晩餐と、試される忠誠
晩餐の夜は、思っていたよりもあっさりとやって来ました。
「リヴィア様、本日は“公爵令嬢らしく”していてくださいね」
鏡の前で、侍女が最後のリボンを結びながら、妙に意味深な笑みを浮かべます。
「……あの、いつもは何だと思われているのでしょう」
「え? いえ、その……“頼れるおかみさん”というか……」
「それはそれで、少々複雑ですわね」
思わず苦笑すると、鏡の中の自分もつられて笑いました。
いつもの動きやすいドレスではなく、今日は深い藍色の、いかにも「貴族の娘」といった仕立て。胸元の刺繍も、裾の広がりも、久しぶりに「堅苦しい」と感じる装いです。
「襟元、苦しくありませんか?」
「ええ、大丈夫ですわ。
……息さえ浅くしていれば」
「浅くしないでください」
侍女の真顔のツッコミに、小さく肩を揺らしました。
支度を終え、用意された水のグラスを手に取ります。
喉の奥が、わずかに乾いているのを自覚していました。
(一口だけ、落ち着くために……)
そう思って口をつけたはずが、気づけばグラスはほとんど空。
底に残ったわずかな雫を見て、内心で頭を抱えました。
(……緊張している自覚はありましたけれど、ここまでとは)
深呼吸をひとつ。
大広間へと続く扉の前で足を止め、私は背筋を伸ばしました。
◆ ◆ ◆
邸の大広間は、普段より少しだけ華やかに飾られていました。
長いテーブルの上には、温かなスープと肉料理、野菜のグリル。
豪奢とは言い難いけれど、辺境で手に入る中では最も誠実な料理人たちの仕事です。
地元の葡萄酒と果実酒が、琥珀や紅に光っていました。
席順は、何度も頭の中で並べ替えを繰り返した末の、ぎりぎりの妥協案です。
テーブルの中央寄りに、私。
その左右に、隣国使節団の代表であるエトルフ卿と、教会監査団の代表神父。
少し離れた位置に、辺境教会の神父と、有力商人たち。
隅のほう、壁際には、レオンが護衛として控えていました。
招待客たちのざわめきが、燭台の炎とともに揺れています。
「本日はお忙しい中、集まってくださりありがとうございます」
立ち上がり、私は一礼しました。
「隣国よりお越しのエトルフ卿と皆さま。
王都から監査の労をとってくださっている神父様方。
そして、この辺境で日々支えてくださっている商人の皆さま。
ささやかな席ではございますが、どうか今夜ばかりは、
少しだけお腹と心を満たすお手伝いができれば幸いですわ」
形式的な挨拶を終えると、食事と会話の時間が始まりました。
◆ ◆ ◆
「この肉、実に香りが良いですな。
ここいらの特産で?」
エトルフ卿がナイフを動かしながら尋ねてきます。
「はい。川沿いで育てた家畜です。
草の具合が合うのか、王都で育つものとは少し味が違うと評判でして」
「辺境というのは、何もかも“劣る”場所だと思っていましたが……
どうやら、思い込みが過ぎたようだ」
「辺境は、王都の物差しでは測りづらいところですから」
私は微笑を返しました。
「不便なところも、数えきれないほどございますけれど。
その分、『ここにしかないもの』も多いのです」
「“ここにしかないもの”……」
エトルフ卿の視線が、ちらりと私を、そしてテーブルの端に座る商人たちへと流れます。
「例えば、その一つが“集いの家”でしょうな」
話に割り込むように、教会監査団の代表神父が口を開きました。
整えられた白髭に、穏やかな笑み。
けれど、その瞳の底は、未だに私を値踏みしている気配を隠そうともしません。
「教会でも領主邸でもない、第三の場。
さきほど拝見しましたが、実に人が集まっておりました」
「ありがたいことに、そうなっておりますわ」
「信仰に迷う者、“見放された”と感じる者……
そういった人々が集う場所が生まれることは、
教会としては手放しで喜べるものではありません」
代表神父は、ワインを口に運びながら続けます。
「ですが、辺境という特殊な状況を鑑みれば、
一概に否定すべきとも言い切れない。
難しいところですな、公爵令嬢殿」
「ええ。
私も難しいと思っておりますわ」
正直にそう答えると、周囲の視線が一斉にこちらへ向きました。
「信仰と現実の間で迷う人を、
“どちらにも座ってはいけない”と突き放してしまえば、
その人はきっと、どこにも居場所がなくなってしまいます」
「だからこそ、あのような場を?」
「はい。
教会の椅子にも、精霊の祭壇にも座りづらい方が、
それでも誰かと一緒にご飯を食べて、
今日一日をやり過ごせる椅子が、一つくらいあってもいいと思ったのです」
エトルフ卿が、興味深そうに頷きました。
「“信仰の外側ではなく、信仰と現実の隙間”ですかな」
「大きなことをするつもりはありませんわ。
ただ、そこに“座っても叱られない席”があると知るだけで、
救われる心もあるのではないかと」
「しかし、そのような場が“教会離れ”を招く可能性は?」
代表神父が、穏やかな笑みを崩さぬまま問いただしてきます。
「人は楽なほうへ流れがちです。
祈る責任から逃れられる場所だと受け取られれば、
それは信仰の希薄化に繋がるでしょう」
「……それは、否定できませんわ」
私はナイフとフォークを一旦置きました。
「楽なほうに流れてしまう心は、私自身も持っています。
今日も、晩餐の前に緊張して水を飲みすぎてしまいましたし」
テーブルの何人かが小さく笑いました。
神父の表情も、ほんのり和らぎます。
「ですが、“楽だからそこに行く”だけの場所にはしたくありません。
楽なだけの場所なら、きっとすぐに壊れてしまうでしょうから」
「では、あの集いの家は、何のために?」
「誰かが、“ここにいていいのだろうか”と迷ったときに、
とりあえず腰を下ろして考えられるために、でしょうか」
自分で言ってみて、少し照れくさくなりました。
「……大仰な言葉を並べるつもりはありません。
ただ、椅子と食事と、人の手で作った場所です。
それでも、誰かの“今日を生きる理由”には、なれるかもしれませんわ」
「“今日を生きる理由”か」
末席に座っていた商人の一人が、ぽつりと呟きました。
皺だらけの手でグラスを包み込むように握りながら、深く息をつきます。
「……私どもにとっては、その“今日”を守ることが何より大事でしてな」
顔なじみの、穀物商人です。
「正直に申せば、戦だけは勘弁願いたい。
王都と隣国がどう牽制しあおうと構いませんが、
麦畑と店先にまで火の粉が飛んできてはたまりません」
「それは、私も同じ気持ちですわ」
私は静かに頷きました。
「どれほど立派な大義名分が掲げられても、
明日のパンが焼けなくなるような戦は、望みません」
「では、いざという時、あなたは“国の決定”に従える方ですかな」
唐突に、エトルフ卿が問いを投げてきました。
テーブルの空気が、すっと張り詰めます。
「例えば、王家が教会と対立し、戦を選ぼうとした時。
あるいは、隣国に対して剣を抜くと決めた時。
あなたは、どちらの側に立たれる?」
ほぼ同時に、代表神父も言葉を重ねました。
「教義と民意が分かれたとき、
あなたはどちらに肩入れされますか。
神の御心か、民の声か」
商人たちも、固唾をのんでこちらを見つめています。
誰もがそれぞれの立場から、「リヴィア・グラウベルクがどこを向いて立つのか」を知りたがっていました。
私は一度、テーブルの上の灯りを見つめ、それからゆっくりと顔を上げました。
「……私がどこに忠誠を誓うのか、とお尋ねになるのなら」
自分の声が、思ったよりも落ち着いているのを確かめます。
「この領地に生きて、明日のパンを心配している人たちに、ですわ」
誰かが、小さく息を呑む音がしました。
「王家にも教会にも、必要な敬意は払います。
隣国の方々に対しても、礼を欠くつもりはありません」
エトルフ卿と代表神父、二人の顔を順に見つめます。
「ですが、“誰の命令か”よりも先に、
“誰が傷つくか”を考えたいのです」
沈黙が、テーブルを包みました。
「王家の決定が、その人々の生活を守るものなら、
私は喜んで協力いたします。
教会の教えが、その人々の心を支えるものなら、
その価値を否定するつもりはありません」
「しかし、もし――」
代表神父が静かに口を開きます。
「もし、民衆に愛される者が、
神の御心から離れてしまったとしたら。
それは、何より恐ろしいことです」
穏やかな笑みはそのままに、声だけがほんの少し低くなりました。
「民衆に愛される者ほど、
神の御心から離れた時、恐ろしい存在になる。
我々は歴史の中で、それを幾度となく目にしてきました」
その言葉に、エトルフ卿が意味ありげに頷きます。
「民衆に愛される“奇跡”は、
ときに王よりも、教会よりも強い力を持ってしまう。
それは、確かに厄介な存在ですな」
「……その懸念は、理解できますわ」
私は素直に認めました。
「私もまた、自分の力や立場が、
人々を間違った方向へ導いてしまうことを恐れています。
だからこそ、私は“聖女”にも、“神の代わり”にもなりたくないのです」
「では、ご自身を何と?」
「辺境に生きる、一人の人間、でしょうか」
少しだけ、肩から力を抜きました。
「精霊王に好かれている、少し偏った人間ではありますけれど。
それでも、地図に線を引く人間ではなく、
線の内側で暮らしている人たちの側にいたいのです」
商人の一人が、ゆっくりと頷きました。
「……危うい考え方でもありますな」
代表神父が呟きます。
「ですが同時に、
“信仰を盾に民を切り捨てる者”よりは、
よほど神に近いと感じる者もいるでしょう」
「それは光栄でもあり、責任でもありますわね」
冗談めかして返すと、場の空気がわずかに緩みました。
笑う者、眉をひそめたままの者、それぞれです。
◆ ◆ ◆
晩餐も終盤に差し掛かった頃。
各々が食後の飲み物に口をつけ、会話もやや散漫になり始めたときでした。
「少々、お時間をよろしいでしょうか、公爵令嬢殿」
リュカと名乗った文官が、グラスを片手に私へと歩み寄ってきました。
周囲の話し声に紛れるように、控えめな声で続けます。
「先ほどのお話、実に興味深く拝聴しました。
“地図より先に人を見る”という発想は、
我が国でも一部の者しか口にしません」
「そうですの?」
「ええ。
もっとも、そのような者は“理想主義者”と呼ばれ、
ときに扱いに困られるのですが」
軽口のようでいて、その眼差しは真剣でした。
「もし、あなたが――
この国では守りきれぬと感じたときは」
グラスの中の葡萄酒が、赤い輪を描きます。
「一度、我が国の空気を吸いに来られてもよろしいのですよ」
「それは、“亡命”の勧め、ということでしょうか」
「まさか。
ただの“観光”の提案ですとも」
リュカは笑いました。
「もっとも、“観光客”が一人増えるだけで、
国境の情勢が大きく動きかねない、というのが問題なのですが」
「それは……あまり嬉しくない観光効果ですわね」
苦笑した、その瞬間でした。
「失礼」
私の後方から、静かな声が割り込みます。
レオンです。
いつの間にか、私たちの傍らまで来ていました。
「リヴィア様には既に、“守ると誓った者たち”がいます」
リュカが片眉を上げました。
「それは王家のことですかな?
それとも、精霊王殿の?」
「いいえ」
レオンは迷いなく首を振りました。
「この方が、守ると決められた人々のことです」
一瞬、言葉を失いました。
私自身、そこまで率直に言葉にされたことはありませんでしたから。
「レオン……?」
思わず名を呼ぶと、彼は私のほうを見ずに続けます。
「この方は、王家にも教会にも隣国にも、必要な敬意を払われる。
ですが――忠誠を捧げておられるのは、
ここで生きている人たちに、です」
リュカの眼差しが、私へと戻ります。
「……なるほど。
“忠誠の向き先”というのは、
そういう形もあるのですね」
私は、胸の奥が少し熱くなるのを感じながら、微笑みました。
「ええ。
私の忠誠は、“地図に色を塗った線”ではなくて」
窓の外、辺境の夜の闇の向こうに点々と灯る家々を思い浮かべます。
「今この瞬間、子どもの寝顔を覗き込んでいる親や、
明日の仕入れを計算している商人や、
疲れて集いの家でスープを飲んでいる人たちに向いておりますの」
「国境線は、地図の上なら引き直せます。
けれど、ここで生きている人たちの人生は、
そう簡単に塗り替えられませんもの」
リュカはしばらく黙り込み、やがて小さく笑いました。
「……“理想主義者”どころか、“面倒な現実主義者”かもしれませんね、あなたは」
「それは、新しい呼び名ですわね」
「我が国の記録には、そう書き残しておきましょう」
軽い会話で締めくくり、リュカは一礼して離れていきました。
晩餐は、その後大きな波乱もなく、形式どおりに締めくくられました。
客たちはそれぞれに部屋へ戻り、広間には片付けの足音だけが残ります。
ふと視線を上げると、まだ席に残っている人影が一つ。
教会監査団の代表神父です。
彼は立ち上がり、こちらに向かって一礼しました。
「本日の晩餐、実に興味深い席でございました。
民衆に愛される者の言葉というものは、
いつ聞いても、心を揺さぶられるものです」
「過分なお言葉ですわ」
「ただ――」
穏やかな笑みのまま、その目だけが、はっきりと冷たく光りました。
「民衆に愛される者ほど、
神の御心から離れたとき、恐ろしい存在になる。
どうかそのことだけは、お忘れなきよう」
「肝に銘じておきますわ」
「我々もまた、祈りながら見守らせていただきます。
あなたが“どちらの道”を選ばれるのかを」
そう告げて、神父は静かに去っていきました。
広間に残された燭台の灯りが、わずかに揺れます。
その揺らぎの向こうで、
私を試す視線と、守ろうとする視線と、
さまざまな思惑が絡み合っているのを、肌で感じていました。
(忠誠とは、誰か一人に仕えることではなくて)
(自分が“守ると決めた人たち”に、
どこまで自分を差し出せるか、ということなのかもしれませんわね)
レオンが、片付けを手伝う使用人たちの邪魔にならないように立ち位置を変えながら、ちらりとこちらを見ました。
「お疲れでしょう、リヴィア様」
「ええ、少しだけ。
でも――」
私は、自分の胸のあたりを軽く押さえました。
「今夜、私が向けた忠誠の先を、
少しだけ“言葉にできた”気がしますわ」
「それなら、今夜の席も悪くなかった」
レオンの静かな言葉に、私は小さく笑いました。
広間の灯りが一つ、また一つと消されていきます。
最後に残った小さな炎を見つめながら、
私は心の中でそっと呟きました。
(王家でも、教会でも、隣国でもなく。
この灯りの下で、明日のパンを数えている人たちに――)
(私は、これからも忠誠を誓い続けますわ)
その決意に応えるように、
遠くで、夜風がほんの少しだけ、優しく窓を叩いた気がしました。




