王都の塔と、歓迎の仮面
王都の塔が見えたのは、まだ日が傾ききる前だった。
遠くの地平線の向こうに、薄い青の霞を突き刺すような尖塔。
高い城壁の輪郭が、ゆっくり、ゆっくり、近づいてくる。
「あれが……」
思わず、馬車の窓枠に指をかけて身を乗り出してしまう。
風に乗って届くのは、土と石だけではない匂い――香辛料、焼けた肉、油、そして人いきれ。
辺境の空気とは、明らかに違う濃さだった。
「お久しゅうございますわ、王都」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
かつて、私はこの街に“上る”側だった。
煌びやかな婚約者の隣に座り、
初めての王都行きに胸を高鳴らせながら、
似たような角度で、この城壁を見上げたのだ。
あのときの私は、
ここから先に待つものを、祝福と期待の延長線だと信じて疑わなかった。
「……人生とは、不思議なめぐり合わせですわね」
今、私は同じ門を、まったく違う立場でくぐろうとしている。
◇ ◇ ◇
「――グラウベルク辺境領、公爵令嬢リヴィア様ご一行、ご到着!」
高らかな声が、石の門の下に響いた。
王都の紋章が刻まれた門扉の前には、
槍を構えた衛兵たちが整列している。
私たちの馬車が止まると、
彼らの視線が、一斉にこちらへ向けられた。
「身分証と、召喚状を」
儀礼的な検問。
執事が手際よく書類を差し出す横で、
私は窓越しに、門の石肌を見上げていた。
あの頃と、何も変わっていない。
変わったのは、私のほうだけ。
「リヴィア様」
護衛役の騎士が扉を開ける。
馬車を降りる前に、私は小さな手鏡を取り出した。
旅装から、簡素ながらも礼装に整えた姿。
王都向けのドレスは、辺境を発つ前に侍女たちが必死で直してくれたものだ。
(……辺境焼け、という言葉があれば、きっと今の私のためにあるのですわね)
頬に残る、ほんのわずかな日焼けの跡。
王都の淑女たちの白い肌を思い出して、
思わず苦笑いがこみ上げる。
「充分にお美しいですよ、リヴィア様」
いつの間に背後に来ていたレオンが、淡々と告げた。
「ありがとうございます。でも、今は裾を踏んで転ばないことのほうが、明日の議題より大事に思えておりますの」
自分で自分に言い聞かせるようにして、
私は深く息を吸った。
「参りましょうか」
石畳に一歩、足を下ろす。
王都の匂いが、肺の底まで流れ込んできた。
◇ ◇ ◇
城門をくぐり、王城へ向かう大通りを進む。
両脇に並ぶ石造りの店々、色鮮やかな布、
香辛料を山と積んだ屋台、笑い声、値切り合う声。
華やかで、喧しくて、目が回りそうなほどで――
それでいて、どこか冷たい。
この街は、私を追放した街であり――
今、“奇跡の公爵令嬢”として迎えた街でもある。
「本当に、よくできた冗談ですこと」
馬車の窓から見える王都の光景は、
かつて夢見た“都”そのものだった。
けれど、私の胸の内にあるのは、
憧れではなく、慎重に研がれた警戒だけだ。
◇ ◇ ◇
王城の一角に設けられた、簡易な歓迎の場。
白い壁に紺のタペストリー。
円卓には、当たり障りのない葡萄酒と菓子。
まるで小さな社交の場のように整えられている。
「グラウベルク辺境領公爵令嬢リヴィア殿。
遠路はるばる、よくぞお越しくださいました」
迎えに立ったのは、王都官僚の一人――
肩書きだけ聞けば立派な“高官”だが、
私の目には、油の乗った笑みと、
計算の色に濁った瞳しか映らなかった。
「お招きにあずかり、光栄に存じますわ」
ドレスの裾を持ち上げ、一礼する。
その隣には、教会から派遣された上級神官の姿もあった。
中年に差しかかる年頃、柔和な輪郭をしているのに、
瞳だけが、琥珀色のガラスのように冷たい。
「病村救済の一件――
精霊の力をもって多くの命を救ったと、聞き及んでおります」
「いえ、私一人の力などではございません。
村の人々と、兵たちと、医師たちと、精霊たちが、
それぞれにできることをした結果にすぎませんわ」
「謙遜を」
高官が笑う。
だが、その笑みの裏で、
私の一挙手一投足を、細かく観察している気配が隠しきれていない。
「辺境統治の手腕も、王都として誇らしく思っておりますぞ。
枯れた井戸を復活させ、魔物を退け、熱病の村を救う。
まさに“奇跡の公爵令嬢”と呼ぶにふさわしい」
「奇跡なんて立派なものではありませんわ。
せいぜい、乾いた喉を少しだけ潤す、小さな“始まり”ですの」
静かに微笑んで返す。
ところが、横で杯を持っていた上級神官が、
その言葉の一つ一つを、舌の上で転がすように味わっているのが分かった。
「……精霊とのご関係について、
少々、伺ってもよろしいでしょうか」
神官の声は、柔らかい。
けれど、その柔らかさこそが、
刃物のよく通る鞘のようで、私は背筋を伸ばした。
「関係、と申されますと?」
「辺境では、精霊への信仰や祈りが、王都以上に強いと聞いております。
しかし――神が創りし世界において、
精霊はあくまで神の僕。
その力を、人がどこまで用いて良いものか……」
一拍置いて、彼は続けた。
「神に代わって精霊の力を振るうことの意味を、
あなたは、どこまで理解しておられるのですか」
場の空気が、わずかに張り詰める。
私は、杯を置き、神官の瞳をまっすぐ見返した。
「理解しているつもりは、ございませんわ」
驚きの色が、一瞬だけ周囲に走る。
「私は、神様と張り合いたいわけではありません。
ただ、目の前で苦しんでいる人がいて、
私の手が届く場所に水と薬と、少しの精霊の力があったから――
それを差し出しただけです」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「誰かが神様に祈る心まで、私が奪ってしまうのだとしたら……
それはきっと、間違いなのでしょうね。
ですが、神様の名を盾に、
誰かの苦しみが“順番待ち”にされている場面を前にして、
見て見ぬふりをすることも、違うように思えるのです」
神官の瞳が、細くなる。
「信仰を否定するつもりはありません。
けれど、“信仰しているふりを強いること”なら、否定したいのです」
それは、辺境の小さな礼拝堂で、
一人きりの夜に何度も繰り返した言葉でもあった。
神官は、笑った。
口元だけで。
その瞳は、少しも笑っていない。
「……あなたの存在は、
神への冒涜と受け取られかねませんよ、公爵令嬢殿」
まるで、天気の話でもするような口調で。
その一言に込められた意味は、
この場にいる誰もが理解していた。
“冒涜”と呼ばれるものが、
過去にどれだけ火あぶりや断頭台を生んできたか。
「重々、承知しておりますわ」
私は、あくまで穏やかに微笑み返す。
「だからこそ、こうして王都まで参りましたの。
勝手に“危険物”と決めつけられて、
辺境に封じられたまま終わるわけには参りませんもの」
高官が、取りなすように声を挟んだ。
「まあまあ、本日は歓迎の席ですぞ。
細かな議論は、改めて正式な場で」
そうして、場の空気は再び柔らかく――見せかけの笑顔と礼儀の中へと戻っていった。
けれど、私は知っている。
歓迎の笑顔ほど、
相手の本音を隠すのに向いた仮面は、他にない。
◇ ◇ ◇
歓迎の場がひと段落し、
案内役の侍女に導かれて、王城の廊下を歩く。
磨き上げられた石床に、
私のヒールの音がこつこつと響く。
壁には、歴代の王や英雄の肖像画。
天井から下がるシャンデリア。
窓辺に飾られた花の香りまで計算された空間。
辺境の粗い石壁とは、まるで別世界だ。
すれ違う貴族たちが、
好奇と軽蔑と興味を混ぜ合わせた視線をこちらに投げてくる。
「……あれがそうよ、“奇跡の公爵令嬢”」
「聖女候補から婚約者を奪われた罪で、辺境送りになったって聞いたけど」
「いえいえ、逆ですわよ。
聖女候補様のほうが正しくて、この人は――」
囁き声が、レースのカーテンのように
あちこちから揺れている。
耳に入るたびに、胸の古傷がちくりと疼いた。
(噂は、真実よりも早く走るものですわね)
私は、視線を前に向ける。
足を止めない。それだけは、譲りたくなかった。
「こちらが、本日からお使いいただくお部屋です、リヴィア様」
侍女が扉を開ける。
広すぎず、狭すぎず。
客人用としては上等な部屋だろう。
大きな窓からは、王都の街並みが見下ろせた。
「明日のご日程を、お伝えしてよろしいでしょうか」
「ええ、お願いしますわ」
「午前中に、宰相様とのご面会と、
その後、病村救済についての聞き取り。
午後には……」
侍女が一瞬、言葉を選ぶように目を伏せた。
「“聖女候補”エリシア様との、ご対面が予定されております」
心臓が、どくん、と跳ねる。
あの日、私を“要らない駒”と決めた場で、
隣に立っていた少女の名。
今は“王都の希望”として讃えられている人の名。
「そうですか」
自分でも驚くほど、声は静かに出た。
「手配、感謝いたします。
逃げずに済ませておけばよかった過去ですもの。
いつか向き合わなければならないと思っておりました」
侍女は、はっとして私を見たが、
すぐに礼をして部屋を辞した。
扉が閉まり、ひとりきりになる。
私は、窓辺に歩み寄った。
石畳の街路を、灯りを持った人々が行き交う。
遠くで楽団の音がかすかに響く。
この街は、何事もなかったかのように、今日も夜を迎えていた。
「この街は、あの頃の私を笑うでしょうか」
それとも――。
「辺境で少しは鍛えられた、と褒めてくれるのでしょうか」
答えは、もちろん返ってこない。
それでも。
私は、窓ガラスに映る自分の姿を見つめながら、
小さく息を吸い込んだ。
「歓迎されようが、危険視されようが。
ここまで来たからには、
私の歩き方を、正面から見せるしかありませんわね」
王都の塔が、夜空に黒く浮かんでいる。
その下で、私はもう一度だけ背筋を伸ばした。




