静かな報復と、絞られていく選択肢
変化は、いつだって足音を立てずにやって来ます。
公開討議から、三日ほど経った朝でした。
「おはようございます、リヴィア様」
王城の回廊で、いつものように声をかけると――
こちらを振り返りかけた若い神官が、ほんの一瞬だけ固まりました。
そのまま、全く別の方向を向いて、早足で行ってしまう。
(あら……?)
少し前までなら、彼はにこやかに頭を下げ、
「討議のときのお言葉、とても考えさせられました」と、
こっそり耳打ちしてきたはずです。
今日は、それがない。
偶然かもしれません。
寝不足か、急ぎの用事があったのかもしれません。
けれど、午前中だけで同じようなことが二度三度と続けば――
それはもう、偶然とは呼べませんわね。
廊下の向こうで、神官たちが小声で何かを話しています。
私の姿が視界に入った瞬間、話題を切り替える、その不自然な速さ。
胸の奥に、ひやりとしたものが落ちました。
(……静かに、始めましたわね)
堂々と糾弾するのではなく、
味方になりそうな人たちの足元から、じわじわと冷やしていく。
剣を抜くよりも、よほど始末に負えないやり方ですわ。
◆ ◆ ◆
「診療所に、監査、ですって?」
昼過ぎ。
王都の貧民街にある小さな診療所へ足を運ぶと、
迎えてくれた医師が、困った顔でそう言いました。
「ええ。急に教会の方がお見えになりましてね。
帳簿やら薬品の出入りやら、いろいろと細かくお調べになっているんです」
診療所の隅では、見慣れない神官たちが、
棚を一つ一つ確認しながら、何やら書き付けています。
患者たちに問いただしている者もいますね。
「ここでどんな治療を受けた」「どのくらいの頻度で通っている」――
そんなことまで聞く必要が、果たしてあるのでしょうか。
「先日、こちらで魔法を使わせていただいたことも、
やはり報告に上がってしまったのでしょうね」
私がそう言うと、医師は申し訳なさそうに首を振りました。
「責めるつもりはありません。
むしろ、あの日のことを話さずにはいられなかったのでしょう。
それだけ、皆さんが助かったと感じておられたということですもの」
ただ、その「よかった」が、
別の場所では「都合が悪かった」に変わってしまう。
それだけの話です。
「ご迷惑をおかけしてしまいましたわね」
「迷惑だなんて。……ただ、少し、胸がざわつくのです」
医師は、疲れた目で診療所の奥を見やりました。
「必要な調査のつもりなのかもしれません。
けれど、見ていると、
“何かを見つけるため”ではなく“何かを決めるため”に来ているように見える」
その言葉に、私は小さく息を吐きました。
「静かに締め付けてくる手のほうが、
剣よりもよほど厄介ですものね」
私がそう言うと、医師は苦笑しました。
「さすが、公爵令嬢ともなると、
そういうものも見慣れておられるのですか」
「慣れはしませんわ。
ただ、似た手は、辺境でも見ましたから」
税を上げるのではなく、
役所の窓口を一つ潰すことで貧しい人を自然にあきらめさせるやり方。
誰か一人を断罪するのではなく、
“全体の方針”という名目で、特定の村だけを干からびさせる方策。
剣を振るよりも、ずっと静かで、ずっと長く効く毒。
教会も、王都も、それを使い慣れているようでした。
◆ ◆ ◆
城へ戻る途中、グラウベルクからの手紙が届きました。
執事長が束ねて送ってくれた定期報告。
封蝋を割る指に、自然と力が入ります。
『先日、教会本部よりの使いが参りました』
最初の一行は、淡々としていました。
『礼拝の様子、説教の内容、
領内の教会と領主家の関係について、細かく問われました』
よくある監査、といえば、それまでです。
ただ、続く文面が、胸に重くのしかかりました。
『井戸の件、病村の件など、“奇跡”と噂される出来事について
「どこまでリヴィア様の名を出しているのか」とも問われました』
私の名を、ですか。
『あまり余計なことを口にすべきではない、とも言外に釘を刺されましたが……
領民の前で、リヴィア様の功績を伏せろと言われても、それは無理な相談です』
読みながら、自然と目が細まっていきます。
『この手紙も、どこかで見られているかもしれません』
そこから先は、明らかに筆跡が慎重になっていました。
『もしこれ以上、お屋敷にご迷惑がかかるようでしたら――
どうか、私のことはお気になさらないでください』
最後の一文を読んだ瞬間、
思わず、手紙を握る指に力がこもりました。
(……私のことはお忘れください、ですって)
喉の奥に、何かがせり上がってくるのを、
ぐっと飲み込みます。
忘れられるわけがありません。
彼らはただ、私を守ろうとしているだけ。
こちらに火の粉が飛ばないよう、
自分たちが少し離れればいいと、
そう信じてくれている。
(けれど、それは――)
“味方であるはずの人たちを守るために、
距離を取る”という選択。
頭のどこかで、一度は浮かび上がった考えでした。
私の名を口にするだけで狙われるのなら、
いっそ私のことなど忘れてしまったほうが、
彼らは平穏に暮らせるのではないか、と。
ただ、それを選んでしまったら。
(私は、本当に“危険物”になりますわね)
誰にも触れられず、誰からも見られず、
ただ遠くで箱に詰められて、
好きなときに開けられて、好きなときに捨てられる。
それは――
私が、最初に辺境へ追いやられたときに
恐れていた未来、そのものです。
窓の外に目を向けると、
王城の中庭で、侍女たちが洗濯物を干していました。
白い布が、寒風の中でばたばたと揺れています。
彼女たちの誰かのもとにも、
いつか私のせいで何か圧力がかかるのかもしれない。
そう思うと、胸が締め付けられるようでした。
◆ ◆ ◆
「セラフィナ様、また上層部に呼ばれてるんですって」
そんな噂を耳にしたのは、
その日の夕方、侍女たちの控え室の前を通りかかったときです。
「昨日も一昨日も、お戻りになったのは夜更けだって」
「公開討議のこと、相当お叱りを受けているらしいわよ。
“聖女候補としてふさわしい物言いかどうか”とか何とか……」
扉の隙間から聞こえてきた言葉に、
思わず足を止めてしまいました。
そうしてはいけないと思いつつも、
耳が勝手に続きを拾ってしまう。
「でも、セラフィナ様だって、あんなに祈って……」
「声、落としなさいってば。聞かれたら、今度は私たちが呼び出されるわ」
慌てて会話を切り上げる気配。
私はそっと、その場を離れました。
ほどなくして、廊下の先から人影が近づいてきます。
白い修道服。
疲れを隠しきれていない、細い肩。
「セラフィナ様」
声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせました。
けれど、すぐにいつもの穏やかな笑みを作ります。
「リヴィア様。……お散歩の途中で?」
「ええ。考え事をしながら歩いておりましたら、
気づけばこの辺りに」
本当は、あなたの様子を見に来たのですけれど――
とは、口には出しませんでした。
近づいてみると、セラフィナの目の下には、
うっすらとクマが見えます。
「無理をなさっていませんか」
私が問うと、彼女は一瞬だけ目を伏せました。
「……わたくしは、神に仕える者ですから」
そう答える声は、
どこか、よく出来た祈りの文句のように、滑らかでした。
けれど、その滑らかさが、
かえって心配を掻き立てます。
「教会に、ですか。それとも――」
問いかけかけて、言葉を飲み込みました。
彼女自身が、その違いを自分の中で整理できているかどうか、
分からなかったからです。
セラフィナは、ほんのわずかだけ表情を緩めました。
「リヴィア様こそ。
あの日から、いろいろと……風当たりが強くなったのでは?」
「そのようですわね。
まだ直接、焚き火に放り込まれてはおりませんけれど」
冗談めかして言うと、彼女は小さく笑いました。
「わたくしたち、
どうやら同じ火の周りを、
少しずつ別の角度から回っているようですわね」
「そう、かもしれませんわ」
短い会話でした。
廊下の向こうから、彼女を呼ぶ声がして、
セラフィナはそちらへ向かっていきます。
その背中を見送りながら、
私ははっきりと理解しました。
(狙われているのは、私だけではありませんわね)
あの公開討議で、“神の側”から半歩だけ外へ出た彼女もまた、
教会にとっては、早めに形を整え直しておきたい存在なのでしょう。
私を庇ったというより、
自分の信じるものを言葉にしただけの少女を――
“ふさわしい聖女”に戻すために。
◆ ◆ ◆
その夜。
自室の机に、紙を広げて状況を書き出してみました。
公開討議――終了。
民心――揺れ。
教会――水面下で報復と巻き返し。
辺境――監査開始。
王太子――慎重な距離を保ちつつも、全面的な敵ではない。
セラフィナ――教会から圧力。
レオン――当然、味方。ただし王都では動ける範囲に制約あり。
「このまま受け身でいれば――」
ペン先が、紙の上で止まりました。
「そのうち、“事故”か“粛清”の形で、
片が付けられますわね」
これは、悲観ではなく、冷静な見通しです。
私を直接裁くには、まだ民衆の目がうるさい。
けれど、誰も見ていない場所で足をすくう方法なら、
王都と教会はいくらでも知っている。
ならば、こちらから動かなければ。
「今、選べる手は――」
紙の端に、小さく列挙していきます。
王太子と協力し、
“教会以外の権威”から私の存在意義を保証させる手。
レオンを通じて、辺境に防衛と情報網を再整備させ、
万が一王都で何かあっても、グラウベルクが即座に孤立しないようにする手。
セラフィナと連絡を取り合い、
教会内部の亀裂をこれ以上彼女一人がかぶらないよう、
発言のタイミングを調整する手。
どれもこれも、危うい綱渡りです。
失敗すれば、誰か一人どころか、
まとめて奈落へ落とされてもおかしくない。
それでも――
「ゼロではありませんわね」
ペンを置き、椅子にもたれました。
「選べる道は、たしかに減りました」
公開討議の前と比べれば、
私が何もしなくても生き延びられる道は、
ほとんど潰されてしまっています。
「でも、まだ“選ぶ権利”までは奪われていませんもの」
狭い道しか残っていないのなら、
その狭い道を、自分で選んで歩くしかない。
足を止めれば、
きっと一番簡単な形で踏み潰されるだけです。
「狭い道ほど、足を止めたほうが踏まれやすい――
本当に、世の中はよくできていますわね」
思わず苦笑が漏れました。
そのとき、不意にお腹がぐう、と鳴ります。
「……こういうときに限って、甘いお菓子が恋しくなりますわね」
つい、机の引き出しを開けてしまいました。
中には、書類と地図と、予備のペン。
肝心のお菓子は、影も形もありません。
「戦略会議の燃料が、枯渇しておりますわ……」
しょんぼりと引き出しを閉めたところで、
扉が控えめに叩かれました。
「リヴィア様、少しよろしいでしょうか」
侍女の一人が、銀の小さな盆を抱えて立っていました。
「今日は、お疲れだろうと思いまして。
厨房から、クッキーを少し分けていただきました」
盆の上には、小さな焼き菓子が何枚か。
香ばしい匂いが、ふわりと広がります。
「……これはまた、絶妙なタイミングで」
「戦略会議のお供にでも、どうぞ」
彼女の冗談に、思わず笑ってしまいました。
「ええ、ありがたく。
戦略会議の燃料として、慎重に一本ずつ消費いたしますわ」
侍女が下がったあと、
私は本当に、一枚だけをつまみました。
さく、と小さな音。
甘さが、じわじわと舌に広がります。
「……もう一枚くらいなら、許されますわよね」
誰にともなくそう呟いて、
もう一枚だけ、口に運びました。
教会は、静かに手を伸ばし始めている。
王都の空気も、ゆっくりと悪い方向へ傾いている。
選択肢は、確かに絞られていく。
それでも――
この小さな甘さを味わえる余裕が、まだ残っているうちは。
(負けてなるものですか)
クッキーの最後のひとかけらを口に放り込みながら、
私は、新しい紙を一枚取り出しました。
そこに書くのは、
“追い詰められた公爵令嬢の嘆き”ではなく。
“次に打つ手”の候補ですわ。




