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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第2章_奇跡の積み重ねと、こちらを向く世界の視線
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誰のものでもない席と、“ここにいていい”という許し

 市場での騒ぎから、まだ数日しか経っていないというのに――私の机の上には、すでに新しい報告書が何通も積み上がっていました。


「見放された者たちの様子は?」


 朝の執務室。私は手近な一通を取り上げながら、家臣に尋ねました。


「騒ぎのあと、表立って暴れる者はいません。ですが……」


 家臣は言いよどみ、手元のメモを見下ろします。


「酒場の片隅で、“俺たちがいなきゃよかったんだろう”と笑う者が増えた、と」


「笑う、のですか」


「はい。笑っているようで、目はぜんぜん笑っていない、と」


 報告書の紙が、指先の下でかさりと鳴りました。


 怒鳴って暴れていたときよりも、ずっと厄介な気配です。


「火が一度だけ大きく燃えたあと、灰の下でじわじわ燻っているような……そんな印象ですな」


「……ええ。だからこそ、いま何か形にしておかねばなりませんわね」


 私は、ひとつ息を吸い込みました。


「“居場所がない”という感覚は、

  それだけで人の心を少しずつ削っていきますもの」


◆ ◆ ◆


 その日の午後。執務室には、いつもより多くの椅子が並べられていました。


 地元の神父。

 数人の家臣。

 孤児院や市場を代表する領民たち。


 私はその全員の顔を見渡し、ゆっくりと言葉を切り出しました。


「今日は、ひとつ提案があって皆さまにお集まりいただきました」


 視線が、自然とこちらに集中します。


「“見放された者”と呼ばれている人たちがいます。

  精霊に、教会に、あるいは家族に。

  誰からも“ここにいていい”と言われなかった人たち」


 神父の肩が、かすかに揺れました。


「ですがそれは、彼らだけの話ではありませんわ。

  信仰に迷っている人。

  教会に行くには勇気がいるけれど、ひとりで抱え込むにはつらすぎる人。

  どの派閥にも属したくない人」


 市場代表の女性が、ぎゅっと膝の上で指を絡めます。


「その人たちが、少なくとも“座っても叱られない椅子”に座れる場所を、ひとつ作りたいのです」


 私は、用意しておいた簡単な図を机の中央に広げました。


「教会ではなく、領主邸でもなく。

  精霊への祈りの場にもせず、教義を語る場にもせず。

  ただ、“誰でも相談できて、一緒にご飯を食べられる場所”。

  そのような小さな家を、この街の一角に設けてはどうかと」


 神父が、慎重な声音で口を開きました。


「……それはつまり、“信仰の外側”の場所を作る、ということでしょうか」


「“信仰を捨てた人のための場所”ではありませんわ」


 私は首を振ります。


「信仰と現実のあいだで迷っている人。

  教会の椅子にも、精霊の祝祭にも、今はうまく座れない人。

  その人たちが、一度息をついてから、

  “それでももう一度祈ってみようか”とか、“今日は祈らずに働こう”とか――

  自分で選べるように整えるための場所です」


 沈黙が、短く流れました。


 家臣のひとりが、おそるおそる手を上げます。


「そこでは、何を……?」


「温かい食事を出します」


 私は迷いなく答えました。


「仕事を探している人には仕事の相談を。

  家でうまく眠れない人には、眠れるまで話し相手を。

  祈りたくなった人には、教会の場所を案内できるように」


 神父が、目を伏せたまま小さく息をつきました。


「……それは、たしかに必要かもしれません。

  ですが――教会からは、“信仰離れを助長している”と見られる恐れもあります」


「だからこそ、最初から隠れては作りません」


 私は微笑みました。


「監査団にも、きちんとお話ししましょう。

  これは“教会の代わり”ではなく、

  “教会に戻る道が途切れてしまった人”のための、もう一本の小道であると」


◆ ◆ ◆


 数日後。

 私は、その言葉をそのまま、監査団の代表者の前で繰り返すことになりました。


 応接室の空気は、いつにも増してひんやりとした緊張に満ちています。


 監査団代表の神父――灰色の瞳をした細身の男が、静かに問い返しました。


「そのような場所が、

  “教会離れ”を加速させるとはお考えになりませんか、公爵令嬢」


「むしろ――」


 私は、真正面からその瞳を見返しました。


「“教会の外に座る椅子が一つもない”状態こそ、

  人を追い詰める原因ではありませんこと?」


 代表の眉が、わずかに動きます。


「祈りに行っても救われなかったと感じた人が、

  どこにも行き場を見つけられず、

  怒りと恨みだけを抱えて酒場の隅で笑う。

  その姿は、教会にとっても本意ではないはずです」


「……続けなさい」


「そこで“一度休む椅子”があれば、

  “もう一度だけ信じてみようか”と思えるかもしれません。

  あるいは、“信じられないままでもいいのだ”と、

  それでも人として生きていけるやり方を学べるかもしれません」


 私は、静かに言葉を継ぎます。


「教会で祈る人も。

  精霊に感謝する人も。

  どちらにもなれなくてうずくまっている人も。

  全部ひっくるめて、この国の民ですもの」


「理屈としては、理解できます」


 代表は、手元の書類をぱらりとめくりました。


「ですが――そこが“異端の温床”になったとき、

  責任はどこが取るのですか」


「そのときは、私が取ります」


 即答した私に、レオンの視線が一瞬だけこちらをかすめました。


 監査神父の口元に、ごくわずかな皮肉めいた笑みが浮かびます。


「ではせめて、いくつか条件を。

  そこでは教義を語らないこと。

  礼拝に代わる儀式を行わないこと。

  活動内容は、定期的にこちらへ報告すること」


「妥当な線だと思いますわ」


 私はうなずきました。


「それと――」


 代表の目が、少し鋭さを増します。


「この場がもし、“教会を否定する声”だけで満たされるようになったなら。

  そのときは、速やかに閉じていただきたい」


「ええ。

  そのときには、きっと私自身が“ここは間違った方向へ進んでいる”と気づいているでしょうから」


 返した私の言葉に、彼はほんの一瞬だけ目を細めました。


「あなたは――危うい方ですね、公爵令嬢」


「よく言われますわ」


 冗談めかして返すと、

 彼は「では我々も“危うさ”の見張り役として、引き続き務めを果たすとしましょう」とだけ言い残し、部屋を後にしました。


(……きっと背後で、陛下やアルベルト様、セラフィナ様も動いてくださったのでしょうね)


 正式な合意の裏には、たいてい見えない手綱がいくつも通っています。

 そのことを思いながら、私は小さく息を吐きました。


「さあ、場所を決めませんとね」


◆ ◆ ◆


 選ばれたのは、教会からも領主邸からも少し離れた、小さな空き家でした。


 元は倉庫として使われていたらしく、壁は煤け、窓は小さく、床板はところどころ軋みます。


「……立派とは言えませんわね」


 私は腰に手を当てて、天井を見上げました。


「でも、悪くありません。

  どこの“色”もついていない、という意味では、むしろ最適ですわ」


 袖をまくり上げ、埃を払う。

 椅子を磨き、古い棚を布で拭く。


 気づけば、エプロン姿で動き回る私を見て、

 レオンも侍女たちも苦笑しながら手伝い始めていました。


「リヴィア様、そこは私たちに任せて――」


「いいえ、こういうのは、少しは自分の手を動かしておきたいのです。

  後で“椅子の座り心地が悪い”と言われたら、文句の言い先がはっきりしますでしょう?」


 カーテンの色を決めるだけでも、侍女と真剣に頭を悩ませます。


「明るすぎると、落ち着かないでしょうか」

「暗すぎると、昼間も沈んで見えますわね……」


 そこへ、顔を覗かせた子どもたちが声をあげました。


「わぁ、ここ、なにするとこ?」

「リヴィア様の、新しいおうち?」


「いいえ、ここは“みんなの家”ですわ」


 私は笑って答えました。


「お腹がすいたとき。

  誰かに話を聞いてほしいとき。

  どこにも行きたくないけれど、一人でいたくもないとき。

  そんなときに、ふらりと座りに来ていい場所です」


「ふーん……じゃあ、ぼくも来ていい?」


「もちろん。宿題を持ってくるのも歓迎ですわよ。

  ただし、宿題をサボるために来たら、私も一緒に悩みますからね」


 子どもたちの笑い声が、埃っぽかった空間に少しずつ温度を足していきました。


◆ ◆ ◆


 初日。

 簡素な看板に「憩いの小屋」とだけ記されたその場所に、思ったよりも多くの人が集まりました。


 市場帰りの人。

 孤児院の子どもたち。

 教会帰りに、少しだけ寄ってみたという老人。


 そして――扉の外で、しばらく立ち尽くしてから、ようやく一歩を踏み入れる影。


 見放された者たちの顔も、ちらほらと見えました。


「ようこそ」


 私は入口で、一人一人に声をかけます。


「ここでは、あなたが“見放されたかどうか”は問いません。

  信心深いかどうかも、精霊に好かれているかどうかも」


 ケイルが、少し気まずそうに視線を逸らしました。


「……本当に、ただ飯食いに来てもいいのかよ」


「ただ飯を食べたぶん、あとで椅子を磨いてくださればチャラということで」


 そう言うと、彼はふっと息を漏らして笑います。


「……ったく、“見放された者”にまで雑用させる公爵令嬢なんて、聞いたことねえよ」


「おや、では“働ける場所がある”という意味で、

  少しは見放されておりませんわね」


 そんなやり取りをしているあいだに、

 テーブルには温かいスープと簡単なパンが並べられていきます。


「祈りたい方は、食後に教会へ行かれるといいですわ。

  今日はただ、お腹と心を一緒に温める時間、ということで」


 小屋の中に、小さな笑い声と、皿の触れ合う音と、ため息まじりの本音が混ざり合っていきました。


 それは決して、華やかな奇跡ではありません。

 誰かの病が一瞬で治るわけでも、貧困が消えるわけでもない。


 けれど――

 「今日をやり過ごすための力」が、

  ほんの少しだけ増える光景でした。


◆ ◆ ◆


 夜。

 最後の客を見送り、片付けを終えたあと。


 私はひとり、薄暗い小屋の真ん中に立っていました。


 灯りを落とした室内に、窓から月の光が差し込みます。

 その光の中で――ふわり、と何かが浮かび上がりました。


 小さな光の粒。


 暖炉の上。

 磨き上げた椅子の背もたれ。

 テーブルの角。

 今しがたまで、誰かが座っていた場所。


 そこを、透明な指先で確かめるように、精霊たちが触れていきます。


 耳の奥で、声がした気がしました。


『ここは悪くない』


 懐かしい、少しだけ傲慢な響き。


 精霊王の声だと、すぐにわかりました。


『人の手で作った“居場所”というものも、

  案外、嫌いではない』


「それは光栄ですわ」


 私は、誰もいない小屋の中で、そっと微笑みました。


「でしたらどうか――

  “選ばれなかった人”のことも、

  完全には見放さないでいてくださると嬉しいのですが」


 返事はありませんでした。


 けれど壁に触れた光の粒が、

 ほんの少しだけ明るくなったように見えたのは――私の気のせいでしょうか。


 私は、椅子の一つに腰を下ろしました。


「これは奇跡ではありません。

  ただの椅子と、ただの食事と、ただの人の手で作った場所」


 自分に言い聞かせるように、呟きます。


「それでも――

  誰かの“今日生きる理由”には、なれるかもしれませんわね」


 ここから先は、私の魔法ではなく。

 精霊王の気まぐれでもなく。


 通い続ける人の足。

 食事を作る手。

 話を聞く耳。

 椅子を磨く布切れ。


 そんな地道な“積み重ね”の出番です。


「さて。明日から、焦がしクッキーもメニューに加えませんとね」


 ぽつりと冗談をこぼすと、

 遠くで、ひとつだけ光の粒がちいさく揺れました。


 それが賛成なのか、呆れなのかは――

 明日、ここに来る人たちの笑い声で、確かめるといたしましょうか。


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