誰のものでもない席と、“ここにいていい”という許し
市場での騒ぎから、まだ数日しか経っていないというのに――私の机の上には、すでに新しい報告書が何通も積み上がっていました。
「見放された者たちの様子は?」
朝の執務室。私は手近な一通を取り上げながら、家臣に尋ねました。
「騒ぎのあと、表立って暴れる者はいません。ですが……」
家臣は言いよどみ、手元のメモを見下ろします。
「酒場の片隅で、“俺たちがいなきゃよかったんだろう”と笑う者が増えた、と」
「笑う、のですか」
「はい。笑っているようで、目はぜんぜん笑っていない、と」
報告書の紙が、指先の下でかさりと鳴りました。
怒鳴って暴れていたときよりも、ずっと厄介な気配です。
「火が一度だけ大きく燃えたあと、灰の下でじわじわ燻っているような……そんな印象ですな」
「……ええ。だからこそ、いま何か形にしておかねばなりませんわね」
私は、ひとつ息を吸い込みました。
「“居場所がない”という感覚は、
それだけで人の心を少しずつ削っていきますもの」
◆ ◆ ◆
その日の午後。執務室には、いつもより多くの椅子が並べられていました。
地元の神父。
数人の家臣。
孤児院や市場を代表する領民たち。
私はその全員の顔を見渡し、ゆっくりと言葉を切り出しました。
「今日は、ひとつ提案があって皆さまにお集まりいただきました」
視線が、自然とこちらに集中します。
「“見放された者”と呼ばれている人たちがいます。
精霊に、教会に、あるいは家族に。
誰からも“ここにいていい”と言われなかった人たち」
神父の肩が、かすかに揺れました。
「ですがそれは、彼らだけの話ではありませんわ。
信仰に迷っている人。
教会に行くには勇気がいるけれど、ひとりで抱え込むにはつらすぎる人。
どの派閥にも属したくない人」
市場代表の女性が、ぎゅっと膝の上で指を絡めます。
「その人たちが、少なくとも“座っても叱られない椅子”に座れる場所を、ひとつ作りたいのです」
私は、用意しておいた簡単な図を机の中央に広げました。
「教会ではなく、領主邸でもなく。
精霊への祈りの場にもせず、教義を語る場にもせず。
ただ、“誰でも相談できて、一緒にご飯を食べられる場所”。
そのような小さな家を、この街の一角に設けてはどうかと」
神父が、慎重な声音で口を開きました。
「……それはつまり、“信仰の外側”の場所を作る、ということでしょうか」
「“信仰を捨てた人のための場所”ではありませんわ」
私は首を振ります。
「信仰と現実のあいだで迷っている人。
教会の椅子にも、精霊の祝祭にも、今はうまく座れない人。
その人たちが、一度息をついてから、
“それでももう一度祈ってみようか”とか、“今日は祈らずに働こう”とか――
自分で選べるように整えるための場所です」
沈黙が、短く流れました。
家臣のひとりが、おそるおそる手を上げます。
「そこでは、何を……?」
「温かい食事を出します」
私は迷いなく答えました。
「仕事を探している人には仕事の相談を。
家でうまく眠れない人には、眠れるまで話し相手を。
祈りたくなった人には、教会の場所を案内できるように」
神父が、目を伏せたまま小さく息をつきました。
「……それは、たしかに必要かもしれません。
ですが――教会からは、“信仰離れを助長している”と見られる恐れもあります」
「だからこそ、最初から隠れては作りません」
私は微笑みました。
「監査団にも、きちんとお話ししましょう。
これは“教会の代わり”ではなく、
“教会に戻る道が途切れてしまった人”のための、もう一本の小道であると」
◆ ◆ ◆
数日後。
私は、その言葉をそのまま、監査団の代表者の前で繰り返すことになりました。
応接室の空気は、いつにも増してひんやりとした緊張に満ちています。
監査団代表の神父――灰色の瞳をした細身の男が、静かに問い返しました。
「そのような場所が、
“教会離れ”を加速させるとはお考えになりませんか、公爵令嬢」
「むしろ――」
私は、真正面からその瞳を見返しました。
「“教会の外に座る椅子が一つもない”状態こそ、
人を追い詰める原因ではありませんこと?」
代表の眉が、わずかに動きます。
「祈りに行っても救われなかったと感じた人が、
どこにも行き場を見つけられず、
怒りと恨みだけを抱えて酒場の隅で笑う。
その姿は、教会にとっても本意ではないはずです」
「……続けなさい」
「そこで“一度休む椅子”があれば、
“もう一度だけ信じてみようか”と思えるかもしれません。
あるいは、“信じられないままでもいいのだ”と、
それでも人として生きていけるやり方を学べるかもしれません」
私は、静かに言葉を継ぎます。
「教会で祈る人も。
精霊に感謝する人も。
どちらにもなれなくてうずくまっている人も。
全部ひっくるめて、この国の民ですもの」
「理屈としては、理解できます」
代表は、手元の書類をぱらりとめくりました。
「ですが――そこが“異端の温床”になったとき、
責任はどこが取るのですか」
「そのときは、私が取ります」
即答した私に、レオンの視線が一瞬だけこちらをかすめました。
監査神父の口元に、ごくわずかな皮肉めいた笑みが浮かびます。
「ではせめて、いくつか条件を。
そこでは教義を語らないこと。
礼拝に代わる儀式を行わないこと。
活動内容は、定期的にこちらへ報告すること」
「妥当な線だと思いますわ」
私はうなずきました。
「それと――」
代表の目が、少し鋭さを増します。
「この場がもし、“教会を否定する声”だけで満たされるようになったなら。
そのときは、速やかに閉じていただきたい」
「ええ。
そのときには、きっと私自身が“ここは間違った方向へ進んでいる”と気づいているでしょうから」
返した私の言葉に、彼はほんの一瞬だけ目を細めました。
「あなたは――危うい方ですね、公爵令嬢」
「よく言われますわ」
冗談めかして返すと、
彼は「では我々も“危うさ”の見張り役として、引き続き務めを果たすとしましょう」とだけ言い残し、部屋を後にしました。
(……きっと背後で、陛下やアルベルト様、セラフィナ様も動いてくださったのでしょうね)
正式な合意の裏には、たいてい見えない手綱がいくつも通っています。
そのことを思いながら、私は小さく息を吐きました。
「さあ、場所を決めませんとね」
◆ ◆ ◆
選ばれたのは、教会からも領主邸からも少し離れた、小さな空き家でした。
元は倉庫として使われていたらしく、壁は煤け、窓は小さく、床板はところどころ軋みます。
「……立派とは言えませんわね」
私は腰に手を当てて、天井を見上げました。
「でも、悪くありません。
どこの“色”もついていない、という意味では、むしろ最適ですわ」
袖をまくり上げ、埃を払う。
椅子を磨き、古い棚を布で拭く。
気づけば、エプロン姿で動き回る私を見て、
レオンも侍女たちも苦笑しながら手伝い始めていました。
「リヴィア様、そこは私たちに任せて――」
「いいえ、こういうのは、少しは自分の手を動かしておきたいのです。
後で“椅子の座り心地が悪い”と言われたら、文句の言い先がはっきりしますでしょう?」
カーテンの色を決めるだけでも、侍女と真剣に頭を悩ませます。
「明るすぎると、落ち着かないでしょうか」
「暗すぎると、昼間も沈んで見えますわね……」
そこへ、顔を覗かせた子どもたちが声をあげました。
「わぁ、ここ、なにするとこ?」
「リヴィア様の、新しいおうち?」
「いいえ、ここは“みんなの家”ですわ」
私は笑って答えました。
「お腹がすいたとき。
誰かに話を聞いてほしいとき。
どこにも行きたくないけれど、一人でいたくもないとき。
そんなときに、ふらりと座りに来ていい場所です」
「ふーん……じゃあ、ぼくも来ていい?」
「もちろん。宿題を持ってくるのも歓迎ですわよ。
ただし、宿題をサボるために来たら、私も一緒に悩みますからね」
子どもたちの笑い声が、埃っぽかった空間に少しずつ温度を足していきました。
◆ ◆ ◆
初日。
簡素な看板に「憩いの小屋」とだけ記されたその場所に、思ったよりも多くの人が集まりました。
市場帰りの人。
孤児院の子どもたち。
教会帰りに、少しだけ寄ってみたという老人。
そして――扉の外で、しばらく立ち尽くしてから、ようやく一歩を踏み入れる影。
見放された者たちの顔も、ちらほらと見えました。
「ようこそ」
私は入口で、一人一人に声をかけます。
「ここでは、あなたが“見放されたかどうか”は問いません。
信心深いかどうかも、精霊に好かれているかどうかも」
ケイルが、少し気まずそうに視線を逸らしました。
「……本当に、ただ飯食いに来てもいいのかよ」
「ただ飯を食べたぶん、あとで椅子を磨いてくださればチャラということで」
そう言うと、彼はふっと息を漏らして笑います。
「……ったく、“見放された者”にまで雑用させる公爵令嬢なんて、聞いたことねえよ」
「おや、では“働ける場所がある”という意味で、
少しは見放されておりませんわね」
そんなやり取りをしているあいだに、
テーブルには温かいスープと簡単なパンが並べられていきます。
「祈りたい方は、食後に教会へ行かれるといいですわ。
今日はただ、お腹と心を一緒に温める時間、ということで」
小屋の中に、小さな笑い声と、皿の触れ合う音と、ため息まじりの本音が混ざり合っていきました。
それは決して、華やかな奇跡ではありません。
誰かの病が一瞬で治るわけでも、貧困が消えるわけでもない。
けれど――
「今日をやり過ごすための力」が、
ほんの少しだけ増える光景でした。
◆ ◆ ◆
夜。
最後の客を見送り、片付けを終えたあと。
私はひとり、薄暗い小屋の真ん中に立っていました。
灯りを落とした室内に、窓から月の光が差し込みます。
その光の中で――ふわり、と何かが浮かび上がりました。
小さな光の粒。
暖炉の上。
磨き上げた椅子の背もたれ。
テーブルの角。
今しがたまで、誰かが座っていた場所。
そこを、透明な指先で確かめるように、精霊たちが触れていきます。
耳の奥で、声がした気がしました。
『ここは悪くない』
懐かしい、少しだけ傲慢な響き。
精霊王の声だと、すぐにわかりました。
『人の手で作った“居場所”というものも、
案外、嫌いではない』
「それは光栄ですわ」
私は、誰もいない小屋の中で、そっと微笑みました。
「でしたらどうか――
“選ばれなかった人”のことも、
完全には見放さないでいてくださると嬉しいのですが」
返事はありませんでした。
けれど壁に触れた光の粒が、
ほんの少しだけ明るくなったように見えたのは――私の気のせいでしょうか。
私は、椅子の一つに腰を下ろしました。
「これは奇跡ではありません。
ただの椅子と、ただの食事と、ただの人の手で作った場所」
自分に言い聞かせるように、呟きます。
「それでも――
誰かの“今日生きる理由”には、なれるかもしれませんわね」
ここから先は、私の魔法ではなく。
精霊王の気まぐれでもなく。
通い続ける人の足。
食事を作る手。
話を聞く耳。
椅子を磨く布切れ。
そんな地道な“積み重ね”の出番です。
「さて。明日から、焦がしクッキーもメニューに加えませんとね」
ぽつりと冗談をこぼすと、
遠くで、ひとつだけ光の粒がちいさく揺れました。
それが賛成なのか、呆れなのかは――
明日、ここに来る人たちの笑い声で、確かめるといたしましょうか。




