人はああして声を上げたりはしません」
彼の言葉に、
肩の力が少しだけ抜けました。
「変わるのが怖いと、
そう言ってくださることが、
私には何よりありがたいのです」
先ほど自分が口にした言葉を、
もう一度、小さく繰り返してみます。
「怖さを口にできる人は、
きっと前にも進める。
……そう信じて、よろしいでしょうか」
「ええ」
レオンは、迷いなく頷きました。
「そして、
怖いと口にしたあとも前に進もうとする人を、
あなたは何度でも支えるのでしょう」
「……そう、ありたいと思いますわ」
少しだけ、
胸を張って言いました。
壁に預けていた背中を離し、
わずかに空を見上げます。
――変わるのが怖い人たちも。
変わらないことが怖い人たちも。
その両方を、
同じ場所に立たせてしまったのは、
きっと私のせいでもあるのでしょう。
それでも。
(巻き込んでしまった以上、
最後まで責任を取らなくてはなりませんわね)
喉の奥に残る震えを、
そっと飲み込みました。
「さあ、戻りましょうか」
「はい、リヴィア様」
左右を間違えずにはめ直した手袋の中で、
指先が、まだ少しだけ汗ばんでいました。




