揺れる民心と、“奇跡”の値段
いつの間にか、大聖堂の空気は変わっていました。
最初はただ、私という“異端かもしれない存在”を吊るし上げるためだけの場――
そういう温度だったはずなのに。
「うちの娘も、あの方に助けられて……」
「でも、神父様は危ないって……」
「精霊なんて、気まぐれだって聞くぞ」
「けど、村が救われたのも本当だろう?」
討議の合間。
進行役の神官が「静粛に」と促しても、
ささやき声は、もう完全には止まりません。
壇上からは、一人一人の顔までは見えません。
けれど、分かるのです。
今の私の言葉を、どこかで肯定した人。
ますます不安になって、眉をひそめた人。
どちらとも言えず、ただ胸の前で手を組んで目を閉じた人。
さまざまな揺れが、視線と沈黙と、わずかな呼吸の音になって、
こちらへ押し寄せてきます。
(……揺れてくださっているのですね)
それはきっと、教会にとっては厄介なことでしょう。
けれど私にとっては――少なくとも、“何も考えずに石を投げるだけの人”ばかりではない証拠でもありました。
その揺れに、真っ先に気づいたのは、やはり教会側でした。
「――お忘れなきように」
枢機卿代理ルシアスが、わざと一段階低い声で言いました。
聖堂の石壁に、その声だけが冷たく反響します。
「奇跡には、必ず代償が伴います」
ざわめきが、すっと引いていくのが分かりました。
「力を使う者が払う代償だけではありません。
その周りにいる者たちも、その影響を受ける」
ルシアスは、まるで優しい説教でもしているかのように、穏やかな笑みを浮かべています。
「あなたが今後も好き勝手に力を振るえば――」
視線が、私に突き刺さりました。
「精霊の王とやらの気まぐれ一つで、
この国全体が災厄に巻き込まれるかもしれません」
民衆席のあちこちで、「たしかに……」「それは困る」といった小さな声が上がります。
恐怖は、信仰よりも早く伝播するものですわね。
私は、思わず唇を噛みました。
病の村で、無茶な詠唱をした夜。
あの白い世界で、「我のお気に入り」とささやいた声。
先日、街道で襲撃を受けたとき、自動的に発動した防御の術。
私に刃を向けた男の背筋を、目に見えない何かがぞっとなぞった、あの瞬間。
(……たしかに)
もし、この力が本気を出せば。
国一つを沈めることも、不可能ではないのかもしれません。
そう思ってしまう自分が、誰よりも怖い。
ルシアスは、それを見透かしたような目をしていました。
「あなたは、自らの内に宿る“災厄の種”を、
本当に制御できるとお思いですか?」
その問いに、即座に「はい」とは答えられませんでした。
私が沈黙した一瞬を、
彼は逃しません。
「あなたが病村で倒れたことは、すでに報告で知っています」
ルシアスの声が、さらに大聖堂に行き渡ります。
「その場にいた者たちの証言によれば――
あなたは、命を落としていてもおかしくなかった」
周囲の神官たちが、わざとらしく眉をひそめました。
「無茶な詠唱。
精霊の王と名乗る存在への、過度な依存。
もしそこで、あなたが命を落としていたなら、
あの村はどうなっていたと思われますか」
民衆席から、「……たしかに」「それは……」という囁きが漏れます。
ルシアスは、さらに続けました。
「あなたの力に頼った者たちは、
あなたを喪った絶望と共に、信仰そのものをも失ったかもしれない」
胸の奥に、冷たい針が一本刺さるようでした。
「それとも――あなたの死をもって、
精霊の王とやらが暴走し、
あの村ごと、あるいは辺境ごと、
地図から消されていたかもしれない」
そこまで言われると、さすがに民衆席からも悲鳴に近い声が上がりました。
「奇跡は、剣と同じです」
ルシアスは、やさしく言います。
「持たぬ者にとっては憧れとなり、
持つ者にとっては誇りとなる。
しかし、ひとたび振り下ろされれば、
そこにあるのは血と破滅だけかもしれない」
彼は、少しだけ首をかしげました。
「あなたは、その剣を、
自分一人の判断で振るい続けるつもりなのですか」
沈黙。
今度は、本当に大聖堂全体が黙りました。
(……ずるい質問ですわね)
心の中で、苦く笑います。
“はい”と言えば、無謀な危険人物。
“いいえ”と言えば、この場で自分を否定することになる。
どちらにしても、彼らにとっては好都合なのでしょう。
けれど――
「たしかに、代償はあります」
私は、一歩、前に出ました。
石床の冷たさが、足裏からじわりと伝わってきます。
「私が病の村で倒れたことも、本当です」
民衆席から、どよめきが起こりました。
噂としては知っていたのでしょう。
本人の口からそれを聞くのは、また別の重さがあるはずです。
「全員を救えたわけではありません。
私が行っても間に合わなかった命も、
私が行ったからこそ、期待してしまった人もいました」
喉が、ひりつきます。
「これから先も、同じことが起こるでしょう」
自分で言いながら、胃がきゅっと縮むのが分かりました。
「“奇跡”を見込まれて、
私のところへ助けを求める人は、きっと増えていきます」
大聖堂のどこかで、「そうだ」という声が聞こえました。
あの病村の少年かもしれません。
あるいは、王都の小さな診療所で出会った子どもか。
「そのすべてに応えられるほど、
私は強くありません」
正直に、言いました。
「精霊王が、どこまで私のわがままを聞いてくださるのかも分かりません。
私自身、この力がどこまで伸びて、どこから先が危ういのか――
はっきりとは分かっていません」
ルシアスの目が、「ほら見たことか」と言いたげに細まります。
でも、その前に続けました。
「だからこそ、怖いのです」
少しだけ、声が震えました。
「自分の力が怖い。
期待されることが怖い。
“奇跡”という言葉が、いつの間にか、
私から人の手を奪ってしまうのではないかと怖い」
民衆席のあちこちで、誰かが息をのみました。
「……けれど」
そこから先は、震えさせるわけにはいきません。
「だからといって、
目の前で沈んでいく人の手を、
“代償が怖いから”という理由で離してしまう自分には――
どうしてもなりたくないのです」
私は、胸の前で握った拳に、力を込めました。
「奇跡は、ただで降ってくる贈り物ではありません」
言葉が、自然と形になっていきます。
「使う側にも、見る側にも、重さを残します」
私の体に残った疲労。
救えなかった人の名前。
“頼れば何とかしてくれる”と、どこかで期待してしまう視線。
「それでも――」
私は、壇上から、民衆席の闇を見渡しました。
一人一人の顔は見えません。
けれど、そこに“誰か”がいることだけは、確かです。
「その重さごと、誰かと分け合って生きていきたいのです」
ざわめきが、今度は、少しだけ温度を変えました。
「私は、自分が使う力の危うさから、目を逸らすつもりはありません」
ルシアスの視線を、真正面から受け止めます。
「だからこそ――
あなた方にも、“ただ奇跡を求めるだけの民”ではなく」
言いながら、自分で少し笑いそうになりました。
こんな場で、こんなお願いをするのは、図々しすぎるかもしれません。
「一緒にこの国を支える人であってほしいのです」
静寂。
ほんの一瞬、時間が止まったように感じました。
次の瞬間。
ぽつん、と。
どこからともなく、小さな拍手の音が聞こえました。
誰か一人が、遠慮がちに、けれどはっきりと手を叩いています。
それに、別の一人が続きました。
さらにもう一人。
波紋のように、拍手の輪が広がっていきます。
もちろん、全員ではありません。
腕を組んだままの貴族。
顔をこわばらせた神官たち。
戸惑って手を出せないままの人も、大勢いました。
それでも――
(……十分ですわ)
その瞬間、そう思いました。
揺れてくださる人がいて。
迷いながらも、自分の手で選ぼうとしてくださる人がいて。
私の言葉を拒んだ人たちでさえ、
きっと今夜は、眠る前に少しだけ考えてくださるでしょう。
それなら、それで。
「本日の討議は、これまでといたします」
進行役の神官が、慌てたように声を張り上げました。
「結論については、王城と教会における今後の協議に委ね――」
いつものように、曖昧な言葉でまとめようとしています。
(つまり、“今ここでは決めない”ということですわね)
それが、この場で出せる精一杯なのでしょう。
広間全体が、すでに教会だけの支配下ではなくなってしまったのだから。
私は、深く一礼しました。
「本日は、このような席を設けてくださり、ありがとうございました」
皮肉半分、本心半分。
壇上を降り、
大聖堂の裏手に続く廊下へ出た瞬間――
足が、がくりと震えました。
「っ……」
慌てて壁に手をつきます。
冷たい石の感触が、やけに頼もしく感じられました。
「リヴィア様!」
すぐに駆け寄ってきたレオンが、肩を支えてくれます。
「大丈夫です。少し、膝が思い出しただけですわ。
私が、ただの人間であることを」
そう冗談めかして言ったつもりでしたが、
声が少し掠れてしまいました。
「喉も……随分と酷使されましたからね」
自分の胸に手を当てて、ふう、と息を吐きます。
「これで、もう後戻りはできませんわね」
ぽつりと漏れた本音に、レオンが目を細めました。
「最初から、戻る道など残してこられなかったでしょう」
「そうでしたわね」
思わず、笑みがこぼれます。
緊張の糸が切れた瞬間――
不意に、鼻の奥がむずむずしました。
「……っくしゅん」
小さなくしゃみが出てしまい、
レオンがほんの少しだけ目を丸くします。
「だから言ったでしょう。
大聖堂は冷えます。風邪をひかれますよ」
「討議の最中に震えていたら、それこそ“震える異端者”ですわ。
終わるまで我慢しましたの」
「我慢の方向性が、おかしい気がしますが」
呆れたように言いながらも、レオンの手は優しく、
私の肩から離れません。
部屋に戻り、扉を閉めてから、
ふと鏡の前に立ちました。
「……討議の最中、変な顔はしていなかったでしょうか」
真剣に、自分の表情筋を確認します。
眉間にしわが寄りすぎていなかったか。
口角が引きつっていなかったか。
「いつも通り、凛としておられましたよ」
レオンの即答に、少しだけ肩の力が抜けました。
鏡の中の私は、
ほんの少しだけ、疲れた顔をしていました。
けれど、その目は――
自分で言うのも何ですが、
ちゃんと、前を見ているように思えました。
「……さて」
小さく息を吸い込みます。
「これで、“ただの辺境の公爵令嬢”には戻れませんわね」
王都の民心は揺れ、
教会は私を完全には切り捨てられず、
私は私で、異端と呼ばれる覚悟を、
自分の言葉で引き受けてしまったのですから。
「ならばせめて――」
鏡の中の自分に向かって、そっと微笑みました。
「この“奇跡”という枷ごと、
誰かの明日を増やすために使ってみせませんとね」
そう呟いたとき、
どこか遠くで、教会の鐘が鳴りました。
祝福か、警告か。
そのどちらと決めつけるには、まだ早い。
けれど、少なくとも一つだけは、はっきりしていました。
(――本当に、ここからですわね)
揺れる民心と、“奇跡”の値段。
その両方を抱えたまま、
私はもう一度、窓の外の王都を見下ろしました。




