道中の宿場町と、“見て見ぬふり”の値段
王都へ向けて城を発って、二日目の夕暮れだった。
空は赤と紫のあいだをゆらゆらと揺れ、街道の先に、灯りの群れがにじむように浮かび上がっている。
「あれが、今夜の宿場町です」
馬上のレオンがそう告げる。
近づくにつれて、匂いが変わった。
焼いた肉と、煮込みスープと、安い酒。
馬の汗と、人いきれと、湿った土。
辺境の村とも、王都とも違う、通りすがりの者たちの匂い。
木造の二階建てがずらりと並び、軒先には提灯が吊られている。
荷馬車を停める広場の周りには屋台がいくつも出ていて、
焼き串や薄いスープを売る声が飛び交っていた。
「賑やか、ですわね」
思わずこぼした私の言葉に、
先頭を行く兵が苦笑いを浮かべる。
「賑やかさと治安の悪さは、だいたい比例します」
「それは、あまり嬉しくない相関ですわ」
軽く言い返してみせるけれど、
私の耳にも、酔っ払いの笑い声だけでなく、
怒鳴り声や、すすり泣きのようなものが混ざっているのが聞こえていた。
宿場町――。
王都へ向かう途中の者たちと、
ここからどこにも行けない者たちが、
同じ地面の上で、たまたま肩を並べて眠る場所。
通りを進み、予約していた宿の看板が見えたあたりで、
太った男が腕を組んで立っているのが目に入った。
どうやら、あの宿の主人らしい。
「ようこそおいでなすった。
王都行きで?」
私たちの馬車を見るなり、主人は愛想よく笑顔を作った。
だが、その目の奥には、値踏みするような光がある。
「最近は物騒でねえ。
街道で行方の知れねえ旅人もいるとかいないとか。
お気をつけて、ってところです」
「ご忠告、感謝いたしますわ」
とりあえず微笑みで返しながら、
その「物騒」が、単なる盗賊のことなのか、
それとも――別の何かなのかを測りかねていた。
と、そのときだった。
宿の入口の前、ちょうど荷車が通るスペースの真ん中で、
甲高い怒鳴り声が弾けた。
「このガキが! 盗みを働きやがって!」
視線を向けると、
中年の商人風の男が、
ひざまずいた少年の襟首を掴んで、容赦なく殴りつけているところだった。
乾いた音。
少年の細い体が、地面に叩きつけられる。
「ち、違うっ……! 拾っただけだよ、ほんとに!」
少年は、まだ十にも届かないだろうか。
泥で汚れた頬に、赤い手形が浮かんでいる。
周囲には、屋台の主人や客たちが
距離を取って輪を作っていた。
「またかよ……」「あの商人、気が短えからな」「関わると面倒だぞ」
そんな小声が、あちこちから漏れる。
誰も止めようとしない。
誰も、真正面から見ることすらしない。
私の手綱を持つ指が、自然と強くなった。
「リヴィア様」
すぐ横から、レオンの低い声が飛んでくる。
「今は、王都に向かう途中です」
それが、私が次に取る行動を、
分かりきっていての制止であることは分かっていた。
私だって、分かっている。
ここで騒ぎを起こせば、
この宿場町だけでなく、
王都までの道すがらに、余計な噂が広がるかもしれない。
王都は、私が何をしたか――よりも、
「どう噂されているか」を好む街だ。
それでも。
「だからといって、見て見ぬふりが許されるとは思えませんわ」
私は手綱を引いて馬を止めた。
レオンの息が、ほんのわずかに詰まるのを感じたが、
もう引き返す気はなかった。
◇ ◇ ◇
「何をしていらっしゃるのです?」
馬から降りて、その輪の中へ歩み出る。
商人は、突然声をかけられて振り返った。
赤ら顔に金の指輪。立派な布地の服。
手には、まだ少年の襟首がつかまれている。
「は? なんだあんたは」
「通りすがりの者ですわ」
そう言って、少年の前に一歩進む。
少年の肩が、小刻みに震えているのが背中越しに伝わってきた。
「こちらの子が、何か盗みましたの?」
「見りゃ分かるだろうが!」
商人は怒鳴り、地面の上を指さした。
そこには、ころりと転がった、小さな革袋がある。
中には、銅貨が数枚。
「俺の袋だ! 足元に落ちてたのを、このガキが拾いやがって、上前をはねようと――」
「拾っただけだってば! 返そうとしたのに、いきなり怒鳴ってきて――!」
少年の声は、涙でしゃくりあげている。
私は、まず革袋に歩み寄り、
しゃがんでそれを手に取った。
「中身は、ご確認になりました?」
「っ……」
商人は一瞬言葉に詰まり、
慌てて自分の腰の袋をまさぐる。
その動きが、答えを告げていた。
「もしかして」
私は、手の中の革袋をそっと振ってみせる。
「こちらは、あなたのものではないのではなくて?」
「そ、そんなわけ――」
「今、あなたの腰に下がっている袋と、
こちらの袋の刻印が違いますわ」
袋の端には、小さな紋章が焼き印されていた。
商人の腰にあるものとは、柄が違う。
本当に盗まれたのであれば、
もっと慌てたはずだ。
それに――。
「この子は、あなたが叫ぶ前に、こちらを差し出そうとしていました」
少年は、咄嗟に袋を握りしめたまま動けなくなっただけだ。
腕を乱暴に掴まれなければ、
そのままあなたに返していたでしょう。
言葉にせずとも、
周りの大人たちは薄々気づいていたはずだ。
ただ、気づかないふりをしていただけで。
「そ、それは――」
「あなたのお金は、もちろん守られるべきです」
私は、革袋を少年に預け、
代わりに自分の腰の小袋から銀貨を一枚取り出した。
「ですが――」
銀貨を、商人の手の中にそっと落とす。
「この子の尊厳は、踏みにじってよいものではありません」
静かに、けれどはっきりと告げる。
「落とした袋を拾ってくれたのでしたら、
『ありがとう』と一言おっしゃるだけで、充分だったはずですわ」
「な、なんだい、説教か……!」
商人の顔が赤くなり、周りの視線を気にするように泳いだ。
「そもそも、あんたに関係――」
「王都までの道で、この町を通る商人は少なくないでしょう」
私は、ごく穏やかな笑みを浮かべる。
「“この宿場町では、落とし物を拾った子どもが殴られる”という評判が立てば、
商売にも少なからず影響が出るのではなくて?」
屋台の主人たちが、ぴくりと肩を揺らした。
宿の主人も、慌てて間に割って入る。
「ま、まあまあ、旦那。ここはひとつ、丸くおさめて……。
ねえ坊主、ちゃんと謝っておきな」
主人の視線は、少年ではなく、商人のほうに注がれていた。
商人は、銀貨を握りしめたまま、歯ぎしりする。
「……ちっ。
べつに、袋を盗まれたって騒ぐ気はなかったさ。
ただ、こいつの態度が気に食わなかっただけだ」
それは、言い訳とも、負け惜しみともつかない言葉。
けれど、拳はようやく下ろされた。
「――二度と、このような形で怒鳴られないことを願いますわ」
私は、少年の頭にそっと手を置いた。
少年が、びくっと肩を震わせてから、
おずおずとこちらを見上げてくる。
「大丈夫?」
「……うん」
泣きはらした目の中に、まだ怯えと、
それでも消え切らない反発の光が残っている。
(よかった)
少なくとも、完全に折れてはいない。
「これからは、拾ったものは大人の人に、すぐ見せるのですよ」
「うん……」
少年は、小さく頷いてから、
きゅっと私の袖を掴んだ。
「お、お姉ちゃん、ありがとう」
――お姉ちゃん。
“おばさん”ではなく“お姉ちゃん”と言われたことに、
想像以上に胸が温かくなってしまった自分がいる。
「ええ……“お姉ちゃん”で、嬉しく思いますわ」
思わず本音が漏れてしまい、
近くで聞いていたレオンが、咳払いで笑いを誤魔化した。
◇ ◇ ◇
騒ぎが一段落したあと、
私たちはようやく宿の中へ入った。
食堂には、簡素な木のテーブルが並び、
すでに何人かの旅人が酒をあおっている。
出された夕食は、硬めのパンと塩気の強い煮込みだった。
一口かじって、私は思わず心の中で呻いた。
(……この塩分は、王都への道より険しいですわね)
喉の奥がひりひりする。
これでは、明日の朝、顔がむくんでしまいそうだ。
横目でレオンを見ると、
彼は何事もない顔でスープを飲んでいる。
さすが、軍人の舌は鍛えられているのだろうか。
そんな下らないことを考えていたのは、
きっと、さっきの自分の行動に対する
彼の評価を聞くのが怖かったからだ。
食事を終え、部屋に戻る途中、
階段の踊り場でレオンが立ち止まった。
「先ほどの件ですが」
やっぱり、来た。
「今回ばかりは――あなたのあり方を否定するつもりはありません」
「“今回ばかりは”、ですのね」
わざと強調すると、レオンは苦笑した。
「あなたが止めなければ、
あの少年は、もう少し殴られていたでしょう」
ああ、と心の中で息を吐く。
「ですが」
その言葉に、今度は私の背筋が伸びた。
「王都では、“正しさ”が通じない場面も多い」
レオンの目は真剣だった。
「あなたの言葉が、相手の心に届く前に、
“面倒な存在”と切り捨てられることもある」
「分かっていますわ」
王都は、私がよく知る場所だ。
そこでは、弱者だからといって守られるわけではないし、
強者だからといって責任を問われるとは限らない。
むしろ、「強い側の論理」が正しさを上書きすることのほうが多い。
「けれど――」
私は、階段の手すりに手を置き、息を整えた。
「目の前で誰かが殴られているのを見て、
“王都の機嫌”を優先する人間には、なりたくありませんの」
言葉にしてみると、
驚くほど、胸の奥がすっとした。
「王都のご機嫌を損ねるくらいで、この子の尊厳が守れるのなら――
なんて安い代償でしょう」
その代償を支払うのは、私ひとりでいい。
レオンはしばらく黙ってから、
ふっと目を伏せた。
「……あなたは、本当に」
「本当に?」
「手のかかる方だ」
「それは、褒め言葉として受け取っておきますわ」
そう返すと、彼は小さく頭を下げた。
「王都に着くまでの道のりで、
同じような場面が、何度もあるかもしれません」
「でしょうね」
「そのたびに、あなたは足を止める」
「否定できませんわ」
「ならば――」
顔を上げたレオンの目は、どこか諦めたようで、
それでいて静かな覚悟を湛えていた。
「そのたびに、私は剣と盾を用意しておきます」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「心強いですわね、私の騎士様」
「ただし」
レオンは、小さな釘も忘れない。
「王都に着いたら、今日のように、
“金持ちに楯突いた”という噂だけが一人歩きするかもしれません」
「それは……」
想像すると、頭が痛くなりそうだ。
「“見て見ぬふり”をすることにも、値段があるように。
“口を出すこと”にも、別の値段がついて回る」
「ええ」
私は頷いた。
「それでも――どちらの値段を払うかは、私が決めますわ」
レオンは、少しだけ目を細めて笑った。
「その覚悟があるなら、あとは私の仕事ですね」
◇ ◇ ◇
夜。
狭い宿の部屋の窓から外を覗くと、
宿場町の通りは、まだ完全には眠っていなかった。
酒場の前からは、酔客の笑い声と歌が聞こえ、
路地裏には、焚き火の小さな炎が揺れている。
昼間の騒ぎは、
もう別の話題にかき消されてしまっているだろう。
それでも、私の耳には、
少年の「お姉ちゃん、ありがとう」という声が、まだ残っていた。
(この町の人たちにとっては、
“よくある一日の小さな出来事”のひとつに過ぎないのでしょうね)
行き交う旅人と商人。
ここからどこにも行けない人々。
貧しい者と、富んだ者。
強い者と、弱い者。
そのどれもが、隣り合いながら、
それぞれの理由で、見て見ぬふりをしている。
「王都は、この宿場町よりも、もっとたくさんの“見て見ぬふり”でできているのでしょうね」
思わず、窓ガラスに吐息が曇った。
王都の石畳を、
高い窓から見下ろしていた日のことを思い出す。
虐げられる者も、
理不尽に泣く者も、
そこかしこにいたはずなのに。
あの頃の私は、どれだけ目を背けていたのだろう。
「見て見ぬふりをすることに慣れたら、
きっと私は、王都に着く前に“私”でなくなってしまいますもの」
呟いてから、自分で苦笑する。
少し肩に力が入りすぎているのかもしれない。
窓から目を離し、ベッドに腰を下ろした。
粗い毛布。
硬いマットレス。
さっきの煮込みの塩気が、まだ喉に残っている。
「……水を、もう一杯いただいておくべきでしたわね」
そういえば昼間、
喧嘩の場面を遠巻きに見ていた人々の中に、
妙にこちらをじっと見ていた視線がひとつあった。
怒りとも、好奇心とも違う。
獲物を値踏みするような、冷たい目。
(王都へ向かう途上で、私の“性格”を見定めたい人もいる、ということですわね)
見て見ぬふりをしない。
それが、弱みになることも、きっとある。
それでも――。
「さあ、明日は、もう少し塩分の控えめなお夕食に出会えますように」
そんな、どうでもいい祈りを口にして、
私は灯りを落とした。
闇の向こうに広がる王都までの道のりに、
どれほどの“見て見ぬふり”と、
どれほどの“口を出さずにはいられない出来事”が待っているのか。
想像すると、少しだけ怖くて、
それでも、ほんの少しだけ楽しみでもあった。




