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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
28/82

病の村と、選ばなければならない命

 病の村と、選ばなければならない命


 最初の報せは、息を切らした兵士の叫び声とともに飛び込んできた。


「リヴィア様! 奥の村で……熱病が流行しているとの知らせが!」


 執務机の上で整理しかけていた書類から、指が離れる。


「詳しく、聞かせてください」


 できるだけ落ち着いた声を心がけたつもりだったが、喉の奥がわずかに震えているのが自分でもわかった。


 兵士は汗まみれの額を拭いもせず、早口で続ける。


「辺境のさらに奥にある、フラウ村でございます。

 高熱と激しい咳、それから……意識が混濁して、うわ言を言う者も多いと。

 すでに何人かが亡くなったそうで、村の出入りを控えるよう、教会からの指示が――」


「教会から?」


「はい。“神の試練”ゆえ、むやみに手を出すべきではない、とのことです。

 村の入り口には、礼拝堂の者が立っており、祈り以外の行動は慎むようにと」


 熱病。

 高熱、咳、意識の混濁。

 すでに死者。


 頭の中で、嫌でも“最悪”という言葉が形をとり始める。


 私のいるこの城から、フラウ村までは、決して近くはない。

 食糧事情がぎりぎりの村だと聞いていたが、まさか病まで――。


「その報せは、どこから?」


「村を抜け出してきた少年が、城門に駆け込んできたそうです。

 今は門のところで、兵が保護しておりまして……」


 言い終わるより早く、私は立ち上がっていた。


「案内してください」


◇ ◇ ◇


 城門の前は、まだ朝の冷たい空気が残っていた。


 石畳の上に、泥が飛び散った足跡がいくつも刻まれている。

 その一番濃いところに、小さな影がうずくまっていた。


 痩せた少年だった。

 十にも届いていないだろうか。

 肩まで伸びた髪は汗と泥で張りつき、頬はこけ、衣は破れている。


 それでも、その目だけは、必死に開かれていた。


「……リヴィア様!」


 私の姿を見つけた兵士が、ほっとしたように頭を下げる。


 少年は、こちらを振り向くなり、よろよろと立ち上がった。

 そして、私の前までふらつきながら歩いてきて、その場に膝をつく。


「お、おねえ、ちゃん……!」


 掠れた声が、震えながら紡がれる。


「おねえちゃんが、井戸を助けたって……聞いた……!

 お、お母さんが……熱、出して……ずっと、寝たきりで……

 たの、お願い、助けて……お母さん、死んじゃう……!」


 小さな手が、私の裾をぎゅっと掴んだ。

 寒さではない震えが、その指先から伝わってくる。


 喉がつまる。


 この子は、どれだけの距離を、一人で歩いてきたのだろう。

 熱病の村から逃れてくるということが、どれほどの恐怖を伴うのか、想像に難くない。


「……まずは、座ってください」


 私はゆっくりと膝を折り、少年と目線を合わせた。


「あなたのお名前は?」


「ラ、ラルス……フラウ村の、ラルス……」


「ラルス。ここまで来てくれて、ありがとうございますわ」


 できるだけ穏やかに笑ってみせる。


「お母様は、まだ息をしていらっしゃるのですね?」


「う、うん……っ。

 まだ、あったかくて……でも、熱が、すごくて……

 村の先生も、神父様も、“祈るしかない”って……!」


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔が、こちらを見上げる。


 胸の奥が、締め付けられた。


 “祈るしかない”。


 祈りを否定するつもりはない。

 ただ、それは――「他に手段がないとき」の、最後の拠り所であるべきだと私は思う。


 最初から、すべてを祈りのほうへ押し出してしまうのは、祈りに対しても、あまりに不誠実だ。


「ラルス」


 私は少年の肩に、そっと手を置いた。


「私は、万能の魔法使いではありません。

 病のことも、わからないことだらけです」


 少年の目が、不安げに揺れた。


 私は、その視線から逃げないと決める。


「ですから、“必ず助けます”とは言えませんの。

 ……けれど、“できる限りのことはします”とお約束します」


 ラルスは、ぎゅっと唇を噛んだ。


 それから、震える声で、それでも――と続ける。


「きて、くれる……? フラウ村に……」


 一瞬だけ、言葉が詰まった。


 行く。

 そう言いかけた舌が、喉の奥で固まる。


 病は、一人の問題ではない。


 感染するかもしれない。

 私が罹れば、城も、領地全体も揺らぐ。

 私だけではない。同行する兵たちも、村の人々も、危険に晒すことになる。


 その現実が、喉元に杭を打ち込むように、私の言葉を止めた。


「……少し、考える時間をください」


 そう告げるのが精一杯だった。


◇ ◇ ◇


 軍議の場に集まった顔ぶれは、いつもより少し、重苦しかった。


 長机の向こう側に座るレオン。

 その隣には、この辺境で数少ない医師。

 そして、先ほど礼拝堂で説教をしていた若い神父が、静かに腕を組んでいる。


「まず、状況を整理しましょう」


 私は深呼吸をしてから、口を開いた。


「フラウ村で流行している熱病の症状は――」


 医師が、持参した記録をめくる。


「高熱、全身の倦怠感、激しい咳、喉の痛み。

 数日経つと、意識が混濁し、うわ言を言うようになる。

 中には、皮膚に赤い斑点が出た者もいるとのことです」


「原因は?」


「不明です。

 水か、食べ物か、空気か……。

 ただ、同じ家に住む者の間で次々と発症していることから、何らかの形で“移る”病である可能性が高い」


 医師は眉間に皺を寄せながら続けた。


「正直に申しますと、むやみに村人と接触するのは非常に危険です。

 最悪、この城にまで持ち込まれれば、辺境全体が機能不全に陥りかねません」


 レオンが、固い声で言葉を継ぐ。


「医師殿の言う通りです。

 リヴィア様、あなたが感染して倒れれば、この領地は本当に終わります。

 『代わり』はいないのです」


「……承知しています」


 それでも、と言いかけた私の前で、神父が静かに口を開いた。


「これは、神の試練かもしれません」


 軍議の空気が、ぴたりと止まる。


「“熱病”という形を取ってはおりますが――

 人の力だけでどうにかできる範囲を、すでに越えているのかもしれません」


 神父は、組んでいた腕を解いた。


「村を封鎖し、祈りの中で人々を天に送ることも、ひとつの慈悲です。

 軽々しく病の中へ足を踏み入れることは、

 この城に住まう者たちにとっても、神への挑戦ともなり得ましょう」


 “挑戦”。


 その言葉が、少しだけ棘を含んで聞こえたのは、きっと私の心が歪んでいるからだろう。


「……つまり、見捨てよと?」


 私の声は、自分でも驚くほど静かだった。


「見捨てる、とは申しません」


 神父は小さく首を振る。


「祈りに託すのです。

 我々は、万能ではない。

 すべてを救おうとする思い上がりこそ、神の御心から遠ざかる――

 そう、教えられてまいりました」


 すべてを救おうとする思い上がり。

 確かに、それは傲慢だろう。


 私一人が、世界中の痛みを背負い込めるはずもない。


 ――けれど。


 頭の片隅では、別の声が鳴り響いていた。


『おねえちゃんが、井戸を助けたって聞いた……!

 お母さんを助けてください――』


 さっきの少年の、掠れた叫び。


 あの小さな手の震えを思い出す。


 誰かを守るために、別の誰かを見捨てる。

 その必要性は、頭ではわかる。

 でも、心がまだ、その選択を飲み込めない。


「……もし、フラウ村を封鎖したまま、祈りだけに任せたとしましょう」


 私はゆっくりと口を開いた。


「村は静かに死に絶えるかもしれません。

 それを、“神の御心”と受け入れる人もいるでしょう」


 レオンが、じっと私を見つめているのが視界の端に入る。


「ですが、あの村から逃げ出して、ここまで助けを求めに来た子どもは――

 きっと一生、その選択を理解できないまま生きることになるでしょうね」


 静まり返った室内に、私の声だけが落ちる。


「“あのとき、大人たちはなぜ来てくれなかったのか”と」


 神父の指先が、かすかに動いた。


「リヴィア様。

 あなたは、お優しすぎる」


 それは、誉め言葉としてではなく、半ば呆れたような響きを含んでいた。


「誰かを守るために誰かを切り捨てる――

 領主であれば、いつかは選ばねばならぬ局面もございます」


「ええ。わかっていますわ」


 私は頷いた。


 本当は、半分もわかっていないのかもしれないけれど。


「“誰も傷つかない選択”など、幻想だということも。

 誰かを助ければ、別の誰かが傷つくことも。

 痛みを均等に分けることすら、できないということも」


 机の上で、拳をそっと握りしめる。


「だからこそ――」


 一度、深く息を吸う。


「だからこそ、私は“最初から諦める”という選択だけは、まだ、したくありませんの」


 レオンが、小さく目を見開いた。


 医師が、眉をさらに寄せる。


 神父の表情は、読み取りにくい。


「ここで私が行かないことを選べば。

 きっと私は、一生、この城の水を喉を通すたびに、あの村のことを思い出すでしょう」


 枯れた井戸の底に戻った、あの一杯の水。

 あのときの冷たさと、村人たちの涙。


 それを覚えている限り、

 今度の“乾き”に背を向けることは、きっと私にはできない。


「行った結果として、誰も救えないかもしれません。

 逆に、私が病を運んでしまうかもしれません」


 それがどれほど怖いことか、十分にわかっている。


「それでも――」


 私は机から手を離し、まっすぐに顔を上げた。


「“最初から諦めた”という選択だけは、したくないのです」


 沈黙が落ちた。


 誰も、すぐには何も言わなかった。


 やがて、その沈黙を破ったのは、レオンだった。


「……本当に、行かれるおつもりですね」


 低く、押し殺したような声。


 私は小さく笑う。


「ええ。

 “後ろに隠れている領主”には、なりたくありませんから」


 怖くないわけではない。

 むしろ、怖くてたまらない。


 原因もわからない病。

 目に見えない敵。

 魔物の爪や牙よりも、ずっと厄介かもしれない相手。


 それでも、怖いからといって座っているだけでは、明日も同じことが起こる。

 それは、森に出る前のときと同じだ。


 レオンは、しばらく黙って私を見つめていた。


 その瞳の奥で、何かが揺れ、何かが決まっていくのがわかる。


「……わかりました」


 やがて、彼は静かに頭を下げた。


「では、私も行きます」


「レオン様」


「あなた一人だけを危険な場所へ送るつもりはありません」


 その声には、微かな苛立ちと、深い覚悟が混ざっていた。


「隊を編成します。

 最小限の人数で、動きの取れる者を。

 防疫用の準備も、できるかぎり整えましょう」


 医師がため息をついた。


「……止めても無駄、ということですな」


 彼はあきらめ半分の顔で、肩をすくめた。


「せめて、口と鼻を覆う布と、少しでも身体を守るための薬草を持って行ってください。

 消毒に使える酒も、集められるだけ集めます」


「ありがとうございます」


 神父は、しばらく沈黙していた。


 やがて、ゆっくりと立ち上がる。


「私は……祈ります」


 その目が、私を真っ直ぐに捉える。


「あなたが、無事に戻られることを。

 そして、この行いが、神の御心の一部であることを」


 それは、反対でも賛成でもない。

 ただ、「見守る」という選択だった。


 それもまた、ひとつの覚悟なのだろう。


◇ ◇ ◇


 出発の準備は、いつもの遠征とは少し違っていた。


 口元と鼻を覆うための布を、侍女たちが忙しなく縫い上げる。

 医師が選んだ苦い薬草が、袋に詰められ、腰に下げられる。


 強い酒の入った瓶がいくつも並び、

 「これは飲むものではなく、傷口を洗うものです」と、何度も念を押された。


 鏡の前で、口元に布を巻いてみる。


「……なんだか、怪しい商人のようですわね」


 思わず、内心でつぶやいてしまった。


 布の下で、口角がわずかに上がる。

 笑ってみても、誰にも気づかれないのは、こういうときには少し便利だ。


 外に出ると、城門のそばでラルスが待っていた。


 さっきよりも、ほんの少しだけ顔色が戻っている。

 兵士から水とパンを分けてもらったのだろう。


 私の姿を見つけると、彼はぱっと目を見開いた。


「お、お姉ちゃん!」


 勢いよく駆け寄ってくる。


「ほんとに……ほんとに、来てくれるの?」


 私は膝を折り、布越しに微笑んだ。


「ええ。“おばさん”ではなく“お姉ちゃん”として、頑張ってみますわ」


 ラルスが、きょとんとした顔をする。


 兵士の何人かが、肩を震わせて視線を逸らした。


 ……笑われても、仕方ない。

 年齢的には、ぎりぎり“お姉ちゃん”で通しておきたいのだ。


「私も行きますが、ラルスはここに残ってくださいね」


「えっ……でも……」


「あなたがまた村に戻れば、その道中で、別の村の人たちに病を移してしまうかもしれません」


 そっと、言葉を選ぶ。


「ここで、お母様のぶんまで、しっかり食べて、しっかり眠ること。

 それが、今のあなたの、一番大事なお仕事ですわ」


 ラルスは、ぎゅっと唇を噛んだ。


 それから、涙目のまま、それでも頷く。


「……うん。

 お姉ちゃん、絶対、無理しないでね」


「ええ。できるだけ、そうします」


 できるだけ――

 本当にできるかどうか、心の中では怪しかったけれど。


◇ ◇ ◇


 馬上で、手綱を握る指先が、わずかに震えていた。


 防寒のマントの下で、胸に当てた手が、自分の鼓動の速さを伝えてくる。


 フラウ村へ向かう道は、森へ向かったときよりも、なぜか重く感じられた。


 敵の姿が見えないからだろうか。

 剣を振るえば倒せる相手ではないからだろうか。


「……怖くないわけが、ありませんわね」


 自嘲気味に、小さく呟く。


 隣で同じく馬を駆るレオンが、ちらりとこちらを見る。


「怖いのは、当然です」


 彼の声は、静かだった。


「怖くなければ、ただの無謀者ですから」


 私は、布の下で笑う。


「それでも、怖いから行かないと口にした瞬間――

 きっと私は、この席に座る資格を失います」


 前を見据える。


 まだ見えない病の村のほうへ。


 誰かを守るために、誰かを見捨てる覚悟。

 誰も見捨てずに、自分ごと沈む覚悟。


 私が今、選べるのは、そのどちらかだけなのだろう。


 ならば――。


「私が選ぶのは、“一緒に背負う覚悟”のほうですわ」


 心の中で、そっと呟く。


 たとえそれが、愚かしい選択だと言われても。

 思い上がりだと非難されても。


 助けを求める声が聞こえているのに、耳を塞いでしまう自分になること。

 それだけは、病そのものより、よほど怖かった。


 馬の蹄が、湿った土を踏む音が続いていく。


 フラウ村までの道のりは、決して短くはない。

 それでも――私たちは、前へ進むしかないのだ。


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