表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
22/83

誰にも見せない祈り

 その夜、城の廊下は、いつもより少しだけ長く感じられた。


 日中は、兵たちの足音や、侍女たちの話し声、遠くから聞こえる市場のざわめきが、ここまで届いてくる。

 けれど、夜更けの城は、驚くほど静かだ。


 私の靴音だけが、石畳の上で、こつ、こつ、と控えめに響く。


 教会の司祭と話したときの、あの張り詰めた空気が、まだ胸の奥に残っていた。

 言うべきことは言ったつもりだ。

 それでも、本当にあれでよかったのかどうか、心は簡単には結論を出してくれない。


 寝室の前を通り過ぎて、もう少し奥へ。


 城の片隅に、小さな礼拝室がある。

 もともとは、前領主の家族が、ひっそりと祈りを捧げるために作られた場所だと聞いた。


 扉の前で、一度立ち止まる。


(……誰か、起きているかしら)


 耳を澄ませてみるが、中から人の気配はしない。

 この時間にここを使う者は、ほとんどいないのだろう。


 私はそっと取っ手を回し、きしむ音を最小限に抑えながら扉を開いた。


◇ ◇ ◇


 礼拝室は、質素だった。


 白い石壁に、簡素な木製の祭壇。

 壁掛けの聖印と、両脇に立てられた燭台。

 一番奥の窓は小さく、夜の闇を切り取ったように、四角い黒を浮かべている。


 灯りは、壁の燭台に一本だけ。

 さっき侍女が確認に来たのだろう、ろうそくは新しい。


 私は扉を閉め、背中で“かちゃり”と鍵のかかる音を聞いた。

 この鍵は、内側からしかかからない。

 誰にも邪魔されたくないときに、ここへ来る。


 祭壇の前まで歩み寄り、備え付けの祈りの椅子に目をやる。

 けれどそこには座らず、少し横にずれた床の上に、静かに膝をついた。


 きちんとした祈りの形というものが、本来どういうものなのか。

 私は、よく知らない。


 幼い頃に習った祈りの言葉は、どれもきれいで、整っていて、

 でも少しだけ、息苦しかった。


 難しい言い回しの一つひとつに、嘘はないのだろう。

 けれど、今の私が胸の中に抱えているものは、もう少し泥だらけで、形も悪い。


 だから今日は、決まりごとよりも、自分の座りやすい体勢を選ぶ。


 膝を折り、足を揃えて座り込む。

 背筋だけは、自然と伸びた。


 組んだ手さえ作らず、ただ膝の上に静かに置いて、目を閉じる。


 しん、とした空気の中で、ろうそくの炎が揺れる音が、かすかに聞こえる気がした。


「……どなたか」


 声に出すと、途端に照れくさくなりそうで、

 言葉は、喉から先へ出さずに、心の中だけで紡いだ。


(神様、と呼ぶべきなのかもしれませんけれど。

 今日は、もう少し曖昧なままで、許していただきたいのです)


 誰に向けているのか、自分でもうまく定まらない。

 精霊たちかもしれない。

 あの、白い世界で出会った“何か”かもしれない。


 あるいは、ただの独り言として、石の壁に吸い込まれていくだけかもしれない。


(聞こえていなくても、かまいません。

 ただ、どこかに向けて言葉を投げておかないと、

 自分の中だけでぐるぐる回り続けて、壊れてしまいそうで)


 静かに、息を吸う。

 胸が、きゅう、と細くなる。


(……私は、正しいことをしていると、自分に言い聞かせています)


 教会の司祭とのやりとりが、頭の中で再生される。


 井戸の水。

 門前の人々。

 森での初陣。


 どれもこれも、“誰かが目の前で困っているから”というだけの理由で動いたことだ。


(目の前で泣いている人の前を、見ないふりで通り過ぎる人間には、なりたくないと。

 そう思って、ここまで来ました)


 けれど。


(本当に、あれでよかったのでしょうか)


 心の中で問いかけると、胸の奥で、鈍い痛みが広がる。


(今日、教会の方とお話しして……

 あの方々の立場から見れば、私は、きっと、とても扱いづらい人間なのでしょうね)


 信仰を支えてきた人たち。

 祈りの場を守ってきた人たち。


 彼らとて、好きで権威にすがっているわけではないかもしれない。

 信じるものがなければ、立っていられない夜も、きっとたくさんあったはずだ。


(私のせいで、教会の人々を苦しめることになってはいないでしょうか)


 今日、私が選んだ言葉の数々は、

 彼らから見れば「信仰への反逆」に映ってもおかしくない。


(私のせいで、誰かが傷ついたら、それは“救い”と呼べるのでしょうか)


 目の前の誰かの痛みを少し軽くする代わりに、

 知らない誰かの誇りを傷つけているのだとしたら。


(……それでも)


 喉の奥で、別の声が小さく反発する。


(それでも、目の前の痛みに背を向けるくらいなら、嫌われるほうが、まだましだと思ってしまうのです)


 “聖女様”と呼ばれるつもりはない。

 “奇跡の公爵令嬢”などという噂も、おこがましいとしか思えない。


 それでも――。


(この土地で、誰も見ていないと思われていた苦しみを、

 見てしまった以上は)


 もう知らないふりをして、

 暖かい部屋で、きれいな祈りの言葉だけを口にしていることは、できない。


「……ねえ」


 いつのまにか、唇から声が漏れていた。


「白い世界の、あの方」


 夢で見た、輪郭の定まらない“人の形”を思い浮かべる。


 精霊王――と呼ぶのが、一番近いのだろうか。


「あなたは、私に言いましたね。

 “お前のようなものを、人間だと一括りにするのは不服だ。

  お前だけは、我の例外とする”と」


 あのときの、少しだけ高慢で、少しだけ甘やかすような声が、耳の奥で蘇る。


「“お前に力を貸すのは、世界のためではない。

  お前自身が、どこまで行けるか見たいからだ”とも」


 私は小さく笑った。


「……勝手なことをおっしゃいますわね、本当に」


 世界の均衡のためでも、正義のためでもなく。

 ただ、“面白いから見ていたい”。


 なんて、身勝手で、不親切で、自由な存在だろう。


「あなたは、私の行いを裁くためにいるのではない、とも言いました。

 ただ、私が選んだ道の先を、見ていたいだけだと」


 ということは。


「私の歩き方が間違っているかどうかは、

 あなたにとっては、さほど重要ではないのでしょうね」


 それを思うと、可笑しくて、少し、悔しくなる。


「……それでも」


 膝の上で、そっと指を握りしめる。


「私の歩き方は、そんなに間違っていますか。

 もしそうなら、どうか、誰かに叱ってほしい」


 神様でもいい。

 精霊でもいい。

 信頼できる人でもいい。


 私の選んだ言葉や行動が、本当に誰かを不幸にしているのだとしたら。

 ちゃんと、それを教えてほしい。


「誰かを救おうとして、別の誰かを傷つけてはいないでしょうか」


 たとえば、教会の人々。

 たとえば、私の噂を重荷に感じている兵たちや、村人たち。


 “奇跡”という言葉は、思った以上に重い鎖だ。


「完璧な正しさなんて、きっと、どこにもないのでしょうけれど」


 私の中の“正しさ”と、誰かの中の“正しさ”が、

 互いに噛み合わないまま、軋み続ける感覚。


「それでも――」


 言葉の続きを探していると、ふと、礼拝室の空気が変わった。


 ひんやりとした冷たさが、頬を撫でる。


 窓は閉まっているはずなのに、

 ろうそくの炎が、風にあおられたように、ふっと揺れた。


 背筋を、細い何かがすべっていくような感覚。


(……来ましたわね)


 目を閉じたままでも、わかる。


 白い世界で感じた、あの圧のような存在感が、

 今この狭い礼拝室の中に、薄く満ちている。


 姿は見えない。

 けれど、確かに“誰か”が近くにいる。


『我は、お前の行いを裁くためにいるのではない』


 耳ではなく、頭のどこかに直接響くような低い声。

 聞き覚えのある、少し傲慢な響き。


『お前が選んだ道の先を、ただ見ていたいだけだ』


 昼間の出来事など、当然のように全て知っているのだろう。

 精霊王は、あくまで淡々とそう告げた。


「……不親切ですわね、本当に」


 私は、苦笑ともため息ともつかない息を漏らす。


「正しいか、間違っているかを教えてくださるわけでは、ないのですね」


『正しさを決めるのは、我ではない』


 即答だった。


『お前は人だ。

 人の世界での正しさは、人間同士で決めるがいい』


 それはそうなのだけれど。

 それが難しいから、こうして膝をついているのだ。


『我はただ――』


 一瞬、声が少しだけ近くなった気がした。


『好きに歩け、と言いに来ただけだ』


「好きに、ですか」


『そうだ。

 好きに歩け。

 それで誰かが泣こうと、笑おうと』


 ろうそくの炎が、再び揺れる。

 影が、壁に長く伸びた。


『それでもお前が立ち続けるなら、我はその背中を押そう』


 あいかわらず、勝手な物言いだと思う。


 けれど――。


「……本当に、不親切な励ましですこと」


 視界の裏側が、じんわりと熱くなる。


「そんなことを言われたら、

 立ち止まるわけにはいかなくなるではありませんか」


 涙が、一粒、頬を伝って落ちた。


 誰にも見せないつもりだった祈りは、

 気が付けば、誰かに覗き込まれている。


 それなのに、不思議と嫌ではなかった。


『お前に敵意を向けるものがいれば、我はそれを見逃さぬ』


 以前、夢の中で聞いた言葉が、ふっと頭をよぎる。


 精霊王は、世界の均衡や、公平さを気にしているわけではない。

 私の味方であることさえ、きっと、条件付きだ。


 彼が守るのは、世界ではなく――おそらく、“私の歩みそのもの”だ。


 それは、誰かにとって、脅威になるのだろう。


 私が選んだ道が、別の誰かの「都合の良い世界」を壊してしまうことも、きっとある。


 それでも、と精霊王は言う。


 好きに歩け、と。


「……わかりました」


 涙を拭わずに、私は目を閉じたまま、微笑んだ。


「明日も、私なりに、好きに歩いてみます。

 きっとまた誰かに嫌われて、誰かに感謝されて、

 それでも少しだけ、この土地が楽になりますように」


 それが、私にできる精一杯の“祈り”だ。


 神の名を借りた立派な言葉ではなく、

 精霊の加護を請う難しい詠唱でもなく。


 ただ、明日のこの土地を、今日より少しだけましに――という、ささやかな願い。


(どうか)


 誰にともなく、もう一度だけ心の中で呼びかける。


(私の選んだ道が、取り返しのつかない間違いではありませんように。

 もし大きく外れてしまったときは、そのときこそ、誰かに叱ってもらえますように)


 風が、そっと髪を撫でた気がした。


 気づけば、礼拝室の空気は、元の静けさに戻っている。

 精霊王の気配も、すでに遠い。


「……膝が、痺れましたわ」


 現実に引き戻された途端、足の感覚がじんじんと戻ってきた。


 長いこと同じ体勢で座っていたらしい。

 そろそろ戻らなければ、明日の朝、レオン様に「寝不足ですか」と見抜かれてしまう。


 ゆっくりと立ち上がる。


 が、思った以上に足が言うことを聞かなかった。


「っ……」


 ふらり、と視界が揺れる。

 慌てて祭壇の端に手をついた拍子に、指先が木の角にあたり、


「……いたっ」


 誰もいないはずの礼拝室で、情けない声がこぼれた。


 少しだけ、笑う。


「祈りというのは、思った以上に体力仕事ですのね」


 指先をさすりながら、ろうそくの火を指でつまむようにして、そっと吹き消す。


 闇が訪れる瞬間、窓の外から、星の光がわずかに忍び込んだ。


「さて」


 自分に聞こえる程度の声で呟く。


「明日も、嫌われて、感謝されて、

 それでもちょっとだけ、前に進みましょうか」


 誰にも見せない祈りを胸の奥にしまい込みながら、

 私は静かに礼拝室を後にした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ