居場所の代償と、忍び寄る影
その日も、朝いちばんに火を入れたのは、集いの家の小さな竈でした。
「……よし、今日の塩加減は、たぶん大丈夫ですわね」
木べらで鍋をかき混ぜながら、湯気の向こうに笑いかける。
まだ開館前だというのに、戸の外からは子どもたちの足音がちょろちょろと聞こえてきていました。
「リヴィアお姉ちゃん、まだー?」
軽いノックと一緒に、そんな声。
……お姉ちゃん。
その呼び名に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを自覚しつつ、私はわざと少しだけむくれた声で返しました。
「“お姉ちゃん”というより、“れっきとした公爵令嬢”ですのよ? もう少し畏まってくださっても――」
「ごはんの公爵令嬢だー!」
扉の向こうから、元気な笑い声が返ってきます。
「……ええ、そうですとも。ごはんの公爵令嬢で結構ですわ」
肩をすくめながら、私は鍋の火を弱めて戸口へ向かいました。
◆ ◆ ◆
扉を開けると、待っていた子どもたちが、一斉にぱっと顔を明るくしました。
「おはようございます。今日はちゃんと宿題を持ってきましたか?」
「うん!」「たぶん!」
「“たぶん”と言った子は、あとで一緒に確認ですわね」
そう言いながら、靴を脱いで上がってくる彼らを見送る。
小さな机の上には、昨日から広げっぱなしの算術の板と、読みかけの本。
窓際の席では、早くも帳簿の写しを前に、文字を書き写している若者の姿も見えます。
壁際には、新しく掲げた紙が数枚。
簡単な仕事の紹介。
家の修繕を手伝える者。
荷運びの人手を必要としている商人の名前。
その前で、見放された者たち――と自分で呼ぶ人たちが、真剣な眼差しで紙面を追っていました。
「何か気になるものはありまして?」
声をかけると、ひとりの男が、遠慮がちに顎をしゃくります。
「……これ。川沿いの倉庫の警備ってやつ」
「夜間の見回りですね。足腰は大丈夫ですか?」
「祈っても何も返ってこない足だが、歩くくらいならできるさ」
自嘲気味な言葉に、私はあえて肩をすくめてみせました。
「この仕事に必要なのは、“歩く足”ですわ。
奇跡の足ではなく、ちゃんと地面を踏める足のほうが、よほど頼りになりますもの」
「……変な言い方するな、公爵令嬢」
「褒め言葉のつもりでしたのに」
そうやり取りすると、男は紙をそっと剥がし、胸元に大事そうにしまいました。
窓際では、老人がひとり、湯気の立つお茶を両手で包み込むように持っています。
「お味はいかがです?」
「ふむ……教会の聖堂よりは騒がしいが、こっちのほうが茶は美味いのう」
「それは何よりですわ。聖堂の静けさと、ここでの喧騒と、どちらも必要な日がありますもの」
そんなふうに、朝から昼にかけての集いの家は、相変わらずの賑やかな、けれどどこか柔らかい空気に包まれていました。
ここでは、人は“見放された者”ではなく、ただ“今ここにいる誰か”として座る。
それが、この場所のいちばん大切な約束です。
「リヴィア様、スープ、もう少しよそっても?」
厨房のほうから、手伝いに来てくれている婦人が顔を出しました。
「もちろん。足りなくなったら、また鍋ごと増やしますわ」
私はエプロンの紐を結び直し、再び竈の前へ戻っていきました。
◆ ◆ ◆
……とはいえ。
「リヴィア様」
昼過ぎ、人の波が少し落ち着いたタイミングで、レオンがそっと声をかけてきました。
エプロン姿の私を見て、一瞬だけ苦笑したあと、彼は小さく首を傾げます。
「その格好のまま、あとで役所に戻られるおつもりでしたか」
「……あ」
自分の胸元を見ると、いつの間にかエプロンには小さなスープの染みがいくつか。
「危ないところでしたわ。公務用の部屋に、“ごはんの公爵令嬢”で戻るところでした」
「すでに充分、そのような印象は広まっている気もしますが」
「否定しきれないところが悔しいですわね……。それで、何かありました?」
私がエプロンを外しながら尋ねると、レオンはわずかに声音を引き締めました。
「家臣からの報告です。ここ数日、集いの家の近くで、見慣れない旅人風の男が何度か目撃されています」
「旅人風……ただの通りすがり、という線は?」
「ないとは言い切れませんが」
レオンは、窓の外――路地の向こうへ視線をやります。
「彼は、あまり中には入ってこない。戸口の前や、向かいの店先から、長い時間この建物を眺めているそうです」
「……覗き見、というわけですわね」
「視線の質は、“好奇心”より“値踏み”に近い、と」
胸の奥が、ひやりと冷たくなりました。
けれど私は、あえて肩を落とさず、苦笑を浮かべます。
「居場所というものは、本来、“そこにいていい”だけの空間のはずなのに。
人が集まり、声が集まり……いつの間にか、“力”と呼ばれるものに変わってしまうのですね」
「集いの家は、人だけでなく情報も集まります」
レオンは淡々と続けました。
「誰が困っているか。どこで仕事が足りないか。
それを見ようとすれば、誰にとってもここは“便利な窓”になる」
「王都からの手紙にも、“辺境での独自施設について詳しい報告を求む”とありましたしね」
今朝、役所に顔を出した際に見た書状の一節が、頭を過ぎりました。
あの筆致は、たしかに“関心”と“警戒”の両方を含んでいました。
「教会監査団からも、“この場所が教義に反する集団にならぬよう注視させていただきます”と、丁寧に牽制されましたわ」
「丁寧な牽制ほど、歯応えがあるものはありませんね」
「全くですわ」
ため息をひとつ吐き出してから、私はレオンを見上げました。
「だからといって、ここを閉める気はありませんけれど」
「ええ。それはわかっています」
レオンの目が、わずかに柔らかくなります。
「ただ、目をつけているのは王都や教会だけではない――そのことを、お伝えしておきたくて」
「他にも?」
「……今夜、詳しい話が届くはずです」
その言葉に、不意に胸騒ぎがしたのは、勘が良すぎるせいでしょうか。
◆ ◆ ◆
日が傾き、集いの家の灯りが一つ、また一つとともり始めた頃。
私はいったん屋敷へ戻り、夜の報告会に顔を出していました。
「リヴィア様、王都からの密書です」
信頼できる家臣が、封蝋の押された小さな封筒を差し出してくる。
王家の紋章と、見慣れた細工――アルベルト様からのものだと、ひと目でわかりました。
自室に戻り、机の上で封を切る。
中から現れた羊皮紙には、整った文字で、簡潔な言葉が並んでいました。
『辺境での“集いの家”について、こちらにも噂が届いている』
『公爵令嬢が、教会とも王家とも距離を置いた場所を作った――と』
そこまでは、想定の範囲内です。
問題は、その先でした。
『近頃、王都に出入りする他国の商人の中に、
あなたの名前と、その施設の場所を繰り返し尋ねる者がいる』
『彼らが本当に商人かどうか、把握しきれてはいない』
指先に、無意識に力が入ります。
『あなたを“国を揺るがす力”として見ている向きもある』
『手紙一本で伝えられる範囲を超えるため、いずれ直接説明したいが――
まずは、集いの家が国内だけでなく国外からも“目印”にされている、という事実だけお伝えしておく』
文末には、短い一文が添えられていました。
『どうか、灯は保ちながらも、備えを怠らないでほしい』
羊皮紙をそっと机に置き、私は窓の外を見やりました。
夜の帳がおりた街の中で、一つだけ、柔らかな光を放つ場所がある。
集いの家の窓から漏れる灯りです。
(……ここが、誰かの標的になる日が来ないとは、たしかに言い切れませんわね)
王都。
教会。
そして、国境の向こうから伸びてくる“知らない誰か”の視線。
それでも――
私は椅子から立ち上がり、そっと窓枠に指を添えました。
「けれど、だからといって、今夜の灯りを消す理由にはなりませんわ」
ここに来る誰かが、
「今日もここが開いていてよかった」と、
ほんの少しでも思ってくれるのなら。
その“よかった”を、誰かの都合だけで消したくはありません。
扉を叩く音がしました。
「リヴィア様、そろそろ集いの家の片付けに向かわれますか?」
レオンの声です。
「ええ。行きましょう」
私は灯りを手に取り、部屋を後にしました。
廊下を歩きながら、ふと小さく笑いがこぼれます。
「居場所というものは、本当は、ただ“そこにいていい”だけの場所なのに。
人が集まり、声が集まり……いつの間にか、“力”と呼ばれるものになってしまう」
「それでも、ですか」
隣を歩くレオンが問う。
「それでも、開けますか」
「ええ」
私は迷いなく答えました。
「私が守りたいのは、“力”としての集いの家ではありませんもの。
ここでスープを飲んで、愚痴をこぼして、少しだけ肩の力を抜いて帰っていく――
そんな人たちの顔ですわ」
たとえその代償として、
この小さな家が、知らない誰かの地図にも印をつけられてしまうとしても。
「だからこそ、備えは必要ですけれどね」
「はい。そこは、私の役目でしょう」
レオンの横顔が、街灯の明かりに浮かび上がりました。
居場所を作るということは、きっと、守るべきものを増やすということ。
守るべきものが増えるということは、同時に、“狙われうるもの”も増えるということ。
それが「居場所の代償」だとしたら――
「払う価値のある代償かどうかは、
ここで笑う人たちに、毎日教えていただきましょうか」
そんなふうに冗談めかして呟きながら、私は集いの家の灯りへと歩を進めました。
今夜も、戸口の前には、遅くまで仕事をしていた誰かの影がひとつ。
その肩に、そっと声をかけるために。




