生きる盾と、選んだ立ち位置
翌朝、私はいつもより少し早く目を覚ましました。
眠れなかった、というほどではありません。
ただ、夢の中でさえ昨夜の刃の軌跡がちらついて、深く眠りに沈むことを、身体がどこかで警戒していたのでしょう。
窓の外では、まだ朝靄が地面にまとわりついています。
遠くから、牛車の軋む音と、パン屋の煙突から立ちのぼる煙の匂い。
(……日常が、ちゃんと続いているのは、ありがたいことですわね)
そう思えるだけの余裕がある自分を、少しだけ誇りに思いながら、私は身支度を整えました。
◆ ◆ ◆
地下の小さな部屋は、簡素な机と椅子、それに、繋がれた一つの人影だけで満たされていました。
昨夜捕らえた刺客は、粗末な椅子に腰掛けたまま、黙り込んでいます。
両手は前で束ねられ、足首にも縄。
とはいえ、必要以上に雑な扱いをしているわけではありません。
レオンが静かに壁際に立ち、私に一歩引いた場所を譲ってくれました。
「……体調はいかがですか」
椅子の前に立ち、私は声をかけました。
男は、暗く落ちた髪の隙間から、こちらを一度だけ見上げます。
「処分の前に、わざわざ容体を気遣うとはな」
「人を雇って私を攫おうとするような方々が、どれほど“律儀”か存じませんもの。
せめてこちらくらいは、礼儀を守っておきたいだけですわ」
皮肉を込めたつもりはなかったのですが、少しばかり棘が乗ってしまったかもしれません。
男は鼻で笑いました。
「律儀、ね……。お前の身体には、別の値札がついているらしいが」
「その“値札”の内容を、教えていただけます?」
「依頼主は名前を明かさない。中継役も、いつも覆面だ。
ただ――」
言い淀んで、男の視線が宙を彷徨います。
「……言葉の端々に、訛りがあった。
王都育ちの連中とは違う。もっと……乾いた音だ」
「乾いた音、ですの」
砂漠方面の国々の言葉を連想させる表現。
この辺境からは遠い、国境の向こう側。
「“確保できれば高く買う”と言われた。
死体でも、一応の価値はあるらしい」
男は、自嘲気味に口角を上げました。
「俺たちには、細かい理屈はどうでもいい。
金になるなら、やる。そういう仕事だ」
「気分の良い話ではありませんわね」
自分の身体と力が、“商品”としてどこかで語られている。
それ自体は、王都での密談の時点でもう分かっていたはずなのに、
こうして直接言葉にされると、胃の奥がきゅっと捻じれるようでした。
「あなたは、それで納得なさったのですか」
「……納得?」
「どこかの誰かが、見知らぬ相手の生き死にに値札をつけて、あなたにはその“手先”だけが回ってくる。
それを、“しょうがない”と飲み込める程度には、楽なお仕事でした?」
男の眉が、ぎり、とわずかに動きました。
しばらく沈黙が落ちる。
地下室の冷たい空気が、少しだけ重くなる。
「……楽じゃないさ」
ぽつり、と落とされた言葉は、思ったよりも静かでした。
「俺の村じゃ、今はこの仕事くらいしか金にならない。
畑は干からび、港は税で締め付けられ、兵士になるには年を食いすぎた。
それでも、食わせなきゃならないものが何人かいてな」
彼は、縄で擦れた手首を、わずかに動かします。
「俺みたいなのは、“何かを選んだ”わけじゃない。
残された道を、片っ端から潰していった結果、最後に残ったのがこれだった」
(……どこかで、聞いたような話ですわね)
王都でも、辺境でも。
そして、おそらく国境の向こう側でも。
生活のために、選ばされる道。
その先に、誰かの命がぶら下がっているというだけの違い。
「あなたがしてきたことを、許すつもりはありません」
私は、言葉を選びながら告げました。
「けれど――
あなたを“使い捨ての駒”としか見ていない人たちのことも、同じようには許せませんわ」
男は、驚いたようにこちらを見上げました。
「……変な女だな。
お前を殺し損ねた男を心配して、何の得がある」
「得にならないことは、今に始まった話ではありませんので」
冗談めかして言うと、レオンが小さく咳払いしました。
たぶん、「そこは胸を張るところではない」と言いたいのでしょう。
「あなたを裁くのは、私ではありません。
ただ、この話は王太子殿下にもお伝えします。
国が“こういう仕事しか残さなかった”人たちのことを、覚えておいてもらうためにも」
「……王太子、ね」
男は、どこか諦めとも嘲りともつかない笑みを浮かべました。
「災厄の種を抱え込んで、ご苦労なこった」
「災厄の種?」
不意に出た言葉に、胸がざわつきました。
「そう呼んでいた連中がいた。
“放っておけば芽吹く、厄介な種”だとさ。
お前のことを」
「……本当に、気の利いた呼び名を考えるのが、お好きですこと」
苦笑するしかありませんでした。
聖女とも、英雄とも呼ばれたくないけれど。
災厄の種とまで言われるほど、望んだ覚えはありません。
◆ ◆ ◆
地下室を出るとき、足がほんの少し重かったのは、疲れのせいだけではないでしょう。
廊下で、レオンが隣に並びます。
「……大丈夫ですか」
「ええ。少し、胸焼けがしているだけですわ」
「朝食を控えすぎましたか」
「いえ、話の内容が少々、消化に悪かっただけです」
そんなやり取りをしていると、侍女が急ぎ足で近づいてきました。
「リヴィア様、王都からの魔導通信が届いております。
王太子殿下からです」
「まあ。タイミングがよろしすぎて、怖くなりますわね」
内心の苦笑を飲み込んで、私は執務室へ向かいました。
◆ ◆ ◆
机の上には、淡く光る水晶球が置かれていました。
触れれば、遠くにいる相手の声が届く、王都製の魔道具。
私は椅子に腰掛け、そっと指先を触れさせます。
「王太子殿下、リヴィア・グラウベルクです」
水晶の向こうから、少し低めの声が響きました。
『呼び立ててすまない、リヴィア。……昨夜の件についてだ』
「やはり、ご存じでいらっしゃいましたのね」
『こちらにも、報告が上がっている。
刺客の装備に、王国外の刻印の削り跡があったと』
「はい。依頼主も仲介人も、身元を隠しているようですが」
私は、地下室で聞いた話の要点だけを伝えました。
“確保できれば高く買う”という言葉。
“死体でも価値はある”という冷たい評価。
水晶の向こうで、短く息を呑む気配がします。
『……やはりか』
「“やはり”、とは?」
『他国の一部が、あなたを“抑止力”として認識し始めている。
王国にとっての切り札であり、同時に、災厄の種でもあると』
地下で聞いた言葉が、思いがけず重なりました。
「災厄の種。
本日、その呼び名を、二度も耳にしましたわ」
『気分の良い呼び名ではないな』
「ええ。できれば、流行してほしくない称号です」
半分冗談めかして返すと、王太子殿下はわずかに息を吐きました。
『笑い事ではない、とは分かっている。それでも……君がこうして笑って返してくれることに、救われてもいるんだが』
「殿下」
『君の存在は、既に王国にとっての“抑止力”になりつつある。
他国に無茶をさせないための、目に見えない盾として』
「私の知らないところで、いろいろな役目を背負わされているのですわね、私」
『君に明確に告げるべき時だと思い、こうして通信を繋いでいる』
短い沈黙のあと、王太子殿下は言いました。
『リヴィア。
君に、王家の庇護下に明確に入ってほしい』
その言葉は、予想していたものの、実際に聞くと胸の奥に重く沈みました。
「それはつまり――」
『公式に、“王国の守護者”としての立場を示す、ということだ。
君を兵器として扱うつもりはない。
ただ、王家の名前のもとに、君を守りたい』
王太子殿下の言葉に、嘘はありませんでした。
本当に、私を守ろうとしている。
それでも。
(守られるために、鎖をつけられるのは――)
喉の奥まで出かかった言葉を、一度押し込んで、ゆっくりと整えます。
「殿下」
『ああ』
「私を守ろうとしてくださっているお気持ちは、ありがたく思います。
本当に」
そこは偽りなく、伝えておきたかった。
「ただ、それは同時に――
私を“王家の持ち物”として宣言することにもなりますわね?」
『……厳しい言い方をする』
「事実ですもの」
少しだけ笑みを含ませながら、私は続けました。
「私は、国のために力を貸すことを惜しむつもりはありません。
辺境とここに生きる人たちを守るためなら、必要とあらば“生きた盾”として前に立つ覚悟もあります」
『知っている』
「けれど、“国の持ち物”になるつもりはありませんの」
はっきりと、言いました。
「婚約者をすげ替えられた日のことを、殿下は覚えておいでですか?」
水晶の向こうの空気が、ぴたりと凍るのが分かりました。
『……忘れたことはない』
「私はあの日、“この物語には聖女の席が必要だから”という理由で、
王都から辺境へ送られました」
誰かの都合で、盤上の駒の位置を入れ替えられた。
当時の私は、それに抗う術を持たなかった。
「今度は、“この国には抑止力が必要だから”という理由で、
私の席を決められるのは――正直、少しばかり、嫌なのです」
王太子殿下は、しばらく黙っていました。
沈黙の向こうで、彼がどれほど自分を責めているか。
少しだけ想像がついてしまうのが、厄介です。
『君を、兵器として扱うつもりはない』
「分かっています」
『君の意思を無視して前に押し出す真似は、二度としないと誓った。
あの日のことを、繰り返したくはない』
「だからこそ、こうして相談してくださっているのでしょう?」
『ああ』
深い息をついたあと、王太子殿下は素直に続けました。
『君を“守る”ことと、“利用しない”ことと、“国を守る”こと。
全部を同時に満たす答えを、私はまだ持っていない』
「……それを認められる殿下のほうが、よほど誠実ですわ」
『誠実で、無力だ』
「無力ではありませんわ。
その無力さを自覚している人は、無自覚な強者より、よほど頼りになります」
水晶の向こうで、くすりと笑う気配。
『君は本当に、厄介だな』
「それは、褒め言葉として頂いておきます」
私は少しだけ姿勢を正しました。
「殿下。
私の立場について、私なりの答えをお伝えしてもよろしいでしょうか」
『聞かせてくれ』
「私は、王家とも教会とも、完全には切れないと思います」
それが現実です。
「教会とは、信仰という形で繋がり続けるでしょう。
王家とは、国を守る責任という形で」
『ああ』
「けれど、どこか一箇所の看板にはならないつもりです。
“王太子の守護者”でも、“教会公認の奇跡”でもなく」
言葉を選びながら、ゆっくりと紡ぎました。
「私は、“辺境と、ここに生きる人々の代表”として立ちたいのです。
そのうえで、国のためにも力を貸します。
ただし、それは常に――
私が自分で選んだ時だけ」
水晶の中の光が、わずかに揺れました。
『……君らしい答えだ』
「気に入られませんでした?」
『いいや。
私が望んでいた答えより、ずっと難しい選択だ』
そこで、王太子殿下は少しだけ声を和らげました。
『君を“国の盾”と呼びたい者たちは、これからも現れるだろう。
そのとき、私は言うつもりだ。
――その盾は、君自身が選んで構えたときにしか、前には出ない、と』
「光栄ですわ」
『ただ一つ、願いがある』
「なんでしょう」
『君が“生きた盾”になると決めたとき、
どうか一人で前に出ないでくれ』
ほんの一瞬、胸が熱くなりました。
「……レオンと、セラフィナを連れて行きますわ」
『私も忘れないでくれないか』
「それは殿下次第です」
少し冗談を挟むと、今度ははっきりと笑い声が返ってきました。
通信が切れたあと、水晶球の光が静かに消えていくのを見つめながら、私は深く息を吐きました。
「……言いたいことは、言えましたわよね、私」
確認してみたところで、答える人は誰もいません。
◆ ◆ ◆
その夜、私は屋敷のテラスに出ました。
辺境の夜空は、相変わらず星がよく見えます。
遠くの山の稜線が、暗い影となって浮かび上がっている。
「おひとりで、星を数えていらっしゃるのですか」
背後から聞こえてきた声に振り返ると、レオンが静かに立っていました。
「数え始める前に、考え事に迷い込んでしまいましたの」
「……今夜は、よく迷い込まれますね」
「ええ。今日はちょっと、迷うのに最適な一日でしたもの」
冗談めかして返すと、レオンは隣に立ちました。
彼の存在が、夜気の冷たさを少し和らげてくれます。
「王太子殿下とは、お話しになられたのですね」
「ええ。私を“王国の守護者”にしたい、と仰っていましたわ」
「……やはり」
レオンの横顔が、ほんのわずかに強張りました。
「怒っていらっしゃいます?」
「いえ。予想していたことです」
「私を“国の盾”として、正式に前に出したいのでしょう。
そのほうが、他国への牽制も、国内の説得も楽になりますものね」
「しかし、それは同時に――」
「私を兵器として公式認定することでもありますわね」
言葉を被せると、レオンは静かに頷きました。
「あなたがどの立場に立たれても、
私はただ、その背中を守るだけです」
迷いのない言葉でした。
けれど、それだけに、胸の奥が少し痛みます。
「それでは、あなたにばかり背負わせてしまいますわ」
「背負うことが、私の役目です」
「いいえ」
私は、ゆっくりと首を振りました。
「“全部背負わせてしまう”のは、もうやめたいのです」
星明かりの下で、自分の手を見つめます。
「私は、王家とも教会とも、完全には切れません。
でも、どこか一箇所の看板にはならないと、殿下に伝えました」
「看板」
「“王太子の守護者”とか、“教会公認の奇跡”とか。
そういう、分かりやすい札のことですわ」
風が、テラスの床を撫でていきます。
「私は、“辺境とここに生きる人たちの代表”として立ちたい。
そのうえで、国のためにも力を貸す。
けれどそれは、あくまで――」
「あなたが自分で選んだときだけ」
レオンが、私の言葉を静かに引き継ぎました。
「ええ」
私は、小さく笑いました。
「いざというとき、私が“生きた盾”として前に出る覚悟は持ちます。
でも、それは誰かに押し出された結果ではなく、
自分で踏み出した一歩として、そうしたいのです」
言葉にしてみると、不思議と胸の中のもやが晴れていきました。
レオンは、しばらく黙って私を見つめていたあと、ふっと目を細めました。
「では、その盾が傷だらけにならないように、
私は剣として働きましょう」
夜空を背景にした横顔は、相変わらず寡黙で。
けれど、その言葉には、静かな熱がありました。
「剣は、盾の後ろに隠れているものではありませんわよ?」
「知っています」
「時々、私のほうが、あなたの背中を守りに行ってもよろしいですか」
「……それは、私の仕事を奪う行為です」
「仕事を半分こ、という解釈もできますわ」
そんな軽口を交わしながら、私はふと思いつきました。
「ところで、レオン」
「はい」
「今の私の宣言……ちゃんと“かっこよく”聞こえました?」
我ながら、聞いたあとで少し顔が熱くなります。
レオンは一瞬だけ目を瞬かせ、それから真顔で言いました。
「ええ、とても」
「そこは少し、冗談めかしてくださってもよろしいのですけれど」
「事実を曲げるのは、性に合いませんので」
あまりにも真剣な顔で言うものだから、思わず笑ってしまいました。
夜空が少し近くなったような気がします。
(誰かに与えられた位置ではなく、自分で選んだ場所に立つ)
たとえ、その場所が、一番狙われやすい場所だったとしても。
たとえ、そこに立つことで、また誰かに災厄の種と呼ばれたとしても。
(それでも私は、ここに立つことを、自分で選びたい)
風が、集いの家のほうから吹いてきます。
明日もきっと、あの家には誰かが来るでしょう。
迷っている人も。
見放されたと感じている人も。
ただ、疲れた心を置く場所を探している人も。
「……さて」
私は軽く伸びをしました。
「明日も、盾役と世話焼き役と、公爵令嬢役を兼任しなければなりませんわね」
「多すぎませんか、その役職」
「大丈夫ですわ。剣役が優秀ですもの」
テラスの欄干にもたれ、星空を見上げながら。
私は、自分で選んだ立ち位置の重さと、その重さを分け合ってくれる人たちの存在を、改めて胸の中に刻み込むのでした。




