遠くから来た使者と、不穏な視線
遠くから来た使者と、不穏な視線
王都の紋章が、朝の光を受けて鈍く光っていた。
まだ空気に夜の冷たさが残る早朝。
城門の上から見下ろした先で、一台の馬車がゆっくりと土を蹴り上げながら近づいてくる。
磨かれた車輪。過不足のない護衛の人数。馬具に刻まれた、王家の紋章。
(……王都からの馬車、ですわね)
報せはすでに届いていた。
「辺境グラウベルク領の視察および報告聴取のため、王都より使者が派遣される」と。
城門まで出迎えに行くと、馬車の扉が静かに開き、一人の男が降りてきた。
四十代ほどだろうか。
無駄のない仕立ての上着に、よく磨かれた靴。
太っても痩せてもいない体つき。表情は柔らかいが、目だけは油断なく周囲を測っている。
「初めてお目にかかります、グラウベルク辺境領代理、リヴィア・エルネスト公爵令嬢殿下。
王都より参りましたルーファス・バルネスと申します」
つややかな所作で一礼するその姿に、私は、ああ、典型的な「王都の役人」だ、と心の中で苦笑した。
「ようこそ、こんな辺鄙な場所へお越しくださいました。
リヴィア・エルネストですわ、ルーファス様。長旅でお疲れでしょうに、わざわざご足労いただき、恐れ入ります」
私もドレスの裾を摘み、礼を返す。
「いえいえ、とんでもない。
辺境の状況は、近年王都でもたびたび話題に上っておりますゆえ。
実際の様子を、この目で確かめさせていただけるのは光栄なこと。そう王都にお伝えいただければ」
言葉は丁寧、笑顔も申し分ない。
けれど、その笑みの奥にある「計算」までは隠しきれていない。
(……まあ、そうでしょうね)
私は内心で肩をすくめる。
枯れた井戸に水を呼び戻したこと。
森で魔物を退けたこと。
横領を暴き、代官を罷免したこと。
あれだけのことをしておいて、「王都が気づかないまま」というのは、むしろ不自然だ。
噂は、良いものも悪いものも、上へと勝手に昇っていく。
そしてその噂の中には、きっとこういう言葉も混じっている。
――公爵令嬢が、精霊に選ばれたらしい。
――聖女よりもよほど「奇跡」を起こしているらしい。
――教会と、少しばかり折り合いが悪いらしい。
王都の上の人々が、その情報を「面白そう」と受け取るか「危険だ」と受け取るか。
それを確かめるための目が、今、目の前で穏やかに笑っているのだ。
「まずは、お部屋をご用意しております。
お荷物を置かれましたら、改めて執務室にてお話を伺えれば」
「ありがとうございます。
ですが、もし可能であれば――」
ルーファスは視線を遠くの村の方角に向ける。
「この辺境が、どのように変わりつつあるのか。
殿下ご自身のご案内で、簡単に見せていただけると、大変ありがたいのですが」
「構いませんわ。隠すようなものは、何ひとつございませんから」
私は微笑んだ。
(隠すべきものがあるときは、こういう申し出は断るべきなのでしょうけれど)
あいにく、今の私は、隠しごとをするほど器用ではない。
「では、少しだけお待ちください。
すぐにレオンたちを呼んで、準備いたします」
◇ ◇ ◇
その日の午前中は、丸ごと「視察」に費やされることになった。
まずは井戸からだった。
村の中心にある、かつて枯れていた井戸。
今は、細い流れながらも、水が途切れずに湧き出ている。
「こちらが、例の井戸ですわ」
私は井戸の縁に手を添えながら説明した。
「もとは完全に枯れていたのですが……
少し、精霊のお力をお借りして、水脈を呼び起こすことができました」
「“少し”ですか」
ルーファスは、井戸の中を覗き込みながら言った。
桶が水を汲み上げる音。
水面に揺れる光。
井戸端で列をつくる村人たちの顔には、まだ半分不安が、半分感謝が刻まれている。
「王都でも噂になっておりますよ。
『枯れた井戸に水を呼び戻した、公爵令嬢がいる』と」
「噂というものは、いつも少し盛られますわね。
私がしたのは、もともとこの土地にあった水の道を、少し撫でて目を覚まさせていただいただけです」
「その『少し撫でる』ことが、どれほど難しいかは、神殿の魔法師たちに聞いてみればよい、と教えられました」
言葉こそ穏やかだが、その視線は鋭い。
「……それに、“精霊王に寵愛された”という噂も」
「寵愛、ですか。
あの方がそのような甘い言葉をお好きだとは、思えませんけれど」
つい、口から本音が零れた。
ルーファスが一瞬、まばたきをする。
「“あの方”とは?」
「夢の中で、少しだけ話をした相手のことです。
名乗ってくださいませんでしたから、勝手にそう呼んでいるだけですわ」
私がさらりと答えると、ルーファスは「ほう」と短く息を漏らした。
「夢の中で……。
それは、教会に記録されている“聖女の啓示”とよく似ておりますな」
「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。
――いずれにせよ、私がここでしているのは、目の前の井戸に水を呼び戻すことであって。
大層な呼び名を頂戴するのは、少し落ち着きません」
ルーファスの目が、わずかに細くなる。
「謙遜も、あるいは殿下の美徳のひとつなのでしょう。
しかし、王都としては、辺境に“教会とは別系統の奇跡”が生まれていると知れば、
少なからぬ関心を抱かざるをえません」
(……“関心”という言葉の中に、“警戒”も含まれているのは、ひしひしと伝わってまいりますわ)
私は内心で肩を竦めながら、外側だけは穏やかな笑みを保つ。
「王都の皆様におかれましては、ぜひ一度、この井戸の水を飲んでいかれてくださいませ。
聖女様の奇跡に比べれば、ささやかなものですが――
少なくとも、“今日、この村で喉が潤う人”は、たしかに増えましたから」
「……後ほど、ありがたく」
ルーファスはそれ以上何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
井戸の次は倉庫だった。
かつて、ほとんど空っぽだった穀物庫には、今は少しずつ、穀物袋が積まれはじめている。
「横領の分をすべて取り返せたわけではありませんが……
せめて今年の冬を越すぶんくらいは、何とか」
「王都からの送金は?」
「必要最低限は、滞りなく。
ただ、これまでは“途中で消えていた”だけですので」
私は、敢えてさらりと言った。
ルーファスの眉が、わずかに動く。
「代官の職務停止と拘束については、すでに報告書を上げております。
横領の証拠も、帳簿と実際の物資の照合をもって、十分に揃っておりますわ」
「拝見しました。
……お見事と申し上げてよろしいのか、複雑なところですが」
「お見事と言われるのは、あまり嬉しくありませんね。
本来なら、こんな穴は最初から空いていてはならないものですから」
そう言うと、ルーファスは息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。
「辺境の実情に、ここまで踏み込んだ領主は、近年おりませんでした。
殿下のご行動は、王都にとっても大きな驚きであり……同時に、ひとつの問いでもあります」
「問い?」
「ええ。
――『殿下一人がここまで為し得るのであれば、今まで何をしていたのか、我々は』という」
その言葉には、皮肉と自己批判がないまぜになっていた。
「だからこそ、王都は気にしております。
“殿下に頼りきりになることの危うさ”を」
「私がいなくなったら、この地はどうなるか、というわけですわね」
ルーファスは驚いたようにこちらを見た。
「お察しが早い」
「考えることは皆同じですわ。
私自身も、その点は重く受け止めております」
私は倉庫の天井を見上げる。
「だからこそ、井戸の整備も、魔法に頼りきるつもりはありません。
技術と知識を共有して、いずれは私がいなくても回る仕組みを――とは思っておりますが……」
そこで一度苦笑する。
「正直なところ、そこまでの道筋は、まだ霧の中ですわね」
「霧の中でも、一歩は進んでおられる」
ルーファスは静かに言った。
「王都としては、殿下のご尽力を評価しないわけには参りません。
ただ同時に、その“異例さ”もまた、見過ごすことはできない」
異例。
それはすなわち、「管理しづらい」という意味でもある。
「……王都は、私をどうなさりたいのでしょうね」
思わず、半ば冗談めかして尋ねると、ルーファスは笑みを深めた。
「それを決めるのは、私の仕事ではありません。
私はただ、“見たまま”を持ち帰るのみ」
そう言いながらも、その目は少しも笑っていなかった。
◇ ◇ ◇
視察は、村、兵舎、簡素な診療所など、領内のあらゆる場所に及んだ。
どこへ行っても、ルーファスは「ご立派です」「素晴らしい」と言葉を欠かさなかった。
しかしそのたびに、ほんの少しだけ、言葉の影に「本当にそれだけなのか?」という疑いが滲む。
「教会との関係はいかがですか」
診療所の一角で、彼はさりげなく尋ねた。
「いえ、普通に。
祈りに救われる方もいらっしゃいますし、私のところに来る前に教会に行く方も少なくありません」
「しかし、人々は“殿下のもとへ行けば、奇跡が起こる”と期待している」
「それは困った噂ですわね。
私は奇跡など起こしておりませんのに」
「井戸の水は?」
「精霊のお力を借りました。
でも、“神の名”を唱えたわけではありません」
そう答えると、ルーファスはわずかに言葉を切った。
「教会の一部には、“殿下の行いは教義に反する”とする声もあります。
王都として、どこまでその声を汲むべきかを、今、上の方々が悩んでおられる」
「それは――」
私は一瞬、口を開きかけて、やめた。
礼拝室での、あの夜の祈りが喉の奥に引っかかる。
(……私の歩き方は、そんなに間違っているのでしょうか)
それでも、私は微笑みを崩さない。
「信仰を否定するつもりはありません。
ただ、目の前で苦しんでいる人を前に、権利や序列を優先するつもりもない――
その点について、私は以前と変わる気はありませんわ」
「率直なお言葉、ありがとうございます」
ルーファスは、またあの「役人の笑み」に戻った。
「本日のところは、これくらいに。
明日はもう少し、詳しくお話を伺えれば」
「ええ。
資料もご覧になりたければ、すべてお出ししますわ。
ここに来てから私が書いたものは、だいたい眠気を誘う内容ですけれど」
冗談めかして言うと、彼は珍しく、くすりと笑った。
「眠気を誘うほどの書類仕事を、この短期間で。
――それもまた、異例ですな」
◇ ◇ ◇
正式な視察が終わり、ルーファスが客室で休んでいるはずの夜。
私は一人、城の外に出た。
静かな夜気が、疲れた肌に心地よい。
酒場の前の路地からは、祭りほどではないにせよ、人々の笑い声と杯の触れ合う音が微かに届いてくる。
(……笑い声が聞こえる夜が、前より増えましたわね)
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
考え事をしながら歩いていると――。
「っと」
角を曲がったところで、誰かと軽くぶつかった。
「あっ、ごめんなさい!」
つい条件反射で謝る。
相手はフードを目深にかぶった旅人風の人物だった。
「いえ、こちらこそ。
前をよく見ていなかったのは、私のほうです」
低めだが、よく通る声。
男女どちらとも取れるような、落ち着いた響き。
フードの影から覗く口元には、柔らかな笑みが浮かんでいる。
「怪我はありませんか?」
私は思わず、相手の腕や足元に視線を走らせる。
「ええ、大丈夫です。
むしろ、そちらこそ。
――領主様が、こんな場所を一人で歩いていてよろしいのですか?」
さらりとそう言われて、私はまばたきをした。
「……私が領主だと、ご存じで?」
「この辺りまで来れば、さすがに噂くらいは耳に入りますよ。
“奇跡の公爵令嬢”――でしたか」
「その呼び方は、できれば酒場の中でのみお使いいただきたいところですわね」
思わず苦笑すると、旅人は声を立てて笑った。
「なるほど。本人はあまり気に入っておられない」
「ええ。
奇跡などという立派なものを扱えるほど、器用な人間ではありませんので」
「でも、枯れた井戸に水を呼び、森で兵を守ったのは、あなたなのでしょう?」
「そういう“結果”になっただけです」
「謙遜か、本心か。
……どちらにせよ、面白い方だ」
旅人は、そう呟いた。
「面白い、ですか」
「ええ。
この辺境には、最近“面白い人がいる”と聞きまして。
少し見てみたいと思って、遠くから足を運んだのです」
さらりと「遠くから」と言う。
遠く、とはどこだろう。
別の領地か。
別の国か。
あるいは――教会の、より上の階層からか。
(……さて)
私の中で、小さな警鐘が鳴る。
だがそれを顔には出さず、いつも通りの笑みで返した。
「面白いかどうかはわかりませんが、変わった領主なら、一人おりますわね」
「ご自身でおっしゃる」
「これだけ噂になっておいて、“普通です”と言い張るのも、嘘くさいでしょう?」
旅人は肩を揺らして笑い、少しだけ頭を傾けた。
「王都からの視線だけでも大変でしょうに、“外”からも人が押しかけて、さぞご負担かと」
「負担かどうかは……これから、判断いたします」
私は視線を少しだけ鋭くする。
「あなたは、“どこから”いらした方ですの?」
旅人は、その問いに明確に答えなかった。
「風に乗って、少し遠くから。
――そうとだけ、お答えしておきましょう」
「風というのは、便利ですわね。
どこから吹いてきたのか、証明しなくて済みますから」
「おや、疑われていますか?」
「ええ。
辺境の領主ですので。
最近、風向きが変わってきていることくらいは、肌で感じます」
あえて、軽い調子でそう言っておく。
旅人は一瞬だけ黙り、それから口元だけで笑った。
「なるほど。
――やはり、噂以上に“面白い”」
その言葉と共に、フードの奥の瞳が、わずかに光った気がした。
一瞬だけ見えたその光は、焚き火のような温かさではない。
獲物を測るときの、獣の目のような。
値踏み。
この人間がどれほどのものかを、冷静に測っている視線。
(……この人は、善意だけでここに来たわけではない)
直感が、耳元で囁いた。
「……お気をつけて。
この辺りの夜道は、まだ足元が悪いところも多いですから」
私がそう告げると、旅人は軽く会釈した。
「ありがとうございます、領主様。
あなたも、どうかお気をつけて」
「私にお気をつけてと言う方は、最近とても増えましたわ。
そのうち、私より周りのほうが疲れてしまいそうです」
「それは――周りの人々が、あなたを失いたくないと思っている証でしょう」
旅人は、そう言い残し、闇の中へと消えていった。
最後に振り返ったその一瞬、
フードの奥の瞳に宿っていたのは、やはり好奇心よりも「警戒」と「興味」の混ざった色だった。
◇ ◇ ◇
城の自室に戻り、窓を開ける。
夜風が、頬を撫でた。
遠くの村から、遅くまで起きている酒場の笑い声が微かに届いてくる。
少し離れた場所では、兵士たちの交代の足音。
そして、頭上には変わらぬ星空。
「風向きが、少しずつ変わり始めている気がしますわね」
ぽつりと呟く。
今までは、この辺境の問題は、この辺境の中だけで完結していた。
枯れた井戸も、飢えた子どもたちも、荒れた森の道も。
ここで起きて、ここで泣かれて、ここで諦められてきた。
それが今、王都からの紋章をつけた馬車がやって来る。
風に乗った正体不明の旅人も現れる。
上からの視線。
横からの視線。
どこからともなく、私たちを「見に来る」目が増え始めている。
「風は、いつも上から下に流れるとは限りません、でしたわね」
以前、誰かにそう言った言葉を、ふと思い出す。
「ときには、底から吹き上がる風もある。
そう信じて、ここまで来ましたけれど――」
その風に、今度は上や横からも、別の風がぶつかってくるのだろう。
そのぶつかり合いの中で、何が舞い上がり、何が地面に落ちるのか。
まだ、誰にもわからない。
ただひとつ、はっきりしているのは。
「……どれだけ見られても」
私は窓枠に指を添え、夜の村を見下ろす。
「ここで泣いている人たちがいるかぎり、
私は、“見る”側の都合だけで歩き方を変えるつもりはありませんわ」
そう、小さく、誰にも聞こえない声で言う。
精霊王がこれを聞いて笑うのか、教会がこれを聞いて怒るのか。
王都がこれを聞いて眉をひそめるのか。
――それは、それとして。
「明日もまた、帳簿と井戸と、子どもたちのご飯と。
やることは山ほどありますものね」
軽く伸びをすると、背中から骨がぽきぽきと音を立てた。
「……笑顔を維持するのは、戦闘とは別の筋肉を使いますわね」
頬をそっとさすりながら、ひとりごちる。
王都からの使者。
どこからともなく現れた旅人。
不穏な視線の気配は、確かに強くなっている。
それでも――窓の外の星は、辺境の空にも、王都の空にも、同じように瞬いている。
上から見ている者たちにも、横から覗いている者たちにも。
そして、底から見上げている私たちにも。
同じ光が降り注ぐのなら。
「風向きがどう変わろうと、
私が見るべき場所は、今は――この土地の“底”のほうですわね」
そう心の中で呟き、私はそっと窓を閉めた。




