教会からの文
雪解けの畑に若芽が顔を出してから、まだ数日しか経っていませんでした。
窓の外には、溶けきらなかった雪がところどころ白い島のように残り、
その間をぬうようにして、黒い土と、春を待ちきれない草の緑が覗いています。
執務室の炉には火が入り、
けれど膝掛けはまだ手放せない――そんな半端な季節。
「……寒さの帳簿は、誰に回せばよろしいのかしら」
書類の山とにらめっこしていた私は、思わずそんなことを呟きました。
そのとき、扉が控えめに叩かれます。
「リヴィア様。教会より、急ぎの書簡が届きました」
低く落ち着いた声は、執事のルークです。
私は顔を上げました。
「どうぞ、お入りになって」
扉が開く音と共に、冷たい外気が一筋、室内に入り込んできました。
ルークの後ろには、見慣れない若い修道士が一人、緊張した面持ちで立っています。
その手に抱えられているのは――
ずいぶんと立派な封筒でした。
厚みのある羊皮紙。
表には長々とした敬称つきの宛名。
そして封を閉じているのは、重たげな赤い封蝋。
その表面には、中央教会本部の紋章が、これみよがしに刻まれていました。
「……嫌な予感、というものは、どうしてこうも外れないのでしょうね」
思わず小さくこぼした私の言葉に、ルークが目だけで苦笑します。
「使者の方は、応接室にお通ししてあります。
お返事は、後日で構わないとのことでした」
「そう……。ありがとうございますわ。
中身を確認してから、改めてご挨拶に伺いますと、お伝えください」
「かしこまりました」
修道士は、ぎこちない礼をして退室していきました。
扉が閉まると同時に、室内の空気が、ほんの少しだけ重くなった気がします。
中央教会本部――。
この国における、信仰と権威の中心。
私の指先は、ほんの少しだけ冷たくなりました。
「さて」
机の上を片付けるふりをしながら、私は封筒を真正面に置きました。
封蝋に刻まれた紋章を、じっと見つめます。
そこには、神を象徴する紋章と、その下に、
幾つもの枝葉――各地の教会を表す印が絡み合っていました。
そのどこにも、「辺境」という文字はありませんけれど。
「開けないわけには、まいりませんわね」
小さく息を吐き、レターオープナーを手に取りました。
◆ ◆ ◆
羊皮紙は、思っていた以上に重たく、
そして――過剰なほどに丁寧な言葉で埋め尽くされていました。
「ええと……」
冒頭だけで、すでに数行。
「敬虔なる信徒にして辺境の守護者たる公爵令嬢リヴィア・フォン・***殿へ」
「かねてより噂に聞き及ぶご活躍と、病村救済等の尊きお働きに、衷心よりの敬意を」
「全地に満ちる神の祝福が、あなたとあなたの領民の上に――」
「……前置きが、長いですわね」
誰もいない執務室で、思わず小声でぼやいてしまいました。
立派な敬称と修辞を抜き取ると、
要約はきっと、三行もあれば足りるのでしょうけれど。
それでも、一語一句を読み飛ばすわけにもいきません。
ゆっくりと視線を滑らせていくうちに、
本題らしき文言がようやく姿を現しました。
『つきましては、これまで辺境領において行われた一連の奇跡――
特に病村救済、井戸浄化、防衛戦における防御障壁等につきまして、
詳細なる記録と報告を、教会本部宛にお寄せいただきたく存じます』
『また今後、奇跡の行使は、
信仰の統一と秩序維持の観点から、
教会の指導と管理の下に行われることが望ましいと考えます』
『神と精霊への正しい敬意を保つためにも、
何卒、我らが庇護の傘の下にその尊きお力をお置きくださいますよう』
――ああ。
文面自体は、柔らかく、丁寧でした。
「求む」ではなく「お寄せいただきたく存じます」。
「管理」ではなく「指導と管理」。
「従え」ではなく「庇護の傘の下にお置きくださいますよう」。
一つ一つの言葉は角を丸められていて、
読みようによってはただの「協力のお願い」にも見えます。
けれど、その行間は、あまりに分かりやすくて。
「奇跡は、本来“誰のものでもないはずの出来事”ですのに」
私は羊皮紙を伏せ、額に指先を当てました。
「それすら帳簿に綴じ込めようとするのが、
組織というものなのでしょうか」
ノックの音がして、今度はレオンが姿を見せました。
「ルークから聞きました。教会本部からの文だとか」
「ええ。ちょうど、読み終えたところですわ」
私は封書を示し、向かいの椅子を顎で示しました。
レオンは近づいてきて、静かに腰を下ろします。
「内容を、かいつまんで教えていただけますか」
「かいつまむのが、なかなか難しいのですけれど……」
とはいえ、彼に一字一句を読ませるのも酷です。
私は問題の箇所を指でなぞりながら、読み上げていきました。
「これまでの奇跡――病村や井戸、防衛戦などについて、
“詳細な記録と報告を提出せよ”とのことですわ」
「ふむ」
「そして、“今後の奇跡の行使”については、
教会の“指導と管理”の下に行うことが望ましい、と。
つまり、“あなたの奇跡を、教会の庇護のもとに置きなさい”ということですわね」
読み終えると、レオンは短く息を吐きました。
それは驚きというより、
「やはり」という諦めに近い響きでした。
「予想より、少し早かったですね」
「やはり、そう思われます?」
「はい。いずれこういう文が来るだろうとは思っていましたが、
まだ雪が残っているうちに届くとは」
レオンは封書を手に取り、
封蝋の紋章と文面をざっと目で追ってから、言いました。
「これは、“あなたの奇跡を教会の資産にしたい”という文です」
「資産、ですか」
「奇跡の記録を集めるのは、“監査”の一歩手前。
行使を教会の管理下に置きたいというのは、
“いつ、どこで、誰をどれだけ助けるか”という判断を、
教会の帳簿に紐づけようとしている」
淡々とした口調でしたが、そこには薄い警戒が滲んでいました。
「拒めば敵対。受ければ自由を失う。
……いつもの二択ですね」
「いまさらっと、物騒なことを“いつもの”とおっしゃいましたわね」
思わず苦笑が漏れます。
「ですが、実際そうなのですものね」
私の力は、
兵や税のように数字で数えられるものではありません。
命令書一枚で動かせる兵でもなく、
増減をグラフにできる収入でもない。
けれど、教会にとっても、王家にとっても、
「把握しておきたいもの」であることは間違いないのでしょう。
「全面的に従えば、領地の安全は、とりあえず確保されますわね」
私は椅子にもたれ、天井を見上げました。
「教会の庇護のもと、という大義名分があれば、
強硬派の方々も、安易にはこちらに手を出せなくなるでしょう」
「ただし」
レオンが静かに続けます。
「あなたの自由な判断で人を救うことは、難しくなります」
「……そうですわね」
病村で倒れて、井戸の底で凍えた夜。
防衛戦で、自動で展開された防御障壁。
あの時もし、教会の許可を待っていたのだとしたら――
どれだけの人が、救われずに終わっていたか。
考えるまでもありません。
「完全な敵にはしたくないのです」
私は天井から視線を戻し、封書を見つめました。
「ですが、完全な従属も、したくありませんわ」
教会がこの国で果たしてきた役割を、
私は否定するつもりはありません。
祈りが、人の心を支えてきた場面も、
数えきれないほど見てきました。
けれど――
「見て見ぬふり」を正当化するために神の名が使われるなら。
祈りだけを理由に、手を伸ばすことを止められるのだとしたら。
「私の力は、帳簿に記入できる数字や、
命令書で動かせる兵ではありませんわ」
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと口に出しました。
「奇跡は、“誰のものでもないはずの出来事”。
それを完全に、どこか一つの組織の所有物にしてしまうのは――
どうにも、性に合いませんの」
レオンは少しだけ目を細め、私を見ました。
「では、どう返答なさいますか」
「過去の事実を、隠すつもりはありません」
私はペン立てから羽ペンを取り出し、
まだ何も書かれていない羊皮紙を机の中央に置きました。
「病村で何があったのか。
井戸ではどのように浄化を行ったのか。
防衛戦で、どんな防御障壁が展開されたのか」
それらを記録すること自体は、悪いことではないはずです。
むしろ、いつか私がいなくなった後、
誰かが同じ過ちを繰り返さないための資料になるのなら――
残しておく価値はある。
「けれど、“助けるべきときに助ける権利”まで、
差し出す気はありませんわ」
ペン先を紙に軽く当てます。
「過去の奇跡については、できる範囲で報告いたします。
ですが、今後の行使を、一切教会の許可制にする、という条件は――
受け入れられない、と」
レオンはしばらく黙って私を見つめていましたが、
やがて、少しだけ肩の力を抜きました。
「その返答は、教会の一部にとっては、
“生意気な公爵令嬢”と映るでしょう」
「でしょうね」
私も肩をすくめます。
「でしたらせめて、“生意気で役立つ公爵令嬢”だと思っていただきたいところですわね」
レオンの口元が、わずかに緩みました。
「役に立つかどうかは、もう十分に示しておられます」
「でしたら、あとは“生意気さ”のほうを、
どこまで許していただけるか、という問題ですわ」
私は、まだ何も書かれていない羊皮紙を見下ろしました。
“従います”でもなく。
“従いません”でもなく。
その中間に、細い綱を渡すような返答。
どちらの側からも「物足りない」と言われるかもしれない。
それでも――
この領地で、今まで通りに手を伸ばすためには、
今はそれしか選びようがないのです。
「ルークに、教会宛の書簡の準備を頼んでくださる?」
「承知しました」
レオンが立ち上がり、扉のほうへ向かいます。
ふと、そこで振り返りました。
「リヴィア様」
「はい?」
「……あまり、ひとりで板挟みを抱え込まないでください」
真面目な声に、私は一瞬きょとんとしてしまいました。
「板挟みを、ですか?」
「王家と教会、領民と精霊。
どの板も厚くて、どの釘も鋭い。
あなたが全部を受け止めようとすれば、
いつか板ごと潰れてしまう」
「それは……少し、物騒なたとえですわね」
苦笑しながらも、胸の奥が、わずかに温かくなりました。
「大丈夫ですわ。
全部を受け止めるつもりはありませんもの」
私は、自分の胸元へそっと手を当てました。
「ただ――どうしても譲れないものだけは、
指を離さないようにしておきたいだけです」
レオンは何も言わず、短く頭を下げて部屋を出ていきました。
残された静かな執務室に、
ペン先が紙を擦る微かな音だけが響き始めます。
『敬愛すべき中央教会本部 ***枢機卿閣下へ』
私は丁寧な書き出しを綴りながら、
窓の外に目をやりました。
雪解けの畑。
若芽。
集いの家で笑う人々。
城下の子どもたち。
――あの人たちの明日を守るためなら。
たとえ「生意気」と評されようとも、
譲れない一文くらい、そこに忍び込ませてみせますわ。
静かにそう決めながら、
私は教会への返答文の草稿に、最初の一行をしたためました。




