辺境への風と、“守る場所”を選ぶこと
王都の朝の光は、どうしてこうも上品ぶっているのでしょうね。
窓から差し込む柔らかな陽射しに、磨き上げられた机。
そこへ、封蝋で固く閉じられた手紙が一通、静かに置かれました。
「辺境からでございます、リヴィア様」
侍女の声が、いつもよりわずかに硬いのを、耳が拾います。
「……ありがとう。あとで、と言いたいところですけれど――」
嫌な予感というものは、大抵よく当たるものですわね。
私はすぐに封を切りました。
◆ ◆ ◆
『敬愛するリヴィア様へ』
そこまでは、いつものような始まりでした。
けれど、続く文字は、ところどころインクが滲んでいます。
『最近、辺境教会に“中央からの視察”が頻繁に来るようになりました。
祭りや孤児院への支援について、
「信仰心を乱す」「贅沢である」との指摘を受けております』
胸の奥が、冷たい手でぎゅっと掴まれたように痛みました。
『リヴィア様が始められた福祉施策の一部も、
「信徒があなたに頼りすぎている」と言われ、
教会から中止を求められております』
手紙を書いたのは、
いつもは穏やかな筆致の、辺境の若い神父でした。
なのに、今この紙面には、焦りと迷いが滲んでいる。
『信徒の中には、
教会の言葉とリヴィア様の言葉、
どちらを信じるべきか分からないと、涙をこぼす者もおります。
わたくし自身もまた、どう導くのが正しいのか……』
そこで一度、文は途切れていました。
にじんだインクが、そのまま乾いています。
『このままでは、
「リヴィア様に頼った者」と「教会だけを頼る者」の間で、
見えない溝が生まれてしまうのではないかと、恐ろしいのです』
最後に、小さく書き足された追伸。
『最近、“見放された者”が増えているように感じます。
祈っても、精霊たちの気配が遠いと訴える人が多いのです。
それがわたくしの思い過ごしなら良いのですが……』
“見放された者”。
精霊からの烙印――かつて教会がそう呼んだ人たちの姿が、
ぼんやりと記憶の底から浮かび上がります。
精霊が距離を置き始めた人々。
教会が「神の御心に反した」と切り捨ててきた人々。
その二つが、
重なり始めている――?
「リヴィア様……?」
気づけば、封書を持つ指先が震えていました。
侍女の不安そうな声に、私はゆっくりと息を吐きます。
「大丈夫ですわ。ただ――少し、風向きが変わってきたみたいですの」
◆ ◆ ◆
「今、あなたに王都を離れられると、教会側の声だけが残ってしまう」
王太子殿下は、手紙を読み終えると、眉間に深い皺を刻みました。
「公開討議の余韻が冷めないうちに、
彼らは“現場”を締めることで巻き返しを図っている。
辺境への監査も、その一環だろう」
「ええ。予想していたとはいえ、
実際にこうして“揺れている声”を目にすると……」
私は手紙の一文を指でなぞりながら言いました。
「教会の言葉と私の言葉、どちらを信じるべきか迷っている信徒がいる、とのことです。
それだけ真面目に考えてくれている証でもありますけれど――
混乱させてしまっているのも事実ですわ」
「あなたのせいだけではない」
殿下は、少し強い口調で遮りました。
「そもそも教会が、
民衆の信仰を“自分たちへの服従”と混同してきた積み重ねがある。
そこに君の存在が風穴を開けつつあるだけだ」
「風穴を開ける風が、
あまりに強すぎれば家ごと飛びますけれどね」
自嘲気味に返すと、
壁際に控えていたレオンが、じっとこちらを見ていました。
「辺境は、私が守ると約束した場所です」
王太子に向き直り、私ははっきりと言いました。
「王都で盤上の駆け引きを続けている間に、
守るべき土台が削られていくのを見ているだけ、というわけにはいきませんわ」
「だが、君が王都から離れれば――」
「教会は“リヴィア不在の王都”を利用するでしょうね」
殿下の言葉を継ぐように、
扉の外から、静かな声が響きました。
「失礼いたします。入ってもよろしいでしょうか」
セラフィナでした。
呼び出した覚えはありませんが、
王城の噂の速さを考えれば、私が悩んでいることなどすぐに伝わるのでしょう。
「どうぞ、聖女候補様。
ちょうど、わたくしたちの“足りない部分”について話していたところですわ」
軽く冗談を添えると、セラフィナはかすかに笑いました。
けれど、その瞳の下には、また少し濃い影が増えています。
「わたくしは、しばらく王都を離れられません」
入室するなり、彼女はそう宣言しました。
「教会上層部は、今回の公開討議を“誤りではなかったが、行き過ぎもあった”と総括したいようです。
その調整と、内部の火消しに、わたくしも駆り出されております」
「“行き過ぎもあった”……」
思わず苦笑が漏れます。
「つまり、私たちが少し喋りすぎた、ということですわね」
「ええ。特に、わたくしが」
セラフィナは自嘲気味に微笑みました。
「ですから、辺境の信仰を守るには、
やはりあなたご自身の声も必要でしょう。
王都からの文書だけでは、
“都合の良い書き換え”がいくらでもできてしまいますもの」
それは、
王都の聖女候補としてではなく、
ひとりの少女セラフィナとしての本音でした。
「あなたが向かうのなら、どこへでも」
レオンは、相も変わらず簡潔です。
「それが、あなたを守るべき私の役目ですから」
「……本当に、あなた方は」
私は三人の顔を順に見渡しました。
「どうしてこうも、私の“欲張り”を後押しなさるのかしら」
「君の欲張りが、
この国にとってはちょうどいいのかもしれない」
王太子殿下が、肩をすくめます。
「王家は、自分の領土で手一杯だ。
教会は、自分たちの教義を守ることで頭がいっぱいだ。
そんな中で、“辺境も王都も守りたい”などと本気で言えるのは、
君くらいなものだろう」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
ため息まじりにそう返しながら、
私は心の中で、ひとつだけ確認しました。
――私は、どこを守りたいのか。
“辺境”か、“王都”か。
そんな二択を迫られたような気がして、
思わず笑ってしまいます。
(どちらか一方だけ選べるなら、
とっくに楽になっていますわよね)
◆ ◆ ◆
夜。
与えられた部屋の机に地図を広げると、
王都と辺境と、その間の街道が、
いやに遠く見えました。
王都。
私が再び足を踏み入れてしまった、追放の街。
辺境領。
私が「帰る場所」だと言ってもらえるようになった土地。
教会本部。
王都の中心から、見えない糸を張り巡らせている塔。
指先で、それぞれをなぞりながら考えます。
「ここに留まって戦うだけが、
“盤上のプレイヤー”ではありませんわね……」
王都に籠もって言葉を尽くすこともできる。
辺境に戻って、土台から支え直すこともできる。
どちらか一方に籠城するのは、
一見賢いようでいて――
どちらかを捨てる選択でもあります。
「私が守りたいのは、“辺境”か“王都”か――
そう問われれば、答えはきっと“両方”です」
ぽつりと、声に出しました。
「欲張りだと笑われても、
その欲張りを手放したら、
きっと私は私でなくなってしまいますもの」
机の上の小さなインク壺が、
蝋燭の火を映してゆらゆら揺れています。
「風、ですわね」
ふと、昼間のセラフィナとの会話を思い出しました。
教会と王家の間を、
祈りと言葉が行き来する“風”。
そして今、
辺境と王都の間を、
誰かが行き来しなければ――
どちらも“都合の良い物語”だけで塗りつぶされてしまう。
「……私が、その風を引き受ければよろしいのですわね」
口にしてみると、不思議としっくりきました。
「風は、どこにも根を張れない代わりに――
どこへでも届けるでしょう。
ならばせめて、この国の隅々に、
同じ明日の匂いを運べる風でありたいのです」
決めてしまえば、あとは早い。
王太子には、
教会の暴走を抑える“王都側の抑え”として動いてもらう。
セラフィナには、
教会内部での火消しと情報の橋渡しを頼む。
そして私は――
一度辺境へ戻り、
教会監査とどう折り合いをつけるか、
信徒たちの不安をどう受け止めるかの方針を、
実際の顔と声を見ながら決め直す。
紙の上でいくら立派な文書を作っても、
それだけでは、揺れている心には届きませんもの。
「……決まり、ですわね」
そう呟いたところで、
控えめなノックが扉を叩きました。
「リヴィア様、旅支度の件でお伺いしてもよろしいでしょうか」
侍女の声です。
「ええ、ちょうどお願いしようと思っていたところですの」
◆ ◆ ◆
「そのドレスはやめてくださいませ」
侍女が、予想以上にきっぱりと告げました。
「まぁ。似合わないと?」
「いえ、たいへんお似合いではありますが……
また泥だらけになりますから」
指差されたのは、王都用に用意された、
裾がたっぷりと広がる礼装ドレス。
たしかに、辺境の街道を馬車で揺られ、
村の土を踏むには、あまりに「泥を集めそう」な形状ですわね。
「たしかに……
あれは“泥を集める魔道具”みたいな裾でしたわね」
真顔で納得すると、侍女がふっと笑いました。
「動きやすく、かつ領主としての威厳も保てるお召し物を、
こちらでいくつか選んでおきます」
「よろしくお願いいたしますわ。
どうやら私は、“威厳”よりも“歩きやすさ”に心を奪われがちなので」
旅支度のリストを確認しながら、
ふと地図に視線を戻しました。
王都と辺境を結ぶ街道に、
小さな印をいくつか付けていきます。
「ここに、美味しいパン屋さんがあるんですのよ」
いつの間にか背後に来ていたレオンが、
地図を覗き込みました。
「補給地点の確認ですか?」
「ええ、とても大事な戦略ですわ。
兵站が整ってこその遠征ですもの」
「たしかに」
レオンは真面目な顔のまま頷きます。
「次の印は?」
「こことここは、
以前、村人たちが“星がよく見える丘”だと言っていた場所ですわ」
「……軍略的には、視界が開けた高所ということですね」
「そういう解釈も、できなくはありませんわね」
無駄情報に付き合ってくれるのは、
彼の優しさなのか、訓練された忍耐力なのか。
いずれにせよ、
こうして地図の上に小さな楽しい印を増やしていく作業は、
これから向かう道の険しさを、
ほんの少しだけ和らげてくれました。
◆ ◆ ◆
夜更け。
旅支度を一通り確認し終えて、
机の前に座り直します。
辺境から届いた手紙を、もう一度開きました。
『信徒の中には、
教会の言葉とリヴィア様の言葉、
どちらを信じるべきか迷っております』
「迷ってくださっているだけ、まだ良いのですわ」
そっと呟きます。
「何も考えずに従うほうが、ずっと楽でしょうに。
それでも迷っているのなら――
その迷いごと、抱えて帰りましょうか」
紙の端を指先で整え、
封筒に戻しました。
「静かに締め付けてくる手のほうが、
剣よりもよほど始末に負えませんわね」
けれど――
「選べる道は減りました。
でも、まだ“選ぶ権利”までは奪われておりませんもの」
王都と辺境。
神と精霊。
教会と民。
そのどれか一つだけを守るために、
他を切り捨てるような選択は、
きっと私にはできない。
だからこそ、風になる。
根を張れない代わりに、
どこへでも届く、しつこい風に。
王都の塔の上にも。
辺境の祭りの広場にも。
小さな診療所の窓にも。
同じ明日の匂いを、
少しずつでも運べるように。
「……さて。明日は早起きですわね」
立ち上がった肩が、
少しだけ軽くなっていました。
守る場所を選ぶのではなく、
守る場所同士を結ぶことを選んだからでしょうか。
それとも単に、
“また泥だらけになる”覚悟ができて、
諦めがついただけかもしれませんけれど――
どちらにせよ、
風はもう、動き始めてしまったのですわ。




