夜の街道と、顔のない刺客
その夜の街道は、やけに静かだった。
王都までもう数日――そんな位置にある、森の切れ目の小さな野営地。
街道から少し外れた平地に馬車を寄せ、兵たちが手際よく焚き火を組み上げていく。
ぱち、と火がはぜる音と、干し肉を炙る匂い。
粗末ではあるけれど、こうした夜の食事にも、私は少し慣れてきてしまった。
「本日のところは、ここで一泊といたしましょう。
無理に進めば、かえって危険です」
レオンがそう言い、見張りの交代の順番を端的に指示していく。
私は焚き火のそばで、薄いスープを両手で包み込みながら、その様子を眺めていた。
「……星が、よく見えますわね」
見上げれば、森の切れ目の向こうに、夜の天蓋がひろがっている。
辺境の空にも星はあったけれど、
こうして街道の真ん中で仰ぐそれは、また少し違うものに見えた。
「王都が近づくと、明かりが増えて、星は見えづらくなりますよ」
「それは、少し惜しいですわね」
そんな他愛もない会話をしていた――はずだった。
ふと。
胸の奥が、ひゅ、と冷える。
焚き火のぱちぱちという音は変わらないのに、
耳の奥に入ってくる“それ以外の音”が、ふっと途切れた気がした。
(虫の声が……)
さっきまでそこかしこで鳴いていたはずの、
夜の小さな音たちが、急に遠ざかっている。
風の流れも、微妙に変わった。
空気が、薄く張りつめる。
「レオン様」
思わず名前を呼ぶと、
彼はすでに、焚き火の向こう側で立ち上がっていた。
「皆、警戒を」
低い声が、夜気を震わせる。
兵たちが、一斉に武器に手を伸ばした。
直後――。
ひゅう、と風を裂く音。
次の瞬間、私たちの焚き火のすぐ横の地面に、矢が突き刺さった。
火の粉がはじけ、炎が揺れる。
「伏せろ!」
誰かの叫びと同時に、
周囲の木立の影から、黒い影がいくつも飛び出してきた。
◇ ◇ ◇
一見したところ、それは“盗賊”の群れに見えた。
顔の下半分を布で覆い、みすぼらしい外套をまとった男たち。
だが、その動きは、あまりに揃いすぎていた。
何人かは、わざと荷車と馬のほうへ回り込み、
別の二、三人は、ほとんど迷いなく――私のいる馬車の影へと向かってくる。
「……私を、狙って」
口に出してしまった瞬間、
背中に冷たい汗が伝うのを感じた。
私は立ち上がりかけ、即座に詠唱の言葉を探す。
防御と、視界を確保するための光と――。
その肩を、がし、と掴む手があった。
「今は、身を低く」
耳もとで、レオンの声が鋭く囁く。
「ですが――」
「“ですが”ではありません」
有無を言わせぬ力で、私は馬車の影へ押し戻された。
地面に膝をついた視界の向こうで、
レオンが、ゆっくりと剣を抜く。
暗がりの中で、刃だけが白く光った。
「二列で構えろ! 前衛は馬車を囲め!」
短く飛ぶ指示。
兵たちが、それに応じて素早く動く。
黒い影が、一人、また一人と飛び込んできた。
その瞬間――レオンの動きが、変わった。
いつもは静かで、どこか控えめな彼が、
まるで別人のように、無駄のない速さで前へ出る。
一歩。
二歩。
踏み込みと同時の、短い斬撃。
刃は、相手の喉元すれすれで止まり、
代わりに腕の筋を正確に断ち切る。
悲鳴とともに、武器が地面に落ちる音。
続けざまに、別の男の膝を払う。
倒れ込んだその背を、柄で打ち据える。
(……速い)
息を呑んだ。
ああ――そうだった。
この人は、もともと“辺境の騎士”などではなく、
王都の近衛騎士だったのだ。
王城の、最前線に立つ人間。
その剣が、本気を出したらどうなるのか。
私は、今まで知らなかったのだと、痛感させられる。
「右、三!」
レオンの声と同時に、右側の兵が盾を構える。
その盾に、敵の刃が弾かれる音。
そこに、彼の剣がねじ込まれる。
次々と、黒い影が地面に転がっていく。
それでも――。
馬車の陰にいても分かるほど、
ひとつの気配が、私の背中側からじりじりと近づいていた。
正面の騒ぎに紛れて、回り込んできたのだろう。
空気が、ひやりと刺さる。
「あ――」
振り向いた瞬間、
目の前に、刃があった。
暗闇の中で光る短剣。
顔を布で覆った男が、一言も発せずに飛び込んでくる。
時間が、ほんの一瞬だけ、伸びた気がした。
(避け――)
体が追いつかない。
喉の奥が凍る。
次の瞬間、私の視界の端で、
何かがきらり、と光った。
透明な膜のようなものが、私と刺客のあいだに――
空気に線を引くように、すっと現れる。
短剣が、その見えない壁にぶつかった。
金属が石に叩きつけられたような、鈍い音。
刃が、ありえない角度で跳ね返される。
「なっ――」
刺客の男の瞳が、驚愕に見開かれた。
その瞬間、世界のどこかで、
ひどく冷たい視線が、こちらを見下ろしたような気がした。
風もないのに、焚き火の炎が一瞬、細く伸びる。
(……見ている)
白い大地。
底の見えない空。
揺らめく輪郭の“彼”が、
どこかで、私を見ている。
そんな感覚が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
「下がっていろと言ったはずですが」
背後から伸びた手が、
刺客の手首をつかみ、そのまま捻り上げる。
悲鳴。
短剣が、地面に落ちる音。
レオンが、いつの間にか私と刺客のあいだに割り込んでいた。
その剣が、男の脇腹すれすれを走る。
致命傷にはならないが、確実に力を奪う斬り方だ。
刺客は、膝から崩れ落ちる。
気がつけば、周囲の黒い影のほとんどが、
地面に転がってうめいていた。
残った数人は、すでに森の闇へと散っている。
「生かして捕らえろ! 何人かは逃がして構わん!」
レオンの声に、兵たちが動いた。
倒れた刺客の一人を、縄で縛り上げようとした、そのときだ。
男は、何かを噛み砕くように、こくりと喉を鳴らした。
「待ちなさい!」
慌てて駆け寄った私の前で、
男の口元から黒っぽい液体がこぼれ落ちる。
舌と歯の間に、砕けた小さなガラス片。
毒だ、と直感した。
「舌を――」
言い終わる前に、男の体から力が抜けた。
瞳から光が消えていく。
息を呑んだ私の耳に、
かすかな声が届く。
「……精霊の……犬め」
それは、憎悪とも嘲笑ともつかぬ、濁った響きだった。
次の瞬間には、もう、二度と何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
「……毒を仕込んでいる時点で、ただの盗賊ではありませんね」
レオンが短く言い、男の口の中を確認する。
ほかの倒れた刺客たちも、
意識のある者は固く口を閉ざし、
それすら拒むように、歯を食いしばっている。
所持品を調べても、どこの誰かを特定できるような印は見当たらなかった。
ただ、ひとりの袖の内側から、
どこかで見たことのある小さな護符が出てきたにすぎない。
「これは……」
護符には、簡素な十字とも、
別の国の紋章とも取れるような、曖昧な模様が刻まれている。
教会で使われる印に、どこか似ているような、
似ていないような。
(“匂わせ”ですわね)
こちらに、好きなように推測させるための。
わざとなのか、本気なのかすら分からない。
私は、息を吐き出した。
「負傷者は?」
「かすり傷が数名。深手は……二人。
ですが、命に別状はありません」
兵の一人が答える。
私はそちらに向き直り、
順番に傷の状態を確認していった。
腕を切られた者、足をかすめられた者。
布で圧迫し、簡単な癒しの術を重ねる。
「ごめんなさい」
思わず口からこぼれた。
「私のせいで、危険に晒してしまいましたね」
「違いますよ」
苦笑しながら、傷を押さえる兵が首を振る。
「リヴィア様がいなかったら、俺たちなんて、
“ただの護衛付きの荷物”を運んでるだけの隊です。
狙われる価値もない」
「それは、褒め言葉ですの?」
「さあ、どうでしょう」
冗談めかすその声に、少しだけ肩の力が抜ける。
それでも、胸の奥に冷たいものが残ったままだ。
倒れた刺客の、さっきの言葉――“精霊の犬め”。
(どこかで、私はもう、そう呼ばれている)
神の敵としてか。
人の敵としてか。
あるいは、ただの“危険な駒”としてか。
「これは、ただの盗賊ではありません」
レオンが私のそばに来て、小さく告げる。
「“あなたが王都に着く前に消せればよし”と考えた、誰かの手です」
「ここまでして、私を“危険”だと決めつけたいのですね」
苦く笑ったつもりだったけれど、
自分の声は少し震えていた。
レオンは、そんな私をじっと見つめる。
「怖くは、ありませんか」
「……怖いですわよ?」
否定するほうが嘘だった。
「怖くないと言えば嘘になります。
刃そのものより、
“顔のない誰か”が、私の生死に値札をつけていることのほうが、ずっと」
“消せたらいくら”と、
どこかの机の上で計算されているのだとしたら――
本当に、笑えない冗談だ。
「ですが」
私は、焚き火の残り火を見つめながら続けた。
「だからこそ、王都に行かねばなりませんわね」
「……はい」
「ここで引き返せば、
私は本当に“辺境に封じられた危険物”で終わってしまいますもの」
それだけは、嫌だった。
私がどれほど危険だと思われようと、
私自身が、自分の歩き方を諦めない限り、
まだ何かを変えられるかもしれない。
その可能性だけは、手放したくない。
◇ ◇ ◇
その夜、見張りはいつもより厚くした。
交代で眠りにつきながらも、
誰もが耳の奥を張りつめさせている。
私は、焚き火から少し離れたところに寝具を敷かれ、
毛布にくるまりながら空を見上げていた。
先ほどまでの騒ぎが嘘のように、
星は、何事もなかったかのように瞬いている。
(見えない相手ほど、厄介なものはありませんわね)
彼らの主は、顔を出さない。
名前も、肩書きも、何も見せない。
ただ、“こちらの反応”だけを見ている。
刺客を送って返り討ちにされた、という事実を、
どこかで誰かが、冷静に記録しているのだろう。
私が甘さを見せるかどうか。
怯えて引き返すかどうか。
“精霊の犬”が、どこまで噛みつくのか。
「……こういうとき用に、
何か甘いものを持ち歩くべきですわね」
思わず、小さく呟いてしまう。
隣で見張りをしていた兵が、くすっと笑った。
「次の宿場では、甘い干し果物でも探してきましょうか」
「ぜひ、そうしていただきたいですわ」
焚き火の火は小さくなり、
暗闇が少しずつ広がっていく。
その奥から伸びてくる“顔のない視線”を、
私は、真正面から睨み返すつもりで、目を閉じた。




