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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第3章_愛と怒りと、歌えば国が揺らぐ夜
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はじめての反発

 最近の辺境には、

 少しだけ――本当に、少しだけですが、柔らかな風が吹くようになってきた気がします。


◆ ◆ ◆


「先生、“り”ってこうでしたっけ?」


「そうです、その下の線をもう少しだけ伸ばしてみましょう」


 教会隣の小さな教室には、

 今日も子どもたちの声が響いていました。


 ぎこちない板書。

 黒くなった指先。

 自分の名前を書けた子が、

 紙を宝物のように握りしめて帰っていく背中。


 教室の後ろからその様子を眺めながら、

 私はそっと胸に手を当てました。


(……少しずつ、形になってきましたわね)


 畑もそうです。


 雪解けを早めたあの荒れ地には、

 いま、細いながらも確かな緑が並んでいます。


「ここまで育てば、あとは天候次第ですな」


「今年は、ちゃんと収穫を数えられる年になるといいな」


 顔を見合わせる農民たちの表情には、

 前よりも少しだけ、笑い皺が増えました。


 集いの家では、

 相変わらず愚痴と、ささやかな笑い声と、

 温いスープの湯気が混ざり合っています。


「ここに来ると、なんだか肩の力が抜けるねえ」


「字も覚えられて、飯も食えるなんて、贅沢だな」


 そんな言葉を聞くたびに、

 胸の奥がじんと温かくなります。


(この調子で、少しずつでも――)


 そう、思っていました。


 ――この調子で、

 少しずつ前に進んでゆけたらと。


 けれど同時に、

 背中のほうから小さなざわめきも、

 確かに聞こえ始めていたのです。


「最近、なんでもかんでも変わりすぎじゃないか」


「学なんてなくても、今まで生きてこられたんだ」


「あのお嬢様は立派だが……あの方がいなくなったら、どうするつもりなんだ」


 市場の隅。

 井戸端。

 酒場の片隅。


 年配の方々のそんな声が、

 少しずつ、大きさを増しているのを感じていました。


◆ ◆ ◆


 その日は、

 村ごとの代表を集めた定例の集会の日でした。


 集会所の扉の前で、私は小さく息を吸い込みます。


「リヴィア様、手袋が……」


「え?」


 侍女に指摘されて、自分の両手を見下ろしました。


 ――左右、逆。


 指先が微妙に余った手袋に、

 じわじわと恥ずかしさが込み上げてきます。


「……これは、緊張している証拠ですわね」


「直させてくださいませ」


 侍女が慣れた手つきで手袋を外し、

 正しいほうに嵌め直してくれました。


 革の感触が、指にぴたりと馴染みます。


「ありがとうございます。

  こんな顔で皆さまの前に出るわけにはいきませんものね」


 自分に言い聞かせるように微笑んでから、

 扉を開けました。


◆ ◆ ◆


 集会所には、

 既に多くの人々が集まっていました。


 若い農夫たち。

 読み書き学校に子どもを通わせている母親。

 地元商人たち。

 そして――

 皺の刻まれた顔に、長い年月の重さを刻んだ年長の方々。


 レオンとルークが後方に控え、

 神父様も静かな面持ちで席に着いています。


「本日は、お集まりいただきありがとうございます」


 前方に立ち、挨拶の言葉を述べました。


「今日は、学校の拡張と、

  いくつかの農地の試験的な改革について、

  皆さまにご説明し、ご意見を伺いたく――」


 そこまでは、いつもの流れでした。


 読み書き学校を、

 もう少し大きな世代にも開放すること。


 村ごとの休耕地を見直し、

 負担を均等にするための方法を探ること。


 準備してきた内容を、

 ひとつひとつ、丁寧に説明していきます。


 若い人たちの多くは、真剣に耳を傾けてくれていました。


 しかし。


「――なあ、お嬢様」


 低く、乾いた声が、

 集会場の空気を切り裂きました。


 年長の農民の一人が、

 ゆっくりと立ち上がったのです。


「……はい。

  ご意見がおありでしたら、どうぞ」


 私は促しました。


 彼は、ぎゅっと拳を握りしめたまま、

 こちらをまっすぐに見据えています。


「俺ぁ、この村でずっと土をいじって生きてきました。

  爺さんも、そのまた爺さんも、そうやって暮らしてきた」


「はい」


「字なんか読めなくたって、

  土の具合は手で分かる。

  天気の機嫌は、空の匂いで感じる。

  それで今まで、どうにかやってきたんです」


 その言葉に、何人もの年配者が頷きました。


「ところがここ最近、

  あんたが来てからというもの、

  何もかもが変わりすぎる」


 言葉には、怒りと――それ以上に、

 はっきりとした「怖れ」が混じっていました。


「学校だの、集いの家だの、

  畑だって、あんたが一晩で芽を出させちまう」


「子どもらは嬉しそうだ。

  腹を空かせた大人が減るのもありがてえ。

  そこまでは、分かる。分かりますよ」


 彼は一度息を吸い、

 ぐっと声を強めました。


「けどな、お嬢様」


 会場に、

 ぴんと張り詰めた沈黙が降ります。


「あんたがいなくなったら、どうするつもりなんです?」


 胸の奥を、

 鋭く指で突かれたような感覚がしました。


「あんたが病気になったら?

  あんたがどこかに呼ばれて、帰ってこなくなったら?

  王都に連れて行かれて、

  俺らの手の届かないところに置かれちまったら?」


 彼の声は震えていました。


「奇跡に頼る暮らしなんて、

  俺には怖くて仕方ねえんです」


「今はいい。今は、あんたがここにいる」


「けど、種を撒くのを忘れて、

  水のやり方を忘れて、

  全部“お嬢様がどうにかしてくれる”って心持ちになっちまったら――」


 彼は首を振りました。


「いざ、あんたの奇跡がなくなったとき、

  俺ら、自分の足で立てなくなるんじゃねえかって」


 別の老人が、

 ゆっくりと立ち上がりました。


「昔からのやり方で生きてきたんだ」


「悪い年もあったが、

  それでも“こうすりゃ乗り切れる”って勘が、

  身体に染みついてる」


「一気に変わると、その勘が通用しなくなる。

  変われば変わるほど、元には戻れなくなる」


 別の男が、

 酒焼けした声で呟きます。


「あんたは善意でやってるんだろう。

  それは分かる。

  けど、あんたを利用しようとする連中は、

  そうじゃねえ」


「教会だの、王都だの、

  隣の国だの……

  あんたを札みてえに切ったり拾ったりする奴らが、

  これからいくらでも湧いて出てくる」


 その言葉に、

 使節団や刺客たちの顔が脳裏をかすめました。


「そうなったとき、一番先に割を食うのは、

  いつだって俺らみたいな、

  端っこの人間だ」


「だから俺は、怖えんです」


 年長の農民は、絞り出すように言いました。


「変わるのが怖い。

  奇跡に頼る暮らしが怖い。

  あんたがいなくなったあと、

  何も残らねえんじゃねえかってことが、怖くてたまらねえ」


 集会所の空気が、

 重く、渦を巻いていきます。


 若い人たちの中にも、

 複雑そうな顔つきでうつむく者がいました。


 私は――

 一瞬、言葉を失いました。


(……そう、ですわよね)


 “良かれと思ってやってきたこと”が、

 誰かの生活を、

 「理解の外側へ」連れ出してしまっている。


 守るつもりで差し伸べた手が、

 知らぬ間に「依存」という鎖になってしまうかもしれない。


 それは私が、

 何度も心の中でぐるぐると考え続けてきたことでもありました。


「……ご意見、ありがとうございます」


 私は、出来るだけ声を震わせないように努めながら、

 口を開きました。


「怖いと感じてくださることは、

  間違いではありません」


 ざわ、と、

 小さなざわめきが走ります。


「変わるのが怖い。

  奇跡に頼るようになるのが怖い。

  私がいなくなったあとを考えると、

  不安でたまらない」


 ひとつひとつ、

 先ほどの言葉をなぞるように口にしました。


「そのお気持ちは、

  私にもよく分かりますわ」


 胸に手を当て、

 そっと視線を落とします。


「私自身、

  自分の奇跡が皆さまを縛ってしまうのではないかと、

  何度も考えました」


「“リヴィア様がなんとかしてくださる”と、

  そう思っていただけるのは、ありがたくもあります」


「ですが同時に、

  もし私が倒れたとき、

  その期待ごと皆さまを奈落に突き落とすことになるのではないか――

  そんな恐怖を、

  私もまた抱いております」


 顔を上げ、

 集会所の人々を見渡しました。


「だからこそ、学校を作りました」


「文字が読めて、

  計算ができれば、

  私がいなくても、契約書を前にして立ち尽くさずに済みます」


「畑の奇跡も、

  全部を私の力だけで賄うつもりはありません」


「土の修復は一部。

  種を撒き、水をやり、育てるのは、

  これまで通り、皆さまご自身です」


 年長の農民が、

 じっと私を見つめていました。


「私は、皆さまを“奇跡に頼らせたい”わけではありません」


 ゆっくりと、言葉を紡ぎます。


「変わらなければ守れないものが、

  この辺境には確かに存在します」


「税の仕組みも。

  戦の火の回り方も。

  隣国の思惑も。

  私が来る前よりもずっと、

  この土地は外から見える場所になってしまいました」


「その中で、

  皆さまが“自分の足で立つ”ための土台を作りたいのです」


「学校では、

  私がいなくなっても使える知恵を教えます」


「集いの家は、

  私の名前ではなく“ここにいていい”という感覚を育てる場所にしたい」


「奇跡は、

  出来る限り“最後の手段”としてしか使いません」


 沈黙が、

 ゆっくりと、集会所に降り積もります。


「それでも――」


 私は、拳を握りました。


「それでもなお、怖いと感じられるのなら、

  どうかその怖さを、

  私にぶつけ続けてください」


 驚いたように、

 何人かが顔を上げました。


「怖さを口にできる人は、

  きっと前にも進めますから」


「“何も言わずについてきてください”とは、

  私にはとても言えません」


「どうか、迷ってください。

  怒ってください。

  不安を抱えたまま、

  それでも一歩だけ、

  昨日より前に進むかどうかを、一緒に考えてくださいませ」


 年長の農民は、

 しばらく黙ったまま立ち尽くしていました。


 やがて、

 深く、深くため息を吐きます。


「……あんたは、本当に、面倒なお嬢様だな」


 ぼそりと漏れたその一言は、

 怒りと諦めと、

 ほんの少しの――

 笑いに似た響きを帯びていました。


「簡単に“分かりました”と言えねえところが、

  なおさらタチが悪い」


 そう言って、

 彼はゆっくりと席に戻りました。


 集会所には、拍手は起きませんでした。


 代わりに、

 重い沈黙と、

 ほんのわずかな「理解の芽」のようなものが、

 入り混じった空気が残ります。


 それは、

 決して気持ちの良い終わり方ではありません。


 けれど――

 私は、それでいいのだと思いました。


◆ ◆ ◆


 集会が終わり、

 人々が三々五々に散っていったあと。


 裏手の小さな通路で、

 私は壁にもたれかかりながら、

 ようやく深い息を吐き出しました。


「……やっぱり、怖いですわ」


 誰もいないつもりで口にした本音に、

 すぐそばから返事が返ってきました。


「それは、当然でしょう」


「レオン」


 いつの間にか、

 すぐ隣に立っていた彼が、

 わずかに口元を緩めています。


「初めて、あなたに真正面から反発した人たちですから」


「はい」


「けれど、彼らは“ここで”反発しました」


 レオンは、

 さきほど年長の農民が座っていた方向をちらりと見やりました。


「裏で不満を溜めるだけでなく、

  あなたの目の前で怒りと怖れを口にした」


「それはきっと、

  まだあなたに期待している証拠でもあります」


「……期待、ですか?」


「“言えば、何か変わるかもしれない”と、

  どこかで思っていなければ、

  人はああして声を上げたりはしません」


 彼の言葉に、

 肩の力が少しだけ抜けました。


「変わるのが怖いと、

  そう言ってくださることが、

  私には何よりありがたいのです」


 先ほど自分が口にした言葉を、

 もう一度、小さく繰り返してみます。


「怖さを口にできる人は、

  きっと前にも進める。

  ……そう信じて、よろしいでしょうか」


「ええ」


 レオンは、迷いなく頷きました。


「そして、

  怖いと口にしたあとも前に進もうとする人を、

  あなたは何度でも支えるのでしょう」


「……そう、ありたいと思いますわ」


 少しだけ、

 胸を張って言いました。


 壁に預けていた背中を離し、

 わずかに空を見上げます。


 ――変わるのが怖い人たちも。

 変わらないことが怖い人たちも。


 その両方を、

 同じ場所に立たせてしまったのは、

 きっと私のせいでもあるのでしょう。


 それでも。


(巻き込んでしまった以上、

  最後まで責任を取らなくてはなりませんわね)


 喉の奥に残る震えを、

 そっと飲み込みました。


「さあ、戻りましょうか」


「はい、リヴィア様」


 左右を間違えずにはめ直した手袋の中で、

 指先が、まだ少しだけ汗ばんでいました。


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