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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第2章_奇跡の積み重ねと、こちらを向く世界の視線
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王都の影と、小さな診療所の奇跡

 王城の塔から眺めた王都は、灯りの海でした。


 整えられた石畳、まっすぐ伸びる大通り、

 色とりどりの衣服をまとった人々。

 けれど――あの光が照らしていない場所が、必ずあるはずです。


「……王太子殿下」


 執務室の一角、地図の前で彼と向かい合って、私は切り出しました。


「もし許されるのでしたら、この街の“底”も見ておきたいのです」


「底、ですか」


 アルベルト殿下は、片眉をわずかに上げました。

 驚きというより、「やはりそう言うだろう」という表情です。


「貧民街や、小さな診療所があると伺いましたわ。

 辺境の村と同じように、病や飢えと戦っている方々が」


 一瞬だけ、殿下の視線が私を通り越して、窓の外をかすめました。


「……本来なら、客人を通す場所ではありません」


「客人ではなく、辺境を預かる一人の領主としてお願いしています」


 そう言うと、殿下は小さく息を吐き、肩をすくめて微笑みました。


「君は、本当に“見て見ぬふり”が嫌いだね」


「ええ、とても」


「分かりました。公式には“視察”という形にしましょう。

 レオン殿と護衛を数名つけます。……気をつけて」


 最後の一言には、王太子としてではなく、一人の人間としての心配が滲んでいました。


「ありがとうございます。殿下」


 私は礼をしてから、ほんの少しだけ笑ってみせました。


「この街の光だけを見て帰るには、私は少々、欲張りすぎますので」


◇ ◇ ◇


 王城から馬車でしばらく行くと、整った石畳は、徐々にその顔を変えていきました。


 石の隙間が大きくなり、

 やがて石自体が途切れ、

 土と、昨日の雨が残したぬかるみが足元に広がります。


 窓から覗く路地には、

 洗いざらしの布をまとった子どもたちが裸足で走り、

 壁にもたれかかる大人たちが、日陰の中でうつろな目をして座り込んでいました。


 王城の前で見た衣服の色彩とは違う、

 くすんだ灰色と、土の色。


 それでも、その中で笑い声は確かに存在していて、

 子どもたちの甲高い声が空気をすり抜けていきます。


「……辺境だけが、特別に苦しいというわけではありませんのね」


 思わず口から漏れた言葉に、対面の席に座るレオンが頷きました。


「王都は、人が多い分、影も濃くなるだけです」


「影が濃いほど、灯りが必要になりますわね」


「必要な灯りが、いつも届くとは限りませんが」


 レオンの言葉には、皮肉ではなく、ただの現実がありました。


 馬車が止まり、御者が扉を開けます。


「ここが、例の診療所の近くです」


 外に出ると、王城の中庭とは別世界の空気が、肺に入り込んできました。


 湿った土と、人いきれ、

 どこからか漂う煮込みの匂い――そこに、うっすらと、

 消毒薬と血の混ざった匂いが重なっています。


 私は裾を少し摘み上げ、ぬかるみで汚さないよう注意しながら歩きました。

 護衛たちが周囲にさりげなく散り、レオンが半歩前に出る。


 貧民街の奥へと進むにつれて、

 建物は低く、壁はひび割れ、

 窓枠にはガラスの代わりに布や板が打ち付けられていました。


 そんな中に、一軒だけ、扉の上に小さな木板が掲げられています。


『診療所』


 削りかけの文字が、雨に打たれて少し滲んでいました。


「ここです」


 レオンが静かに告げ、扉を軽く叩く。


「どうぞ」


 中から返ってきた声は、疲れていながらも、どこか張りのある男の声でした。


◇ ◇ ◇


 中は、想像していたよりも明るく、そして狭い空間でした。


 削れた床板の上には、簡素なベッドが三つ。

 足りない分は、藁を詰めた布が床に直接敷かれ、その上に人々が横たわっています。


 隅の棚には、瓶に入った薬草と、粗末な包帯、

 その横に置かれた桶の水は、わずかに濁っていました。


 中央に立つ男――四十代半ばほどでしょうか。

 伸びかけの髭と、くたびれた白衣。

 目の下の隈さえなければ、きっと穏やかな顔立ちなのだと分かる目をしていました。


「グラウベルク辺境公爵令嬢、リヴィア・フォン・グラウベルクと申します」


 私は一礼しました。


「王太子殿下の許可をいただき、視察という形で伺いました。

 突然押しかけてしまって、申し訳ありません」


 医師は目を瞬かせ、それから慌てたように頭を下げました。


「こ、これはこれは……! わざわざ、こんな場所へ……」


「こちらこそ、こんな場所に来させていただいて、感謝しておりますわ」


 私は、わずかに微笑み、室内を見渡しました。


 高熱にうなされている子ども。

 咳を抑えながら丸まっている老人。

 仕事中に怪我をしたと思しき青年。


 辺境の村で見た光景と、何も変わりません。


 ただ、ここが王都の片隅だというだけ。


「……もし、差し支えなければ」


 私は医師に向き直りました。


「できる範囲で、お手伝いをさせていただけませんか」


 医師の肩が、小さく震えました。


「手伝い、ですって……?」


「ええ。

 私は“聖女”ではありませんが、水を少しきれいにすることと、

 熱をわずかに下げるお手伝いくらいなら、できるかもしれません」


 大規模な詠唱をするつもりはありません。

 ここで“病村の夜”を再現することが、正しいとは思えませんでした。


 この診療所には、この診療所のやり方がある。

 私は、それを踏みにじりたくはないのです。


 医師はしばらく黙ってから、深く頭を下げました。


「……こちらこそ、どうか、力をお貸しください。

 ベッドも薬も足りず、できることに限りがあるのです」


「では、まずは水から」


 私は桶の前に膝をつきました。


 濁った水面に手をかざし、

 小さく息を吸う。


(――どうか、この家の中だけでも)


 古語のごく短い句を口の中で転がし、

 水の精霊たちに呼びかける。


 薄く青い光が、私の指先から水面に落ちたように見えたかと思うと、

 濁りがゆっくりと沈み、透明度を取り戻していきました。


 桶の底に、砂と、小さなゴミが沈んでいく。


「……綺麗に、なった……?」


 側で見ていた助手の少女が、目を丸くしています。


「はい。これなら、消毒や口を潤すのに、少しは安心できますわ」


 私は立ち上がりながら、彼女に微笑みました。


「ただし、これは“特別な水”ではありません。

 汲んだあとで放っておけば、また汚れます。

 ですから、今まで通り、汚れたら捨てて、新しい水を汲んでくださいね」


「は、はいっ」


 少女がこくこくと頷く。


 次に、高熱でうなされている子どもたちの枕元へ向かいました。


「失礼しますわね」


 額に手を当てる。

 火傷のような熱。


 私は、冷気ではなく“熱を外へ逃がす風”をイメージしながら、

 短い詠唱を重ねました。


 額の上に涼やかな空気が漂い、

 子どもの呼吸が、ほんの少しだけ楽になったのが分かります。


 横で見守っていた母親と思しき女性が、

 唇を押さえて涙ぐみました。


「ありがとう……ございます……!」


「まだ安心はできません。

 でも、これで少し眠れれば、体が戦いやすくなりますわ」


 私はそう告げて、他のベッドへと移りました。


 傷口の炎症を抑えるために、

 火の精霊に“熱を周りへ散らす”よう頼み、

 同時に医師から薬草の膏薬を受け取って塗る。


 魔法だけに頼るのではなく、

 この診療所のやり方と噛み合わせる。


 私一人が去っても続けられる形で。


 そんなふうに動いているうちに、

 時間が経つのをすっかり忘れてしまっていました。


◇ ◇ ◇


「……ふぅ」


 ひと通りの手当てが落ち着いた頃、

 診療所の空気は、僅かにですが、さっきよりも柔らかくなっていました。


 苦しげな呻き声は、完全には消えません。

 でも、あちこちから聞こえていた咳の連鎖は、少し収まっている。


 私は袖をまくったまま、壁にもたれながら息を整えました。

 こんな時に限って、ハンカチを二枚しか持ってこなかった自分を、少しだけ責めます。


「本当に……助かりました」


 医師が、深く頭を下げました。


「水の浄化も、熱を下げる術も。

 私一人では、一晩かけてもできぬことです」


「いえ、私がしたのは“入口”と“入口のすぐ横”くらいのことですわ」


 私は首を振りました。


「傷を洗う水をきれいにして、

 熱が高すぎるところを少しだけ下げただけ。

 そこから先は、ここの薬と、あなた方の手がすべてです」


「……それでも」


 医師は、少し目を伏せてから、ぽつりと言いました。


「あなたほどの力があれば、

 この街を一晩で変えることも……できるのでしょうね」


 その言葉には、責める響きはありませんでした。

 ただ、疲労と、羨望と、諦めが、薄く混ざっている。


「一晩で街を救う奇跡、ですか」


 私は、診療所の窓から見える夕焼けの色を眺めながら、ゆっくりと答えました。


「もし本当に、そんなことができたとしても――」


 言葉を選びながら、唇に小さな笑みを浮かべる。


「明日の朝には、“元に戻ろうとする力”に押し流されてしまうのかもしれませんわ」


「元に……戻ろうとする、力」


「はい。

 税の仕組み、仕事の有無、家族の数、食べられる回数。

 この街をここまでにした“見えない流れ”が、そのままなら――」


 私は軽く指を組んで、胸の前でほどきました。


「私が一晩で水たまりを拭っても、

 翌日には、また同じ場所に雨水が溜まるでしょう?」


「……ええ。まさに、その通りです」


 医師は苦笑しました。


「雨漏りしている屋根を直さなければ、水は止まらない」


「ですから、私がここでできるのは、

 せいぜい“今日の水たまりを少し減らすこと”くらいです」


 それでも。


「今日だけでも、足を滑らせずに済む人がいるなら――

 私は、雑巾を絞る手を止めたくはありませんわ」


 そう言うと、医師はしばらく私を見つめ、それから深々と頭を下げました。


「……あなたは本当に、危険なお方だ」


「危険、でしょうか」


「はい。

 人に、明日を思い描かせてしまう分だけ」


 それは、最大級の賛辞に聞こえました。


「せめて、こうして顔を合わせた者くらいは、

 その危険に巻き込まれてみてもいいと思えます」


「光栄ですわね」


 私は少しだけ冗談めかして返し、

 腰のあたりで緊張していた筋肉が、ようやく緩むのを感じました。


「今日ここで見たものを、

 私は王城の中でも忘れません」


 それは約束というより、自分への宣誓でした。


「王都を離れる日が来ても、

 この街の“席”も一緒に、頭の片隅へ持って帰りますわ」


「席、ですか」


「ええ。

 食卓の席、ベッドの席、

 笑ってもいい場所としての席。

 この街にも、守るべき席がたくさんありますもの」


◇ ◇ ◇


 診療所を出る頃には、

 貧民街の空は、すっかり夕焼けに染まっていました。


 狭い路地に差し込む光が、

 壊れかけの窓と洗濯物を淡くオレンジ色に照らしている。


「ねえ!」


 背後から小さな声がして、振り返ると、

 先ほどの助手の少女と、一人の男の子が立っていました。


 少年の腕には、簡単な包帯。

 診療所の裏口で転んだのだと、さっき彼女が照れながら説明していた子です。


「おねえちゃん、その服、すごくきれい!」


 少女が、目を輝かせて言いました。


「あら。今日は“王城仕様”ですの」


 私はくすりと笑って、裾を少し持ち上げ、くるりと一回転してみせました。


 貧民街の泥を避けつつ、慎重に。


「わあ……! おひめさまだ!」


「お姫様というほど、優雅ではありませんわよ?」


 そう言いながらも、

 “おばさん”ではなく“お姉ちゃん”と呼ばれたことに、内心で密かに安堵している自分がいます。

 ……ええ、私はまだ、年齢を気にする程度には俗物なのです。


「ねえ、また来てくれる?」


 少年が、包帯をいじりながら、少し不安そうに尋ねました。


「……そうですわね」


 私はしゃがみ込んで、彼の目線に合わせました。


 王城から見れば、この場所は地図の端にも載らない点かもしれません。

 でも、この子にとっては、ここが世界の中心なのです。


「今度来るときは、“公爵令嬢”としてではなく、

 ただの“お姉さん”として遊びに来られるといいですわね」


「“おねえさん”!」


 少年と少女が、顔を見合わせて笑います。


「その時までに、転ぶのがもう少し減っていると、なお嬉しいですけれど」


「がんばる!」


 私は二人の頭を軽く撫で、立ち上がりました。


 その様子を、少し離れた路地の影から見ている人影があることに、

 私は気づいていました。


 痩せた男。

 粗末な上着。

 視線だけが妙に鋭い。


 彼は私と目が合うと、すぐに視線を外し、

 路地の奥へと消えていきました。


「……レオン」


「はい、気づいております」


 背後から低い声が返ってきます。


「盗賊ではありませんね。

 動きが違います」


「やはり、私がこういう場所に来るのは、

 上の方々にとっては好ましくないのでしょうか」


「民衆の支持を集めすぎる前に、

 手を打つべきだと考える者もいるでしょう」


 レオンの言葉は、診療所で医師が言ったそれと、どこか響きが似ていました。


「どちらにせよ――」


 私は、夕焼けに染まる路地を見渡しました。


 裸足で走る子ども。

 壁にもたれる老人。

 洗濯物を絞る女たち。


(ここにも、“席”がある)


 病村で見た食卓。

 辺境の祭りの焚き火の輪。

 そして今、この王都の片隅でも。


「一晩で街を救う奇跡は、

 きっと、私には扱いきれません」


 小さく呟く。


「だからせめて――

 今日、ここで笑った人たちの席を、

 少しでも“明日も続く席”に変えられるように」


 王城へ戻る馬車の中、

 私は泥で汚れた裾を気にしながら、

 掌をぎゅっと握りしめました。


 王都の塔が、夕焼け空を切り裂くようにそびえています。


 その影の下にある、この診療所の細い灯りも、

 もう、この街の一部として、私の中から切り離すことはできなくなっていました。


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