王太子と、割り切れない後悔
王城の大扉の前に立ったとき、
自分の心臓の音が、ドレスの生地を震わせているのが分かった。
今日は「式の日」だ。
病村救済と辺境統治の功績を称える、
――と書類には記されていた、小さな表彰。
けれど私にとっては、
三年前に切り離された過去と、
正面から向き合わされる日の、始まりでもある。
「リヴィア様……深呼吸を」
背後から侍女が囁く。
「してますわ。しているつもりなのですけれど……
どうやら、肺が少し緊張しているようですの」
そんな馬鹿なことを言いながら、
私は胸元をそっと撫でた。
深い真紅のドレス。
辺境の簡素な衣とは違う、重く、よく仕立てられた布。
首元には、公爵家の紋章を象った小さな銀の飾り。
(三年前と、同じような格好ですわね)
ただ一つ違うのは――
今日は王太子の隣に立つためではなく、
一人の「辺境の領主」として、この場に立つのだということ。
「――グラウベルク公爵令嬢、リヴィア・フォン・グラウベルク様、ご入場!」
宣言の声が高く響き、
扉が、ゆっくりと開いていく。
◇ ◇ ◇
謁見の広間は、記憶よりも少しだけ狭く感じた。
高い天井に掲げられた王家の紋章旗。
広がる赤い絨毯。
左右には、整然と並ぶ廷臣たちの列。
絨毯の先、玉座の上には国王が、そのすぐ脇には――
王太子、アルベルト。
金の髪。
真っ直ぐに伸びた背。
少年だった面影を残しながら、
三年の間に「王太子の顔」になった横顔。
私は視線を僅かに伏せ、
定められた歩幅で進んでいく。
膝をつき、裾を広げ、頭を垂れる。
「グラウベルク公爵令嬢リヴィアよ」
王の声が、頭上から降ってきた。
「そなたが、辺境において病の村を救済し、
またこの一年、貧しき地を立て直すために尽力したこと――
余は、その報告に目を通し、喜ばしく思っておる」
「ありがたきお言葉にございます、陛下」
慎重に言葉を紡ぐ。
喉は乾いているのに、声だけはよく通った。
「そなたの行いは、王国の名誉である。
――ゆえにここに、褒賞を与える」
合図とともに、片側の階段を降りてきたのは、アルベルトだった。
彼は私の前で立ち止まり、
儀礼に則って口を開く。
「グラウベルク公爵令嬢リヴィア。
辺境統治および病村救済の功績を称え、この証を授ける」
差し出されたのは、
王家の紋章を刻んだ小さな勲章と、羊皮紙にしたためられた証書。
彼の声は、完璧に整った“王太子の声”だった。
私個人に向けられたものではなく、
無数の臣下に平等に注がれる、形式的な音色。
「恐れ多き栄誉にございます。
身の丈を超える誉れに恥じぬよう、
これからも、辺境のために努めて参りますわ」
顔を上げることは許されない。
それでも、わずかな空気の揺れで分かる。
アルベルトが、こちらを見下ろしていること。
「……期待している」
短い一言。
その響きの中に、私だけが知っている昔の呼び方――
「リヴィア」ではなく、「令嬢」としてではなく、
ただ「一人の少女」に向けられていた頃の声が、
かすかに混ざっている気がした。
けれど、それは、錯覚かもしれない。
◇ ◇ ◇
式が終わり、人々のざわめきが広間から溢れ出ていく。
私は廷臣たちへの形式的な挨拶を終え、
控え室へ戻ろうとしたところで、
侍従に呼び止められた。
「リヴィア様。王太子殿下が……お話があるとのことです」
「……お一人で、ですの?」
「はい。人払いをされた小部屋が用意されております」
――逃げることはできない。
そう、もう何度目か分からない覚悟を、
胸の奥で結び直す。
「承知いたしましたわ。ご案内を」
◇ ◇ ◇
通されたのは、広間の隣にある小さな応接室だった。
壁に掛けられた古い絵画と、
窓から差し込む薄い光。
真ん中には、向かい合わせの椅子が二脚。
先に部屋に入っていたアルベルトが、
私の方へ振り向いた。
彼もまた、式の時とは違う、
少しだけ力を抜いた表情をしている。
「……久しいな、リヴィア」
最初に呼ばれたのは、
かつてと同じ、ただの名前だった。
胸のどこかが、
鋭く、そして鈍く、同時に疼く。
「お久しゅうございます、アルベルト殿下」
私は、あくまで礼儀通りに一礼した。
「座ってくれ」
促され、椅子に腰を下ろす。
異様に、沈黙が長く感じられた。
昔なら、
こんな気まずさなど、少しもなかったのに。
「……辺境の暮らしは、どうだ」
先に沈黙を破ったのは、アルベルトだった。
「王都と比べれば、何もかも足りませんわ」
私は静かに笑う。
「けれど、そのぶん――
“足りないものをどう補うか”を考える余地がございます。
私のような不器用な人間には、案外向いているのかもしれませんわね」
「不器用、か」
アルベルトも、わずかに口元を緩めた。
「君は昔から、自分をそう言うが……
辺境で、病の村を救い、井戸を呼び戻し、人々の生活を立て直した“不器用”など、聞いたことがない」
「不器用だからこそ、
ひとつひとつ足を動かさなければ進めないのですわ。
器用な方々のように、全てを計算して選ぶことができませんもの」
そう言ってから、
少しだけ言葉に棘が混ざったことに気づき、自分で苦笑した。
「……あの日も、そうだったか」
アルベルトが、小さく呟く。
「“あの日”?」
「三年前、婚約を解消したあの日だ」
空気が、一瞬だけ重くなる。
彼は視線を逸らさないまま、続けた。
「私は――王家の利と、教会との均衡と、
聖女候補を中心にした“希望の物語”を選んだ。
それが、この国にとって最善だと、信じていた」
その声は、
自分を弁護するためのものではなかった。
「君を辺境に送ることが、
君の人生をどう変えるか、考えなかったわけじゃない。
けれど……あのときの私は、
“この国”を守ることしか、見えていなかった」
「“この国”という名前の、大きなものを、ですわね」
「ああ」
アルベルトの手が、膝の上で固く握られている。
「それを後悔している、と簡単に言うのは……
正直、ずるい気がする」
彼は、真正面からそう言った。
「後悔していると言えば、
少しは君への罪が軽くなる気がするだろう?
でも、あの時の決断が、
まったくの誤りだったとも言えない立場に、私はいる」
その正直さが、
遅すぎる誠実さが、
胸に刺さる。
「――ですから、“後悔”と呼んでいいのか分からない」
彼は苦しげに笑った。
「それでも、あの日の自分を思い出すたびに、
胸の奥が重くなるのも、事実なんだ」
私は、しばらく黙って彼を見つめた。
少年のように笑っていた頃のアルベルトと、
今、目の前にいる「王太子」が、
ひとつの輪郭の中に重なって見える。
「その感情を、何と呼ぶかは――」
私は静かに言う。
「私が決めることではありませんわ。
殿下ご自身が、これからの歩みの中で、
少しずつ名前をつけていかれるものなのでしょう」
「……そうかもしれないな」
アルベルトが、ふっと息を吐いた。
◇ ◇ ◇
「君が、辺境でこんなふうに力を振るうようになると、
あの日の私は、予想していなかった」
少し間を置いてから、彼が続ける。
「井戸を呼び戻し、
誰も死なせないように戦い、
病の村で精霊の力を借り、
教会とも、王都とも、向き合おうとしている君を見て……
正直、驚いている」
「私自身も、予想しておりませんでしたわ」
私は肩を竦める。
「あの日の私は、
王都で一生、殿下の隣に立つ自分しか想像していませんでしたもの」
その未来は、もう存在しない。
どこか別の世界線の物語として、
誰かの机の引き出しの中で、
ほこりをかぶっているのかもしれない。
「君が隣にいれば――」
アルベルトが、途中で言葉を飲み込んだ。
それが、「楽だった」と続くのか、
「違う未来になった」と続くのか、
彼自身にも分からなかったのだろう。
「私は、殿下の物語から降りた身ですわ」
私は、そっと言葉を添える。
「あなたが都合よく描いた“聖女と王太子の物語”に、
私は、もう登場人物として戻るつもりはありませんの」
アルベルトの瞳が、かすかに揺れた。
「……そう言われると思っていた」
「でしたら、お互いに、少しは成長しておりますのね」
わざと軽く言ってみせると、
彼も、苦笑を浮かべた。
「君を“辺境に追いやった”つもりが、
君はそこで、人の命を救う存在になった」
彼は天井の方に視線を逸らし、ぽつりと言った。
「それが、今の私には一番――都合が悪い」
「まあ」
思わず、笑いがこみ上げる。
王太子としての顔ではなく、
一人の青年としての、
正直すぎる本音。
「それなら、少しは気が晴れましたわ」
「気が晴れるのか」
「ええ。
辺境で泥と汗と血と、少しの奇跡と共に生きてきた結果が、
“殿下のご都合を悪くする”のでしたら――
これほど痛快なことはございませんもの」
アルベルトは、しばし言葉を失い、
やがて小さく笑った。
「やっぱり、君は危険だな」
「王都にとって、でしょうか。
それとも、殿下にとって?」
「両方だ」
彼の答えは、迷いなく返ってきた。
◇ ◇ ◇
「……一つだけ、願いがある」
席を立つ前に、アルベルトが言った。
「命令ではなく、個人的な願いとして聞いてほしい」
「内容によりますわね」
「君が――辺境で守っている人々のことを、
時々でいい、王都に知らせてほしい」
意外な言葉だった。
「この街にいると、
数字と報告書と噂話ばかりが飛び交う。
でも、君が守っているのは“数字”ではなく、
井戸端で笑う誰かであり、
祭りの焚き火の端で歌う誰かなのだろう」
彼は、私をまっすぐ見た。
「私は、あの日“この国”を守ると言いながら、
目の前にいた一人の婚約者を守れなかった。
だからせめてこれからは、
遠くにいる人たちの顔を、
少しでも具体的に思い浮かべながら、
この王都で判断を下したい」
その言葉は――
ずるいと言えばずるいし、
誠実と言えば、これ以上なく誠実だった。
「殿下が“後悔”という言葉を使わない理由が、
少しだけ分かった気がいたしますわ」
私は立ち上がりながら言う。
「私はあなたを、今さら許すとも、許さないとも言えません。
時間が、少しずつ答えを連れてくるのを待つしかないのでしょう」
「……ああ」
「ただひとつ、お願いがあるとすれば」
ドアノブに手をかける前に、私は振り返る。
「どうか、あの日、私たちが“何を守ろうとして、何を失ったのか”を。
それだけは、忘れないでいてくださいませ」
アルベルトの喉が、わずかに鳴った。
「君は、本当に……」
「危険、なのでしょう?」
先に言ってやると、
彼は観念したように笑った。
「――ああ。本当に、危険だ」
◇ ◇ ◇
応接室を出て、
長い廊下を歩く。
窓の外には、王都の青い空。
遠くに見える塔。
石畳を行き交う人々の小さな影。
あの日と、何も変わっていないように見える街。
でもその中を歩く私は、
もう「王太子の婚約者」ではなく、
一つの辺境を守る公爵令嬢だ。
割り切れない後悔も、
整理のつかない感情も、
きっとこの先、何度も顔を出すのだろう。
それでも――
(私はもう、誰かの描いた物語の“登場人物”としてではなく)
(自分で選んだ道を歩く“語り手”として、この先を進みたい)
そう思いながら、私は王都の廊下を歩き続けた。




