聖女候補と、三年ぶりの祈り
その名を聞いた瞬間、胸の奥で、古い傷跡がきゅう、と縮んだ。
「本日のご日程ですが――午前中に、教会直属の“聖女候補”セラフィナ様とのご面会がございます」
侍女が、いつも通り淡々と告げる。
銀の盆の上で、紅茶の表面がわずかに揺れた。
「……そう」
思ったよりも、声は静かに出た。
震えなかった自分に、少しだけ驚く。
(三年ぶり、ですのね)
婚約が入れ替わり、
私が辺境へ送られることが決まった、あの日から。
王都という舞台の真ん中で、
“国の希望”として祝福を浴びていた少女の名。
「お顔色が、少し……」
「大丈夫ですわ。もともと良すぎるほどですし」
軽口でごまかし、私は椅子から立ち上がる。
「逃げるわけには、参りませんものね」
鏡の前で、侍女が私の髪を整える。
辺境で結い上げるより、少しだけ華やかな編み込み。
城内用の淡い色のドレスに袖を通しながら、
私は何度目かになる深呼吸をした。
◇ ◇ ◇
王城の奥まった一角に、その聖堂はあった。
白い石の床。
高い天井。
外光を柔らかく砕いて落とす、淡い色彩のステンドグラス。
辺境の小さな礼拝室とは違う、
よく磨かれ、よく整えられた“神のための部屋”。
「こちらで、少々お待ちくださいませ」
侍女が一礼して下がる。
聖堂の扉が、静かに閉じられた。
祭壇の前には、既に人影があった。
白い祭服の裾が、床に淡い弧を描いている。
細い肩が、祈りの姿勢のまま、わずかに上下していた。
私は一歩だけ近づき、足を止める。
祈りを妨げるわけにはいかない。
その背中を見つめながら、
私も自然と頭を垂れていた。
(三年ぶりに、正面から“神様の部屋”に立っている気がしますわね)
辺境では、礼拝堂の隅で、ひっそりと座ることはあっても、
きちんと祈りの形を取ることは、避けてきた。
あの日から、どうしても、
心のどこかで“正面に立つ資格がない”ように思えていたから。
やがて、祭壇前の少女が、ゆっくりと手を下ろした。
「……お待たせしてしまいましたでしょうか」
振り返った彼女の瞳は、
噂に聞くような「神々しい光」ではなかった。
少し、疲れている。
それでも、まっすぐにこちらを捉える色をしている。
「いいえ。私が早く着きすぎただけですわ」
私は裾をつまみ、一礼した。
「お久しぶりですわ、聖女候補セラフィナ様」
「こちらこそ。……三年ぶり、でしょうか。
グラウベルク公爵令嬢、リヴィア様」
彼女もまた、礼を返す。
柔らかな茶色の髪が、光を受けて揺れた。
噂よりも、ずっと静かな人だと思った。
◇ ◇ ◇
聖堂の横手、簡素な椅子が向かい合うように置かれていた。
私たちはそこに腰を下ろす。
「辺境での暮らしは……いかがですか」
最初に口を開いたのは、セラフィナだった。
「そうですね。王都に比べれば、何もかも足りませんけれど」
私は少し考えてから答える。
「足りないぶん、工夫の余地がございますわ。
水も、食べ物も、人手も……
“どうすれば少しでも増やせるか”を考えているうちに、
気づけば一日が終わっております」
セラフィナの口元が、ふっと緩んだ。
「リヴィア様らしいお言葉です」
「そうでしょうか」
「ええ。……昔から、そういう方でしたから」
“昔から”。
その言い方に、少し胸が詰まる。
「セラフィナ様は、いかがですの。
聖女候補としてのお務めは」
「――務めそのものは、変わりません」
彼女は両手を膝の上に揃えた。
その指先に、私は気づいた。
白く細い指。
爪の付け根のあたりに、小さなひび割れ。
皮膚が硬くなり、ところどころ赤くなっている。
(……祈りすぎて、割れた跡)
声には出さない。
けれど、その傷が何を物語っているかは、
嫌でも想像がついた。
「祈り、学び、教会の求める“聖女像”に近づくように、と。
ここでは、それが私に与えられた役目ですから」
淡々と語りながら、
その瞳の底には、少しだけ諦めにも似た色が浮かんでいた。
「病村のことは、聞き及んでおります」
話題を変えるように、彼女が言った。
「多くの命が救われたと。
……助かった人々のことを思うと、素直に、喜ばしいです」
“精霊の力を用いた異端の行為”。
教会がそう評していると、
きっと、彼女も知っているはずだ。
それでも、今ここで彼女が口にしたのは、
教義ではなく、“命が助かったこと”への言葉だった。
「ありがとうございます」
私は頭を下げる。
「救えなかった方々も、いらっしゃいましたけれど」
「それは……」
セラフィナの指先が、わずかに震えた。
「神に仕える身であっても、
全ての命を救えるわけではありません。
私も、毎日、その事実と向き合わされています」
小さな声だった。
聖堂の石壁に吸い込まれてしまうような、
それでも確かに本音の滲む声。
この人は、
ただ“特別な位置に立たされた人”なのだと、
少しだけ思った。
◇ ◇ ◇
「……あの日のことを、恨んでおられますか」
ふいに、セラフィナが視線を落としたまま言った。
「あの日、というのは?」
「あなたと、当時のご婚約者様の件です」
空気が、少しだけ冷たくなる。
婚約の「入れ替え」が決まった日。
大人たちの笑顔と、
祝福の言葉と、
私に渡された“辺境送り”の宣告。
祭壇の上で、
両手を合わせていたセラフィナの姿。
涙を浮かべていたのか、微笑んでいたのか、
今でもうまく思い出せない。
「恨んでいるのは」
私は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「私よりも、あの日の“決定を下した大人たち”ですわ」
顔を上げたセラフィナの瞳が、揺れた。
「あなたがあの日、笑っていたからではありません。
あなたを笑わせたかった大人たちが、
私を辺境へ送ったのです」
セラフィナの指先が、きゅっと組み合わされる。
「……それでも、私は」
彼女は苦笑に似た表情を浮かべた。
「あの日、嬉しいと感じてしまった自分を、
ずっと許せないでいます。
“国の希望”だと、
“神に選ばれた”のだと、
そう言われて、
幸せだと思ってしまった自分を」
その告白は、
私だけに届くような小ささで投げられた。
私は、そっと息を吐く。
(この人もまた、“選ばれた”のではなく、“使われている”のかもしれませんわね)
白い祭服という名の衣。
祈り続けるという名の役目。
王都の人々にとっての“希望”という名の檻。
檻の形が違うだけで、
私もあなたも、同じように“捧げられた誰か”なのかもしれない。
「セラフィナ様」
私は、できるだけ穏やかな声になるように努めた。
「もしあの日、私が辺境へ送られずに済んでいたとしても。
きっと私は、別の形で誰かの椅子を奪っていたでしょう。
それが、貴族の婚姻というものですわ」
「……」
「ですから、どうか。
全部をご自分の罪にして、
祈りの数を増やさないでくださいませ」
セラフィナが、驚いたように目を見開いた。
「祈りは、本来――誰かを許すためだけではなくて。
誰かと一緒に立つためのものでもありますもの」
三年ぶりに、
自分の口から素直に出た「祈り」についての言葉だった。
◇ ◇ ◇
しばしの沈黙のあと、
セラフィナが小さく笑った。
「……あなたは、危険なお方だと聞いていました」
「まあ」
思わず、苦笑が漏れる。
「教会に従わず、精霊と親しみ、
王都の秩序を乱すかもしれない“危険な公爵令嬢”だと」
「だいぶ盛って語られているようですわね」
「でも今は、少しだけ、羨ましいと思いました」
その言葉に、私は瞬きをする。
「羨ましがられるほど、自由でもございませんのに」
「いいえ。
あなたは、自分の足で歩くことを、やめておられない」
セラフィナは視線を落とし、
自分のひび割れた指先を見つめた。
「私は――祭壇の上で立ち続けることしか、許されていませんから」
胸が、ずきりと痛んだ。
「祭壇の上の祈りも、
辺境の井戸端の祈りも。
どちらも、誰かの今日をつなぐためのもの、ですわ」
私は、立ち上がり、
祭壇のほうへ一歩だけ歩み寄る。
「三年ぶりに、きちんと祈ってみてもよろしいかしら」
セラフィナが、目を瞬かせた。
「ここで、ですか」
「ええ。
あなたが毎日立っておられる場所の、
少しだけ後ろくらいで」
私は祭壇の下、石の床に片膝をついた。
両手を組むでもなく、ただ静かに俯く。
(私の歩き方が、そんなに間違っているなら――
どうか、誰かに叱ってほしい)
辺境で何度も心の中だけで繰り返した言葉を、
久しぶりに“ここ”で思い浮かべる。
(それでも。
目の前で泣いている人の前を、
見ないふりで通り過ぎる人間には、なりたくないのです)
隣で、セラフィナもまた、
静かに膝を折った気配がした。
二人分の影が、ステンドグラスの光の中に重なっている。
祈りの言葉は、声にはしない。
それでも――この三年で、
初めて“誰かと並んで”祈った気がした。
◇ ◇ ◇
聖堂をあとにするとき、
セラフィナが小さく言った。
「また、お話しできると嬉しいです」
「聖女候補様と公爵令嬢という肩書き抜きで、ですわね」
「……はい。できれば」
ほんの少しだけ、年頃の娘らしい照れが混じった笑顔だった。
「そのときは、辺境のお茶とお菓子もご用意いたしますわ。
王都のものより素朴ですが、案外悪くありませんのよ」
私がそう返すと、
セラフィナは声を立てずに笑った。
聖堂の扉が閉じ、
私は一人、王城の廊下に出る。
さっきまで胸を締めつけていた痛みは、
まだ完全には消えていない。
けれど、その中に、
別の感情が静かに混ざり始めていた。
「檻の形が違うだけで、
私もあなたも、同じように“捧げられた誰か”なのかもしれませんわね」
小さく呟いて、私は歩き出す。
どうせなら。
この檻の中で、できる限り、
自分の足で歩いてみせたい。
そう思わせてくれた、
三年ぶりの祈りだった。




