“偽りの聖女”と呼ばれる日
その知らせは、朝一番に、教会へ届けられたらしい。
封蝋付きの厚い封筒。
王都の教会本部を示す紋章。
「本部から、直々に……?」
侍女が噂話半分にそう囁くのを、私は書類の山の向こう側で聞いていた。
熱病の村から戻って数週間。
ようやく日常が戻りつつある――少なくとも、そう思いたかった矢先だった。
その日は、ちょうど日曜だった。
「礼拝に顔を出すのも、随分久しぶりですわね」
私は、城下の小さな教会へ向かうことにした。
教会と距離を取りたいわけではない。
むしろ今だからこそ、正面から行くべきだと感じた。
石造りの礼拝堂は、いつもより少しだけ、空気が重く感じられる。
木の椅子に腰を下ろし、静かに手を組んだ……つもりだったのだけれど、
ふくらはぎのあたりが妙にだるい。
病村で立ちっぱなしだった名残かもしれない。
(今日は、ちゃんと最後まで立ったり座ったりできますように)
そんな、信心の薄そうな祈りを胸の中で呟いていると、祭壇の前に神父が姿を現した。
いつもの、温和な笑み。
けれどその目の奥に、どこか張りつめたものが宿っている気がする。
「本日は、遠き都より、我らの信仰を導く言葉が届きました」
落ち着いた声が、礼拝堂に響いた。
「神以外のものに、奇跡を求めてはならない。
精霊は神の僕であり、人の玩具ではない。
自らを特別と信じ、神の御業を騙る者に、惑わされてはならない――」
一つひとつ、区切るように読み上げる。
木の椅子が、きしりと鳴った。
誰かが僅かに身じろぎしたのだろう。
空気が、揺れる。
名指しも、地名も出てこない。
けれど、ここで暮らす誰もが、その通達が何を指しているのか、分かってしまう。
「神は、ただ一つです。
奇跡は、神のものです。
精霊は、神の御手が創りしもの。
人が己の欲のために、それを振るおうとするならば、それは――」
神父は、一度だけ目を伏せ、それから言葉を続けた。
「偽りの聖女。
神を騙る者です」
その言葉と同時に、礼拝堂の空気がきゅっと締まるのを感じた。
私は、正面の聖像を見つめたまま、瞼の裏でゆっくりと息を吐く。
(……直接、名前を出してくださったほうが、楽なのですけれどね)
皮肉にもならない皮肉が、喉元まで上ってきて、そこで留まった。
説教は続く。
「真の信仰とは、目に見える奇跡に飛びつくことではない。
試練の中でも、神の御心を信じ続けることこそが――」
私は、その言葉を否定できない。
熱病の村で、私は祈りに似た言葉を、何度吐いたか知れない。
目の前で息を引き取る人の手を握りながら、
“どうか、この苦しみが少しでも軽くなりますように”と。
あのとき、私もまた、何かに縋りたかったのだ。
だからこそ――神父の言葉の根っこにあるものが、“信徒を守ろう”とする不器用な必死さだということも、分かってしまう。
(それでも、今ここで“偽りの聖女”と仄めかされているのが私だという事実も、消えてはくれませんわね)
説教が終わり、人々が立ち上がる。
……その瞬間。
「あ、」
痺れていた足が、容赦なく抗議してきた。
ふくらはぎから膝にかけて、じん、とした痛みが走る。
バランスを崩しかけた身体を、どうにか木の背もたれにしがみついて支えた。
(……どうやら、私は“偽りの聖女”である前に、
“正真正銘の運動不足”のようですわね)
恥ずかしさをごまかすように、心の中で呟く。
すぐ隣に座っていた老婦人が、「大丈夫かい」とささやいた。
「はい、少し……足が痺れただけですわ」
「疲れておいでなんだよ。たまにはきちんと座ってなさることだねぇ」
皺だらけの手が、そっと私の手に触れた。
その温かさに、胸の奥が少し緩む。
◇ ◇ ◇
礼拝のあと、教会の前の広場には、いつものように小さな人だかりができる。
祈りを終えた人々が、家族や隣人と話しながら帰っていくのだ。
「でもさ、リヴィア様がいなかったら、あの村は本当に滅んでたんだぞ」
「それは……そうだけどよ。
でも、あれは神様の奇跡っていうより、精霊の力だって話だろ?
精霊にあまり頼りすぎるのは、よくないって……」
「そんなこと言ったって、あのとき実際に熱が下がったのは――」
耳に、断片的な会話が飛び込んでくる。
「“異端審問”って知ってるか。
昔、神を騙るやつらを――」
「やめろよ、ああいう話は、子どもの前でするもんじゃない」
異端審問。
初めて聞く言葉ではない。
けれど、自分に向けられる可能性を含んだ現実の語として、それを聞くのは、あまり愉快なことではなかった。
広場の端で立ち止まり、私はそっと息を吐く。
そのとき――
「あっ! リヴィアお姉ちゃんだ!」
甲高い声とともに、小さな影がこちらへ駆けてきた。
病の村から逃げてきた少年……ではない。
城下の、見慣れた子どもだ。
「リヴィアお姉ちゃん、ほんとに神様みたいなこと、できるの?」
真正面からの質問に、私は一瞬、言葉を失った。
「……いいえ」
それから、ゆっくりと首を振る。
「私は、神様ではありませんわ。
神様と競うつもりも、勝とうとするつもりもありません」
どう言えば、この子にも、大人たちにも、届くのだろう。
「ただ――“見て見ぬふり”をする人間には、なりたくないだけなのです」
「ふり?」
「そう。誰かが苦しんでいるのを知りながら、
見なかったことにして通り過ぎることを、私はしたくないのです」
子どもはぽかんと口を開け、それから妙に真剣な顔で頷いた。
「じゃあね!」
そのまま駆け出していく背中を見送る。
振り返ると、広場の大人たちが、私を見ては逸らし、逸らしては見る、という妙な視線を投げていた。
「リヴィア様、お世話になりました……!」
勇気を振り絞るように近づいてきて、頭を下げる若い母親もいる。
「うちは、あの時の薬のおかげで助かりました。
ほんとうに、ありがとうございました」
「いえ。あのとき薬草を取りに走ってくださったのは、あなた方ですもの。
私は少し、お手伝いをしただけですわ」
そう言うと、彼女は目に涙をため、それでも笑って去っていった。
一方で、こちらに気づいた途端、くるりと背を向ける人もいる。
挨拶をしようとしたら、慌てて別の方向へ歩き出す人も。
(……“好き”と“怖い”を、同じ目で向けられるのは、なかなか難しいものですわね)
重くもあり、仕方ないとも思う。
誰かを救ったという事実は、誰かを救えなかったという事実の裏返しでもある。
そして今や、私は“教会に疑われている者”でもあるのだ。
「リヴィア様、リヴィア様!」
今度は、別の子どもたちが駆けてきた。
「奇跡見せて!」
「ひかるやつ!」
きらきらした目が、期待と好奇心でいっぱいだ。
周りの大人たちが、なんとも言えない複雑な顔をしているのが、視界の端に見えた。
さて、どうしたものか。
「……光、ですか」
子どもたちの前にしゃがみ込み、小さく息を吸う。
「分かりました。危なくない、ちいさなものだけですわよ」
掌を上に向け、そっと魔力を流す。
「《灯りよ》」
ぽう、と。
掌の上に、小さな光の粒が一つ、灯った。
ろうそくの火より少しだけ明るい程度の、柔らかな光。
ふわりふわりと揺れながら、子どもたちの顔を照らす。
「わぁ……!」
「すごい! 星みたい!」
歓声が上がる。
子どもたちの目が、純粋な喜びでいっぱいになる。
その様子を見ていると、自然とこちらの頬も緩んだ。
「触っちゃだめですわよ。熱くはありませんけれど、びっくりして泣いてしまうかもしれませんから」
「はーい!」
頭上から、低い囁き声が聞こえた。
「……ああいうのが、良くないんだ」
「子どもらが、“神様よりこっちがすごい”って思ったらどうする」
「でも、あの村のことを思えば……」
「だからって、精霊に頼りきりになったら――」
振り向いて言い返すことは、しなかった。
掌の光をふっと消し、私は立ち上がる。
「ほら、もうおしまいですわ。
続きは、星空が見える夜にでも、ご自分の目で探してみてくださいな」
「うん!」
子どもたちが駆けていく。
私は、胸の奥で、そっと言葉を反芻した。
(私は、誰かの信仰の“代わり”になりたいわけではありません)
神様を信じる心まで、奪いたいわけではない。
ただ、祈る力も残っていない人の隣に、少し座っていたいだけなのだ。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
私は、城の廊下の一番奥にある、小さな礼拝室の扉を開けた。
昼の礼拝堂とは違い、ここはほとんど誰も使わない。
簡素な木の祭壇と、蝋燭が数本。
壁には古い聖像と、精霊を象った小さな彫刻が並んでいる。
扉を閉め、膝をついた。
手を組むでもなく、決められた祈りの言葉を唱えるでもなく。
ただ、静かに頭を垂れる。
(私は、神様と張り合いたいわけではありません)
心の中で、ゆっくりと語りかける。
(奇跡を奪いたいわけでも、取って代わりたいわけでもないのです)
礼拝堂で聞いた説教の言葉が、耳の奥に残っている。
「偽りの聖女」「神を騙る者」。
(もし本当に、誰かが神様に祈る心まで、私が奪ってしまうのだとしたら……
それは、きっと間違いなのでしょうね)
誰かが「神様、助けて」と祈ろうとしたときに、
「リヴィア様がどうにかしてくれる」とだけ考えてしまう世界は、きっとどこか歪んでいる。
私は――この土地の人たちに、依存されたいわけではない。
「でも」
小さく、声に出していた。
「神様の名を盾に、誰かの苦しみを放置することも、違うと思うのです」
病の村に行くなと言った神父。
“神の試練だから”と、距離を取ろうとした教会。
彼らなりの理屈も、恐怖も、分かる。
(それでも――)
「助けを求める声が聞こえているのに、“試練だから”の一言で耳を塞ぐことを、
私は、どうしても選べません」
どちらが正しい、と、単純に切り分けられるものではないのだろう。
信仰そのものと、
信仰を振りかざす人と。
それを、きちんと分けて見続けなければならない。
(私は、誰かの信仰を否定したくはありません)
祈ることでしか立っていられない人もいる。
それを、私が「現実を見なさい」と引き剥がす権利はない。
(ただ――祈る力も残っていない人の隣に、
そっと座っていたいのです)
祈ることすらできないほど疲れ切った人の手を握り、
その横で小さな魔法を使うくらいなら、許してもらえるだろうか。
ふと、蝋燭の炎が、風もないのに揺れた。
礼拝室の空気が、ひやりと澄んでいく。
白い世界の底を思わせる、あの気配。
(……聞いていらっしゃるのですか)
精霊王の、姿なき存在。
返事はない。
ただ、静かな圧だけが、背中に寄り添う。
(あなたは、きっと私の行いを裁くつもりはないのでしょう)
以前、夢の中で聞いた声を思い出す。
『我は、お前の行いを裁くためにいるのではない。
お前が選んだ道の先を、ただ見ていたいだけだ』
あの冷たいようで、どこかあたたかい言葉。
「……不親切ですわね」
思わず、小さく笑ってしまった。
「道が合っているのか間違っているのか、
“こっちが正解だ”と示してくださっても、罰は当たらないと思いますのに」
当然、答えは返ってこない。
その沈黙が、かえってこの上なく誠実に思えるあたり、
私は相当、精霊王に感化されているのかもしれない。
ゆっくりと立ち上がる。
膝が、また少し痺れていた。
「……本当に、運動不足ですわね、私」
ひとりごとのように呟きながら、祭壇の前で小さく頭を下げる。
「信じたいものを、皆が自由に選べるように――」
神か、精霊か、あるいは何も信じないという選択も含めて。
「そのために私ができることは、何なのでしょうね」
扉を開けると、夜空が広がっていた。
城の窓から漏れる灯りの上に、いくつもの星が瞬いている。
あの星の下で、誰かは神に祈り、
誰かはただ眠り、
誰かは、明日のパンの心配をしている。
私は、その全部の隙間を、
少しだけ歩き回る役割を、選んでしまったのだろう。
「偽りの聖女、ですか」
夜風に紛れるくらいの声で、もう一度繰り返す。
「ずいぶんと物騒な呼び名ですけれど――」
それでも私は、
“本物の信仰”を奪うつもりはない。
ただ、祈る力さえ残っていない誰かの隣に、
椅子を一つ、そっと置いておきたいだけなのだ。
その椅子に座るかどうかを決めるのは、
神でも精霊でもなく、その人自身であればいい。
星明かりの下で、私はそっと息を吐いた。
「……明日も、きっと誰かに嫌われて、誰かに感謝されて、
それでも、この土地が少しだけ楽になりますように」
それだけを願って、礼拝室の灯りを落とした。




