熱にうなされる村と、足りない手
熱にうなされる村と、足りない手
フラウ村の手前で、私たちは馬を降りた。
「ここから先は、歩きましょう。馬で土を跳ね上げれば、それだけで病の飛沫を広げてしまうかもしれません」
医師の言葉に、私は頷く。
布で口と鼻を覆い直すと、こもった自分の吐息が、頬のあたりをじんわりと温めた。
村の入り口は、思っていたよりも静かだった。
鳥の鳴き声も、家畜のいななきもない。
代わりに、ときおり風に乗ってくるのは、低いうめき声と、咳の音。そして――
「……匂いが」
思わず足を止めそうになる。
焦がした薬草の匂い。
長く取り換えられていない布の、むっとした湿気。
汚れた水と、汗と、熱に浮かされた身体から立ち上る、独特のにおい。
鼻の奥が、その重さに悲鳴を上げる。
「リヴィア様」
隣を歩くレオンが、小さく呼びかけた。
「無理だと思われたら、すぐお戻りを」
「大丈夫です。……見るために来たのでしたわね、私」
布越しに、浅く笑ってみせる。
逃げるために来たのではなく。
見なかったふりを続けるためでもなく。
そのはずなのに、足元の土が、いつもより少しだけ重い。
◇ ◇ ◇
村の路地は、いつものような生活の音を、ほとんど失っていた。
扉の閉じられた家々から、ときおり漏れ出すのは、うめき声と、荒い息だけ。
軒先には、布をかけられた長いものが横たえられている。
亡骸なのだと理解するのに、時間はかからなかった。
そのすぐ横を、ふらふらと、小さな子どもが通り過ぎていく。
頬はこけ、歩くたびに体が揺れる。
私が思わず手を伸ばしそうになるより早く、村の男が飛び出してきて、その子の肩を掴んだ。
「外に出るなと言っただろう!」
「ごめんなさい……お水、さがしてて……」
か細い声が、耳に刺さる。
「リヴィア様!」
声を上げたのは、村の入り口で待っていた男だった。
顔色は悪いが、まだしっかりと立っている。
「グラウベルク領主様……本当に、来てくださったのですね」
「はい」
私は頷く。
「あなたが、この村の代表の方ですか?」
「い、いえ……本当は村長がいるのですが、今は寝込んでおりまして。
私は、その……まだ動けるほうの者で……」
自分で「動けるほう」と口にしなければならない状況に、この村の逼迫が透けて見えた。
「わかりました。まずは、村の状況を教えてください。
動ける人と、動けない人の数。水の場所。使えそうな空き家や広場」
男は一瞬たじろいだが、すぐに真剣な表情で頷く。
「は、はい! ご案内します!」
◇ ◇ ◇
村の中央近くにある、比較的大きな納屋が、幸運にも空いていた。
「ここを、即席の診療所にしましょう」
私は扉を大きく開け、空気を入れ替えるように外の風を引き込む。
「歩ける人は、ここに集まっていただいてください。
寝たきりで動かせない方は、それぞれの家で看病を。
ただ、症状が重い方は、家族の了承を得た上で、ここか近くの空き家に、“まとめて”運ぶ必要があります」
“まとめて”。
その言葉を口にしながら、胸が少し痛んだ。
人を“症状ごとにまとめる”ということは、同時に、“命の順番を決める”ことでもある。
「水場は?」
「村のはずれの小川が……でも、最近は水量も少なくて……」
「そこから汲める人を決めてください。
できるかぎり清潔な桶と布を集めて。
燃やせる木も、あるだけ持ってきてください。消毒に使います」
指示を出す声が、自分のものではないみたいに、よく通っていた。
――これが、怖い。
こんな状況で、冷静に指示を飛ばしてしまう私自身が、一番怖いのだ。
「レオン様、兵たちを二組に分けてください」
「二組?」
「はい。一組は、村の案内と物資の運搬。
もう一組は、外周の見張りと、できれば簡単な柵の設置を――
もしこの病が村の外へ出ようとしたとき、少しでも動きを遅らせられるように」
レオンは短く頷いた。
「了解しました」
◇ ◇ ◇
診療所代わりの納屋の中は、あっという間に人でいっぱいになった。
床には藁を敷き、その上に毛布や古い布を広げていく。
そこに、ぐったりと横たえられる身体が、次々と運び込まれてくる。
「高熱だ」「息が浅い」「さっきからずっと寝言を……」
誰かの声が飛び交う。
医師は、額に汗を浮かべながら、一人ひとりの脈を取り、舌の色を見て、胸の音を聞いていく。
「この人は、まだ脈が強い。熱は高いが、肺の音はそこまで悪くない。
解熱と水分で持ちこたえられる可能性が高い」
「こちらは?」
「こちらは……正直、厳しい。
呼吸も浅く、指先まで冷えている。
手当てをしても、長くは持たないだろう」
私は、医師の言葉を聞きながら、視線をさまよわせた。
苦しそうにうめく人。
か細い呼吸を繰り返す人。
ほとんど意識のない人。
本当なら、その誰も彼もに、同じだけの水と、薬と、魔法と、手の温かさを与えたい。
けれど――。
「リヴィア様」
医師が、私を呼んだ。
「お話があります」
納屋の隅、ほんの少しだけ人の気配の薄い場所へと、私は誘われる。
「何でしょうか」
「残酷な話をします」
医師は、前置きした。
「この人数を、同じように看ることは不可能です。
私も、あなたも、兵たちも、人手が足りない。
薬も、水も、布も、足りない」
わかっている。
けれど、改めて言葉にされると、肺の奥がひゅっと縮む。
「全員に同じだけ手をかければ――」
医師は淡々と言う。
「全員が助からないでしょう」
その言葉に、思わず拳が強く握りしめられた。
「では、どうするべきだと?」
「“今すぐ手を打てば助かる可能性の高い者”を、最優先に。
次に、症状が軽く、放っておいてもすぐには悪化しない者。
そして――正直なところ、望みの薄い者は……」
言葉が、そこで濁った。
「最低限の看護に留め、他の者の治療を優先すべきです」
頭では、理解できる。
誰を優先するかを決めることは、
誰を“後回しにするか”を決めることと同じ。
それが、今ここで必要とされているのだ、と。
「……全員を助けたいと願うことは、甘えなのでしょうか」
私は、口からこぼれた言葉に、自分で少し驚いた。
「それとも、その願いを最初から捨てるほうが、ずっと卑怯なのでしょうか」
医師は、しばらく黙って私を見つめていた。
「願うこと自体は、罪ではありません」
やがて、静かに答える。
「問題は、“願いのために判断を止めるかどうか”です」
「……判断を止める」
「ええ。
あなたが“全員を助けたい”と願うあまり、優先順位を決められなくなれば、
結果として、救えたかもしれない者を見殺しにすることになる」
医師の言葉は、冷たくはなかった。
むしろ、その声の奥に、深い疲労と、何度も同じ後悔を繰り返してきた者の重さがあった。
「私は医師です。
何度も、似た場面を見てきました。
だからこそ――判断を、あなた一人に押しつけることはしません」
「でも、最終的に命令を出すのは、私です」
私は、ぎゅっと拳を握ったまま言う。
「誰を優先して、誰を後回しにするか。
それを決める署名は、きっと私のものになる」
「……それが、領主の責務なのだと思います」
医師の言葉は、残酷なほど真っ直ぐだった。
責務。
“優しい”だけでは済まされない、現実の重さ。
膝が、少し震えそうになる。
それでも――。
「わかりました」
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「では、“今すぐ手を打てば助かる可能性の高い人”から、順番に」
喉がひどく乾いていた。
それでも、その言葉だけは、どうにか押し出す。
「ただし――」
医師が、少し目を細めた。
「ただし?」
「“望みが薄いから”といって、最初から何もせずに諦めるのは、やはり好きではありませんわ」
自分でも、面倒な性格だと思う。
「最低限の水と、痛みを和らげる薬だけでも、全員に行き渡るようにしたい。
それで、『それ以上』をどう分けるか……その線引きだけは、ここで決めましょう」
医師は、小さく息をついた。
「……本当に、厄介なお方だ」
そう言いながらも、その目に宿った光は、決して非難だけではなかった。
「いいでしょう。
できるところまで、やってみましょう」
◇ ◇ ◇
そのあとからの時間は、目まぐるしく過ぎていった。
歩ける者は納屋へ。
寝たきりの者は、家の中に一人ずつ残しておくわけにもいかないため、近くの空き家へと運ぶ。
「ここに寝ている人たちは、皆、まだ熱が出て二、三日目だ」と聞けば、
その部屋を「優先治療」の場所にする。
別の家では、「もう七日以上、意識がない」という老人たちが、静かに寝かされていた。
その部屋を、「看取りと安静」の場所と決める。
私の口から、「優先」「看取り」という言葉が出るたび、
胸の奥に、小さな棘が刺さる。
「お水、もう少し……」
弱々しい声に、水の入ったカップを差し出す。
「熱で喉が渇きますものね。
一口ずつ、ゆっくり飲んでください」
別の場所では、咳で喉を痛めた男に、薬草を煎じた液を少しずつ飲ませる。
「これは、正直、美味しくありません。
でも、その分、よく効きますわ」
冗談めかして言うと、男はかすかに笑った。
笑いながら、また激しく咳き込んだ。
布を取り替え、額の汗を拭きながら、心の中で何度も何度も謝る。
(ごめんなさい。本当は、もっと時間をかけて、薬の加減も見てあげたいのに)
(ごめんなさい。あなたに向けられる時間は、今日の私には、これだけしかないのです)
人を“数”として見ないように、と願えば願うほど。
ひとりひとりの顔が、記憶に刻み込まれていく。
それが、いずれ私自身を苦しめるのだとわかっていても。
◇ ◇ ◇
「リヴィア様!」
夕方に差しかかった頃、納屋の入り口で叫び声が上がった。
息を弾ませた村人が、誰かを背負って入ってくる。
その後ろから、別の者が、毛布に包まれた身体を抱えていた。
「さっき、崩れかけの家の中から見つけて……!」
毛布の端がめくられる。
そこにいたのは、青白い顔をした女性だった。
息は浅く、唇は乾ききっている。
額に手を当てれば、焼けるように熱い。
「この方は?」
「ラルスの……フラウ村から城へ走ったあの子の、母親です」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「さっきまで、村の女たちがどうにか看病していたんですが……
もう誰も動けなくなっていて、家も半分崩れかけていて……」
医師がすぐに駆け寄り、脈を取る。
「……正直、厳しい」
短い言葉が、冷たい刃物のように空気を切った。
「熱は高すぎる。
呼吸も浅い。
指先の血も引いている。
今からどれだけ手を尽くしても、助かる可能性は……」
医師が、言葉を濁す。
その続きは、言われなくてもわかる。
“ほとんどない”のだ。
「リヴィア様」
医師が、私を見る。
問うているのだ。
ここで、この人にどれだけの手を割くのか。
ここまで、どれだけの人の治療を行ってきたか。
どれだけの布と水と薬と魔力を使ってきたか。
それを考えれば、この女性に“賭ける”のは、賢明な選択ではないのかもしれない。
この人に注いだぶんの資源で、
助かる可能性の高い誰かを、二人、三人、救えるかもしれない。
それでも――
ラルスの顔が、脳裏に浮かんだ。
『お母さんを助けてください』
泥だらけの膝。
震える手。
それでも、あきらめずに伸ばされた、自分よりずっと小さな掌。
「……この方に」
自分の声が、ほんの少しだけ震えた。
「この方に、一度だけ、賭けてみたいと思います」
医師の眉が、わずかに動く。
「リヴィア様。
ここであなたの魔力と薬を集中させれば、他の方々の治療が――」
「遅れることは、承知しています」
私は、女性から視線を外さないまま言った。
「私のわがままです。
そのせいで、助かるはずの誰かが助からなかったとしたら――
その責は、私が負います」
言葉にすればするほど、喉が痛んだ。
「でも……」
そっと、女性の手を握る。
乾いた掌から、微かな熱が伝わってくる。
「この人ひとりを、最初から“あきらめる側”に置く決断だけは、今の私にはできません」
それは、きっと、愚かしくて身勝手な選択なのだろう。
ひとりの命に賭けることは、いつだって、別の誰かの命を賭けることでもある。
それでも――。
「医師殿、どうか手を貸してください。
私の魔法だけでは、この熱は抑えきれません」
医師は、しばらく目を閉じた。
やがて、大きなため息とともに、頷く。
「……一度だけ、です」
「はい。“一度だけ”」
「この方の容態が少しでも安定したら、すぐに他の者の治療に戻っていただきますよ」
「もちろんですわ」
私の返事に、医師は小さく笑った。
「あなたの“わがまま”には、慣れてきましたから」
◇ ◇ ◇
ラルスの母親の傍らで、私は静かに詠唱を始めた。
熱を下げるための古言。
身体の水の流れを整えるための言葉。
精霊たちに、「この人の命の流れを、少しだけ緩めてほしい」と願う祈り。
精霊王の気配は、この村の上にも薄く漂っている気がした。
(これは、私の個人的な賭けです)
心の中で、言葉を投げる。
(この人が助かるかどうかに、世界の均衡は関係ありませんわ。
ただ――一人の子どもの、明日の笑顔がかかっているだけです)
精霊王が、どこまで人間の涙を重く見ているのかは知らない。
それでも、私の背中を押すと言った以上、
このくらいのわがままには付き合ってもらいたいものだ。
魔力が、少しずつ削れていくのがわかる。
額に汗が滲み、視界の端がじんわりと滲む。
「……っ、はぁ……」
詠唱を終えたとき、膝から力が抜けそうになった。
医師が、すぐに女性の額に手を当てる。
「……少し、下がりましたな。
さきほどより、呼吸も楽そうです」
望みが繋がった。
それだけだ。
助かるかどうかは、これから数日の経過次第。
それでも、最初から“何もしない”よりはずっといい。
「ありがとうございます」
私は息を整えながら立ち上がる。
「では――他の方々のところへ戻ります」
医師は、半ば呆れたように笑った。
「まったく。
ご自分の足元を見てください」
「足元……?」
見下ろすと、膝が小刻みに震えていた。
「あら……本当ですわね」
そういえば、朝からほとんど座っていなかったことを思い出す。
「足が棒になりましたわ……」
思わずこぼれた本音に、近くの看病役の女性が、小さく笑った。
「領主様でも、足は棒になるんですね」
「ええ、人間ですもの」
布の下で、苦笑を浮かべる。
「でも、まだ折れてはいませんから。
折れるまで、もう少しだけ歩きますわ」
◇ ◇ ◇
夜になっても、村のうめき声は止まらなかった。
納屋の隅に用意された簡素な寝床に、私は横たわる。
横たわる――と言っても、完全に眠るつもりはない。
身を起こせば、すぐにでも病人のもとへ駆けつけられるように、半ば身体を起こした姿勢のまま、藁の上に背中をあずけている。
外からは、見張りの兵が、ときどき咳払いをする音。
遠くで、犬が一度だけ吠えて、すぐに静かになる気配。
納屋の中では、誰かの寝言。
乾いた咳。
水を求める、掠れた声。
瞼を閉じても、その音が、耳の奥で反響して離れない。
(全員を助けたいと願うことは、甘えなのでしょうか)
昼間、自分が口にした言葉が、また胸の中に浮かぶ。
(それとも、その願いを最初から捨ててしまうほうが――
ずっと、卑怯なのでしょうか)
今日一日で、私はいくつの命の“優先順位”を決めただろう。
誰の枕元に長く留まり、誰の枕元を早足で通り過ぎたか。
誰のために魔力を使い、誰のためには使えなかったか。
そのひとつひとつが、糸のように胸に絡みついてくる。
命を選ぶ、という言葉は、あまりにも大げさで、
そのくせ、現実にこれほど近いものもない。
誰かを優先することは、誰かを後回しにすること。
それを、私は今日、何度も何度も繰り返した。
喉の奥が、ひりつく。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからないまま、
布の内側で小さく呟く。
そのとき、隣の寝床から、小さな声がした。
「……おねえちゃん……?」
顔を向けると、熱に浮かされた子どもが、ぼんやりとこちらを見ていた。
「お医者さま……?」
「いえ」
私は、布の下で微笑んだ。
「お医者さまの、見習いのようなものですわ」
「ふふ……へんなの……」
子どもは、笑いながらまた目を閉じた。
その笑い声が、ほんの少しだけ、この納屋の空気を柔らかくする。
私は深く息を吸い込んで、天井の暗がりを見上げた。
(私は、完璧な正しさからは程遠いのでしょうね)
誰かを救おうとして、別の誰かを傷つけているかもしれない。
今日の私の選択が、“間違い”と呼ばれる日が来るのかもしれない。
それでも――。
(それでも、耳を塞いでしまう人間には、なりたくないのです)
助けを求める声が、すぐ近くで上がっているのに、
自分の心を守るためだけに、それを聞き流す人間に。
うめき声と、咳の音と、誰かの浅い寝息に包まれながら。
私はようやく、短い眠りの底へと落ちていった。
明日もまた、同じ選択を迫られるのだろう。
そのとき、膝が震えても――立ち続けられるように、と願いながら。




