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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
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救われた明日と、“奇跡”という枷

 最初に意識に飛び込んできたのは、木の匂いだった。


 古い梁と、干し草と、微かに薬草の苦い香りが混じり合った、田舎の家特有の空気。


(……ここは)


 瞬きをすると、視界の上に、すすけた木の梁が見えた。

 見慣れない天井。見覚えのない節目。けれど、どこか安心するような、素朴な模様。


 体は、ひどく重い。

 喉はからからで、手足は、自分のものでありながら、少し遠くに感じられた。


「……っ」


 呻くように息を吸い込むと、その気配に気づいたのか、すぐそばから椅子が軋む音がした。


「……お気づきになりましたか、リヴィア様」


 聞き慣れた低い声。

 視線を横に向けると、レオンが椅子から身を乗り出していた。

 いつもより、わずかに目の下のクマが濃い。


「レオン……様……」


 喉が上手く動かず、声が掠れる。


 すぐに誰かが、水の入った木椀を持ってきた。

 医師だ。慎重な手つきで、私の頭を支え、少しずつ水を口元へ運んでくれる。


 ひんやりとした水が、乾いた喉を伝って落ちていく。

 その感覚だけで、少し涙が出そうになった。


「ここは……?」


「村の一軒の家です。井戸の近くにある、空き家をお借りしました」


 レオンが答える。

 その声には、安堵と疲労が入り混じっていた。


「村は……?」


 それだけは、どうしても先に確認しなければならない。


 レオンは短く息を吐き、それから、ゆっくりと言葉を選んだ。


「全員、というわけにはいきませんでした」


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


「ですが――多くの者の熱は下がりました。

 今はまだ立てない者もいますが、“死の境目”からは、一歩引き戻された、と言っていいでしょう」


 医師も頷いた。


「昨夜のうめき声が、今はほとんど聞こえないでしょう? みな、ぐっすり眠っています。

 それは、身体が戦うことを諦めたのではなく、ようやく余力を取り戻し始めた証拠です」


 耳を澄ます。


 確かに、昨日まで村を満たしていた、あの苦しい息遣いや咳の合唱はもうない。

 代わりに聞こえるのは、布団のこすれる音や、時おり子どもが寝言を言う声くらいだ。


「……よかった……」


 心の底から、息が漏れた。


 その瞬間――扉が勢いよく開いた。


「リヴィア様!」


 小さな足音が駆け込んでくる。


 ラルスだ。


 泥だらけだった服は、誰かに洗ってもらったのか、今はきれいになっている。

 けれど、目の赤さだけが、ここ数日の涙の量を物語っていた。


 彼は私の寝ている簡素な寝台のそばまで来ると、そこでぴたりと立ち止まって、

 何か堪えるように唇を噛み、それから、ぱっと笑った。


「お母さん、まだ……生きてるよ!」


 その一言に、胸がじん、と熱くなる。


「昨日の夜は、苦しそうだったけど……今朝はね、息が楽そうで……僕のこと、ちょっとだけ見たんだ。

 ちゃんと、僕の名前も呼んでくれて……!」


 ラルスの瞳が、涙と笑顔でぐちゃぐちゃになっている。

 それでも、その涙は、絶望だけの色ではなかった。


「……そうですか」


 声が震えないようにするだけで精一杯だった。


「よかったですわ、本当に」


 ラルスは、ぐい、と腕で目をこすり、


「リヴィア様、ありがとう! ありがとう!」


 と、寝台にしがみつくようにして頭を下げた。


 細い肩が震えている。

 私は、まだ十分に動かない手を、どうにか伸ばして、その頭にそっと触れた。


「こちらこそ。教えてくださって、ありがとう」


 その一言に、ラルスはまた、ぐしゃっと顔をくしゃくしゃにして笑った。


◇ ◇ ◇


 その日一日、私はほとんど寝台から動けなかった。


 起き上がろうとすればレオンに止められ、

 歩こうとすれば医師に睨まれ、

 結果として、薄い毛布をかけられたまま、村人たちのほうが代わりに私のもとを訪れることになった。


「リヴィア様、本当に……! ありがとうございます……!」


 汗で濡れた額が乾きかけた青年。

 痩せた頬に、うっすらと赤みが戻った少女。

 まだ立ち上がれないけれど、自分で水を飲めるようになった老人。


「昨日まで、息も絶え絶えだったのに……今朝には、こうして……」


「うちの子、熱が下がって、また“お腹すいた”って言ったんです。

 こんな嬉しいわがまま、久しぶりに聞きました……!」


 皆、涙をこぼしながら、口々に礼を述べに来る。


 布団から半身を起こし、ひとりひとりに短くでも言葉を返すだけで、体力のほとんどが削られていくようだった。


 それでも、彼らの顔を見ていると、眠ってしまうのが惜しい。


(この人たちは、昨日まで“明日”という言葉すら信じられなかったかもしれないのだもの)


 今、彼らが話しているのは、“明日の食事”や、“畑の世話”や、“冬までに乾かさなければならない薪”のこと。

 当たり前の日常の、細々とした話。


 それは、何よりの証拠だ。

 この村に――“明日”が戻ってきたという。


 けれど、全てが救われたわけではない。


「……昨夜のうちに、旅立たれた方々の名です」


 医師が、小さな紙片を差し出した。


 そこには、丁寧な字でいくつもの名前が並んでいる。

 一番下には、小さな子どもの名もあった。


 私は紙を受け取り、一つ一つ、声には出さずに読み上げた。

 喉の奥が痛くなる。


 遺族の中には、私のもとを訪れ、「それでも来てくださって、ありがとうございました」と頭を下げる人もいた。


「あなたが来てくださらなければ、もっと多くの人が……

 この村に残された者は、きっと半分もいなかったでしょう」


 震える声でそう言われるたびに、胸の中の冷たい石が、少しだけ角を丸くしていく気がした。


 一方で――遠くから、こちらをじっと見ているだけで、決して近寄ってこない人もいた。


 その視線の中にあるものを、私は知っている。


 感謝だけではない。

 「なぜうちではなく、隣の家だったのか」という、言葉にならない問い。

 「あなたが来たから助かった命」だけでなく、「あなたが来ても救えなかった命」に向けられる、静かな怒り。


(それも当然ですわね)


 私は、紙に書かれた名前をもう一度目でなぞる。


(私は、誰を優先するかを決めた。

 誰を“後回しにするか”を、選んでしまった)


 その事実だけは、絶対に消えない。


 それでも――と思う。


 私がここに来なかった世界を想像してみる。

 ラルスの母の寝台も、今ごろは布がかけられ、静かになっていたかもしれない。


 村のうめき声は、今夜にもまだ続いていたかもしれない。


(それなら私は、きっと、王都に戻ったとしても、

 この村の水を喉を通すたびに、吐き出したくなっていたでしょう)


 それを考えると、胸の中の冷たい石と同じ場所に、

 小さな火が灯るような感覚もあった。


◇ ◇ ◇


 日が高くなった頃、村の小さな集会所――といっても、ただの広めの納屋だが――に、まだ動ける者たちが集められた。


 私は医師とレオンに支えられながら、その場に向かう。


「ご無理を」


「“顔を出さない領主”にはなりたくありませんもの」


 そう言うと、レオンは苦笑した。


 集会所の中央に立つと、村長と思しき中年の男が、一歩前に出た。

 彼もまた、数日前よりずっと血色が良くなっている。


「みんな」


 村長は、周囲を見回し、声を張り上げた。


「俺たちは、この数日で……あまりにも多くのものを失った」


 ざわり、と空気が揺れる。


「家族を、友を、隣人を。

 祭りの日のようには笑えない。

 それでも……立っている。こうして、ここにいる」


 村長は、そこで私のほうを向いた。


「それは――この方が、命を削ってまで、奇跡を見せてくださったからだ」


 ざわ、と今度は違う種類のざわめきが広がる。


「リヴィア・グラウベルク様」


 村長は、深々と頭を下げた。


「あなたは、この村の命の恩人です。

 俺たちは、一生、あなたのことを忘れません」


 周囲からも、次々と頭が下がる気配がした。


「聖女様だ……」


「本物の奇跡だ……」


 小さな声が、あちこちから漏れる。


 ……聖女。


 その言葉に、背筋がこわばる。


 私は静かに首を振り、一歩、前に出た。


「頭をお上げください」


 できるだけ、声を震わせないように。


「私は、聖女ではありません」


 ざわ、と人々の視線がこちらに集中するのを感じる。


「私が行ったのは、魔法と、少しばかりの知識と……大いなる存在に向けた、ひとつの祈りです。

 奇跡と呼ばれているものは、私のものではなく、精霊たちが見せてくれたもの」


 井戸の水面が淡く光っていた光景を思い出す。


「ですから、“聖女”と呼ばれるのは、少しむず痒いのです」


 場の空気が、少しだけ揺れた。


 それでも、人々の目に宿る光は、消えない。


 崇拝と、依存と――

 「この先も、何かあればあなたがどうにかしてくれる」という、無意識の期待。


(そうですわね)


 心の中で、静かに息を吐く。


(私がここまでしてしまったのだから、そう思われても仕方がない)


 だからこそ――口にしておかなければならない。


「ですが」


 私は、ひと息おいて続けた。


「私は、皆さまの神様の代わりにはなれません。

 なりたくもありません」


 何人かが、はっとしたように顔を上げる。


「私ができるのは、“今日を少しだけ生きやすくするお手伝い”まで。

 これから先の毎日を、どう歩くかは、どうか……皆さまご自身の手で、選んでください」


 沈黙が落ちる。


 やがて、一人の老女が、ゆっくりと頷いた。


「……それでも、あんたが手を伸ばしてくれたから、

 うちらは、今日を選び直すことができたんだよ」


 その言葉に、胸の奥の小さな火が、少しだけ強くなる。


「それなら、これほど嬉しいことはありませんわ」


◇ ◇ ◇


 村を発つ準備をしているとき、遠くで、教会の鐘が鳴るのが聞こえた。


 祝福の鐘なのか、警告の鐘なのか――

 ここからでは、さっぱり判断がつかない。


 別の村から運ばれてきた報せによれば、

 「精霊にすがり、神に背く異端の行為」だと、教会筋の非難はむしろ強まっているらしい。


 村の礼拝堂の若い神父が、「偽りの奇跡に惑わされるな」と説教したという噂も、もう耳に入ってきている。


(……でしょうね)


 井戸の前で膝をついた昨夜の自分を思い出す。


 あれは、神の教義から見れば、たしかに許されざる越権行為なのかもしれない。


 それでも――私は、あの選択を、今でも繰り返すだろうか。


(ええ。きっと、同じことをするでしょう)


 村の外れ、少し高くなった丘の上から、私は村を見下ろした。


 藁屋根の家々。

 井戸の周りで、水を汲む子どもたち。

 まだふらつきながらも、畑を見に行こうとする大人たち。


(救えなかった命があることを、忘れるつもりはありません)


 胸の中の冷たい石は、まだそこにある。


(でも、救われた命が、“それでもよかった”と微笑んでくれるなら――

 私は、この手を差し出した自分を、責めすぎないでいたい)


 ふと、頭の中に、あの白い世界の気配がよぎった。


『お前がどこまで行けるか、見ていたい』


 精霊王の声。


「これが、その“第一歩”だというわけですのね」


 私は空に向かって、小さく呟いた。


「ずいぶんと、重たい宿題を、いきなり出してくださいますこと」


 答えは返ってこない。

 ただ、ほんの少しだけ、風が頬を撫でた。


 それが慰めなのか、ただの偶然なのかは、わからない。


◇ ◇ ◇


「リヴィア様」


 背後から、レオンの声がした。


 振り返ると、彼は少し離れたところに立っていた。

 私が一人でいたいことを察してか、呼びかけるタイミングを計っていたのだろう。


「そろそろ、お時間です。

 城へ戻る道も、日が暮れる前に抜けねばなりません」


「ええ」


 私は頷き、ゆっくりと彼のほうへ歩み寄る。


 レオンは少し迷った末に、問うた。


「……後悔、していますか」


 後悔。


 重い言葉だ。

 この数日、何度も自分に問いかけてきた。


 私は空を一度だけ見上げ、それから、彼を見た。


「ええ」


 素直に答える。


「たくさん、しています。

 助けられなかった方々の顔も、きっと一生忘れませんわ」


 レオンの目が、わずかに揺れた。


「でも――」


 私は、村から聞こえてくる子どもたちの笑い声に耳を澄ませた。


「それでも、この村の“明日”が増えたことを、誇りに思いたいですの」


 葉の間を抜ける風が、さらりと髪を揺らす。


「後悔と、誇りと。両方を抱えたまま、前に進むのが、きっと私の役目なのでしょう」


 レオンは、しばらく黙って私を見つめ、それから、小さく笑った。


「……あなたらしい答えだと思います」


「そうでしょう?」


「それなら、私は――」

 レオンは、わずかに肩をすくめる。

「その“誇り”のほうが、いつまでも折れないように、傍で支えるだけです」


 その言葉に、胸の奥の火が、また少しだけ強くなった気がした。


「では、どうかよろしくお願いいたしますわ。

 私、きっとこの先も、無茶ばかりすると思いますから」


「……すでに覚悟はしています」


 ふたりで、視線を前に向ける。


 遠くで、再び教会の鐘が鳴った。


 祝福なのか、警告なのか。

 それを決めるのは、きっとこの先の私の歩き方なのだろう。


(私はきっと、この先も、“奇跡”と呼ばれるものと――

 誰かにとっての“ざまぁ”と呼ばれるものの両方を、背負って歩くことになるのでしょう)


 それでも。


 私は、一歩を踏み出した。


 この村で生まれた“明日”を背に受けて。

 精霊王の視線と、教会の鐘の音と、さまざまな思惑をひとまとめに背負いながら。


 足元の土は、まだ少しぬかるんでいる。

 それでも、確かに前へ進める硬さを持っていた。


 ――ここから先は、第二の物語だ。


 そう思いながら、私は、辺境の風の中へと、静かに歩き出した。


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