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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
29/82

熱にうなされる村と、足りない手

 熱にうなされる村と、足りない手


 フラウ村の手前で、私たちは馬を降りた。


「ここから先は、歩きましょう。馬で土を跳ね上げれば、それだけで病の飛沫を広げてしまうかもしれません」


 医師の言葉に、私は頷く。


 布で口と鼻を覆い直すと、こもった自分の吐息が、頬のあたりをじんわりと温めた。


 村の入り口は、思っていたよりも静かだった。


 鳥の鳴き声も、家畜のいななきもない。

 代わりに、ときおり風に乗ってくるのは、低いうめき声と、咳の音。そして――


「……匂いが」


 思わず足を止めそうになる。


 焦がした薬草の匂い。

 長く取り換えられていない布の、むっとした湿気。

 汚れた水と、汗と、熱に浮かされた身体から立ち上る、独特のにおい。


 鼻の奥が、その重さに悲鳴を上げる。


「リヴィア様」


 隣を歩くレオンが、小さく呼びかけた。


「無理だと思われたら、すぐお戻りを」


「大丈夫です。……見るために来たのでしたわね、私」


 布越しに、浅く笑ってみせる。


 逃げるために来たのではなく。

 見なかったふりを続けるためでもなく。


 そのはずなのに、足元の土が、いつもより少しだけ重い。


◇ ◇ ◇


 村の路地は、いつものような生活の音を、ほとんど失っていた。


 扉の閉じられた家々から、ときおり漏れ出すのは、うめき声と、荒い息だけ。


 軒先には、布をかけられた長いものが横たえられている。

 亡骸なのだと理解するのに、時間はかからなかった。


 そのすぐ横を、ふらふらと、小さな子どもが通り過ぎていく。


 頬はこけ、歩くたびに体が揺れる。

 私が思わず手を伸ばしそうになるより早く、村の男が飛び出してきて、その子の肩を掴んだ。


「外に出るなと言っただろう!」


「ごめんなさい……お水、さがしてて……」


 か細い声が、耳に刺さる。


「リヴィア様!」


 声を上げたのは、村の入り口で待っていた男だった。

 顔色は悪いが、まだしっかりと立っている。


「グラウベルク領主様……本当に、来てくださったのですね」


「はい」


 私は頷く。


「あなたが、この村の代表の方ですか?」


「い、いえ……本当は村長がいるのですが、今は寝込んでおりまして。

 私は、その……まだ動けるほうの者で……」


 自分で「動けるほう」と口にしなければならない状況に、この村の逼迫が透けて見えた。


「わかりました。まずは、村の状況を教えてください。

 動ける人と、動けない人の数。水の場所。使えそうな空き家や広場」


 男は一瞬たじろいだが、すぐに真剣な表情で頷く。


「は、はい! ご案内します!」


◇ ◇ ◇


 村の中央近くにある、比較的大きな納屋が、幸運にも空いていた。


「ここを、即席の診療所にしましょう」


 私は扉を大きく開け、空気を入れ替えるように外の風を引き込む。


「歩ける人は、ここに集まっていただいてください。

 寝たきりで動かせない方は、それぞれの家で看病を。

 ただ、症状が重い方は、家族の了承を得た上で、ここか近くの空き家に、“まとめて”運ぶ必要があります」


 “まとめて”。


 その言葉を口にしながら、胸が少し痛んだ。


 人を“症状ごとにまとめる”ということは、同時に、“命の順番を決める”ことでもある。


「水場は?」


「村のはずれの小川が……でも、最近は水量も少なくて……」


「そこから汲める人を決めてください。

 できるかぎり清潔な桶と布を集めて。

 燃やせる木も、あるだけ持ってきてください。消毒に使います」


 指示を出す声が、自分のものではないみたいに、よく通っていた。


 ――これが、怖い。


 こんな状況で、冷静に指示を飛ばしてしまう私自身が、一番怖いのだ。


「レオン様、兵たちを二組に分けてください」


「二組?」


「はい。一組は、村の案内と物資の運搬。

 もう一組は、外周の見張りと、できれば簡単な柵の設置を――

 もしこの病が村の外へ出ようとしたとき、少しでも動きを遅らせられるように」


 レオンは短く頷いた。


「了解しました」


◇ ◇ ◇


 診療所代わりの納屋の中は、あっという間に人でいっぱいになった。


 床には藁を敷き、その上に毛布や古い布を広げていく。

 そこに、ぐったりと横たえられる身体が、次々と運び込まれてくる。


「高熱だ」「息が浅い」「さっきからずっと寝言を……」


 誰かの声が飛び交う。


 医師は、額に汗を浮かべながら、一人ひとりの脈を取り、舌の色を見て、胸の音を聞いていく。


「この人は、まだ脈が強い。熱は高いが、肺の音はそこまで悪くない。

 解熱と水分で持ちこたえられる可能性が高い」


「こちらは?」


「こちらは……正直、厳しい。

 呼吸も浅く、指先まで冷えている。

 手当てをしても、長くは持たないだろう」


 私は、医師の言葉を聞きながら、視線をさまよわせた。


 苦しそうにうめく人。

 か細い呼吸を繰り返す人。

 ほとんど意識のない人。


 本当なら、その誰も彼もに、同じだけの水と、薬と、魔法と、手の温かさを与えたい。


 けれど――。


「リヴィア様」


 医師が、私を呼んだ。


「お話があります」


 納屋の隅、ほんの少しだけ人の気配の薄い場所へと、私は誘われる。


「何でしょうか」


「残酷な話をします」


 医師は、前置きした。


「この人数を、同じように看ることは不可能です。

 私も、あなたも、兵たちも、人手が足りない。

 薬も、水も、布も、足りない」


 わかっている。

 けれど、改めて言葉にされると、肺の奥がひゅっと縮む。


「全員に同じだけ手をかければ――」


 医師は淡々と言う。


「全員が助からないでしょう」


 その言葉に、思わず拳が強く握りしめられた。


「では、どうするべきだと?」


「“今すぐ手を打てば助かる可能性の高い者”を、最優先に。

 次に、症状が軽く、放っておいてもすぐには悪化しない者。

 そして――正直なところ、望みの薄い者は……」


 言葉が、そこで濁った。


「最低限の看護に留め、他の者の治療を優先すべきです」


 頭では、理解できる。


 誰を優先するかを決めることは、

 誰を“後回しにするか”を決めることと同じ。


 それが、今ここで必要とされているのだ、と。


「……全員を助けたいと願うことは、甘えなのでしょうか」


 私は、口からこぼれた言葉に、自分で少し驚いた。


「それとも、その願いを最初から捨てるほうが、ずっと卑怯なのでしょうか」


 医師は、しばらく黙って私を見つめていた。


「願うこと自体は、罪ではありません」


 やがて、静かに答える。


「問題は、“願いのために判断を止めるかどうか”です」


「……判断を止める」


「ええ。

 あなたが“全員を助けたい”と願うあまり、優先順位を決められなくなれば、

 結果として、救えたかもしれない者を見殺しにすることになる」


 医師の言葉は、冷たくはなかった。

 むしろ、その声の奥に、深い疲労と、何度も同じ後悔を繰り返してきた者の重さがあった。


「私は医師です。

 何度も、似た場面を見てきました。

 だからこそ――判断を、あなた一人に押しつけることはしません」


「でも、最終的に命令を出すのは、私です」


 私は、ぎゅっと拳を握ったまま言う。


「誰を優先して、誰を後回しにするか。

 それを決める署名は、きっと私のものになる」


「……それが、領主の責務なのだと思います」


 医師の言葉は、残酷なほど真っ直ぐだった。


 責務。

 “優しい”だけでは済まされない、現実の重さ。


 膝が、少し震えそうになる。


 それでも――。


「わかりました」


 私は、ゆっくりと息を吐いた。


「では、“今すぐ手を打てば助かる可能性の高い人”から、順番に」


 喉がひどく乾いていた。

 それでも、その言葉だけは、どうにか押し出す。


「ただし――」


 医師が、少し目を細めた。


「ただし?」


「“望みが薄いから”といって、最初から何もせずに諦めるのは、やはり好きではありませんわ」


 自分でも、面倒な性格だと思う。


「最低限の水と、痛みを和らげる薬だけでも、全員に行き渡るようにしたい。

 それで、『それ以上』をどう分けるか……その線引きだけは、ここで決めましょう」


 医師は、小さく息をついた。


「……本当に、厄介なお方だ」


 そう言いながらも、その目に宿った光は、決して非難だけではなかった。


「いいでしょう。

 できるところまで、やってみましょう」


◇ ◇ ◇


 そのあとからの時間は、目まぐるしく過ぎていった。


 歩ける者は納屋へ。

 寝たきりの者は、家の中に一人ずつ残しておくわけにもいかないため、近くの空き家へと運ぶ。


 「ここに寝ている人たちは、皆、まだ熱が出て二、三日目だ」と聞けば、

 その部屋を「優先治療」の場所にする。


 別の家では、「もう七日以上、意識がない」という老人たちが、静かに寝かされていた。

 その部屋を、「看取りと安静」の場所と決める。


 私の口から、「優先」「看取り」という言葉が出るたび、

 胸の奥に、小さな棘が刺さる。


「お水、もう少し……」


 弱々しい声に、水の入ったカップを差し出す。


「熱で喉が渇きますものね。

 一口ずつ、ゆっくり飲んでください」


 別の場所では、咳で喉を痛めた男に、薬草を煎じた液を少しずつ飲ませる。


「これは、正直、美味しくありません。

 でも、その分、よく効きますわ」


 冗談めかして言うと、男はかすかに笑った。


 笑いながら、また激しく咳き込んだ。


 布を取り替え、額の汗を拭きながら、心の中で何度も何度も謝る。


(ごめんなさい。本当は、もっと時間をかけて、薬の加減も見てあげたいのに)


(ごめんなさい。あなたに向けられる時間は、今日の私には、これだけしかないのです)


 人を“数”として見ないように、と願えば願うほど。

 ひとりひとりの顔が、記憶に刻み込まれていく。


 それが、いずれ私自身を苦しめるのだとわかっていても。


◇ ◇ ◇


「リヴィア様!」


 夕方に差しかかった頃、納屋の入り口で叫び声が上がった。


 息を弾ませた村人が、誰かを背負って入ってくる。


 その後ろから、別の者が、毛布に包まれた身体を抱えていた。


「さっき、崩れかけの家の中から見つけて……!」


 毛布の端がめくられる。


 そこにいたのは、青白い顔をした女性だった。


 息は浅く、唇は乾ききっている。

 額に手を当てれば、焼けるように熱い。


「この方は?」


「ラルスの……フラウ村から城へ走ったあの子の、母親です」


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


「さっきまで、村の女たちがどうにか看病していたんですが……

 もう誰も動けなくなっていて、家も半分崩れかけていて……」


 医師がすぐに駆け寄り、脈を取る。


「……正直、厳しい」


 短い言葉が、冷たい刃物のように空気を切った。


「熱は高すぎる。

 呼吸も浅い。

 指先の血も引いている。

 今からどれだけ手を尽くしても、助かる可能性は……」


 医師が、言葉を濁す。


 その続きは、言われなくてもわかる。


 “ほとんどない”のだ。


「リヴィア様」


 医師が、私を見る。


 問うているのだ。


 ここで、この人にどれだけの手を割くのか。


 ここまで、どれだけの人の治療を行ってきたか。

 どれだけの布と水と薬と魔力を使ってきたか。


 それを考えれば、この女性に“賭ける”のは、賢明な選択ではないのかもしれない。


 この人に注いだぶんの資源で、

 助かる可能性の高い誰かを、二人、三人、救えるかもしれない。


 それでも――

 ラルスの顔が、脳裏に浮かんだ。


『お母さんを助けてください』


 泥だらけの膝。

 震える手。

 それでも、あきらめずに伸ばされた、自分よりずっと小さな掌。


「……この方に」


 自分の声が、ほんの少しだけ震えた。


「この方に、一度だけ、賭けてみたいと思います」


 医師の眉が、わずかに動く。


「リヴィア様。

 ここであなたの魔力と薬を集中させれば、他の方々の治療が――」


「遅れることは、承知しています」


 私は、女性から視線を外さないまま言った。


「私のわがままです。

 そのせいで、助かるはずの誰かが助からなかったとしたら――

 その責は、私が負います」


 言葉にすればするほど、喉が痛んだ。


「でも……」


 そっと、女性の手を握る。


 乾いた掌から、微かな熱が伝わってくる。


「この人ひとりを、最初から“あきらめる側”に置く決断だけは、今の私にはできません」


 それは、きっと、愚かしくて身勝手な選択なのだろう。


 ひとりの命に賭けることは、いつだって、別の誰かの命を賭けることでもある。


 それでも――。


「医師殿、どうか手を貸してください。

 私の魔法だけでは、この熱は抑えきれません」


 医師は、しばらく目を閉じた。


 やがて、大きなため息とともに、頷く。


「……一度だけ、です」


「はい。“一度だけ”」


「この方の容態が少しでも安定したら、すぐに他の者の治療に戻っていただきますよ」


「もちろんですわ」


 私の返事に、医師は小さく笑った。


「あなたの“わがまま”には、慣れてきましたから」


◇ ◇ ◇


 ラルスの母親の傍らで、私は静かに詠唱を始めた。


 熱を下げるための古言。

 身体の水の流れを整えるための言葉。

 精霊たちに、「この人の命の流れを、少しだけ緩めてほしい」と願う祈り。


 精霊王の気配は、この村の上にも薄く漂っている気がした。


(これは、私の個人的な賭けです)


 心の中で、言葉を投げる。


(この人が助かるかどうかに、世界の均衡は関係ありませんわ。

 ただ――一人の子どもの、明日の笑顔がかかっているだけです)


 精霊王が、どこまで人間の涙を重く見ているのかは知らない。


 それでも、私の背中を押すと言った以上、

 このくらいのわがままには付き合ってもらいたいものだ。


 魔力が、少しずつ削れていくのがわかる。

 額に汗が滲み、視界の端がじんわりと滲む。


「……っ、はぁ……」


 詠唱を終えたとき、膝から力が抜けそうになった。


 医師が、すぐに女性の額に手を当てる。


「……少し、下がりましたな。

 さきほどより、呼吸も楽そうです」


 望みが繋がった。

 それだけだ。


 助かるかどうかは、これから数日の経過次第。

 それでも、最初から“何もしない”よりはずっといい。


「ありがとうございます」


 私は息を整えながら立ち上がる。


「では――他の方々のところへ戻ります」


 医師は、半ば呆れたように笑った。


「まったく。

 ご自分の足元を見てください」


「足元……?」


 見下ろすと、膝が小刻みに震えていた。


「あら……本当ですわね」


 そういえば、朝からほとんど座っていなかったことを思い出す。


「足が棒になりましたわ……」


 思わずこぼれた本音に、近くの看病役の女性が、小さく笑った。


「領主様でも、足は棒になるんですね」


「ええ、人間ですもの」


 布の下で、苦笑を浮かべる。


「でも、まだ折れてはいませんから。

 折れるまで、もう少しだけ歩きますわ」


◇ ◇ ◇


 夜になっても、村のうめき声は止まらなかった。


 納屋の隅に用意された簡素な寝床に、私は横たわる。


 横たわる――と言っても、完全に眠るつもりはない。

 身を起こせば、すぐにでも病人のもとへ駆けつけられるように、半ば身体を起こした姿勢のまま、藁の上に背中をあずけている。


 外からは、見張りの兵が、ときどき咳払いをする音。

 遠くで、犬が一度だけ吠えて、すぐに静かになる気配。


 納屋の中では、誰かの寝言。

 乾いた咳。

 水を求める、掠れた声。


 瞼を閉じても、その音が、耳の奥で反響して離れない。


(全員を助けたいと願うことは、甘えなのでしょうか)


 昼間、自分が口にした言葉が、また胸の中に浮かぶ。


(それとも、その願いを最初から捨ててしまうほうが――

 ずっと、卑怯なのでしょうか)


 今日一日で、私はいくつの命の“優先順位”を決めただろう。


 誰の枕元に長く留まり、誰の枕元を早足で通り過ぎたか。

 誰のために魔力を使い、誰のためには使えなかったか。


 そのひとつひとつが、糸のように胸に絡みついてくる。


 命を選ぶ、という言葉は、あまりにも大げさで、

 そのくせ、現実にこれほど近いものもない。


 誰かを優先することは、誰かを後回しにすること。

 それを、私は今日、何度も何度も繰り返した。


 喉の奥が、ひりつく。


「……ごめんなさい」


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからないまま、

 布の内側で小さく呟く。


 そのとき、隣の寝床から、小さな声がした。


「……おねえちゃん……?」


 顔を向けると、熱に浮かされた子どもが、ぼんやりとこちらを見ていた。


「お医者さま……?」


「いえ」


 私は、布の下で微笑んだ。


「お医者さまの、見習いのようなものですわ」


「ふふ……へんなの……」


 子どもは、笑いながらまた目を閉じた。


 その笑い声が、ほんの少しだけ、この納屋の空気を柔らかくする。


 私は深く息を吸い込んで、天井の暗がりを見上げた。


(私は、完璧な正しさからは程遠いのでしょうね)


 誰かを救おうとして、別の誰かを傷つけているかもしれない。

 今日の私の選択が、“間違い”と呼ばれる日が来るのかもしれない。


 それでも――。


(それでも、耳を塞いでしまう人間には、なりたくないのです)


 助けを求める声が、すぐ近くで上がっているのに、

 自分の心を守るためだけに、それを聞き流す人間に。


 うめき声と、咳の音と、誰かの浅い寝息に包まれながら。

 私はようやく、短い眠りの底へと落ちていった。


 明日もまた、同じ選択を迫られるのだろう。

 そのとき、膝が震えても――立ち続けられるように、と願いながら。


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