病の村と、選ばなければならない命
病の村と、選ばなければならない命
最初の報せは、息を切らした兵士の叫び声とともに飛び込んできた。
「リヴィア様! 奥の村で……熱病が流行しているとの知らせが!」
執務机の上で整理しかけていた書類から、指が離れる。
「詳しく、聞かせてください」
できるだけ落ち着いた声を心がけたつもりだったが、喉の奥がわずかに震えているのが自分でもわかった。
兵士は汗まみれの額を拭いもせず、早口で続ける。
「辺境のさらに奥にある、フラウ村でございます。
高熱と激しい咳、それから……意識が混濁して、うわ言を言う者も多いと。
すでに何人かが亡くなったそうで、村の出入りを控えるよう、教会からの指示が――」
「教会から?」
「はい。“神の試練”ゆえ、むやみに手を出すべきではない、とのことです。
村の入り口には、礼拝堂の者が立っており、祈り以外の行動は慎むようにと」
熱病。
高熱、咳、意識の混濁。
すでに死者。
頭の中で、嫌でも“最悪”という言葉が形をとり始める。
私のいるこの城から、フラウ村までは、決して近くはない。
食糧事情がぎりぎりの村だと聞いていたが、まさか病まで――。
「その報せは、どこから?」
「村を抜け出してきた少年が、城門に駆け込んできたそうです。
今は門のところで、兵が保護しておりまして……」
言い終わるより早く、私は立ち上がっていた。
「案内してください」
◇ ◇ ◇
城門の前は、まだ朝の冷たい空気が残っていた。
石畳の上に、泥が飛び散った足跡がいくつも刻まれている。
その一番濃いところに、小さな影がうずくまっていた。
痩せた少年だった。
十にも届いていないだろうか。
肩まで伸びた髪は汗と泥で張りつき、頬はこけ、衣は破れている。
それでも、その目だけは、必死に開かれていた。
「……リヴィア様!」
私の姿を見つけた兵士が、ほっとしたように頭を下げる。
少年は、こちらを振り向くなり、よろよろと立ち上がった。
そして、私の前までふらつきながら歩いてきて、その場に膝をつく。
「お、おねえ、ちゃん……!」
掠れた声が、震えながら紡がれる。
「おねえちゃんが、井戸を助けたって……聞いた……!
お、お母さんが……熱、出して……ずっと、寝たきりで……
たの、お願い、助けて……お母さん、死んじゃう……!」
小さな手が、私の裾をぎゅっと掴んだ。
寒さではない震えが、その指先から伝わってくる。
喉がつまる。
この子は、どれだけの距離を、一人で歩いてきたのだろう。
熱病の村から逃れてくるということが、どれほどの恐怖を伴うのか、想像に難くない。
「……まずは、座ってください」
私はゆっくりと膝を折り、少年と目線を合わせた。
「あなたのお名前は?」
「ラ、ラルス……フラウ村の、ラルス……」
「ラルス。ここまで来てくれて、ありがとうございますわ」
できるだけ穏やかに笑ってみせる。
「お母様は、まだ息をしていらっしゃるのですね?」
「う、うん……っ。
まだ、あったかくて……でも、熱が、すごくて……
村の先生も、神父様も、“祈るしかない”って……!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔が、こちらを見上げる。
胸の奥が、締め付けられた。
“祈るしかない”。
祈りを否定するつもりはない。
ただ、それは――「他に手段がないとき」の、最後の拠り所であるべきだと私は思う。
最初から、すべてを祈りのほうへ押し出してしまうのは、祈りに対しても、あまりに不誠実だ。
「ラルス」
私は少年の肩に、そっと手を置いた。
「私は、万能の魔法使いではありません。
病のことも、わからないことだらけです」
少年の目が、不安げに揺れた。
私は、その視線から逃げないと決める。
「ですから、“必ず助けます”とは言えませんの。
……けれど、“できる限りのことはします”とお約束します」
ラルスは、ぎゅっと唇を噛んだ。
それから、震える声で、それでも――と続ける。
「きて、くれる……? フラウ村に……」
一瞬だけ、言葉が詰まった。
行く。
そう言いかけた舌が、喉の奥で固まる。
病は、一人の問題ではない。
感染するかもしれない。
私が罹れば、城も、領地全体も揺らぐ。
私だけではない。同行する兵たちも、村の人々も、危険に晒すことになる。
その現実が、喉元に杭を打ち込むように、私の言葉を止めた。
「……少し、考える時間をください」
そう告げるのが精一杯だった。
◇ ◇ ◇
軍議の場に集まった顔ぶれは、いつもより少し、重苦しかった。
長机の向こう側に座るレオン。
その隣には、この辺境で数少ない医師。
そして、先ほど礼拝堂で説教をしていた若い神父が、静かに腕を組んでいる。
「まず、状況を整理しましょう」
私は深呼吸をしてから、口を開いた。
「フラウ村で流行している熱病の症状は――」
医師が、持参した記録をめくる。
「高熱、全身の倦怠感、激しい咳、喉の痛み。
数日経つと、意識が混濁し、うわ言を言うようになる。
中には、皮膚に赤い斑点が出た者もいるとのことです」
「原因は?」
「不明です。
水か、食べ物か、空気か……。
ただ、同じ家に住む者の間で次々と発症していることから、何らかの形で“移る”病である可能性が高い」
医師は眉間に皺を寄せながら続けた。
「正直に申しますと、むやみに村人と接触するのは非常に危険です。
最悪、この城にまで持ち込まれれば、辺境全体が機能不全に陥りかねません」
レオンが、固い声で言葉を継ぐ。
「医師殿の言う通りです。
リヴィア様、あなたが感染して倒れれば、この領地は本当に終わります。
『代わり』はいないのです」
「……承知しています」
それでも、と言いかけた私の前で、神父が静かに口を開いた。
「これは、神の試練かもしれません」
軍議の空気が、ぴたりと止まる。
「“熱病”という形を取ってはおりますが――
人の力だけでどうにかできる範囲を、すでに越えているのかもしれません」
神父は、組んでいた腕を解いた。
「村を封鎖し、祈りの中で人々を天に送ることも、ひとつの慈悲です。
軽々しく病の中へ足を踏み入れることは、
この城に住まう者たちにとっても、神への挑戦ともなり得ましょう」
“挑戦”。
その言葉が、少しだけ棘を含んで聞こえたのは、きっと私の心が歪んでいるからだろう。
「……つまり、見捨てよと?」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「見捨てる、とは申しません」
神父は小さく首を振る。
「祈りに託すのです。
我々は、万能ではない。
すべてを救おうとする思い上がりこそ、神の御心から遠ざかる――
そう、教えられてまいりました」
すべてを救おうとする思い上がり。
確かに、それは傲慢だろう。
私一人が、世界中の痛みを背負い込めるはずもない。
――けれど。
頭の片隅では、別の声が鳴り響いていた。
『おねえちゃんが、井戸を助けたって聞いた……!
お母さんを助けてください――』
さっきの少年の、掠れた叫び。
あの小さな手の震えを思い出す。
誰かを守るために、別の誰かを見捨てる。
その必要性は、頭ではわかる。
でも、心がまだ、その選択を飲み込めない。
「……もし、フラウ村を封鎖したまま、祈りだけに任せたとしましょう」
私はゆっくりと口を開いた。
「村は静かに死に絶えるかもしれません。
それを、“神の御心”と受け入れる人もいるでしょう」
レオンが、じっと私を見つめているのが視界の端に入る。
「ですが、あの村から逃げ出して、ここまで助けを求めに来た子どもは――
きっと一生、その選択を理解できないまま生きることになるでしょうね」
静まり返った室内に、私の声だけが落ちる。
「“あのとき、大人たちはなぜ来てくれなかったのか”と」
神父の指先が、かすかに動いた。
「リヴィア様。
あなたは、お優しすぎる」
それは、誉め言葉としてではなく、半ば呆れたような響きを含んでいた。
「誰かを守るために誰かを切り捨てる――
領主であれば、いつかは選ばねばならぬ局面もございます」
「ええ。わかっていますわ」
私は頷いた。
本当は、半分もわかっていないのかもしれないけれど。
「“誰も傷つかない選択”など、幻想だということも。
誰かを助ければ、別の誰かが傷つくことも。
痛みを均等に分けることすら、できないということも」
机の上で、拳をそっと握りしめる。
「だからこそ――」
一度、深く息を吸う。
「だからこそ、私は“最初から諦める”という選択だけは、まだ、したくありませんの」
レオンが、小さく目を見開いた。
医師が、眉をさらに寄せる。
神父の表情は、読み取りにくい。
「ここで私が行かないことを選べば。
きっと私は、一生、この城の水を喉を通すたびに、あの村のことを思い出すでしょう」
枯れた井戸の底に戻った、あの一杯の水。
あのときの冷たさと、村人たちの涙。
それを覚えている限り、
今度の“乾き”に背を向けることは、きっと私にはできない。
「行った結果として、誰も救えないかもしれません。
逆に、私が病を運んでしまうかもしれません」
それがどれほど怖いことか、十分にわかっている。
「それでも――」
私は机から手を離し、まっすぐに顔を上げた。
「“最初から諦めた”という選択だけは、したくないのです」
沈黙が落ちた。
誰も、すぐには何も言わなかった。
やがて、その沈黙を破ったのは、レオンだった。
「……本当に、行かれるおつもりですね」
低く、押し殺したような声。
私は小さく笑う。
「ええ。
“後ろに隠れている領主”には、なりたくありませんから」
怖くないわけではない。
むしろ、怖くてたまらない。
原因もわからない病。
目に見えない敵。
魔物の爪や牙よりも、ずっと厄介かもしれない相手。
それでも、怖いからといって座っているだけでは、明日も同じことが起こる。
それは、森に出る前のときと同じだ。
レオンは、しばらく黙って私を見つめていた。
その瞳の奥で、何かが揺れ、何かが決まっていくのがわかる。
「……わかりました」
やがて、彼は静かに頭を下げた。
「では、私も行きます」
「レオン様」
「あなた一人だけを危険な場所へ送るつもりはありません」
その声には、微かな苛立ちと、深い覚悟が混ざっていた。
「隊を編成します。
最小限の人数で、動きの取れる者を。
防疫用の準備も、できるかぎり整えましょう」
医師がため息をついた。
「……止めても無駄、ということですな」
彼はあきらめ半分の顔で、肩をすくめた。
「せめて、口と鼻を覆う布と、少しでも身体を守るための薬草を持って行ってください。
消毒に使える酒も、集められるだけ集めます」
「ありがとうございます」
神父は、しばらく沈黙していた。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
「私は……祈ります」
その目が、私を真っ直ぐに捉える。
「あなたが、無事に戻られることを。
そして、この行いが、神の御心の一部であることを」
それは、反対でも賛成でもない。
ただ、「見守る」という選択だった。
それもまた、ひとつの覚悟なのだろう。
◇ ◇ ◇
出発の準備は、いつもの遠征とは少し違っていた。
口元と鼻を覆うための布を、侍女たちが忙しなく縫い上げる。
医師が選んだ苦い薬草が、袋に詰められ、腰に下げられる。
強い酒の入った瓶がいくつも並び、
「これは飲むものではなく、傷口を洗うものです」と、何度も念を押された。
鏡の前で、口元に布を巻いてみる。
「……なんだか、怪しい商人のようですわね」
思わず、内心でつぶやいてしまった。
布の下で、口角がわずかに上がる。
笑ってみても、誰にも気づかれないのは、こういうときには少し便利だ。
外に出ると、城門のそばでラルスが待っていた。
さっきよりも、ほんの少しだけ顔色が戻っている。
兵士から水とパンを分けてもらったのだろう。
私の姿を見つけると、彼はぱっと目を見開いた。
「お、お姉ちゃん!」
勢いよく駆け寄ってくる。
「ほんとに……ほんとに、来てくれるの?」
私は膝を折り、布越しに微笑んだ。
「ええ。“おばさん”ではなく“お姉ちゃん”として、頑張ってみますわ」
ラルスが、きょとんとした顔をする。
兵士の何人かが、肩を震わせて視線を逸らした。
……笑われても、仕方ない。
年齢的には、ぎりぎり“お姉ちゃん”で通しておきたいのだ。
「私も行きますが、ラルスはここに残ってくださいね」
「えっ……でも……」
「あなたがまた村に戻れば、その道中で、別の村の人たちに病を移してしまうかもしれません」
そっと、言葉を選ぶ。
「ここで、お母様のぶんまで、しっかり食べて、しっかり眠ること。
それが、今のあなたの、一番大事なお仕事ですわ」
ラルスは、ぎゅっと唇を噛んだ。
それから、涙目のまま、それでも頷く。
「……うん。
お姉ちゃん、絶対、無理しないでね」
「ええ。できるだけ、そうします」
できるだけ――
本当にできるかどうか、心の中では怪しかったけれど。
◇ ◇ ◇
馬上で、手綱を握る指先が、わずかに震えていた。
防寒のマントの下で、胸に当てた手が、自分の鼓動の速さを伝えてくる。
フラウ村へ向かう道は、森へ向かったときよりも、なぜか重く感じられた。
敵の姿が見えないからだろうか。
剣を振るえば倒せる相手ではないからだろうか。
「……怖くないわけが、ありませんわね」
自嘲気味に、小さく呟く。
隣で同じく馬を駆るレオンが、ちらりとこちらを見る。
「怖いのは、当然です」
彼の声は、静かだった。
「怖くなければ、ただの無謀者ですから」
私は、布の下で笑う。
「それでも、怖いから行かないと口にした瞬間――
きっと私は、この席に座る資格を失います」
前を見据える。
まだ見えない病の村のほうへ。
誰かを守るために、誰かを見捨てる覚悟。
誰も見捨てずに、自分ごと沈む覚悟。
私が今、選べるのは、そのどちらかだけなのだろう。
ならば――。
「私が選ぶのは、“一緒に背負う覚悟”のほうですわ」
心の中で、そっと呟く。
たとえそれが、愚かしい選択だと言われても。
思い上がりだと非難されても。
助けを求める声が聞こえているのに、耳を塞いでしまう自分になること。
それだけは、病そのものより、よほど怖かった。
馬の蹄が、湿った土を踏む音が続いていく。
フラウ村までの道のりは、決して短くはない。
それでも――私たちは、前へ進むしかないのだ。




