南方からの視線
セラフィア王国からの使節団が正式に到着するのは、まだ少し先――のはずでした。
けれど、その前触れのようにやってきた「一人の客人」は、予想していたよりもずっと早く、そして静かに、邸の門をくぐったのです。
◆ ◆ ◆
「セラフィア王国宮廷魔導師、リュシアン・フォルティエ殿がお見えです」
玄関ホールで待っていた私の前に、執事のルークが恭しく告げました。
その名を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに強く打ちます。
――宮廷魔導師。
それも、「王に近い立場」と王都からの追加の報せには書かれていました。
つまり、正式な使節団よりも先に、
“魔導の専門家”を偵察として送り込んできた、ということなのでしょう。
「お通しして」
穏やかに頷いて返し、私は視線を玄関扉へ向けました。
ほどなく扉が開き、外の光の中から、一人の人物が姿を現します。
淡い灰色のローブが、さらりと石の床を撫でました。
装飾は控えめで、金糸の刺繍が裾と袖に細く走っているだけ。
けれど、布の質と織りの細かさが、ささやくように「一流」であることを伝えてきます。
顔を上げたその人は――少し、私の想像と違っていました。
年の頃は、私より少し上でしょうか。
目元や頬の線はどこか中性的で、柔らかな印象さえあるのに、
淡い青灰の瞳だけが、やけに静かに、こちらを測るように光っています。
涼しげな顔立ち。
けれど、その目だけは、炎ではなく氷の温度で物事を見ているタイプ。
(……ああ、なるほど。研究者の目ですわね、これは)
内心でため息をつきつつも、私は笑みを浮かべました。
「ようこそおいでくださいました。
グラウベルク公爵家のリヴィア・フォン・グラウベルクと申します」
私が名乗ると、彼は一瞬だけ目を細め、その口元に控えめな笑みを浮かべました。
「お噂は、南方まで届いております。
セラフィア王国宮廷魔導師、リュシアン・フォルティエと申します、公爵令嬢殿」
声は低すぎず、高すぎず。
落ち着いた響きの中に、僅かな揶揄と好奇心が混ざっているように感じられます。
彼は胸に抱えていた包みを、私のほうへと差し出しました。
「ささやかながら、我が国からの友好の証を。
長旅で埃をかぶってしまいましたが……中身は、そこそこ価値のあるものです」
控えめに笑いながら言うその仕草は、どこか飄々としていて、
「魔導大国の宮廷魔導師」という堅苦しい肩書きから受ける印象とは少し違っていました。
ルークが受け取って包みを開くと、中から現れたのは――。
「……魔導書、ですわね」
分厚い革表紙の本が二冊。
それから、細長い箱に入った香。
そして掌に乗るほどの、小さな透明な球状の魔道具。
「セラフィア式基礎魔術理論の入門書と、
いくつかの応用事例をまとめた論考です。
それから、南方でよく使われる鎮静の香り。
……お目汚しでなければ」
リュシアンはさらりと言いながら、私の表情を観察しているようでした。
――正直に申し上げますと。
(……単純に、少しワクワクしますわね)
古い本の匂い。
革表紙の手触り。
未知の理論が詰まっているであろうページの重み。
魔導書というものは、危険な誘惑の塊のようなものです。
私がほんの少しだけ目を輝かせてしまったのを、我ながら自覚しました。
慌てて表情を引き締めます。
「貴重なものをありがとうございます。
辺境の書庫ではなかなか触れられない類の書物ですわ」
「それは光栄です。
“奇跡の公爵令嬢”殿に、少しでも楽しんでいただけるなら」
その呼び名に、喉の奥がぴくりと引きつりました。
けれど、顔には出しません。
「……できましたら、その呼び名は、あまり大きな声ではお使いにならないでいただけると助かります」
「それは失礼」
リュシアンは片手を胸に当て、軽く頭を下げました。
謝罪の仕草もまた、妙に様になっています。
(慣れているのですね、人の懐に半歩だけ踏み込むやり方に)
そう思いながら、私は彼を邸の応接室へと案内しました。
◆ ◆ ◆
応接室には、既にお茶の用意が整えられていました。
香りの良い紅茶と、焼き菓子。
南方から贈られた香を焚くのは、さすがに「まだ早い」気がして、今日は控えました。
「長旅でお疲れでしょう。
まずはおくつろぎくださいませ」
「お気遣い痛み入ります」
リュシアンは椅子に腰を下ろし、カップを手に取ると、
一口だけ味わってから、ゆるやかに息を吐きました。
「……良いお茶ですね。
南方のものとは違う香りですが、これはこれで落ち着きます」
「こちらの茶葉は、北方との交易品ですの。
セラフィアのものほど香りは強くありませんけれど、
馴染むと、ほっといたしますわ」
「なるほど」
彼はそんなやりとりを楽しむように微笑みながら、
しかし視線だけは、カップの縁越しに私の方を見ていました。
「さて、公爵令嬢殿」
「リヴィアで構いませんわ。
そうでなければ、こちらも“リュシアン殿”と呼び続けなければなりません」
「それはそれで嫌いではありませんが……では、遠慮なく。リヴィア様」
呼び方を一つ変えるだけで、距離感が半歩だけ近づいた気がします。
彼はそれを計算してやっているのでしょうか。それとも、自然とそうなってしまう人なのか。
どちらにせよ、油断してよい相手ではないことだけは、はっきりしていました。
「先ほどは、書簡という固い形でのご挨拶でしたので」
リュシアンはカップを置き、指先を組みます。
「こうして直接お目にかかれたついでに、
少しだけ――魔導について、言葉を交わさせていただければと思いまして」
「“ついで”というには、主題の匂いがいたしますけれど」
「お気づきでしたか」
悪びれもせずに笑うその顔は、
正直に言えば、少しだけ楽しそうでした。
「セラフィアと貴国とでは、魔術体系がだいぶ異なります。
特に、“精霊”という存在との関わり方が」
「そちらでは、精霊とはどのように扱われているのかしら」
「基本的には、“力の源としての自然法則”に近いですね。
契約というよりは、法則の一部を切り取って利用する感覚です」
「では、人格を持つ存在としては扱っておられない?」
「伝承上は色々と語られていますが、
実務としては、“人格の有無を議論している暇があれば、
成功率の高い術式を組んだほうが早い”という立場が主流です」
彼は肩をすくめて言いました。
「その点、貴国の“精霊魔法”は興味深い。
力の源が“意志を持つ存在”であると前提して構築されている。
しかも――」
「“精霊王”という、非常に機嫌と気まぐれに左右される存在に、
あちこちの安全が揺さぶられる仕組みですわね」
思わず口を挟むと、リュシアンの唇がわずかに吊り上がりました。
「やはり、実感されているご様子だ」
「ええ。身をもって」
病村で。王都で。辺境で。
私の祈りに応じたものも、応じなかったものも。
目の前で救えた命も、届かなかった命も。
「セラフィアでは、“奇跡”という言葉はどのように使われますの?」
「そうですね……」
リュシアンは少しだけ考える素振りを見せました。
「我が国の場合、“再現性の低い成功例”に対して使うことが多いでしょうか。
理論上はあり得るが、条件が厳しすぎてほとんど起きない――
そういう事象を、皮肉半分、敬意半分で“奇跡”と呼ぶことがあります」
「皮肉半分、というところが、いかにもですわね」
「魔導師は、あまり素直に何かを信じ込む職ではありませんから」
それには同意せざるを得ません。
「ですから、あなたが貴国で行われた一連の“奇跡”についても、
私はただ“神秘的な出来事”として見るつもりはありません」
青灰の瞳が、少しだけ細められます。
「どのような条件で、
どのような代償を払い、
どのような安全装置のもとで行われているのか」
「まるで実験計画書ですわね」
「ええ。研究者としましては」
彼はそこで言葉を切り、ふと微笑みました。
「とはいえ、いきなり“病村規模の再現”をお願いするつもりはありません。
私の命がいくつあっても足りませんからね」
「それはお互いのためにもご遠慮いただきたいところですわ」
「そこで、一つ。
非常にささやかな、実験と言うのも憚られる程度の――“遊び”はいかがでしょう」
そう言って、彼は懐から小さなガラス細工のような魔道具を取り出しました。
透明な球の中央には、淡い水色の輝きが揺れています。
「セラフィアで使われている、ごく一般的な“水の核”です。
水属性の術者なら誰でも扱える程度のもの」
彼は、核を指先で軽く弾きました。
次の瞬間、私たちの間の空間に、手のひら大の水球がふわりと浮かびます。
部屋の灯りを受けて、球の内側で光が揺れた。
それは確かに、派手ではありません。
けれど、魔力の質と制御の滑らかさが一目で分かる程度には、完成度の高い術でした。
「よろしければ、これを――“こちらのやり方”で制御してみていただけませんか」
リュシアンは、水球から手を離し、私の方へと視線を向けます。
「もちろん、この場を水浸しにする意図はありませんので、
過度な出力はご遠慮いただければ」
「水浸しになさりたいのなら、先に警告をお願いしますわ。
書類が台無しになりますもの」
軽く返しながらも、私は心の中で息を整えました。
――さて。
ここで大げさな力を見せるべきではありません。
かといって、あまりに稚拙な制御をして、「実は大したことはない」と誤解されるのも面倒です。
“辺境の公爵令嬢”として、
“精霊王の寵愛を受けた危険物”としてではなく。
そのあたりの、ぎりぎりの線を歩く必要があります。
私は指先を軽く上げ、浮かんでいる水球のほうへと意識を向けました。
――水の精霊たち。
これは私のものではなく、彼らの領分。
けれど、少しだけ、その表面を撫でさせてもらう。
詠唱は要りません。
この程度なら、意識を触れさせるだけで十分です。
水球の表面が、ぴん、と張った気配がしました。
揺れていた光が静まり、球の形がくっきりと整います。
私は、そっと手のひらを返しました。
水球がそれに合わせて、私の指先の上までふわりと降りてきます。
応接室の中の空気が、少しだけ冷たくなりました。
水球の表面に、うっすらと霜のような薄膜が走り、すぐに消えます。
「……温度、圧力、形状。
すべて、一瞬だけ変化させて、すぐ元に戻した。
消費魔力は……ほとんど感じられませんね」
リュシアンの声が、どこか興奮を含んで低くなりました。
「こちらの水の精霊は、お行儀がよろしいのです。
あまり騒がなければ、必要以上に暴れたりはいたしませんわ」
私は微笑みながら、水球をそっと消しました。
水滴ひとつ残らず、空気の中に溶けていきます。
「……ありがとうございます。
なるほど、“こちらのやり方”が、少しだけ見えました」
リュシアンは素直にそう言いましたが、
その目は「見えた部分」に満足しているというより、
「見せられていない部分」の存在を確信した者の目でした。
(ええ、そのとおりですわ。
ここで全部お見せするほど、私はお人好しではありませんもの)
心の中でだけ毒づきながら、私はお茶に口をつけました。
「ひとつ、お伺いしてもよろしいですか、リヴィア様」
「どうぞ」
「あなたは、“精霊王”とどのような契約を結んでおられるのです?」
やはり、そこに来ますか。
「契約、というほど立派なものではありませんわ」
私はカップを置き、指先を組みました。
「ただ、私が“こうしたい”と願ったときに、
あちらが“面白い”と思えば応じてくださって、
“退屈だ”と思えば黙って見ている――
その程度の関係です」
「それは……」
リュシアンは少しだけ、言葉を探すように視線をさまよわせました。
「かなり危うい関係に聞こえますね」
「ええ。私もそう思っております」
そこは否定しません。
「だからこそ、あまり頼りすぎないように気をつけているつもりです。
祈り続ければ何でもしてもらえる、と勘違いしてしまえば、
きっとどこかで手痛いしっぺ返しをいただきますから」
「――奇跡に対して、ずいぶん冷静なご理解だ」
リュシアンは、興味深そうに私を見ました。
「我が国の教会関係者に聞かせて差し上げたいくらいですね。
“奇跡には代償がある”と分かっていながら、
それでも求めずにいられない人たちも多いので」
「こちらにも、そういう方々はいらっしゃいますわ」
私は少しだけ視線を落としました。
「奇跡を信じて、すがって、それでも届かなかった人たち。
“見放された”と感じてしまった人たちも」
「……“見放された者”」
リュシアンの目が、わずかに細くなります。
「噂で聞きました。
あなたの領地には、そう呼ばれる人たちがいる、と」
「噂好きな風は、南方までよく吹きますのね」
「風が運ぶのは噂だけではありません。
時に、火種も運びます」
彼の言葉は、どこか警告めいていました。
「あなたは、そうした人たちのために“居場所”を作っておられるとか」
「神に見放されたと感じる人も、
精霊に嫌われたと怯える人も、
どちらでもない人も」
私は静かに答えます。
「どちらにせよ、“今日生きる場所”が必要ですから。
奇跡があってもなくても、お腹は空きますもの」
しばしの沈黙。
やがてリュシアンは、ふっと口元を緩めました。
「……あなたは、魔導師ではありませんね」
「ええ。私は辺境の公爵令嬢ですわ」
「だからこそ、かもしれません」
彼は椅子の背にもたれ、天井を仰ぐように視線を逸らしました。
「あなたのような人が、魔導の中心に座っていないことが、
世界の運の良さか悪さかは、まだ判断しかねますが」
「褒め言葉として受け取るべきか迷うところですわね」
「褒めているつもりですよ。少なくとも、私個人としては」
そう言って戻ってきた視線には、先ほどまでよりも、
ほんの少しだけ柔らかさが宿っていました。
◆ ◆ ◆
会談が終わり、私は玄関までリュシアンを見送りに出ました。
外の空気は、朝よりも少しだけ暖かくなっています。
城下では、昼のざわめきが本格的になりつつありました。
「本日は長々とお引き留めしてしまいましたわね」
「いえ、こちらこそ。
貴重なお時間と、お茶と、そして興味深いお話をありがとうございました」
リュシアンは一礼し、馬車の前で足を止めました。
「ひとつだけ、個人的な感想を述べてもよろしいですか」
「個人的なものなら、歓迎いたしますわ」
彼は、少しだけ言葉を選ぶように視線をさまよわせ、それから私をまっすぐ見ました。
「あなたは……“まだ”この国にいてくださるのですね」
「“まだ”、とは?」
「いえ」
リュシアンは小さく首を振りました。
「あなたほどの存在であれば、
どこかの国が“所有物”にしたがるのは、
さほど遠くない未来かもしれません」
その言葉は、冗談半分にも聞こえました。
けれど、その目だけは笑っていません。
「その時、あなたがどこに立っておられるのか。
“この国”の枠の中に収まっていてくださるのか。
それとも――」
「それとも?」
「それとも、世界のどこかで、
誰の枠にも収まらない“例外”として歩いておられるのか」
彼はそこで言葉を切り、わずかに肩をすくめました。
「研究者としては、後者のほうが興味深い。
ですが、一人の人間としては、前者のほうが世界は平和だろうと思います」
「ずいぶん勝手なご意見ですわね」
「魔導師とは、得てしてそういう生き物です」
彼は最後に、少しだけ真剣な表情を浮かべました。
「どうか――あまり、嫌われすぎないように」
「……それは、誰に対しての忠告かしら」
「世界の側に、ですよ」
予想外の答えに、私は瞬きをしました。
「世界の側が、あなたを“枠の外へ追い出そうとする”前に。
うまく折り合いがつくことを、個人的に願っています」
それは、魔導師というより、
一人の人間としての言葉に聞こえました。
私は、少しだけ肩の力を抜きます。
「努力はしてみますわ。
私も、できれば静かに暮らしたいですもの」
「それは良かった」
リュシアンは、ようやく心底から楽しそうに笑いました。
「また正式な使節団としてお伺いすることになるでしょう。
そのときは、今日いただいたお茶に合う南方の菓子でも、お持ちします」
「楽しみにしておりますわ」
馬車が動き出し、石畳の上を車輪が転がる音が遠ざかっていきます。
私はしばらくのあいだ、その背中を見送っていました。
背後から、そっと気配が近づきます。
「ずいぶんと、変わった魔導師でしたね」
レオンの声に、私は小さく笑いました。
「ええ。敵か味方かで言えば、どちらとも言い切り難いですわね」
「どちらかと言えば、“研究者”でしょうか」
「そうですわね。
危険さを理解しながらも、好奇心を捨てられない人。
それはそれで、扱いにくい種類の相手ですわ」
視線を空へ向けると、薄い雲の向こうに、淡い青が覗いていました。
(褒められるのは、嫌いではありません)
魔導書に目を輝かせたこと。
術式の理解を「感服します」と言われて、少しだけ頬が熱くなったこと。
思い返して、私は小さくため息をつきます。
(けれど、“評価される”のは、どうにも落ち着きませんわね)
数値や実験結果として測られること。
抑止力として、戦力として、“いくらで買えるのか”と値踏みされること。
そうやって世界のどこかで、
私という存在の「値段」をつけようとしている人たちがいる――
その事実そのものが、胸の奥を冷たく撫でていきます。
それでも、窓の外から聞こえてくるのは、
相変わらずパン屋の炉の音と、井戸の水音と、子どもたちの声でした。
「……見られる側でいるのは、少し疲れますわね」
思わず口にすると、レオンが静かに応じます。
「ええ。ですが、あなたが疲れを覚えるうちは、大丈夫です」
「どういう意味かしら」
「疲れるということは、まだ“人間として”受け止めているということですから」
その言い方に、私は思わず笑ってしまいました。
「それはまた、妙な励ましですこと」
「私なりの精一杯です」
「ふふ……ありがとうございます」
去っていく南方からの視線と、
ここに在り続ける日常と。
その両方に挟まれながら、私は改めて思います。
――私は、魔導の実験材料として解剖されるために、
この力を持ったわけではありません。
兵器として値踏みされるためでも、
偶像として祭り上げられるためでもない。
私が守りたいのは、
窓の外で今日もパンを焼いている人たちと、
水を汲み、笑い、時々泣く、名もなき人たち。
そのことを忘れない限り――
たとえ世界からどんな目で見られようとも、
私の足は、ここに立ち続けられるはずだと。
そう、胸の奥で静かに言い聞かせながら、
私は再び執務室へと歩き出しました。




