他国からの使者と、“値踏みされる奇跡”
第十八巻の風が、ようやく落ち着きかけた頃でした。
「隣国からの、親善使節団、ですって?」
王太子殿下から届いた封書を読み終えた侍従が、恐る恐る顔を上げます。
私は手紙を受け取り直し、もう一度、その一文を目でなぞりました。
『名目は辺境復興への祝意。
実際には、貴女と、その“奇跡”を確かめるための訪問だろう』
殿下らしい、率直すぎる書き方です。
「……親善、という言葉ほど、油断ならないものはございませんわね」
ため息まじりに呟くと、部屋の隅に控えていたレオンが一歩前に出ました。
「王太子殿下は、何か注意点を?」
「“表向きは祝意だが、油断しないでほしい”と。
……つまり、“警戒はしておきなさい、でも歓迎の顔は忘れずに”ということですわね」
そう言って、私は封書を机に置きました。
「応接室の準備と、客間の整えを。
料理長には、辺境で手に入る一番ましなおもてなしを、とお伝えして。
あとは――」
視線が、窓の外の方角へと自然に向かいました。
屋敷から少し離れた場所に、昼間でも人の出入りが絶えない、小さな建物。
集いの家。
「集いの家を、どう扱うか、ですわね」
侍従が不安そうに眉を寄せます。
「やはり、使節団の方々には、お見せにならないほうが――」
「隠そうとすればするほど、疑われますもの」
私は肩をすくめました。
「“何も怪しいことはしておりませんのよ”と笑顔で言いながら、
一番人の集まる場所に鍵をかけるのは、いかにも怪しいでしょう?」
「……たしかに」
レオンが、わずかに口元を緩めました。
「あるがままを、お見せしましょう。
ここが“奇跡の礼拝堂”ではなく、ただの憩いの場であることごと」
◆ ◆ ◆
使節団が辺境の城門に姿を見せたのは、三日後の午後でした。
幌をかけた数台の馬車と、その前後を固める騎馬の護衛。
遠目にも、装いの違いで、この国の兵とは異なると分かります。
私は正門前の石段に立ち、レオンや家臣たちとともに出迎えました。
「遠路はるばる、お越しくださりありがとうございます。
グラウベルク公爵家当主代理、リヴィア・グラウベルクと申します」
先頭の馬車から、ゆっくりと一人の男が降りました。
年の頃は四十代半ば。
柔らかな微笑みを湛えた、中肉中背の貴族です。
ただ、その眼の奥だけは、油断なく光を宿していました。
「これはこれは。
噂に名高い“辺境の公爵令嬢”殿に、かくも早くお目にかかれるとは」
男は胸に手を当て、一礼します。
「我が国より参りました、ヴァルステイン公国の使節、エトルフと申します。
本日は、辺境復興と公爵家のご尽力に、心よりの祝意をお伝えに参りました」
「ようこそお越しくださいました、エトルフ卿。
辺境の風は少々荒くございますが、せめて今日くらいは、穏やかに吹いてくれるとよろしいのですけれど」
「おかげさまで、実に心地よい風でございますよ。
……“嵐を鎮める御方”のお膝元ですからな」
さらりと添えられた一言に、私は微笑を崩さず、心の中で小さく息をつきました。
(早速、値踏みが始まりましたわね)
その背後から、若い文官風の青年が顔を覗かせました。
几帳面に整えた金髪に、どこか人懐っこい笑み。
「エトルフ様、あまり詩的な言い回しばかりだと、記録が大変になりますよ」
「おや、これは失礼。
こちらは我が随員の一人、リュカ・ゼルナー。筆と耳だけは確かな男です」
「リュカ・ゼルナーです、“奇跡の公爵令嬢”殿。
お会いできて光栄です。
できれば、奇跡の秘訣など、こっそり教えていただけると助かるのですが」
「秘訣と言われましても……」
私は苦笑しました。
「強いて申し上げるなら、“無茶をしすぎないこと”でしょうか。
奇跡の後は、ちゃんと休む、とか」
「ほう。大変参考になります」
メモを取る手が、妙に真剣なのが少し面白くて、笑いをこらえるのに苦労しました。
後方の護衛騎士たちは、一言も発しません。
ただ、揃いの黒い外套の下から見える動きは、王国騎士団とも、教会騎士とも違う、訓練された身のこなし。
(昨夜の刺客たちとは、また別の匂い……)
表情には出さず、心の中でだけ警戒を強めました。
「長旅でお疲れでしょう。
まずは屋敷へご案内いたします。
その後、領地内もご覧になりたいとのことでしたね?」
「ええ。
是非とも、公爵家のご尽力の“果実”を、この目で確かめさせていただければ」
エトルフ卿の笑みは、やはり柔らかく、そして底が見えませんでした。
◆ ◆ ◆
応接室では、温かい茶と軽い菓子を用意していました。
使節団の代表と文官、随行の数名だけを通し、護衛騎士たちは別室で休ませています。
彼らにも礼を欠かさないのが、この辺境なりの作法です。
「辺境の地に、これほどの活気が戻るとは。
王都で聞いていたお噂どおり――いえ、それ以上ですな」
窓の外の街並みを眺めながら、エトルフ卿が感嘆したように言いました。
「お恥ずかしい限りですわ。
まだまだ、行き届かないところばかりです」
「行き届かない、ですと?
まずは十分以上に“行き届いて”いるように見えますが」
リュカと名乗った文官が、手元の帳面をぱらりとめくります。
「農地の収穫量、交易路の復旧状況、治安の安定……
それに、あの“集いの家”。
あれは、貴女の発案だとか」
やはり、ご存じでしたか。
「集いの家は、派手なものではございませんよ。
ただ、“礼拝の席にも座りづらい人”や、“精霊の加護を信じ切れない人”――
そういった方々が、少しだけ肩の力を抜いていける場所として、作っただけです」
「“ただ”と仰いますが」
エトルフ卿が、興味深そうにこちらを見ました。
「教会でも領主邸でもない、“第三の場”を設けるのは、そう簡単なことではないと、我が国でも承知しております。
信仰と現実の間に席を作る、という試みは、ある意味で、もっとも大胆な改革かもしれませんな」
「改革などと大げさなものではありませんわ。
椅子を少し増やしただけです」
「その“椅子”を増やそうとして、何人も躓いてきたと聞きます」
リュカの言葉には、どこか本音めいた響きがありました。
「……ところで」
リュカが、さも何気ない風を装って話題を変えます。
「“奇跡の公爵令嬢”殿と、精霊王殿とのご関係について、少々伺っても?」
「関係、と言われましても」
「王都の噂ではこうです。
“辺境の公爵令嬢は、精霊王の寵愛を受け、その一言で国をも沈めうる”と」
「まあ。
相変わらず、王都の皆さまは物語がお好きですこと」
私は笑ってみせました。
「精霊王陛下は、私にとって“怖い隣人”のようなものですわ。
ときどき窓から覗いてきて、勝手に手を貸したり、勝手に拗ねたりなさる。
ただ、それだけです」
「それはそれで、大変興味深いご近所付き合いですね」
リュカは真顔で頷き、またもや筆を走らせました。
「では、もし――あくまで仮の話ですが」
エトルフ卿が、茶器を持ち上げながら、さりげなく問いを差し挟みます。
「もし、貴女が我が国の領土に足を踏み入れた場合。
精霊王殿は、その国境線をお気になさるのでしょうか?」
「それは、私にも分かりませんわ」
嘘ではありません。
「ただ一つだけ言えるのは――
私がどこにいようと、私が“誰のために力を使うと決めているか”のほうを、陛下はよくご存じだということです」
エトルフ卿の目が、愉快そうに細まりました。
「つまり、“この国と、この領地の人々のため”と?」
「はい。
私は、この国の、この辺境に生きる人たちの、公爵令嬢でありたいと思っております」
「たとえ、他国からより良い待遇を提示されたとしても?」
リュカが、軽い口調で言いました。
が、その瞳の奥には、明らかに打算の色が混じっています。
「例えば――もし貴女が我が国に“亡命”なさるとしたら、などと。
……もちろん、冗談ですよ」
「冗談にしては、随分と具体的な仮定ですこと」
私は微笑を崩しません。
「私を“戦力”としてお迎えくださるお考えがあるのだとしたら、
どうか覚えておいてくださいませ」
「ほう?」
「私は、兵器ではなく、人間ですわ」
茶器をそっと受け皿に戻しながら、言葉を続けました。
「ここで生きて、笑って、悩んで、泥だらけになっている一人の。
“奇跡の公爵令嬢”などという呼び名は、外の方々が付けてくださった飾りにすぎません」
エトルフ卿は、しばし黙ってこちらを見つめ、やがてゆっくりと息を吐きました。
「……なるほど。
飾りとしては、なかなかに手強いお方だ」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
「いえ、これは、商人としての本音でしてな」
エトルフ卿が、肩をすくめます。
「我が国にも、“神の奇跡”や“聖人の物語”はございますが……
どうにも、貴女ほど、自分の立ち位置を自覚している“奇跡”は少ない」
「奇跡という言葉を、少し安売りし過ぎですわ」
「かもしれませんな」
◆ ◆ ◆
応接が一段落したあと、私は使節団とともに領内を案内しました。
市場、農地、診療所。
そして、集いの家。
「ここが、例の“誰のものでもない席”です」
私は扉の前で立ち止まりました。
中からは、子どもたちの笑い声と、煮込み料理の匂いが漂ってきます。
「こちらでは、何を?」
「簡単な食事と、仕事や生活の相談。
祈りたくなった方は教会へ、愚痴をこぼしたい方はここへ、というところでしょうか」
エトルフ卿が、しげしげと室内を見回します。
「奇跡を待つ場所ではなく、今日を何とかやり過ごす場所、か」
「はい。
ここでは、精霊の加護があるかどうかも、信仰の強さも、問われません」
長椅子に腰掛けている老人が、こちらに気づいて会釈しました。
私は軽く頭を下げて返します。
見放された者たちも、何人か、端の席に座っていました。
彼らの視線に、使節団の一人が一瞬だけ眉をひそめたのを、見逃すつもりはありません。
(値踏みをするのなら、どうぞご自由に)
心の中でだけ、そう告げました。
(ここに座っている人たちは、“取引材料”でも、“交渉の駒”でもありませんわ)
◆ ◆ ◆
夕刻。
使節団は、ひとまず屋敷に戻り、夕食の前に客間で休むことになりました。
私は廊下を歩いているとき、ふと、開け放たれた窓の向こうから、押し殺した声が聞こえてくるのを耳にしました。
「……たしかに、噂どおりだ」
「“精霊王の寵愛”がどこまで本当かは分からんが、
あれを味方にすれば強力だ。
敵に回せば、厄介どころの話ではない」
「王国は、よくあれを辺境に置いておくな」
「置いておくからこそ、他国が軽々しく手を出せなくなる。
……よく考えた手だ」
言葉の主たちは、窓の向こうの一室にいるらしく、こちらには気づいていないようでした。
私は足を止めず、そのまま通り過ぎます。
後ろから、レオンが静かに付いてきていました。
「お聞きになっていましたか」
「ええ。
彼らは、あなたを“人”ではなく“戦力”として見ている」
レオンの声には、怒りというより、冷静な分析が滲んでいました。
「それは、王都の一部も同じでしょうし、教会の一部も、ですわね」
「……不愉快ではありませんか」
「もちろん、不愉快ですわよ?」
私は苦笑しました。
「人としての私を気に入られるのは構いませんが、
力だけを欲しがられるのは、どうにも性に合いませんもの」
レオンが、わずかに口元で笑いました。
「ですが――」
窓の外に視線を向けると、使節団の馬車が並ぶ中庭が見えました。
まだ滞在は数日続きますが、その先にあるものも、自然と想像できます。
「国境を越える前に、私の影だけが先に渡っているような感覚ですわね」
隣国の宮廷。
そのまた向こうの、まだ見ぬ土地。
そこでもきっと、今日の会話や、私の力の噂が、数字や言葉に変えられていくのでしょう。
「影は、勝手に歩いていきます。
でも、本体は、ここにいますわ」
そう言って、私は中庭から視線を外しました。
「どれだけ値踏みされても、
私が自分の値段を、誰かに決めさせるつもりはありませんから」
レオンが、静かに頷きます。
「では、こちらはこちらで、あなたの“在り方”を、勝手に見せ続けるだけですね」
「ええ。
奇跡の値段ではなく、“ここで生きる人たちの今日一日の値打ち”を」
私は歩を進めながら、小さく息を吐きました。
外からの視線がどれだけ増えようと、
国境の向こうで、私の影が勝手に値踏みされようと。
ここで、椅子に腰を下ろしてスープをすする人の重みは、
数字では測れないものなのだと。
少なくとも、私だけは知っていたい――そう思いながら。




