静かな朝とざわめく噂
その朝、目を覚ましたとき、最初に感じたのは、いつもより少しだけ冷たい空気でした。
カーテンの隙間から差し込む光はやわらかく、胸の上にかかった布団の重みもいつもどおり。
けれど、頬をかすめる空気の温度がわずかに低くて、思わず肩をすくめます。
「……少し、秋が近づいてきましたわね」
自分にそう言い聞かせるように呟いてから、私はゆっくりと上体を起こしました。
長く息を吐いて、背中を伸ばします。背骨がこきりと鳴って、ようやく身体が「起きる」ことを思い出したようでした。
寝台から降り、足を床に下ろすと、石の冷たさが足裏を刺します。
その感覚すら、ここで迎える朝の一部なのだと、私はもう知っていました。
ノックとともに扉が開き、いつもの侍女が顔を覗かせます。
「おはようございます、リヴィア様」
「おはようございます、マリア。……あら」
鏡の前に立った瞬間、私は固まりました。
「……ずいぶん、元気な寝癖ですこと」
銀の髪が片側だけ、ふわりと跳ね上がっていました。
昨日の夜、髪をしっかり乾かさずに寝てしまった報いでしょう。
マリアが堪えきれずに口元を押さえます。
「ふふ……失礼いたします。ですが、とても可愛らしいですよ?」
「こんな姿で他国の使者を迎えるわけにはまいりませんわ」
「まあ、今日はお会いになりませんけれども」
「“今日”で済めばよろしいのですけれどね」
軽口を交わしながら、マリアは手際よく私の髪を梳き、撫でつけていきます。
木の櫛の歯が頭皮をなぞるたびに、ぼんやりしていた意識がゆっくりと澄んでいく。
窓辺の小さなテーブルには、湯気を立てるカップが置かれていました。
今朝のハーブティーは、レモンバームとカモミール。ほんのりと甘い香りが、寝起きの喉を優しく撫でてくれます。
一口含み、息を細く吐きながら、私は窓辺へ歩み寄りました。
窓を開けると、ひやりとした朝の空気と一緒に、城下の気配が流れ込んできます。
パンを焼く香ばしい匂い。
パン職人が天板を炉から引き出す、金属のこすれる音。
井戸端で水桶を引き上げる滑車の軋みと、跳ねる水の音。
家畜たちの短い鳴き声に、子どもたちの笑い声が混ざり、遠くから荷馬車の車輪が石畳を転がる音が続きます。
鼻先をくすぐるのは、小麦と土と、少しだけ煙の匂い。
この辺境で迎える、いつもどおりの朝の匂いでした。
(……こういう音と匂いを、守りたいのですよね)
ひとつひとつを確かめるように耳を澄ませながら、私は胸の奥でそっと言葉を繰り返します。
誰かが奇跡だと騒ぐよりも前から、ここにあったもの。
病村が救われる前から、ずっと続いてきた営み。
私が「守る」と決めたのは、結局のところ、このごく当たり前の朝なのだと思います。
「リヴィア様、今日は午前に執務室でのお仕事が多めですので……」
背後からマリアの声がします。
「朝食は軽めにしておきました。パンと温かいスープ、それと果物を少し」
「ありがとうございます。……では、ゆっくり味わっている時間はあまりなさそうですわね」
「はい、ルーク様が“急ぎの書類がございます”と、少し怖い顔をなさっていました」
「あら。パンを飲み込む速度くらいは、少し早めてもよろしいかもしれませんわ」
そう冗談を返しながらも、胸のどこかで小さく引っかかるものがありました。
――急ぎの書類。
ここ最近、その言葉が示すものは、あまり「楽しいお知らせ」でないことが多いのです。
◆ ◆ ◆
朝食を終え、着替えを済ませて執務室に向かうと、
扉の前にはすでにルークとレオンが待っていました。
「おはようございます、公爵令嬢様」
「おはようございます。そんなに揃って出迎えられると、少しだけ不安になりますわね」
冗談めかして言うと、ルークは眼鏡の奥で苦笑し、レオンはわずかに目を伏せました。
「……あながち間違いとも言えませんので、否定しづらいところではございます」
「朝一番から“急ぎの書類”と伺いましたけれど?」
「はい。王都経由で届いた文書が一通。
封蝋は南方セラフィア王国のものです」
セラフィア王国――その名を聞くだけで、部屋の空気がほんの少し緊張を帯びました。
南方に広がる魔導大国。
古くから魔法研究と魔道具の技術で知られ、
この王国とも交易と、時に微妙な牽制を続けてきた相手。
ルークが慎重に封を切り、文書を机の上に広げます。
「王都の外務局を経由して、こちらに回されてきたものです。
名目としては“交易および友好のための使節団派遣”」
「名目としては、ですわね」
私は椅子に腰を下ろし、文面に目を通しました。
細かい文字が、行儀よく並んでいます。
『南方セラフィア王国は、貴国ならびにグラウベルク辺境領の近年の復興とご尽力に、心より敬意を表します』
『両国の友好と交易のさらなる発展を願い、
このたび我が国より、ささやかながら親善の使節を派遣いたしたく存じます』
『特に、貴領において報告されている“病村救済および福祉施策”については、
様々な噂が南方にも届いており、
これをもって現地の状況を学ばせていただく機会となれば幸いです』
……とても丁寧で、礼儀正しい文面です。
ただ、最後の一文で、私の指先がぴたりと止まりました。
『また、貴領において“精霊王の寵愛を受けた公爵令嬢”が活躍されているとの噂も、
我が国において大いに話題となっております』
『このたびの訪問にあたり、
もしご都合が許すのであれば、
そのお方とも短く言葉を交わせる栄誉にあずかれればと存じます』
要するに――。
(“あなたを見に行きます”、ということでしてよね)
心の中で、思い切り簡略化した要約をしてしまいます。
外交文書に対して、あまり褒められた態度ではありませんけれど。
「文面上は、交易と友好の確認……ですわね」
私は視線を紙から離し、ルークとレオンを見ました。
「ええ、“文面上は”」
ルークが静かに頷きます。
「王都からの添え書きによれば、
セラフィア王国は以前から、“精霊王”という存在に強い関心を示していたようです」
「魔導大国ですからね」
レオンが低い声で続けます。
「大規模な魔法や、精霊との契約は、
戦力にも、抑止力にもなり得る。
……そう見ている者たちがいても、おかしくはありません」
「つまりこの使節団は、“交易品”だけでなく、
“こちら側の切り札がどの程度のものか”を見に来る、と」
「おそらく」
ルークの眼鏡の奥が、わずかに光りました。
「“奇跡の公爵令嬢”という噂が、
南方の暖かい風に乗って、余計なところまで届いてしまったのでしょう」
1巻で起こした数々の出来事――。
病村での、精霊王との詠唱。
王都の大聖堂での公開討議。
辺境での集いの家。
見放された者たち。
それらがひとつひとつ積み上がって、
私の知らない場所で、私の形をした「噂」を大きくしていったのだと実感します。
窓の外から、遠くの井戸端で子どもが笑う声がしました。
ついさっきまで、あんなに穏やかに響いていた音が、今はどこか遠い。
(静かな朝ほど、遠くのざわめきがよく聞こえるものなのですね)
ふと、そんな言葉が頭に浮かびました。
今日の朝は、いつもと同じ音で始まったはずなのに。
紙一枚の上に並んだ文字が、それにひびを入れていきます。
「リヴィア様」
レオンの声で、考えから引き戻されました。
「この件、どうなさいますか」
「どう、と申しますと?」
「表向きとはいえ、他国の公式使節。
受け入れを拒むことも不可能ではありませんが――」
「拒めば、こちらが何か“見られたくないもの”を隠していると思われるでしょうね」
私は、目の前の文書からそっと手を離しました。
「せっかく、遠いところからいらしてくださるのですもの」
できる限り穏やかな声で言葉を紡ぎます。
「歓迎の準備を整えましょう。
辺境の現状も、集いの家も、
“ここまでなら見せてもよい”範囲で、きちんとお見せいたします」
ルークが、わずかに目を見開きました。
「“ここまでなら”、ですか」
「はい。全部を晒す必要はありませんもの」
微笑んでみせながら、自分自身の胸の内を探ります。
怖くないと言えば嘘になります。
セラフィア王国がどの程度の“興味”でここを訪ねてくるのか。
その興味が、いつ“欲”や“敵意”に変わるのか。
その見極めを誤れば、
この辺境ごと、誰かの盤上に並べられてしまうかもしれません。
「準備の段取りは、ルークに任せてもよろしいかしら」
「もちろんでございます」
「レオンは、使節団が到着するまでの警備計画を。
表向きは歓迎、内側では警戒――いつもの二重のやり方で」
「承知しました」
二人の返答を聞いて、私は小さく息を吐きました。
――それでも。
表向きにどれだけ笑みを浮かべ、丁寧な言葉で応じていても。
心の奥では、静かな不安が、じわじわと輪を広げていきます。
(私がこの一年で起こしてきたことが、
外の世界にとって“呼び水”になってしまったのですね)
奇跡を起こすたび、救われる人たちがいて。
同時に、その噂がどこか遠くで、別の誰かをざわつかせる。
そんな当たり前のことを、ようやく、はっきりと実感しました。
◆ ◆ ◆
ルークとレオンが出て行き、執務室に一人残されたとき。
私は椅子の背にもたれ、天井を仰ぎました。
外から聞こえてくる城下の音は、相変わらずです。
パン屋の炉の音。
水を汲む音。
荷馬車の車輪の音。
笑い声と呼び声と、遠くの犬の吠え声。
さっきまで「守りたい音」として胸に刻んだそれらが、
今はどこか頼りなく揺れているように聞こえました。
ノックもなく、扉がわずかに軋んで開きます。
「リヴィア様。よろしいですか」
声の主を確かめるまでもありません。
「どうぞ、レオン」
彼はすでに地図を抱えていました。
使節団の通るであろう道、宿泊可能な村、
警備を増やすべき橋の位置――
頭の中で整理している最中なのでしょう。
「先ほどは、少し急がせてしまいましたね」
「いいえ。いずれ来る話でした」
レオンはすんなりとそう言いました。
「王都での公開討議のことも、辺境での動きも、
隣国に伝わらないはずがない。
南方から目が向けられるのは、時間の問題でした」
「分かっては……分かってはおりましたのよ」
私は苦笑します。
「それでも、こうして実際に“来ます”と書かれてしまうと。
やはり、少しだけ怖いですわ」
見えない敵や噂だけなら、まだ想像の中で距離を取れます。
けれど、実際に馬車がこちらへ向かっていると知ってしまえば――
その車輪の音が聞こえないうちから、心のどこかがざわついてしまうのです。
レオンはしばらく黙っていましたが、やがて静かに言いました。
「怖がることは、間違いではありません」
「そうでしょうか」
「恐れを知らない者ほど、無謀な選択をするものです。
リヴィア様が“怖い”と感じておられるなら、
それは危険をきちんと見ているということ」
「では、もう少し堂々と怖がってもよろしいかしら」
わざと少し冗談めかして言うと、レオンは珍しく口元を緩めました。
「堂々と怖がり、静かに備える。
それが、リヴィア様のやり方でしょう」
「……そうかもしれませんわね」
窓の外に視線を向けます。
城下を歩く人々の背中が見えました。
荷物を担ぐ肩。
子どもの手を引く腕。
市場へ向かう足取り。
その一人一人の上に、どんな視線が降り注ぐのか。
セラフィア王国からの視線。
教会からの視線。
王都からの視線。
そして――精霊たちの、気まぐれで、時に残酷な視線。
「どんな目で見られようとも」
思わず、言葉が口から零れました。
「まずは、この人たちを見ていたいですわね」
レオンが、静かに目を細めます。
「ええ。そのために、私も剣を持っております」
「頼もしい限りです」
ほんの少しだけ胸の奥のざわめきが落ち着いた気がして、
私は再び執務机の上の文書へと向き直りました。
静かな朝は、もう終わったのかもしれません。
けれど――この窓の外に広がる日常の音が止まらない限り。
たとえ南方からどれほど熱心な視線が注がれようとも、
まずはこの音と匂いのする場所を、見失わないでいたい。
そう静かに決めながら、私はペンを取りました。
セラフィア王国宛ての返書――
“歓迎の準備を整えましょう”という、
いつものように丁寧で、そして少しだけ固い言葉を綴るために。




