子どもたちの学校
村が焼かれるたび、奪われるのは家や畑だけではありません。
――一番簡単に折れてしまうのは、子どもたちの未来なのだと、
最近ようやく骨の髄まで思い知らされるようになりました。
◆ ◆ ◆
《灰牙》に襲われた村から戻ったあと、
数日は、目を閉じるたびにあの光景が蘇りました。
黒く焦げた井戸、崩れた窯。
煤けた壁に寄りかかって震えていた子どもたち。
家を失った大人たちの、途方に暮れた目。
――そして。
「……読めねえんだ」
救援物資の配分や、今後の支援について話し合っている最中、
ひとりの男が、手の中の紙を握りしめたまま、
小さくそう呟きました。
「これは、どなたから?」
「商会の者が置いていきました。
“当面の生活資金の貸付契約書”だそうで」
そばにいた家臣が答えます。
男のごつごつした指先には、
長年の農作業で出来た硬いタコがいくつもありました。
「ここに、名前を書けと言われたのですか?」
「……ああ。
“難しいことはいいから、ここに印を押せ”って。
よくしてくれてる商会だから、疑う気もなくてよ……」
男は情けなさそうに目を伏せました。
「けど、字が読めねえと、
何に印を押してるのかも分からねえんだなって……
リヴィア様の前に出てきてから、急に怖くなっちまって」
紙を受け取り、目を通します。
綺麗な文字で、整った文面。
一見すると、丁寧な貸付条件。
――ただし、細かい但し書きの中に、
「不履行の場合は土地の権利を差し出す」旨が、
巧妙に紛れ込まされていました。
私は静かに息を吐きました。
「これは、一度こちらで預かりましょう。
条件は、きちんとこちらからも交渉させていただきます」
「えっ、そんな……!
でも、文句を言ったら、金を借りられなくなるんじゃ……」
不安そうな男に、出来るだけ柔らかい笑みを向けます。
「大丈夫ですわ。
“文字の読めない相手に、不利な条件を隠して契約させる”――
そういうやり方を、私は見過ごすつもりはありませんもの」
少し離れたところで、そのやりとりを眺めていたマルコが、
肩を竦めました。
「ま、嬢ちゃんのいる前でやるには、
あまりにも芸がねえ手口だな」
「マルコ」
「事実だろ?
字が読めねえってのは、それだけで“食われる側”になるってこった」
彼は、焦げた畑の向こうを眺めながら言いました。
「紙に書かれたことが理解できなきゃ、
税でも借金でも、言われるがままにサインするしかない。
戦場で刃を向けられるより、よっぽど静かに、確実に削られていくんだぜ」
静かに、確実に。
刃物の代わりに、文字と印章で――。
(……戦ったり、守ったりするだけでは、
この悪循環は終わらないのですね)
炎に焼かれた家々。
震える子どもたち。
読めない契約書を前に立ち尽くす人々。
目の前の火を消すことも必要です。
けれど、それだけではまた別の火種が生まれる。
(知ること。学ぶこと。
その“土台”がなければ――
どれだけ奇跡で救っても、
また同じ場所に戻ってきてしまうのかもしれませんわ)
胸の中に、
まだ形になりきらない考えが、
ゆっくりと輪郭を持ち始めていました。
◆ ◆ ◆
「――子どもたちのための“学校”を作りたいのです」
数日後。
邸の執務室で、私はレオンとルークに向かってそう告げました。
書類の束から顔を上げたルークが、
ぱちりと瞬きをします。
「……学校、でございますか?」
「はい。
読み書きと、簡単な計算を教える場所です。
出来れば、子どもたちを中心に」
レオンは腕を組み、少し考えるように目を細めました。
「突然の提案のようでいて……
今までの流れを考えれば、当然とも言えますね」
「この前の村で、契約書が読めず困っていた方がいましたでしょう?
ああいったことが、あそこだけで起きているとは思えませんの」
私は机の上に広げた地図を指でなぞりました。
「《赤い風》は、貴族や徴税の在り方に怒りを抱いています。
《灰牙》のような盗賊は、
飢えや戦の残り火の中から生まれているのでしょう」
「けれど、この辺境で育つ子どもたちが、
文字を読めて、数を数えられて、
“何が自分にとって得で、何が損なのか”を自分の頭で考えられるようになれば――」
言葉を探しながら、ゆっくり続けます。
「少しずつでも、“食われる側だけで終わる人”を減らせるかもしれませんわ」
ルークが、静かに眼鏡を押し上げました。
「……たしかに、書類仕事をお任せするたび、
読み書きができる人材の少なさは痛感しておりました」
「ご協力いただけます?」
「もちろんでございます」
即答でした。
「ただし、場所や人員、費用の手当てなど、
検討すべき点は山ほどございますが……」
「それなら、順に片付けていきましょう」
私は微笑みました。
「レオン、騎士団のほうにも、字の読み書きに堪能な方が何人かいらっしゃいましたわよね?」
「ええ。
元々地方の役人見習いだった者や、
貴族の次男坊だった者もいます」
レオンは頷きました。
「彼らを“教師役”として、交代で派遣しましょう。
訓練だけでは持て余している時間もありますし」
「騎士が先生、ですの……?」
思わず、少しだけ楽しそうな想像が浮かびました。
大柄な騎士が小さなチョーク(に相当するもの)を握りしめ、
板の前で「あ」「い」「う」と書いている姿。
(……ふふ。
失礼ですわね、わたくし)
肩を揺らしかけたところで、ノックの音がしました。
「失礼いたします」
慎ましやかな声。
教会の神父様です。
「お呼びと伺いましたが……」
「ちょうど、神父様にもご相談したいことがありましたの」
私は椅子から立ち上がり、向き直りました。
「子どもたちに、読み書きと計算を教える場所を作ろうと思っています。
その一角を、教会の施設の隣か、
空いている部屋にお借りできないかと」
神父様は、少し戸惑ったような顔をなさいました。
「教会は、本来、祈りと礼拝の場でして……」
「承知しておりますわ。
ですから、礼拝堂そのものを“学校”にするつもりはありません」
私は、言葉を選びながら続けます。
「ただ、
“学ぶこと”も、神の望まれることの一部なのではないかと、
わたくしは思うのです」
「文字を読めるようになれば、
聖典も、説教で語られる言葉も、
自分の目で確かめられるようになります」
「噂や曲解に振り回されることも、少しは減るでしょう。
それはきっと、教会にとっても悪い話ではないはずですわ」
神父様は、しばし沈黙されました。
祈りと学び。
教会の役割と、現実の必要。
いくつかの思考を行ったり来たりした末に、
やがて、静かに頷かれます。
「……たしかに。
“文字を知らぬ信徒”に、
ただ一方的に言葉を与えるだけという在り方は、
いつか限界を迎えるでしょう」
「教会の隣室であれば、
礼拝と学びが、互いに支え合う形になるかもしれません」
柔らかな笑みが浮かびました。
「わたしも、可能な範囲で手伝わせていただきます。
字の書き方くらいなら、まだ教えられるつもりですので」
「ありがとうございます、神父様」
心からの礼を述べました。
◆ ◆ ◆
場所は、教会隣の空き部屋に決まりました。
もともとは古い倉庫として使われていた部屋ですが、
窓を磨き、床を掃き、
古い机と椅子を集めて並べると――
不思議と「教室」の顔つきになっていきます。
「ここに黒板を」
ルークが手際よく板を運び込み、壁に固定していきます。
侍女たちは、窓辺に簡単なカーテンをかけ、
子どもたちが座る椅子に布を敷きました。
「リヴィア様、チョークはこちらでよろしいでしょうか」
「ええ、とても書きやすそうですわ」
試しに、板へと手を伸ばしました。
――きゅっ、と軽い音を立てて、白い線が走ります。
少し考えてから、そこに自分の名前を一文字、書いてみました。
(……あら)
思ったよりも、わたくしの字は丸く、柔らかい印象になりました。
「かわいい字ですね、リヴィア様」
すぐ横から、侍女がくすっと笑います。
「かわ……っ。
いえ、その、
もう少し凛々しく書きたかったのですけれど」
子どもに笑われる前に、
自分で苦笑しておきました。
◆ ◆ ◆
そして迎えた、初授業の日。
小さな足音が、教会の前にぱたぱたと集まってきます。
「ほんとに、ここで字を教えてくれるの?」
「タダでいいって……嘘じゃないよね?」
「リヴィア様も来るのかな」
期待と不安が入り混じった、
子どもたちのささやき声。
教室の扉を開けると、
ぎこちなく立っている若い騎士の姿が目に飛び込んできました。
整えられた髪、きちんと磨かれた鎧。
その上から、教会が貸してくれた簡素な上衣を羽織り、
手には教鞭代わりの棒。
どう見ても「先生」というより「迷い込んだ真面目な騎士」ですが、
彼の横に立つ神父様が、
穏やかな眼差しで場を支えてくれています。
「みなさん、よく来てくれました」
私は教室の後方から一歩前に出て、声をかけました。
「今日からここは、“字を覚える場所”です。
上手く書けなくても構いません。
分からなくても構いません」
「分からないことを“分からない”と言える場所を、
わたくしは作りたいと思いました」
子どもたちの目が、順々にこちらを向きます。
「ここで覚えた字は、
あなたが大人になったとき、
紙に書かれた約束や、お金の数え方や、
遠くの国から届いた知らせを、自分の目で確かめるための力になります」
少し間を置いて、微笑みました。
「だから、どうか――
今日だけで終わりにせず、
何度でも通ってきてくださいね」
ざわ……と小さなざわめきが起きましたが、
やがて、誰かが小さく「はい」と答えました。
それを皮切りに、いくつもの「はい」が続きます。
「では、第一回の授業を始めましょう」
神父様の声と共に、
騎士先生が、板の前に立ちました。
ごくり、と喉を鳴らす音が、こちらまで聞こえてきそうです。
「え、えっと……きょ、今日の担当を命じられました、
ティオと申します」
その硬さに、
子どもたちからくすっと笑いが漏れました。
けれど、それは嘲りではなく、
少し空気がほぐれた証のように見えます。
「まずは、“あ”という字から始めましょう」
ぎこちない手つきで、板に一画一画を書いていくティオ。
その様子を、
子どもたちは目を丸くして見つめていました。
「これが、“あ”です」
板の上に並んだ、少し不格好で大きな「あ」。
教室に置かれた紙と炭筆を手に、
子どもたちが一斉に書き始めます。
「……むずかしい」
「ここ、こう?」
「丸が大きすぎちゃった」
私は後ろから、
一人ひとりの紙を覗き込みました。
丸が歪んでいる子。
線が短すぎる子。
なぜか鏡文字になってしまっている子。
「とても上手ですわ」
そう声をかけると、
子どもの頬がぱあっと明るくなります。
「ここを、もう少しだけ伸ばしてみましょうか。
ほら、“あ”の顔が、少し凛々しくなりましたわ」
「ほんとだ!」
隣の席の子が覗き込んで感嘆の声をあげます。
「ねえ、リヴィア様」
一人の少女が、紙を持ち上げました。
そこには拙いながらも、はっきりとした文字で、
自分の名前が書かれています。
「わたしの名前、ちゃんと書けてますか?」
「ええ。
とても、誇らしげに見えますわ」
少女は照れくさそうに笑い、
紙を胸に抱きしめました。
教室の隅では、
別の子どもが神父様に尋ねています。
「字が読めたら、遠くの国のことも分かるの?」
「そうですね。
遠くの国で書かれた物語や、
そこから届く手紙も、読めるようになるでしょう」
「へえ……」
小さな溜め息と共に、
目がきらりと光りました。
「大人になっても、ここに来ていい?」
「もちろんです。
学ぶのに、遅すぎるということはありませんから」
神父様の答えに、
一瞬、教室の空気が少しだけ温度を上げた気がしました。
板には、少しずつ文字が増えていきます。
あ、い、う。
1、2、3。
そこに書かれた線は、
巨大な魔法陣のように世界を変える力も、
精霊王を呼び出す効力も持っていません。
けれど、
この子たちが十年後、二十年後に、
誰かから差し出された紙を前にして立ち尽くさずに済むなら。
噂ではなく、自分の目で確かめ、考え、選べるようになるのなら。
(――これは、
わたくしの奇跡の“使い道”の一つなのかもしれませんわね)
戦場で光を降らせることだけが、
奇跡ではない。
荒れた畑を癒やすことだけが、
救いではない。
ここで今、生まれたばかりの拙い「あ」の一文字が、
いつか誰かの人生を守る盾になるのなら――
それは、きっと奇跡と呼んでもいいはずです。
「リヴィア様」
そっと袖が引かれました。
先ほど名前を書いていた少女が、
今度は別の紙を差し出しています。
そこには、不揃いの線で、
ゆっくりと時間をかけたことが分かる文字が並んでいました。
『りゔぃあさま』
少し間違えた音も混ざっているその文字列は、
どうしようもなく愛おしく見えました。
「……素敵な贈り物ですわね」
思わず、胸のあたりがじんと熱くなります。
「これ、取っておいても?」
「うん!」
少女は、満足そうに笑いました。
◆ ◆ ◆
授業が終わる頃には、
子どもたちの指先は真っ黒になっていました。
それでも、
小さな手の中には、それぞれの紙がしっかり握られています。
自分の名前。
今日初めて書けた文字。
ぎこちない数字の1から3。
「奇跡は、一瞬で世界を変えられるかもしれません」
教室から出ていく子どもたちの背を見送りながら、
私は心の中で言葉を紡ぎました。
「でも、学ぶことは――
その“変わった世界”で、生き続ける力をくれるのだと思いますわ」
《赤い風》も、《灰牙》も、
おそらく明日から突然姿を消してはくれないでしょう。
それでも。
ここで、
拙い文字をなぞる子どもたちが一人、また一人と増えていくなら――
いつかこの辺境のどこかで、
誰かが搾取されそうになったとき、
その紙をじっと見つめて「おかしい」と気づく人が、
必ず現れる。
そう信じたくなるのです。
「……さて」
板の隅に残された自分の丸い字を見上げ、
思わず小さく苦笑しました。
「教師役の方々に負けないよう、
わたくしも字を練習しておかなくてはなりませんわね」
今度、こっそりと、
もう少し凛々しい“リヴィア”の書き方を試してみましょう。
そんなささやかな目標を胸の片隅に抱きながら、
私は新しく生まれた「子どもたちの学校」の扉を、
そっと閉めました。




