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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
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火種になる噂と、“偽りの聖女”の影

 火種になる噂と、“偽りの聖女”の影


 噂というものは、どうしてこうも足が早いのでしょう。


 王都からの使者を見送って、まだ一週間も経っていないというのに――

 市場のざわめきは、もう別の名前を囁き始めていました。


「なあ、聞いたか。公爵令嬢様は、神様じゃなくて、精霊と契約してるんだってよ」


「契約って……あんた。精霊なんて気まぐれなやつらだろ。

 そんなもんに力を借りたって、ろくなことにならねえ」


「でもよ、枯れた井戸に水を呼び戻したんだぞ? あれは神の御業だって、うちの婆さんは──」


「違うさ。神父様が言ってた。

 “偽りの奇跡”に惑わされるなって。

 あの公爵令嬢様は、本物の聖女様から力を奪って、そのせいで辺境に追われたって話だ」


「……本当かよ、それ」


「さあな。だが、教会の人がそう言うんだ。まるきり嘘ってわけでもなかろう」


 井戸端で水を汲んでいたとき、背後からそんな声が耳に飛び込んできた。


 私に気づいているのかいないのか、よく通る男の声。

 ひそひそ話のつもりなのかもしれませんが、残念ながら、辺境の朝はまだ静かです。


(聖女様から力を、奪った、ですって)


 思わず、桶を持つ手に力が入る。


 クラウス殿下と聖女候補セレスティアさんの噂は、王都を発つときにも耳にした。

 「殿下が神のために聖女を選んだ」「公爵令嬢はその席を譲った」――

 本当のところは、もう本人たちにしかわからないとしても。


 それがここ辺境に届くまでのあいだに、

 どうして「聖女から力を奪った罪人」という物語に書き換えられてしまうのでしょうね。


(噂はいつだって、真実より早く走りますわね)


 苦笑が、こぼれそうになる。

 ここで振り返って、「それは違います」と指摘したところで、きっと別の噂話の種にされるだけだ。


 私は何も聞かなかったふりをして、桶を満たし、井戸から離れた。


 自分の背中に向けられる、好奇心と警戒と――すこしの憧れと嫌悪が混ざった視線を、肌で感じながら。


◇ ◇ ◇


 その数日後。


「村の礼拝堂で、新しい神父様がお話をしてくださるそうですわ」


 侍女のひとりが、嬉しそうに知らせてくれた。


「今度の方はお若いのに、とても勉強熱心で、説教もわかりやすいと評判でして。

 リヴィア様も、よろしければご一緒に――」


「そうですの。では、少し覗いてみましょうか」


 教会との関係がぎくしゃくし始めている今だからこそ。

 地方の礼拝堂がどういう空気なのか、一度自分の目で確かめておきたかった。


 私はあくまで“ひとりの信徒”として、質素なマントを羽織り、侍女と共に礼拝堂へ向かった。


◇ ◇ ◇


 村の礼拝堂は、こぢんまりとしていた。


 白い漆喰の壁に、古びた木の柱。

 祭壇の上には、神の象徴をかたどった素朴な木像と、擦り切れた布の掛け物。


 硬い長椅子が数列並び、そのあいだには、村の人々が肩を寄せ合って座っていた。


 私は後ろの方の端に腰を下ろし、膝の上で静かに手を組む。


 ほどなくして、祭壇の前に若い神父が立った。


 二十代半ば、といったところだろうか。

 痩せた顔に真面目そうな目。

 衣は簡素だが、よく整えられていて、彼なりの誇りが透けて見える。


「兄弟姉妹たちよ。本日も、ここに集ってくださったことに、心から感謝いたします」


 よく通る声で、神父は語り始めた。


 最初は、いつも通りの説教だった。


 神への感謝。

 日々の糧が与えられていることの奇跡。

 苦しみの中にも、意味を見出そうとする教え。


 人々は静かに頷き、ときおり祈りの言葉を口にする。


 しかし、話題が「奇跡」に及んだあたりから、空気が少しずつ変わり始めた。


「――さて。

 この辺境においても、“奇跡”と呼ばれる出来事が、いくつか起こったと聞きます」


 神父の言葉に、場がかすかにざわめく。


 井戸。森。

 そして、私の名。


 皆が、それらを思い浮かべたのがわかった。


「枯れた井戸に、水が戻った。

 森で、誰も死ななかった。

 病が癒え、痛みが和らいだ――」


 彼は一つ一つ、指折り数えるように、淡々と事実だけを並べていく。


 ここまでは、ただの事実確認だ。


 この後に続く言葉を、私は無意識に待っていた。


「それらが、人の手によってなされたとき。

 我らは、どう捉えるべきでしょうか」


 神父の目が、堂内をゆっくりと見渡す。


 私のほうを、ほんの一瞬、かすめたような気がした。


「奇跡は、本来、神の御業であります。

 精霊もまた、神が創りたもうた世界の一部にすぎません」


 彼は静かに続けた。


「精霊は気まぐれです。

 今日、あなたに恵みを与えたかと思えば、

 明日にはあなたからすべてを奪い去ることもある」


 耳の奥で、誰かが小さく息を呑む。


「神の名を語らず、精霊の名ばかりを唱え、

 あたかも自分の意志で奇跡を降ろしているかのように振る舞う者がいるなら――」


 言葉が、そこだけ少しだけ重くなった。


「その者は、“神のしもべ”ではなく、

 “精霊の気まぐれに踊らされているだけ”かもしれません」


 堂内の空気が、ぴんと張り詰める。


「華やかな言葉と、甘い優しさで人の心を掴み、

 “祈り”よりも“便利な奇跡”を信じさせる者に、気をつけなさい」


 神父の声が、低く落ちる。


「偽りの奇跡を振るう者は、やがて自らを“神の代わり”のように錯覚し、

 人々もまた、その者を“神より近い存在”としてあがめ始める」


 それが、どれほど危うい道か。

 神を忘れ、自らの力を信じるようになったとき、人はどこへ向かうのか。


 彼は長々と、それを語った。


 そのどこにも、私の名前は出てこない。


 「公爵令嬢」も、「領主代理」も、「リヴィア」という音も。


 けれど、堂内の何人かが、そっと私のほうを盗み見る視線を、私は感じていた。


 ざらりとした感覚が、背中をなぞる。


(……そう来ましたのね)


 名指しを避けるのは、うまいやり方だ。


 特定の個人を誹謗したとは言わせないように、

 しかし誰のことを指しているのか、皆がわかるように。


 若い神父は、きっと真面目で、真剣なのだろう。


 信徒たちが「人ではなく神を頼る」ことを望んでいるのも、本心だと思う。


 ――それでも。


 「偽りの奇跡」「神を騙る者」。

 そんな言葉が、この辺境の乾いた空気の中で、やけに重く響いていた。


 魔女裁判の物語を、本で読んだことがある。


 「神の名を騙り、悪魔と契約した女」と烙印を押された者たちが、

 どういう末路を辿ったのかも。


(あの神父様の言葉は、きっと、誰かを傷つけないための祈りから生まれたものなのでしょう)


 それでも――私の存在そのものが、誰かの祈りを壊してしまうのなら。


 私は、一体どうすればいいのでしょうね。


◇ ◇ ◇


 説教が終わり、礼拝堂を出ると、外の空気はひんやりとしていた。


 小さな庭の片隅に立つ木の下で、私は足を止める。


 礼拝堂の中で固まっていた膝を、そっと伸ばす。


「……礼拝堂の椅子というのは、どうしてああも硬いのでしょうね」


 誰にともなくぼやきながら、腰を軽く回す。


 長時間同じ姿勢で座っていたせいで、足先がじんじんと痺れていた。


 隣に立っていた侍女が、心配そうに私の顔を覗き込む。


「リヴィア様、大丈夫ですか? お顔の色が……」


「ええ。少し、考え事をしていただけですわ」


 私は微笑んでみせる。


「あの神父様の言うことも、間違ってはいませんから」


 奇跡に頼りすぎれば、人は自分で歩くことをやめてしまう。


 「リヴィア様がいれば大丈夫」と、思考を止めてしまう人が増えれば、

 それはきっと、この領地の未来にとっても良くない。


 神父は、それを恐れているのだろう。


 信徒たちが、精霊でも領主でもなく、「神」を見失わないように。

 自分の足で立ち続けられるように。


 その祈り自体を、私は否定する気になれなかった。


(それでも――)


「目の前で苦しんでいる人を前に、

 “祈って待ちなさい”とだけ告げることが、

 私にはどうしてもできそうにありませんの」


 ぽつりと、空に向かって呟く。


「私はどこまで踏み込むべきなのでしょうね」


 助けを求める声があれば、その手を取ってしまう。

 枯れた井戸があれば、水を探してしまう。

 泣いている子どもがいれば、パンを割ってしまう。


 それを繰り返すうちに、

 誰かの信仰を侵食してしまっているのだとしたら――。


「リヴィアお姉ちゃーん!」


 ふいに、明るい声が飛んできた。


 顔を上げると、礼拝堂の脇の小道から、見覚えのある子どもが駆けてくる。


 井戸のときに出会った、あの子だ。

 今は顔色もよく、足取りも軽い。


「また井戸のお水、見に来てくれる? 

 この前ね、前より冷たくて気持ちよかったんだよ!」


「まあ。それは良かったですわ」


 私は思わず笑ってしまう。


「ええ、もちろん。また見に行きますわ。

 お水がちゃんと元気かどうか、確認しなくてはなりませんもの」


「やった!」


 子どもは飛び跳ねるように喜ぶと、

 「お母さんに言ってくる!」と叫んで、走り去っていった。


 その背中を見送りながら、胸の奥が少しだけ軽くなる。


 この子たちにとって、私は“神さま”ではない。

 「井戸のお姉ちゃん」くらいの存在だろう。


 それでいい。

 それ以上になってはいけないのだと思う。


 私は、神様の代わりにはなれません。

 なりたくもありません。


 ただ――


「ただ……誰かの今日の苦しみを、ほんの少し和らげる“手”でありたいだけなのです」


 小さく、そう呟く。


 噂は、これからも増えるだろう。


 「偽りの聖女」「神を騙る者」「精霊に魂を売った女」。


 そんな言葉が、どこかで囁かれるたびに、

 誰かの信仰は揺らぎ、誰かの心は私から離れていく。


 その中には、きっと私を憎む目も、私を崇めすぎる目も、両方が混ざるだろう。


(どちらも、本当は少し、怖いのですけれど)


 それでも――井戸の水を嬉しそうに語る子どもの笑顔を見てしまった以上。


 私はやはり、ここから引き返すことはできないのだと思う。


 礼拝堂の鐘の音が、遠くで鳴った。


 神父の祈りも、人々の信仰も、この土地の空気も。

 そのすべての中に、私もまた、ひとつの“火種”として混ざっている。


 その火が、いつか誰かを焼いてしまわないように。

 せめてできるかぎり、手を添えて、見守り続けるしかない。


「……さあ。噂の足が追いつけないくらい、今日も働きませんとね」


 自分自身にそう言い聞かせて、私は礼拝堂を後にした。


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