辺境教会とのささやかな衝突
ここしばらく、朝の鐘の音が、微妙に変わった気がしていた。
以前は、城下のあちこちから、教会の鐘がほぼ同じ時刻に鳴り響いていた。
礼拝の日ともなれば、もっと賑やかで、低い鐘の重なりが、まるで霧のように街を包み込む。
けれど最近、その響きが、どこか薄くなっている。
「……気のせいでしょうか」
窓を少し開けて、遠くの音に耳を澄ませながら、私はひとりごちた。
朝食の席で、さりげなく尋ねてみると、執事役の老兵が苦い顔をした。
「礼拝に行く者が、以前より減っていると、聞き及んでおります」
「そう、なのですね」
「皆、口では“仕事が忙しいから”などと言っておりますが……。
実際には、“公爵令嬢様の門のほうがよほど現世利益がある”などと」
そこで老兵は、気まずそうに口を噤んだ。
私は、匙を皿に戻す。
(……そうなってしまいますか)
井戸の水。森での魔物。門前での治療。
私がしたことは、どれも「今、この場」に直接届くものだ。
祈りのように、いつかどこかで救われるかもしれない――という種類のものではない。
人々がそちらへ流れるのは、ある意味で当然だろう。
だからといって、信仰そのものを否定したいわけではない。
祈りに救われる夜もあることを、私は知っている。
(教会の方々にとっては、面白くないでしょうけれど)
そう思った矢先だった。
「リヴィア様」
侍女が軽くノックして入ってきた。
「教会の方がお見えです。辺境教会を代表して、と」
やっぱり、という言葉が喉まで上って――飲み込んだ。
「お通しして。謁見の間を使いましょう」
「かしこまりました」
◇ ◇ ◇
簡素な絨毯の敷かれた謁見の間に、私はいつもより少しだけかしこまった装いで座っていた。
ほどなくして、扉が開く。
「辺境教会第二管区代表、マリウス=ヘルデンと申します」
そう名乗った男は、四十代半ばほどだろうか。
丸みを帯びた体つきに、柔らかな布地の法衣。
胸元には、この国の教会でよく見る聖印が、銀で下がっている。
一見、柔和な印象。
だが、目だけは細く鋭く、笑っても温度が変わらない種類のそれだった。
「はじめまして、マリウス司祭。
ようこそ、グラウベルク城へ」
私は席を立ち、必要な礼を尽くす。
「お招きいただき、恐れ入ります、公爵令嬢殿」
彼は恭しく頭を下げた。
「まずは――井戸の件、そして森でのご活躍。
教会としても、たいへん喜ばしく思っております。
辺境の民のために尽くしておられるという噂は、我々の耳にも届いておりましたのでな」
「それは光栄ですわ」
形式的な挨拶は、むしろ滑らかだった。
問題は、このあとだ。
マリウス司祭は、少しだけ間を置いてから、穏やかな口調のまま言葉を継いだ。
「ただ――」
薄く笑っていた口元から、その笑みがゆっくりと薄れていく。
「人々が“奇跡”と呼ぶものについて、少々、懸念もございます」
「懸念、ですか」
「ええ」
彼は指先で、聖印の端をなぞった。
「本来、奇跡と呼ばれる類の出来事は、神の名のもとに、正しく執り行われるべきものでございます。
祈りと儀式、そして教義に則った手順。
それらが整っていてこそ、人々は“これは神の導きである”と理解できる」
「……なるほど」
「ところが近頃、辺境では、“教会を通さない奇跡”の噂が広がっております。
井戸の件、森での件、門前での治療――。
人々はそれらを、『教会へ行くより、リヴィア様のもとへ』と語っている」
司祭の目が、じっとこちらを見つめる。
穏やかな声。
けれど、その奥にははっきりとした警戒心があった。
「無秩序に奇跡が行われれば、人々は神の導きから離れてしまう恐れがございます。
信仰は、ただ目の前の結果だけを追い求めるためのものではありませんからな」
(――来ましたわね)
私は心の中で、深く息をつく。
言いたいことは、わかる。
彼らから見れば、私は「教会以外の場所で奇跡をばらまく危険な存在」なのだろう。
「マリウス司祭」
私は、できるだけ柔らかい微笑みを浮かべた。
「私が行っていることを、そのようにお感じになっているのですね」
「ええ、誤解であればよいのですが」
「誤解、というほど立派なものかどうか。
私のやっていることは、魔法と、ほんの少しの知識を用いた治療に過ぎません。
精霊たちが応じてくれることもあれば、応じてくれないこともある。
とても、“神の代わり”と呼べるようなものではありませんわ」
「しかし、人々は“奇跡”と」
「人々がどう呼ぶかは、私にはどうにもできません。
私自身は、“奇跡”と名乗ったことは一度もございませんの」
マリウス司祭の眼差しが、わずかに鋭さを増す。
「それでも――結果として、“奇跡”と受け止められていることは、自覚しておられる。
違いますかな?」
「ええ、それは、否定いたしません」
私は頷いた。
「ですが、もしそれが神の御心に反しているというのであれば……」
一拍置いてから、あえて言葉を選ぶ。
「どうか、私ではなく、神に直接、お叱りいただきたいものですね」
司祭の目が、細く細く眇められた。
「……公爵令嬢殿」
「もちろん、これは皮肉ではなく、半分は本気ですわ。
私は、祈りの価値を否定しているわけではありません。
私自身、これまで何度も、“どうか誰かを守ってください”と願ってきましたもの」
兵の無事。
井戸の水。
子どもたちの明日。
それらを思い浮かべながら、私は続ける。
「ただ――」
胸の内の何かが、ぴん、と張り詰める音がした。
「目の前で苦しんでいる人を前にして、
“これは教会の権利であるかどうか”を確認するところから始める余裕は、
どうにも、私にはございません」
そこまで言ったとき、マリウス司祭の口元から笑みが消えた。
「……そのような言い方は、神への冒涜と取られかねませんぞ」
声の温度が、ほんの少しだけ下がる。
瞬間、胸の奥で、何か熱いものが一瞬だけ燃え上がりかけた。
(冒涜、ですって?)
枯れた井戸。
痩せた子どもたち。
“言っても無駄だ”と口を閉ざした村長。
あの光景が、脳裏を過った。
――もし、本当に神が存在していて。
あれほどの惨状を、ただ見ていただけだったとしたら。
それでもなお、「批判してはいけません」と言われてしまうのだろうか。
喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。
代わりに、ゆっくりと息を吐く。
「マリウス司祭。
私が申し上げたいのは……信仰を否定するつもりはない、ということです」
「ほう」
「祈りによって救われる心も、確かにある。
教会が人々の拠り所であり続けることは、この辺境にとっても必要だと、私は考えています」
それは本心だ。
私ひとりで抱えきれる苦しみなど、たかが知れている。
心の支えとなる場所が、他にあるのなら、それは歓迎すべきことだ。
「ただ――」
私は、はっきりと司祭を見た。
「“信仰しているふり”を強いること。
あるいは、“信じていると口で言うこと”を、人の義務にすること。
それは、どうしても、受け入れられそうにありませんの」
司祭の眉が、ぴくりと動いた。
「私が見てきたのは、“神に祈りなさい”と言われながら、
水も薬も、仕事も与えられなかった人々です」
声が、自分でも驚くほど静かだった。
「祈るかどうかを決めるのは、その人自身。
私がしたいのは、“祈る前に死んでしまう人”を減らすことですわ」
マリウス司祭は、しばらく黙っていた。
やがて、低く笑う。
「大胆なお考えだ。
王都の上位聖職者が耳にすれば、卒倒するやもしれませんな」
「そうならないように、司祭様が上手にお取り計らいくださると、信じております」
あえて、少しだけ冗談めかして返すと、彼の口角がわずかに上がった。
「……貴族として、そのような発言はお控えいただきたい、と申し上げたほうが良いのでしょうが」
「お気持ちは理解しております」
「ですが、あなたが本気でそう思っておられることも、よくわかりました」
マリウス司祭は、椅子から腰を上げた。
「教会としては、今後も、辺境の民の救済に努めてまいります。
もし、教会の教義に沿った形で協力関係を結べるのであれば、それは非常に望ましいことでしょう」
「私としても、教会と協力できるなら、これほど心強いことはありません」
本心だ。
人の心と身体、両方を支える場所が、多いに越したことはない。
けれど――。
「ですが、目の前で苦しんでいる人を前にしたとき、
私は“順番待ち”をさせるつもりもありません」
マリウス司祭の目が、再び細くなる。
「教会が、“誰かの痛み”より、“組織の面子”を優先なさるのであれば――」
そこで一瞬、言葉が喉に引っかかった。
(言いすぎですわ、リヴィア)
自分で自分に、そう釘を刺す。
代わりに、少しだけ言い方を変えた。
「そのときは、それぞれの道を行きましょう。
教会は教会として。
私は、私にできることを」
沈黙が落ちる。
やがて、マリウス司祭は、ゆっくりと頭を下げた。
「本日のところは、これで失礼いたします、公爵令嬢殿。
貴重なお時間を、ありがとうございました」
「こちらこそ、お越しいただき感謝いたします」
形式的な礼を交わし、司祭は執事に伴われて部屋を後にする。
扉が閉まる瞬間、ふと彼の横顔が目に入った。
柔和な笑みを浮かべているはずなのに、その瞳の奥には、冷たい光がちらりと覗いていた。
(……あの方は、きっとこう思っておられますわね)
“この女は、いずれ火あぶりになってもおかしくない”――などと。
さすがに、少しだけ背筋が寒くなった。
◇ ◇ ◇
司祭の一行が城を出たころ合いを見計らって、レオン様が謁見の間に姿を現した。
「終わりましたか」
「ええ、一応は」
私は椅子の背にもたれかかり、ほう、と息を吐く。
緊張がほどけた途端、全身から力が抜けるような感覚に襲われた。
「……少し、言いすぎましたわよね?」
思わず、そんな言葉が口からこぼれる。
レオン様は、珍しく苦笑した。
「正直に申し上げれば、はい。
敵を作りすぎではないかと、内心で何度か頭を抱えました」
「やはり……」
両手で顔を覆いたくなる衝動を、どうにか堪える。
「ただ」
レオン様は、静かに続けた。
「それでも、あの場で言葉を飲み込まれるリヴィア様を、私は想像できません」
「……褒めています?」
「事実を述べただけです」
彼の言い方が少しおかしくて、緊張の残りと一緒に笑いがこぼれた。
「でも、本当に。
何が“教義違反”なのか、どこまでが許される発言なのか。
もう少し、勉強しなおしたほうがよさそうですわね」
「信仰の座学をですか」
「ええ。
信じるにしても、反発するにしても、知らないままというのは、どうにも落ち着きませんもの」
教会と全面的に敵対するつもりはない。
けれど、「知らないから怖いもの」として扱うのも、違う気がする。
私が本当に否定したいのは、「苦しみを後回しにするための信仰のふり」であって、
祈りそのものではないはずなのだから。
「レオン様」
「はい」
「もし、私が本当に“敵を作りすぎた”結果として、火あぶりの台にでも乗せられそうになったら――」
冗談めかして言いかけると、レオン様の目が一瞬だけ険しくなった。
「そのときは、必ず止めます。
できれば、その前に火あぶり自体をなくす方向で動きたいものですが」
「心強いですわね」
本当に冗談のままで済むように。
私は、心の中で小さく祈った。
――神にか、それとも、精霊王にかは、さておき。
「とりあえずは」
私は立ち上がり、軽く伸びをした。
「今日のところは、喉にやさしいお茶と、できれば甘いものを。
信仰の議論は、空腹では捗りませんもの」
「すぐに用意させます」
レオン様の返事に、ほんの少しだけ笑い声が混じった。
辺境教会とのささやかな衝突は、こうしてひとまず幕を下ろした。
だが、それが小さくとも、決定的な溝であることは、私にもわかっている。
神の名のもとに、誰かの痛みが後回しにされるのなら――
私は、その順番待ちの列を、少しずつ崩して歩くだろう。
“奇跡の公爵令嬢”と呼ばれようと、異端と囁かれようと。
それが、この辺境で、私が選んだ道なのだから。




