雪解けの畑
冬が名残惜しそうに、辺境の端を掴んで離そうとしない朝でした。
空は薄い灰色で、けれど雪雲ほど重くはなくて。
吐いた息が白くほどけるたびに、ああ、まだ冬なのだと身体が思い出します。
「本当に、行かれますか? まだ足場も悪い場所ですし」
馬車の扉を開けながら、レオンが少しだけ眉をひそめました。
「ええ。むしろ、今のうちに見ておきたいのですわ。
雪が完全に溶けてしまう前に」
私はマントの前をしっかりと合わせて、外へ降りました。
城下から少し離れた、小高い丘の斜面。
そこに広がっているのが、今日の目的地――“荒れた畑”と呼ばれている一角です。
踏みしめた地面は、じわりと冷たく湿っていて、
片隅にはまだ、踏み固められた雪のかたまりが頑なに残っていました。
畑と言っても、今はただ、ひび割れた土と、
折れた茎と、風に擦られて色を失った支柱がいくつか立っているだけ。
以前はここにも、背丈ほどに育った麦や、
葉を茂らせた野菜が並んでいたのだと聞きました。
けれど、凶作が続き、病も出て、
いつしか人はここを「呪われた畑」と呼ぶようになった。
「リヴィア様」
待っていた農民たちの代表が、帽子を握りしめて近づいてきました。
手の甲はひび割れて赤く、爪の隙間には土が入り込んでいます。
「わざわざお出ましいただいて……。
ですが、ここは……本当に、もう駄目だと、皆」
「“駄目”かどうかは、土に聞いてみませんと分かりませんわ」
私は微笑んで、足元の土を見下ろしました。
霜で固く締まってしまった表面には、細かいひびが走り、
ところどころ、枯れた根が顔を覗かせています。
「何度、種をまいても、芽が出てはしおれてしまいましてな」
別の年配の農民が、肩を落として言いました。
「雨の当たりが悪いのか、虫が悪いのか、
最初は色々と試したんですが……。
もう今年は、ここは休ませて、他所で働きに出るしかないかと」
「他所で?」
「はい。王都のほうで、臨時の工事があるとかで。
冬の間だけでも、と声をかけられてる者もおりまして……」
言葉が尻すぼみに消えていきます。
――土地が諦められていくと、人の心も一緒に痩せていくのですね。
いくら「呪い」だの「不吉な土地」だのという噂で装っても、
本当はただ、ここで何度も何度も失敗を重ねて、
もうこれ以上、期待して傷つきたくないだけなのだと、
その肩の落とし方が、静かに教えてくれます。
「今年、ここを完全に休ませてしまう前に」
私は一歩、土の上に進み出ました。
「少しだけ、試してみてもよろしいかしら」
「試す……?」
「ええ。大きな森を一晩で生やすような無茶はいたしません。
ただ、“今年を乗り切るための一歩”のつもりで」
農民たちは顔を見合わせました。
期待と不安とが混ざり合った沈黙。
やがて、年配の農民が小さく息を吐きました。
「……もし、また駄目でも、誰もリヴィア様を責めやしません。
責める資格なんぞ、とうに失くしてます」
「それでも、成功したら?」
私が問うと、彼は目を丸くしました。
「そんときゃあ……」
ぽりぽりと頭を掻きながら、少し笑います。
「そんときゃあ、“呪われた畑”じゃなくて、
“公爵令嬢様の畑”って呼び名に変えさせてもらいますわ」
「それは、少し責任が重そうですわね」
冗談めかして返しつつ、胸の奥でそっと息を整えました。
◆ ◆ ◆
マントを脱ぎ、手袋も外します。
「リヴィア様、冷えます」
そばにいたレオンが、眉を寄せました。
「大丈夫ですわ。すぐに終わらせますから」
そう言って、私は膝をつき、直接土に手を触れました。
冷たい。
けれど、触れた端から「ただの冷たさ」ではないことが分かります。
雪解け水が、上から少しずつ染み込み、
下からはまだ凍った層が押し返してくる――
そんな、内側から軋むような感触。
「……少しだけ、お邪魔いたしますわね」
誰にともなくそう呟き、私は目を閉じました。
古い言葉が、自然と舌の上に乗ってきます。
「《ナハル=エイレン、ルート=ガルナ。
フロース・エン、タラ・マーハ。
眠れる根々よ、深き水脈よ。
凍てつく鎖を、いま少しだけ、解きほぐし給え》」
地の底に潜むものたちへ。
土の中をゆっくり流れる水の筋へ。
その眠りを無理やり破るのではなく、
春が来るより、ほんの少しだけ早く、
肩を叩いて起こすようなイメージで。
私の掌の下で、土がわずかに震えました。
霜の層が、きしりと音を立ててひび割れ、
凍った水が、ゆっくりとほどけていく感覚。
表面にはまだ、何も変化は見えません。
けれど、土の中の硬さが、少しずつほぐれていく。
石が押し上げられるように持ち上がり、
その隙間から、柔らかな黒い土が顔を覗かせました。
周囲で見ていた農民たちが、息を呑む気配が伝わってきます。
「おお……」
「土が、動いて……」
誰かが、思わず手を合わせる音がしました。
別の誰かは、帽子を胸の前に抱きしめています。
私はもう一度、古言を紡ぎました。
「《アース・リラ、ソルナ・フィール。
ここに生きる者の明日のため、
ただ一歩ぶんの、目覚めを》」
願うのは、「今年ぶんの一歩だけ」。
この土地のすべてを作り変えたいわけではなくて。
ただ、諦めていた人たちが、
もう一度だけ種をまいてみようかと思える程度の――
そんな、ささやかな変化。
やがて、掌の下の震えが収まりました。
私はゆっくりと目を開け、手を土から離しました。
土の表面は、さっきよりも、少しだけ柔らかく見えます。
ひび割れは浅くなり、霜は影のように薄れていました。
「……ここまで、でしょうか」
誰かが、恐る恐るつぶやきました。
「今すぐ、緑が一面に広がるわけではありませんわ」
私は立ち上がり、土を払います。
「これは、“土の治療”の最初の一手です。
あとは、あなた方の手と時間が、続きの仕事をしてくださいます」
「でも、これなら……今年も種が、まけるかもしれねえ」
若い農民が、嬉しそうに土を指でつまみました。
「ほら、柔らかくなってる!」
「本当だ……」
ざわめきが少しずつ広がっていきます。
そのとき――。
「……リヴィア様」
小さな声が、私の裾のあたりからしました。
見ると、城下から付いてきていた子どもが一人、
畑の端でしゃがみ込んでいます。
「どうしました?」
「これ、見て」
子どもが指差した先を覗き込んで、私は息を呑みました。
それは、本当に、小さな、小さな点でした。
黒い土を押し上げて顔を出した、淡い緑色の先端。
まだ、爪の先ほどの大きさもありません。
けれど、それは紛れもなく――若芽でした。
「……まだ、季節には早すぎますのに」
思わず、しゃがみ込んで目線を合わせます。
土の冷たさをものともせず、
その小さな芽は、震えながらも、確かに上へ伸びようとしていました。
「すごい! 本当に芽が出た!」
子どもが弾む声を上げ、周りの大人たちも一斉に集まってきます。
「本当に……」
「今年はまだ、種なんてまいてねえぞ」
「去年の残りか? それとも……」
歓声と驚きとが入り交じる中で、
一人の年配の農民が、じっとその若芽を見つめていました。
その目には、喜びもあります。
けれど同時に、それとは別の色も、確かに宿っていました。
――畏れ。
やがてその人は、ためらうように口を開きました。
「……これは、本当に、
“大丈夫な”ものなんでしょうか」
静かな問いでした。
誰も責めていない。
ただ、本気で、怖いのです。
こんなことができる存在が、本当にこの辺境にいていいのか。
国のどこかではなく、王都でもなく、
自分たちの暮らすこの土地に。
その問いは、きっとこの場にいる多くの人の胸にも、
形を変えて渦巻いているのでしょう。
私は、少しだけ息を吸ってから、笑みを浮かべました。
「土に、無理をさせたわけではありませんわ」
若芽のすぐそばの土を、指先でそっと撫でます。
「凍えたまま春を待っていたものに、
ほんの少しだけ、“もう起きてもいいのですよ”と声をかけた程度です。
背中を押した、と言いましょうか」
「背中を……」
「ええ。
本当は春になれば自分で立ち上がるはずだったものを、
少しだけ早めただけですわ」
私の言葉に、農民たちはそれぞれ、複雑な表情を浮かべました。
信じたい。
けれど、信じきるのが怖い。
喜びたい。
けれど、その喜びがいつか代償を伴うのではないかと怯えてしまう。
そうやって揺れている心が、
視線となって私の上に降り注いできます。
「怖く感じてしまうのは、当然のことですわ」
私は、その視線から目を逸らしませんでした。
「私ができることは、“普通”の範囲から、少し外れていますもの。
嬉しくて、同時に怖くて――
その両方を感じてくださるのは、とても真面目な反応です」
年配の農民が、戸惑いながら私を見ました。
「真面目、ですか」
「ええ。
何も考えずにすがるのではなく、
考えたうえで、それでも手を伸ばそうとしているのですから」
私は若芽を指さしました。
「お願いが一つだけありますの」
「お願い……?」
「この子がどこまで育つか、
どうか、あなた方の手で見届けてあげてください」
芽を「この子」と呼んでしまった自分に、
少しだけくすぐったさを覚えながら続けます。
「もし途中で枯れてしまっても、
“やっぱり駄目だった”と諦める前に、
土や雨や風のことを、一度思い出していただければ」
「……はい」
年配の農民は、少しの間沈黙したあと、
ゆっくりと頷きました。
「今年も、もう一度だけ、ここに種をまいてみます。
それで、どうなるかは……俺たちの手と、この土地に任せてみやす」
「それがよろしいですわ」
私は立ち上がり、まだ冷たい風を胸いっぱいに吸い込みました。
指先を見下ろすと、爪の間と掌には、土が入り込んでいます。
「……リヴィア様、そのお手」
後ろから侍女が近づき、目を丸くしました。
「今だけは、見なかったことにしてくださる?」
思わず笑ってしまうと、侍女もふっと表情を緩めました。
「あとで、お湯を用意いたしますね」
「ええ。若芽も、冷えすぎないとよろしいのですけれど」
隣でしゃがみ込んでいる子どもが、芽の上に息をふう、と吹きかけました。
「この子、ちゃんと大きくなるかな」
「きっと。
あなたが時々見に来て、話しかけてあげれば、
なおのこと頑張ってくれますわ」
「じゃあ、また来る!」
子どもは立ち上がり、駆け出していきます。
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐きました。
◆ ◆ ◆
邸に戻る馬車の中で、指先を膝の上に組み合わせながら、
私は先ほどの視線を思い返していました。
土に手を当てていたとき。
詠唱を続けていたとき。
芽が顔を出したとき。
人々の目は、「希望」で光っていました。
同時に、その奥に、薄い膜のような「畏怖」が確かに揺れていた。
嬉しい。
助かった。
これで今年も畑を続けられるかもしれない。
――それでも。
こんなことができる存在が、
自分たちと同じ“人間”としてここにいるのだと、
心から信じ切るのは難しい。
その気持ちも、分かるのです。
「……優しさが、“普通”の範囲を超えてしまったとき」
窓の外、まだ雪の残る野原を眺めながら、
私はそっと言葉をこぼしました。
「それはきっと、時に“異常”として映ってしまうのでしょうね」
レオンが隣で、静かにこちらを見ました。
「あなたのなさったことは、
この土地にとって間違いなく善いことです」
「結果だけを見れば、そうですわね。
でも、“結果だけ”を見て判断できるほど、人の心は単純ではありませんもの」
どれだけ誰かの明日を良くしたいと願っても。
そのために、自然の摂理をほんの少しずらしてしまえば、
私はこの世界から、ほんの少しずつ浮き上がっていく。
「誰かの明日を良くしたいと願うほど、
私は、この世界から少しずつ浮き上がっていくのかもしれませんわね」
それが、嫌だと言い切れるわけではありません。
もし本当に、浮き上がりきってしまう日が来るのだとしても――
そのとき、私の手が掴んでいるのが、
今日の若芽や、あの子どもたちの笑顔であるなら。
きっと私は、その浮力を、
完全に手放すことはできないのでしょう。
「奇跡なんて大げさなものではありませんの」
自分に言い聞かせるように、私は続けました。
「ただ――あなた方の明日が、
ほんの少し楽になればと願っただけですわ」
そう呟いた声は、
馬車の中で、冬の名残を抱えた空気に静かに溶けていきました。




