精霊王が見ていた“本物の奇跡”
精霊王が見ていた“本物の奇跡”
二日目、三日目と、時間は粘ついた蜂蜜のように、ゆっくり、重く流れていった。
熱が下がった人もいる。
一晩越えれば持ち直せる、と言われる症状の人もいる。
けれど同じだけ――いや、それ以上に、私たちは失い続けた。
朝になるたび、納屋の片隅には、静かになってしまった人の姿が増えていく。
布で顔まで覆われたその膨らみを、私は数えないようにして、視線を滑らせた。
(数えるために、ここへ来たわけではありませんわ)
そう何度も心の中で繰り返しながら。
◇ ◇ ◇
「リヴィア様……」
三日目の夕方、医師が、いつになく重い顔で私を呼んだ。
納屋の中央。
歩けない者の中でも、比較的容態の安定している人たちが寝ている区画から、少し離れた小部屋。
そこに、ラルスの母――あの少年の「お母さん」が横たえられていた。
額に手を触れるまでもなく、熱が伝わってくる。
呼吸は浅く、肺の奥で湿った音が鳴っている。
「さっきまでは、さほど悪くなかったはずでは……」
「ええ。だが、病というのは、理屈どおりに動いてはくれません」
医師は、唇をきゅっと結んだ。
「解熱剤も、喉と肺を楽にする薬草も、限界まで使っています。
あなたの魔法で一度は熱を抑えましたが……身体のほうが、もう……」
言葉の続きは、はっきりとは言われなかった。
けれど、わかる。
“ここから先は、祈るしかない”――
医師の目は、そう言っていた。
外から、子どもの泣き声が聞こえた。
おそらく、またひとり、別の家で別れの時が来たのだろう。
この村のあちこちで、諦めの空気が、じわじわと広がり始めている。
「神に委ねるしかない」
「これ以上は……」
そんな声が、昼間からあふれていた。
そのたびに私は、「できることは、まだあります」と言ってきた。
けれど――。
ラルスの母のか細い胸の上下を見ていると、その言葉も、ひどく心許ない。
「リヴィア様」
医師が、静かに問う。
「この方のために、あなたの魔力を、もう一度使いますか?」
問いというより、確認に近い。
「今、あなたが無理をなされば、明日以降に看られなくなる人も出てきます。
それでも、賭けますか?」
私は、ラルスの母の顔を見つめた。
汗で張りついた髪。血の気の引いた唇。
腕には、少年のものとよく似た、細い骨の形が浮いている。
あの子が、城門で叫んでいた姿がよみがえった。
『お母さんを助けてください』
その声は、私の中で、まだまったく色あせていない。
「……いいえ」
自分の口から出た言葉に、私自身が一瞬驚いた。
医師も、目を瞬かせる。
「いいえ?」
「いいえ、“この方だけ”のために、ではありません」
私は立ち上がり、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「ここから先は、私一人の力でどうにかできる範囲を、とうに超えています」
それは、“敗北宣言”のようにも聞こえたかもしれない。
けれど、違う。
自分の限界を認めることは、負けを受け入れることではない。
「だから――」
胸の奥で、何かがカチリと噛み合う音がした気がした。
「ここから先は、私一人の“奇跡ごっこ”ではなく。
本物の、理不尽なまでの力を、呼びます」
「リヴィア様?」
医師が問いかける。
レオンも、いつの間にか扉のそばに立っていた。
「さきほどから、風の匂いが、少し変わっています」
レオンは、注意深く空気を嗅ぐように目を細めた。
「……嫌な気配ではありませんが」
「ええ。私が一度だけ、夢で見た場所の――あの白い世界の、匂いですわ」
心臓が、少し早く打ち始める。
あのとき精霊王は、“好きに歩け”と言った。
“お前が立ち続けるなら、背中を押す”とも。
ならば、その約束を、ここで図々しくも使わせてもらいましょう。
「外の井戸のところで、儀式をします」
私は二人を振り返った。
「村の人たちには、中から出ないように伝えてください。
私に何かあっても、できるだけ触れないように、とも」
「何をなさるおつもりです」
「この村の空気と水と土、その全部に、手を伸ばします」
レオンの眉が、僅かに引きつった。
「……通常なら、それぞれ別々に、儀式を分けるべきだと伺いましたが」
「そうですね」
私は、薄く笑う。
「ですから、通常のやり方は、ここでは通用しませんの」
◇ ◇ ◇
夜の村の中央には、小さな井戸があった。
昼間は人の往来もあったはずの場所が、今は静まり返っている。
空には、薄い雲の向こうから、ぼんやりとした月の光が落ちていた。
井戸の縁に片膝をつき、私は、布越しの口元から、短く息を吐く。
深く吸い込んだ空気には、もう病の匂いだけではなく、
どこか透明な冷たさが混ざっていた。
(見ているのですね)
心の中で呟く。
(なら――目をそらさないでくださいませ)
両手を井戸の縁に置き、目を閉じる。
「私はきっと、あなたから見れば、取るに足らない人間でしょう」
声に出すと、少しだけ胸が軽くなった。
「弱くて、すぐ迷って、よく泣いて。
それでも――この村を、どうか見捨てないでください」
神様と呼ばなかった。
精霊王と名指しもしなかった。
ただ、“あの白い世界の誰か”に向けて。
私の心の線に、あの存在の輪郭を重ねて、祈る。
「どうか、空気を清める風を。
腐った熱と穢れを払う、水の流れを。
弱った身体を支える、大地の力を」
古い言葉が、唇の裏側で形になっていく。
空気を清めるための古言。
水を澄ませるための古言。
大地の眠りを叩くための古言。
本来なら、三つの儀式に分けて、時間をかけて行うべき術式を――今、私は、一度に重ねている。
喉の奥が焼けるようだ。
魔力が、足元からじわじわと抜けていく感覚がある。
けれど、止めない。
(あなたがくださった力を、私のわがままに、少しだけ使わせてください)
心の中で、静かに言う。
(これは、世界のための祈りではありません。
この村のためだけの、小さな祈りです)
言葉を紡ぐたびに、風の向きが変わる。
最初は、生暖かいだけだった夜風が、次第に冷たく澄み始める。
どこからともなく、乾いたハーブを砕いたような、清々しい香りが漂った。
井戸の中から、かすかな水の音が聞こえる。
さっきまで、淀んだぬるい水が溜まっているだけだったそこから――
少しずつ、何かが巡り始めたのだ。
村の家々を想像する。
藁の上でうなされている人々。
熱に濡れた額。
乾いた喉。
(どうか――この村の明日を、ひとつだけ、延ばさせてください)
願いというより、ほとんど懇願に近い。
詠唱の終盤。
言葉が、古言というよりも、もはや呼吸そのものになっていく。
空気が、変わった。
風が、村全体を撫でる。
湿った布の匂いも、熱と汗の臭いも、完全に消えたわけではない。
それでも、その中に、確かに別の層――清浄な何かが混じっていた。
井戸の水面が、淡く光る。
ただの月の反射ではない。
水そのものが、内側から、ほの白く明滅している。
村のあちこちに置かれた水桶にも、その光が伝わっていく。
それを見ている余裕はなかったが、
私の肌は、それを確かに感じ取っていた。
遠くで、誰かの咳が止まる音がする。
別の場所では、荒かった寝息が、少しずつ穏やかになっていく。
ラルスの母のいる小部屋にも――
涼しい風が流れ込んでいることを、私はなぜか、確信していた。
◇ ◇ ◇
どれくらい詠唱を続けていたのか、わからない。
最後の一節を紡いだ瞬間、
糸がぷつりと切れるように、世界との繋がりがほどけた。
「……ふ……」
息を吸おうとして、うまくうまくいかない。
体が、自分のものではないみたいに重い。
(あ、終わりましたのね……)
どこか他人事のような感想が、頭の隅をよぎる。
その直後――頭の中に、低く笑う声が降りてきた。
『よくやった』
ひどく、偉そうで。
そして、どこか楽しそうな声。
『我のお気に入り』
「……っ」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
「なら、もう少し……早く、助けに来てくださっても……よかったのですわよ……」
自分でも驚くほどかすれた声で、そんな文句を漏らす。
視界の端が白く霞む。
月も、井戸も、夜空も、全部が混ざって、溶けていく。
「終わったら……すごく甘いお菓子を、いただきたいですわね……」
誰にともなくこぼした最後の一言は、
我ながら、あまりにも年相応すぎて、少し笑えた。
膝から力が抜ける。
倒れ込む感覚の、ほんの一瞬前――
何かが、強く私の肩を掴んだ。
「リヴィア様!」
聞き慣れた声。
レオンの、焦った呼びかけ。
胸板にぶつかる感触と、腕に支えられる感覚が、遠くにある。
「あなたは、本当に……無茶ばかりする……」
耳元で、低い声が震えた。
怒っているのか、泣きそうなのか、よくわからない声。
(そうかもしれませんわね)
心の中でだけ、そっと答える。
体はもう動かない。
まぶたも、重くて持ち上がらない。
それでも――
村の中から、かすかに聞こえてくる寝息が、さっきまでよりも、ずっと静かで穏やかだということだけは、はっきりとわかった。
(どうか、明日の朝――)
そこまで考えたところで、私の意識は、ふっと闇に沈んだ。
精霊王がどんな顔をしているのか、
レオンがどんな表情で私を抱えているのか。
そのどちらも見えないまま。
ただ、村の上に流れ始めた、新しい空気の気配だけを、
最後の最後まで、手放さないように握りしめながら。




