誰にも見せない祈り
その夜、城の廊下は、いつもより少しだけ長く感じられた。
日中は、兵たちの足音や、侍女たちの話し声、遠くから聞こえる市場のざわめきが、ここまで届いてくる。
けれど、夜更けの城は、驚くほど静かだ。
私の靴音だけが、石畳の上で、こつ、こつ、と控えめに響く。
教会の司祭と話したときの、あの張り詰めた空気が、まだ胸の奥に残っていた。
言うべきことは言ったつもりだ。
それでも、本当にあれでよかったのかどうか、心は簡単には結論を出してくれない。
寝室の前を通り過ぎて、もう少し奥へ。
城の片隅に、小さな礼拝室がある。
もともとは、前領主の家族が、ひっそりと祈りを捧げるために作られた場所だと聞いた。
扉の前で、一度立ち止まる。
(……誰か、起きているかしら)
耳を澄ませてみるが、中から人の気配はしない。
この時間にここを使う者は、ほとんどいないのだろう。
私はそっと取っ手を回し、きしむ音を最小限に抑えながら扉を開いた。
◇ ◇ ◇
礼拝室は、質素だった。
白い石壁に、簡素な木製の祭壇。
壁掛けの聖印と、両脇に立てられた燭台。
一番奥の窓は小さく、夜の闇を切り取ったように、四角い黒を浮かべている。
灯りは、壁の燭台に一本だけ。
さっき侍女が確認に来たのだろう、ろうそくは新しい。
私は扉を閉め、背中で“かちゃり”と鍵のかかる音を聞いた。
この鍵は、内側からしかかからない。
誰にも邪魔されたくないときに、ここへ来る。
祭壇の前まで歩み寄り、備え付けの祈りの椅子に目をやる。
けれどそこには座らず、少し横にずれた床の上に、静かに膝をついた。
きちんとした祈りの形というものが、本来どういうものなのか。
私は、よく知らない。
幼い頃に習った祈りの言葉は、どれもきれいで、整っていて、
でも少しだけ、息苦しかった。
難しい言い回しの一つひとつに、嘘はないのだろう。
けれど、今の私が胸の中に抱えているものは、もう少し泥だらけで、形も悪い。
だから今日は、決まりごとよりも、自分の座りやすい体勢を選ぶ。
膝を折り、足を揃えて座り込む。
背筋だけは、自然と伸びた。
組んだ手さえ作らず、ただ膝の上に静かに置いて、目を閉じる。
しん、とした空気の中で、ろうそくの炎が揺れる音が、かすかに聞こえる気がした。
「……どなたか」
声に出すと、途端に照れくさくなりそうで、
言葉は、喉から先へ出さずに、心の中だけで紡いだ。
(神様、と呼ぶべきなのかもしれませんけれど。
今日は、もう少し曖昧なままで、許していただきたいのです)
誰に向けているのか、自分でもうまく定まらない。
精霊たちかもしれない。
あの、白い世界で出会った“何か”かもしれない。
あるいは、ただの独り言として、石の壁に吸い込まれていくだけかもしれない。
(聞こえていなくても、かまいません。
ただ、どこかに向けて言葉を投げておかないと、
自分の中だけでぐるぐる回り続けて、壊れてしまいそうで)
静かに、息を吸う。
胸が、きゅう、と細くなる。
(……私は、正しいことをしていると、自分に言い聞かせています)
教会の司祭とのやりとりが、頭の中で再生される。
井戸の水。
門前の人々。
森での初陣。
どれもこれも、“誰かが目の前で困っているから”というだけの理由で動いたことだ。
(目の前で泣いている人の前を、見ないふりで通り過ぎる人間には、なりたくないと。
そう思って、ここまで来ました)
けれど。
(本当に、あれでよかったのでしょうか)
心の中で問いかけると、胸の奥で、鈍い痛みが広がる。
(今日、教会の方とお話しして……
あの方々の立場から見れば、私は、きっと、とても扱いづらい人間なのでしょうね)
信仰を支えてきた人たち。
祈りの場を守ってきた人たち。
彼らとて、好きで権威にすがっているわけではないかもしれない。
信じるものがなければ、立っていられない夜も、きっとたくさんあったはずだ。
(私のせいで、教会の人々を苦しめることになってはいないでしょうか)
今日、私が選んだ言葉の数々は、
彼らから見れば「信仰への反逆」に映ってもおかしくない。
(私のせいで、誰かが傷ついたら、それは“救い”と呼べるのでしょうか)
目の前の誰かの痛みを少し軽くする代わりに、
知らない誰かの誇りを傷つけているのだとしたら。
(……それでも)
喉の奥で、別の声が小さく反発する。
(それでも、目の前の痛みに背を向けるくらいなら、嫌われるほうが、まだましだと思ってしまうのです)
“聖女様”と呼ばれるつもりはない。
“奇跡の公爵令嬢”などという噂も、おこがましいとしか思えない。
それでも――。
(この土地で、誰も見ていないと思われていた苦しみを、
見てしまった以上は)
もう知らないふりをして、
暖かい部屋で、きれいな祈りの言葉だけを口にしていることは、できない。
「……ねえ」
いつのまにか、唇から声が漏れていた。
「白い世界の、あの方」
夢で見た、輪郭の定まらない“人の形”を思い浮かべる。
精霊王――と呼ぶのが、一番近いのだろうか。
「あなたは、私に言いましたね。
“お前のようなものを、人間だと一括りにするのは不服だ。
お前だけは、我の例外とする”と」
あのときの、少しだけ高慢で、少しだけ甘やかすような声が、耳の奥で蘇る。
「“お前に力を貸すのは、世界のためではない。
お前自身が、どこまで行けるか見たいからだ”とも」
私は小さく笑った。
「……勝手なことをおっしゃいますわね、本当に」
世界の均衡のためでも、正義のためでもなく。
ただ、“面白いから見ていたい”。
なんて、身勝手で、不親切で、自由な存在だろう。
「あなたは、私の行いを裁くためにいるのではない、とも言いました。
ただ、私が選んだ道の先を、見ていたいだけだと」
ということは。
「私の歩き方が間違っているかどうかは、
あなたにとっては、さほど重要ではないのでしょうね」
それを思うと、可笑しくて、少し、悔しくなる。
「……それでも」
膝の上で、そっと指を握りしめる。
「私の歩き方は、そんなに間違っていますか。
もしそうなら、どうか、誰かに叱ってほしい」
神様でもいい。
精霊でもいい。
信頼できる人でもいい。
私の選んだ言葉や行動が、本当に誰かを不幸にしているのだとしたら。
ちゃんと、それを教えてほしい。
「誰かを救おうとして、別の誰かを傷つけてはいないでしょうか」
たとえば、教会の人々。
たとえば、私の噂を重荷に感じている兵たちや、村人たち。
“奇跡”という言葉は、思った以上に重い鎖だ。
「完璧な正しさなんて、きっと、どこにもないのでしょうけれど」
私の中の“正しさ”と、誰かの中の“正しさ”が、
互いに噛み合わないまま、軋み続ける感覚。
「それでも――」
言葉の続きを探していると、ふと、礼拝室の空気が変わった。
ひんやりとした冷たさが、頬を撫でる。
窓は閉まっているはずなのに、
ろうそくの炎が、風にあおられたように、ふっと揺れた。
背筋を、細い何かがすべっていくような感覚。
(……来ましたわね)
目を閉じたままでも、わかる。
白い世界で感じた、あの圧のような存在感が、
今この狭い礼拝室の中に、薄く満ちている。
姿は見えない。
けれど、確かに“誰か”が近くにいる。
『我は、お前の行いを裁くためにいるのではない』
耳ではなく、頭のどこかに直接響くような低い声。
聞き覚えのある、少し傲慢な響き。
『お前が選んだ道の先を、ただ見ていたいだけだ』
昼間の出来事など、当然のように全て知っているのだろう。
精霊王は、あくまで淡々とそう告げた。
「……不親切ですわね、本当に」
私は、苦笑ともため息ともつかない息を漏らす。
「正しいか、間違っているかを教えてくださるわけでは、ないのですね」
『正しさを決めるのは、我ではない』
即答だった。
『お前は人だ。
人の世界での正しさは、人間同士で決めるがいい』
それはそうなのだけれど。
それが難しいから、こうして膝をついているのだ。
『我はただ――』
一瞬、声が少しだけ近くなった気がした。
『好きに歩け、と言いに来ただけだ』
「好きに、ですか」
『そうだ。
好きに歩け。
それで誰かが泣こうと、笑おうと』
ろうそくの炎が、再び揺れる。
影が、壁に長く伸びた。
『それでもお前が立ち続けるなら、我はその背中を押そう』
あいかわらず、勝手な物言いだと思う。
けれど――。
「……本当に、不親切な励ましですこと」
視界の裏側が、じんわりと熱くなる。
「そんなことを言われたら、
立ち止まるわけにはいかなくなるではありませんか」
涙が、一粒、頬を伝って落ちた。
誰にも見せないつもりだった祈りは、
気が付けば、誰かに覗き込まれている。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
『お前に敵意を向けるものがいれば、我はそれを見逃さぬ』
以前、夢の中で聞いた言葉が、ふっと頭をよぎる。
精霊王は、世界の均衡や、公平さを気にしているわけではない。
私の味方であることさえ、きっと、条件付きだ。
彼が守るのは、世界ではなく――おそらく、“私の歩みそのもの”だ。
それは、誰かにとって、脅威になるのだろう。
私が選んだ道が、別の誰かの「都合の良い世界」を壊してしまうことも、きっとある。
それでも、と精霊王は言う。
好きに歩け、と。
「……わかりました」
涙を拭わずに、私は目を閉じたまま、微笑んだ。
「明日も、私なりに、好きに歩いてみます。
きっとまた誰かに嫌われて、誰かに感謝されて、
それでも少しだけ、この土地が楽になりますように」
それが、私にできる精一杯の“祈り”だ。
神の名を借りた立派な言葉ではなく、
精霊の加護を請う難しい詠唱でもなく。
ただ、明日のこの土地を、今日より少しだけましに――という、ささやかな願い。
(どうか)
誰にともなく、もう一度だけ心の中で呼びかける。
(私の選んだ道が、取り返しのつかない間違いではありませんように。
もし大きく外れてしまったときは、そのときこそ、誰かに叱ってもらえますように)
風が、そっと髪を撫でた気がした。
気づけば、礼拝室の空気は、元の静けさに戻っている。
精霊王の気配も、すでに遠い。
「……膝が、痺れましたわ」
現実に引き戻された途端、足の感覚がじんじんと戻ってきた。
長いこと同じ体勢で座っていたらしい。
そろそろ戻らなければ、明日の朝、レオン様に「寝不足ですか」と見抜かれてしまう。
ゆっくりと立ち上がる。
が、思った以上に足が言うことを聞かなかった。
「っ……」
ふらり、と視界が揺れる。
慌てて祭壇の端に手をついた拍子に、指先が木の角にあたり、
「……いたっ」
誰もいないはずの礼拝室で、情けない声がこぼれた。
少しだけ、笑う。
「祈りというのは、思った以上に体力仕事ですのね」
指先をさすりながら、ろうそくの火を指でつまむようにして、そっと吹き消す。
闇が訪れる瞬間、窓の外から、星の光がわずかに忍び込んだ。
「さて」
自分に聞こえる程度の声で呟く。
「明日も、嫌われて、感謝されて、
それでもちょっとだけ、前に進みましょうか」
誰にも見せない祈りを胸の奥にしまい込みながら、
私は静かに礼拝室を後にした。




