王城の盤上と、動き始めた駒たち
王城の大広間に足を踏み入れた瞬間、
辺境の粗末な集会所とはまったく違う熱気が、肌にまとわりついた。
天井から下がる大きなシャンデリア。
磨き上げられた石床に、灯火とドレスの色が揺れて映る。
楽団が奏でる穏やかな曲。
銀の皿に盛られた、小さくて綺麗なだけの料理たち。
(……遠い世界に来てしまいましたわね)
心の中でだけ、小さく肩を竦める。
本日の名目は「辺境からの客人を交えた、ささやかな懇談会」。
実際のところは、おそらく――
(“辺境の公爵令嬢”を、一目見ておきたい方々の集まり、ですわね)
王族とごく近しい者のみが参加する夜会ほどの格式はない。
けれど、その分だけ顔ぶれは雑多で、“王都の縮図”のようでもあった。
王太子派の若い貴族たち。
教会色の濃い礼装をまとった高位貴族と神官。
古い家柄を鼻にかける年配の伯爵たち。
豪奢ではないが、質の良い布を身にまとった商人上がりの人々。
それぞれが、小さな輪を作り、
笑顔の仮面を付けたまま、誰かの袖を掴み、
耳元に何かを囁いている。
「リヴィア様、少しお顔を上げてくださいませ」
隣に控える侍女が囁く。
「そんなに俯いておりましたかしら?」
「“処刑台に向かう方”のような気配が、少々……」
「まあ。それは困りましたわね。
せめて“手術前の患者”くらいの顔で済ませたいところですのに」
そんな冗談を交わす間にも、
私の周囲には、既にいくつかの視線が集まり始めていた。
◇ ◇ ◇
「これはこれは、グラウベルク公爵令嬢」
最初に声を掛けてきたのは、二十代半ばほどの男性だった。
華やかな紺の礼服。胸元には王太子の紋章を模した小さなバッジ。
「王太子殿下より、あなたのご功績については度々伺っております。
アーベント公爵家のローデリヒと申します」
(――王太子派、ですわね)
穏やかな微笑みの裏に、
“あなたは私たち側の人間でしょう?”という確信めいた色がちらつく。
「ご丁寧なご挨拶、恐れ入りますわ。
辺境の小さな領から参った身でございます。
王都の皆様の足を引っ張らぬよう、気をつけなければなりませんわね」
私が軽く肩を竦めると、ローデリヒは声を立てて笑った。
「とんでもない。
あなたのなさっていることは、むしろ――我らが目指す改革の、見本でありましょう」
「改革、でございますか?」
「ええ。
辺境グラウベルク領の施策は、王都にも噂が届いております。
井戸の再生、税の軽減、共同の食事場……」
彼は、指を折りながら列挙していく。
「もしよろしければ、それらを王太子殿下のもとで“制度”として整え、
他の領にも広げていくお手伝いをしていただけないかと」
「他の領に、ですか」
「はい。
“辺境の奇跡”を、王国全土のものに――と言えば、少々大げさでしょうか?」
彼の笑顔は、実に“善意”に満ちて見えた。
けれど。
(その“奇跡”を起こすのは、誰で、
その対価を払うのは、どこの領の民なのでしょうね)
胸の内に浮かんだ言葉は、
そのまま口には出さず、丁寧に形を変える。
「光栄なお誘いですわ。
ただ、私の成したことは、
グラウベルク領の土と人たちが、やっとの思いで積み上げたものです」
ワイングラスを持つ手を、そっと傾ける。
「私一人の名で、軽々しく“輸出”できるようなものではございませんの。
まずは、私の領で、もう少し根を張らせてから……
その上でお話を伺えれば、と思いますわ」
「慎重でいらっしゃる」
ローデリヒは、少しだけ興味深そうに目を細めた。
「辺境で生き残るために、身についた癖ですわ」
笑って返すと、彼は「いずれまたゆっくり」と礼をして、輪から離れていく。
代わるように、
白と金で整えられた礼服の一団が、音もなく近づいてきた。
◇ ◇ ◇
「グラウベルク公爵令嬢。
王都教会本部にて補佐を務めております、マティアスと申します」
額に淡い印を刻んだ中年の神官が、恭しく頭を垂れた。
「先日の病村救済におけるあなたの働き、
そして、精霊たちの動きについて――
教会としても、大いに関心を持っております」
「それは……恐れ入りますわ」
(大いに“警戒”もしておられるのでしょうけれど)
その言葉は、さすがに飲み込んだ。
「精霊は、本来、神の御心のもとに在るもの。
それに特別な親和性をお持ちのあなたを、
我々は、“正しい形”でお守りしたいと考えているのです」
「正しい形、にございますか?」
「はい。
例えば、教会の庇護下に、その力を置いていただく。
聖女候補セラフィナ様と協力し、
“神の名のもとに”奇跡を行っていただく」
マティアスは、柔らかい笑みを浮かべる。
「そうすれば、あなたも異端視されることなく、
人々の救いとなることができるでしょう。
……あなたご自身のためでも、あります」
“異端視されることなく”。
つまり今は、十分にその危うさを孕んでいる、ということだ。
「ご心配いただき、ありがたく存じます」
私は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「ですが、私の行いは、
あくまで“領主として必要だと思ったこと”に過ぎませんわ。
神の御名を騙るつもりも、
教会の権威と張り合うつもりもございません」
「それでも、結果として――」
「だからこそ、でしょうか」
そっと、言葉をかぶせる。
「私の力を、“誰かの庇護”のもとだけに置いてしまえば、
いざというとき、目の前の人を守るために、
余計な許可を待たねばならなくなるかもしれませんもの」
マティアスの瞳が、一瞬だけ細くなる。
「私は、信仰そのものを否定するつもりはありません。
けれど、“信仰しているふり”を強いることなら、
少し、苦手でして」
「……率直なお考えですな」
神官の口元から、笑みがわずかに薄れた。
「辺境の地が、
あなたのその率直さを育てたのでしょうか」
「ええ。
あちらでは、回りくどい言葉を選んでいるうちに、
誰かの手が届かなくなってしまいますから」
マティアスはしばらく私を見つめ、
やがて「本日はこのくらいにしておきましょう」と一礼して去った。
その背中にまとわりつく、
冷たい香の匂いが、鼻の奥に残る。
◇ ◇ ◇
「グラウベルク嬢」
今度は、低く渋い声だった。
振り向くと、年配の男が一人。
重厚な黒の礼服、銀の鎖。
周囲で控えているのは、似たような年格好の貴族ばかり。
「ボルケンハイン伯です」
名乗りとともに、
彼の視線が、私のドレスから肩口、首飾り、表情までを、
じろりと品定めするようになぞっていく。
「辺境で、随分と“お盛ん”なようですな」
「お盛ん、とは?」
「井戸だの、病村だの。
奇跡だの、精霊だのと騒ぎ立てている――という意味です」
彼は、薄く笑う。
「辺境は辺境らしく、
税を納め、兵を出し、
静かにしていてくれればよい」
取り巻きの老人たちが、小さく頷き合う。
「あなたの“奇跡”は、
秩序を乱しかねない。
下々が身の程を忘れ、“自分も救われて当然だ”などと思い始めたら、
国は立ち行かなくなりますぞ」
(……よくもまあ、ここまで分かりやすく)
思わず、感心すら覚えてしまった。
「貴重なご意見、ありがとうございますわ」
私は、できるだけ穏やかに微笑む。
「ただ、あいにく私の目の前にいたのは、
“身の程を知るべき下々”ではなく――
高熱にうなされて、息も絶え絶えの人々でしたの」
ボルケンハイン伯の眉が、ぴくりと動く。
「その人たちが、“救われて当然だ”と思っていたかどうかは、分かりません。
ただ、少なくとも――
“誰にも見捨てられたくなかった”のではないかと、私は思いますわ」
「理想論ですな」
「ええ。辺境では、理想を抱く余裕など、ほとんどございません」
私は首を傾げる。
「ですからせめて、
“見て見ぬふりをしない”くらいの、
ささやかなわがままは、許していただければと」
老人たちの間に、微かなざわめきが走った。
「……口の回る娘だ」
ボルケンハイン伯は、鼻を鳴らす。
「王都があなたにどのような評価を下すかは知らぬが――
あまり、余計な風を吹かせぬことです」
「風向きは、いつも上から下へだけとは限りませんもの」
思わず、アーベント公爵の言葉を思い出す。
「ときには、底から吹き上がる風もありますわ。
それが嵐になるのか、
ただの春風で済むのかは……
これから、皆様と一緒に見ていくことになるのでしょうね」
ボルケンハイン伯は、何か言いかけて口をつぐみ、
無言で肩を回して去っていった。
◇ ◇ ◇
その後も、
商人上がりの若い伯爵に「あなたの施策は実に興味深い」と持ち上げられたり、
財務官僚に「辺境の帳簿をぜひ拝見したい」と目を輝かされたり、
気づけばグラスを持つ手が、少し痺れるほどだった。
「……いっそ、井戸の中にでも隠れてしまいたいですわね」
大広間の隅、窓辺に立ってひと息つきながら、
私は小さく溜息を吐く。
楽団の音は少し遠く、
人々のざわめきが、波のように押し寄せては引いていく。
(辺境にいた頃は、
“領民たちの視線”くらいしか気にするものがありませんでしたのに)
今は――
王太子派。
教会。
保守派貴族。
実利派の若い貴族と商人たち。
それぞれの目が、
私の一挙手一投足に色を変えて突き刺さる。
好奇。
期待。
警戒。
羨望。
恐怖。
(私は今、いったい何に見えているのでしょうね)
辺境から来た、奇跡持ちの公爵令嬢。
精霊王に寵愛されているかもしれない危険物。
教会と王家の綱引きの天秤に乗せられた石。
「あなたは、どこの駒になるおつもりですか?」
不意に、肩越しに声がした。
振り返ると、
いつの間にか隣に立っていた人物がいた。
年齢も、身分も、一目で測りかねる。
装いは質素だが、布はよく、
仕草には洗練が宿っている。
(……誰、なのでしょう)
だが、私の顔を正面から覗き込んでくるその視線は、
どこか楽しげで、
そして、値踏みするようでもあった。
「駒、でございますか?」
「ええ。
王太子派にとっては、“改革の旗印”になりうる駒。
教会にとっては、“聖女の影”として利用し得る駒。
旧来の貴族にとっては、“危険な手札”として監視すべき駒。
商人たちにとっては、“新しい市場を開く鍵”となる駒」
彼(彼女?)は、指先で空に見えない盤を描く。
「この盤上で、あなたを欲しがらない陣営は、ないでしょう」
「光栄、なのかもしれませんわね」
私は、わざとらしく肩を竦めた。
「ですが残念ながら、
私には、私のために動いてくださる“盤の外”の方がおりまして」
「……精霊王、ですか?」
その名前が自然に出てきたことに、
私は一瞬だけ瞳を細めた。
「噂には事欠きませんから」
相手は肩をすくめて笑う。
「で――あなたご自身のお考えは?」
私は、窓の外に視線を向ける。
夜の王都。
点々と灯る街の光。
そのずっと向こう、見えない地平線の先に、
私の領する辺境がある。
「私が誰の駒か、ですか」
言葉を一つずつ確かめるように、口にする。
「強いて言うなら――
辺境で今日を生きる人たちの駒、でしょうか。
井戸端で水を汲む女の人や、
祭りの焚き火の端で歌う子どもたちの」
相手は、ふっと目を細めた。
「王家の駒でも、教会の駒でもなく?」
「その方々にも、それぞれ守りたいものがあるのでしょう。
それを否定するつもりはありませんわ」
私は、静かに続ける。
「ですが、私が最初に名前を呼べるのは――
あの土地で、明日食べるパンの心配をしている誰かの方です」
「……なるほど」
窓に映る相手の横顔が、
わずかに愉快そうに歪む。
「盤上の駒、とは言いましたが。
あなたの場合、
盤そのものを傾けかねませんね」
「そんな大それたこと、できるとは思っておりませんわ」
「おや。本当に?」
私は少しだけ笑う。
「せいぜい、
盤の端っこで、ひっそりと領民たちの席を増やすくらいが関の山です」
それでも――と、心の中で続けた。
(もし、その小さな動きが、
いつか盤全体を揺らすなら)
(そのときは、その揺れを、
“ざまぁ”と呼ぶ人も、“救い”と呼ぶ人も、きっといるのでしょうね)
「盤上に立たされるのは、もう慣れましたわ」
私は小さく息を吐く。
「だったらせめて、一度くらい、
自分から駒を動かしてみたいのです」
「――その瞬間を、楽しみにしておりますよ、公爵令嬢」
謎めいた相手はそう言い残し、
人々の波に紛れて姿を消した。
◇ ◇ ◇
夜会が終わり、
与えられた部屋に戻る頃には、
頬の筋肉が少し痛かった。
鏡に映る自分の顔を見て、
思わず小さく笑ってしまう。
「……笑顔を維持するのは、戦闘とは別の筋肉を使いますわね」
窓を開けると、
夜風が冷たく頬を撫でた。
眼下に広がる王都の灯り。
遥か遠くの闇の向こうにある、
グラウベルクの夜を想像する。
「ここに立つだけなら、きっと誰でもできる」
小さく呟く。
「けれど――ここで、“誰のために立つか”を決めるのは、
私自身」
王都という盤上で、
私を取り込もうとする手は、これからも増えていくだろう。
それでも。
「私は、あの辺境で、
今日も明日も水を汲み、パンを焼き、
泣いたり笑ったりしている人たちのために」
そのためだけに――
この街全体を巻き込む“ざまぁ”も、“救い”も、
必要ならば引き受けてみせる。
塔の上から見下ろす王都の灯りは、
どこまでも眩しくて、少しだけ冷たかった。




