公開討議の幕開けと、“異端”の名乗り
大聖堂の扉は、思っていたよりもずっと、静かに開きました。
重たげな音を立てて軋むものとばかり思っていましたのに――油が差してあるのか、それとも、ここを通る人々の祈りが重みを吸い取ってしまったのか。
冷たい空気が、胸の奥までまっすぐに流れ込んできます。
(……寒い、というより、薄いですわね)
石造りの高い天井。
白く磨かれた柱。
足音が、想像していたよりもよく響いて、私が一歩進むたびに、音が天井に触れてから、ゆっくりと戻ってくるようでした。
視線。
それが、肌に刺さるように集まってくるのを、はっきりと感じました。
「……あれが」「偽りの聖女だって」「いいや、病の村を救ったっていう――」
ざわめきが、波のように左右から押し寄せます。
上段には貴族と高位の神官たち、
中段には、王都の裕福な民たち、
そして一番後ろには、貧民街からも歩いてきたのでしょう、粗末な服の人々が立ち見で列を作っていました。
祭壇前には長い机が置かれ、その背後に椅子が並んでいます。
教会側の高位神官が数名。
聖女候補セラフィナ。
そして――私の席。
(……本当に、“異端用”に一脚だけ、きちんと空けてくださったのですね)
思わず、皮肉な感想が浮かびました。
「リヴィア様、こちらです」
隣を歩くセラフィナが、小さく囁きます。
彼女の白いローブの裾が、光を受けて柔らかく揺れました。
私は頷き、階段を上って壇上へ向かいます。
――そのとき。
(あ)
裾を、かかとの裏で踏みかけました。
危うく、派手に前のめりになりかけたところを、隣にいたレオンの視線を感じて、背筋をぐいっと引き伸ばします。
(いけません、ここで転んだら、異端でも聖女でもなく、
“間抜けな公爵令嬢”として名が残ってしまいますわ)
喉の奥で、乾いた笑いがひとつ転がりました。
用意された椅子に腰を下ろすと、石床から冷たさがじわじわと伝わってきます。
指先が、少しだけ冷えている。
(緊張、ですわね)
深呼吸。
胸いっぱいに、石と香の匂いを吸い込みました。
◇ ◇ ◇
「これより――」
進行役の神官が立ち上がり、よく通る声を大聖堂に響かせました。
「王都大聖堂における公開討議、
『神と精霊への信仰の在り方、および近時の“奇跡”について』を始めます」
言葉一つ一つが、石壁に跳ね返って、何度も耳に届きます。
「発言者として壇上におられるのは――
教会本部より、枢機卿代理ルシアス様。
王都大司教ハロルド様。
聖女候補セラフィナ様。
そして、辺境グラウベルク領より、リヴィア・フォン・グラウベルク公爵令嬢」
自分の名が読み上げられた瞬間、
ざわめきが、さざ波ではなく、ひとつ大きな波になって押し寄せました。
「本物か」「若いな」「あの夜、うちの親父の熱も――」
途切れ途切れの声が、耳の端をかすめていきます。
(……期待と不安と恐怖を混ぜて、熱した鍋に流し込んだような視線、ですわね)
これだけの人の前で、何かを言おうとしているのだとしたら――
少なくとも、喉だけでも潤しておくべきでした。
(どうしてこういうときに限って、紅茶を飲みすぎて、お腹ばかりたぷたぷしているのかしら)
どうでもいい愚痴が、緊張の合間にふっと浮かびます。
枢機卿代理ルシアスと呼ばれた男が、正面から私を見据えました。
神官服に身を包み、柔らかな微笑みを浮かべている――
けれど、その瞳の奥には、冷たい光が宿っています。
「まず最初に、グラウベルク公爵令嬢リヴィア殿に、お尋ねしましょう」
「はい」
声が震えないように、ゆっくりと返事をしました。
「あなたが辺境の病村において行った、一連の行為――
高熱に倒れた村人たちが、一夜にして回復した出来事を、
人々は“奇跡”と呼んでおります」
ざわ、と再び広間が揺れます。
「あなたにとって、あれは何でしたか」
短い問いでした。
けれどその中には、「神の奇跡と名乗るつもりか」「精霊の術と言い切れるのか」という意図が絡み合っているのが、ありありと見えました。
(ここで、“奇跡でした”と言ってしまうのは――きっと、罠、ですわね)
喉の奥が、きゅっと締まります。
私は、かすかに唇を湿らせてから言いました。
「……あの夜、私が成したことを、
私一人の力で成し得たとは、思っておりません」
まずそう前置きして、視線を落とさずに続けます。
「村の人々の願いと、私のわがままを乗せた祈りに、
応じてくださった存在がいました」
大聖堂の空気が、ほんの少しだけ変わりました。
期待、あるいは警戒。
「それは――神ではなく、精霊の王と、その眷属たちです」
ざわ、と、今度は明確な波が立つのを感じました。
精霊の名を、この場ではっきりと口にしたこと。
そして、「神ではなく」と言い切ったこと。
ルシアスは微笑みを崩さず、少し身を乗り出しました。
「では、あなたは神よりも精霊を頼りとするのですか?」
「いいえ」
私は首を振りました。
「私は、“誰に祈るべきか”を、誰かに強制する立場にはありません」
正面の席の、何人かの眉が動きました。
「神に祈る人もいるでしょう。
精霊に語りかける人もいる。
何にも祈れず、ただうつむいて耐える人もいる」
病村で、祈ることすら諦めかけていた母親たちの顔が浮かびます。
「私は、その誰の祈りも否定したくありません」
「しかし、あなたは――」
今度は大司教が口を開きかけましたが、私はその言葉に重ねるように続けました。
「ただ」
広間に、石が一つ落ちたように、静けさが降りました。
「目の前に苦しむ人がいて、
そこに、手を差し伸べる力が私の側にあったとき」
自分の胸に手を当てます。
「それを使わずにいられるほど、
私は信仰深くはありません」
ざわ、と。
今度の波は、先ほどよりも複雑でした。
「おかしな言い方かもしれませんけれど――」
私は苦笑を浮かべます。
「“何もせずに祈るだけの正しさ”を、
私は持ち合わせていないのです」
民衆席のどこかで、小さく笑う声が聞こえました。
それは嘲笑ではなく、どこか救われたような笑い。
一方で、前列の神官たちの顔は、いくらか硬くなっていきます。
「リヴィア殿」
ルシアスの声が、少しだけ冷たさを増しました。
「あなたがそうした考えを持つのは、個人として自由でしょう。
しかし――その力を、人々の前で振るうとき」
彼は手を広げ、民衆席を示しました。
「民は、あなたの行いを“神の御業”と混同する危険があります。
あなたは、自らを聖女と名乗るつもりはありますか?」
予想していた問いでした。
私は、はっきりと首を横に振りました。
「ありません」
迷いなく、その二文字を口にします。
「私は聖女ではありません。
神の代わりにも、教会の代わりにもなれません」
胸の奥が、少しだけ軽くなりました。
「ただ――」
大聖堂の空気が、わずかに揺れます。
「“今日、生きたいと願う人たち”の代わりに、
少しだけ声を上げることなら、できるかもしれないと思っただけです」
病村の少年。
辺境の子どもたち。
王都の診療所で、力なく笑っていた女性。
そういう人たちの顔が、次々と胸に浮かびます。
「私は、神様の御名を騙るつもりはありません」
言い切りました。
「もし異端と呼ばれるのだとしたら――」
一度だけ、ゆっくりと息を吸い込んで。
「“見て見ぬふりをしないほうを選ぶ異端”として、ここに立っております」
広間が、しん、と静まり返りました。
さっきまで囁き合っていた人たちが、
一瞬だけ、言葉を失ったようでした。
最前列の席で、皺だらけの手をぎゅっと握りしめていた老女が、
そっと胸の前で手を組むのが見えます。
その瞳には、涙が光っていました。
もちろん、すべての人が頷いたわけではありません。
「民衆を煽っている」「危険だ」と顔に書いている神官もいる。
「かっこつけているだけだ」と鼻で笑う貴族もいるでしょう。
それでも――
私の言葉は、少なくとも、
誰にも届かないまま、宙で消えてしまったわけではない。
胸の奥で、そう確信できました。
(……少なくとも、“黙って吊るされる”つもりは、ありませんわ)
長い机の下で、そっと自分の膝を握りしめます。
震えが、ほんの少しだけ収まっていく。
討議は、まだ始まったばかり。
これから、もっと厳しい問いが飛んでくるでしょう。
教義や言葉尻をとらえられ、
揚げ足を取られる場面もあるかもしれません。
それでも。
(異端の席というのなら――)
私は、壇上から広間を見渡しました。
(せめてその席で、“誰のために異端になったのか”だけは、はっきりさせておきたい)
高い天井の上で、ステンドグラスを通した光が、
色とりどりの影を石床に落としていました。
その中に、私の影も、小さく混ざっています。
神に近い誰かの影でも、
聖女の影でもない。
ただの、一人の人間の影として。
――さあ、幕は上がりましたわね。
心の中で、誰にともなくそう告げながら、
私は、次の問いを待ちました。




