“奇跡の公爵令嬢”という噂
最初に、その言葉を耳にしたのは、視察から戻る途中のことだった。
「――聞いたか? 隣の村の井戸が、また水を噴いたらしいぞ」
「噴いたってなんだ、噴いたって」
「だからよ、枯れてた井戸だ。石がひび割れて、もう駄目だって皆諦めてたやつだ。そこに、ほら……新しく来た公爵令嬢様が、歌のような言葉を詠んで、底から水を呼んだって話だ」
「へえ……本当に? どうせ、誰かが他所から水を引いてきたんじゃないのか」
「さあな。けど、森で魔物を追い払ったときも、兵が一人も死ななかったっていうしよ。“奇跡の公爵令嬢”だなんて呼ぶ奴もいるくらいだ」
馬を歩かせながら、すれ違った荷馬車の御者たちのひそひそ声が、風に乗って耳に届いた。
(……奇跡、ねえ)
私は、手綱を持つ指先に少し力を込める。
井戸が再び水を返したのは、確かに、私にとっても大きな出来事だった。
森で誰も死ななかったことも、胸を撫で下ろすほどの“結果”だった。
けれど、それを「奇跡」と言われると――どこかむず痒いような、落ち着かない気持ちになる。
(私が何かをしたというより……精霊たちが、気まぐれに応えてくれただけですのに)
あの夢の中で、精霊王は言った。
『我は人間が嫌いだ。だが、お前のことは、気に入っている』
あの高慢な声を思い出すと、どうにも「奇跡」という言葉は、似合わない気がする。
どちらかといえば、彼の“暇つぶし”に付き合わされているだけではないかとすら思うのだ。
そんなふうに、心の中で苦笑していたその翌朝。
「リヴィア様」
執務室の扉を叩く音とともに、レオン様が姿を見せた。
いつも通りの無表情――に見えるが、わずかに眉間に皺が寄っている。
「どうかなさいました?」
「城門前に……人々の列ができています」
「列?」
私は首を傾げた。
「税の支払いでしたら、まだ日が……」
「いえ。そうではなく」
レオン様は、少し言いよどんでから続ける。
「“奇跡の公爵令嬢”に会いたいと。そう申しております」
頭が、ほんの少しだけ痛くなった。
◇ ◇ ◇
城門へ向かう途中から、ざわめきが聞こえてきた。
石畳を踏みしめる靴の音。
子どものぐずる声。
疲れ切ったような咳。
門塔の影を抜けた先に広がっていたのは、人、人、人――。
「……これは」
思わず足を止める。
門の前から、外の曲がり角の先まで、ずらりと人の列が伸びていた。
病人を背負った男。
布にくるまれた赤子を抱く女。
杖をついた老人、片足を引きずる若い職人。
その中に混じって、いかにも商人然とした恰幅のいい男や、やけにきらびやかな装飾品をつけた婦人の姿も見えた。
(……私利私欲の願いをしに来た人も、混ざっていそうですわね)
隣で、レオン様が小さく息をつく気配がした。
「皆、ここ数日で集まったようです。
井戸と森での件が、思った以上の速さで広まっている」
「そうでしょうね」
噂は、火よりも速く広がる。
特に、それが“奇跡”と呼ばれる類のものであれば。
人々の視線が、一斉にこちらを向いた。
「あ……!」
「公爵令嬢様だ……!」
ざわざわ、と列が波打つ。
そのうちの誰かが、震える声で叫んだ。
「どうか、うちの子を……! 熱が下がらないんです!」
「俺の足を、動くようにしてくれ! 仕事ができねえんだ!」
「目が……目が見えねえ。どうか、もう一度だけ、嫁の顔が見たい……!」
「商売が、さっぱりなんです。どうか、客が来るように――」
最後の一人は、さすがに列の中でも肩身が狭そうな顔をしていた。
けれど、彼の願いが完全に場違いとも言い切れない。
病も怪我も、生活も。
どれも、人が生きていく上での「痛み」には変わりないのだから。
「……まず、落ち着いてくださいませ」
私は一歩前へ出て、できる限り穏やかな声を出した。
「私の名は、リヴィア・エルンスト。
けれど――“聖女”でも、“精霊の花嫁”でもありませんわ」
列のあちこちで、小さなどよめきが上がる。
「噂がどのように広がっているかは、ある程度うかがっております。
ですが、私は神の代わりではありません。
扱える魔法にも限りがありますし、万能でもありません」
そう前置きしたうえで、私は続けた。
「それでも、それでも――今日ここに、何かを期待して足を運んでくださったことは、無駄にはしたくありません」
胸の前で手を組み、列を見渡す。
(“声の大きい人”から、では、駄目ですわね)
叫んでいる人のほうが、目立つし、耳に届きやすい。
けれど、本当に苦しんでいる人が、同じように叫べるとは限らない。
「まず、お願いします」
私は、城の門兵たちに視線を向ける。
「列を崩さないようにしながらも、具合の悪さがひどそうな方から順に、別の部屋へ案内してください。
熱で意識の朦朧とした人、小さなお子さん、今にも倒れそうな方々です」
「はっ!」
兵たちが動き出す。
列の中から、「そんな順番、聞いてない」と不満げな声が上がりかけたが、それは別の誰かの咳払いにかき消された。
背中を丸めていた女が、戸惑いながら子どもを抱えて前に出てくる。
真っ赤な顔の幼子。
息は浅く早い。胸の上下動が苦しそうだ。
「こちらへ」
私は自ら、その腕を支えた。
刺激しすぎないように、優しく。
◇ ◇ ◇
その日、城の一室は、急遽“診察室”になった。
窓を開けて風を通し、机を端に寄せ、椅子と寝台をできる限り並べる。
湯を沸かし、清潔な布と、薬草の袋と、小さなナイフと糸。
本格的な医者ではない。
けれど、この辺境には、そもそも医者と呼べる専門家がほとんどいないのだ。
(最低限の衛生と、少しの魔法と、休息の確保――できることは、そこまで)
それでも、やらないよりはずっとましだ。
「リヴィア様、水です」
「ありがとうございます」
侍女が差し出してくれた水をひと口飲み、私は最初の患者に向き合う。
熱にうなされる子ども。
脈を取り、胸に耳を当て、喉の腫れを確かめる。
炎症を鎮める薬草を煎じ、少量の魔力を添える。
精霊たちに、ほんの少しだけ手を貸してもらう。
「今夜が峠ですが……このまま熱が下がってくれれば、きっと大丈夫です」
そう告げると、子どもの母親が、涙を浮かべて頭を下げた。
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
「まだ安心するには早いですわ。
こまめな水分補給と、体を冷やしすぎないように」
細かい指示を出しながら、次の患者へ。
擦り傷や浅い切り傷は、魔法と薬草でどうにかなる。
骨折も、きちんと固定すれば、時間はかかるが治る。
問題は――そうではないものたちだ。
「……いつからですか?」
私は、椅子に座る老女の手を取った。
彼女の指は節くれだっていて、関節が不自然な方向に曲がっている。
皮膚は薄く、触れたところから骨の感触が伝わってくる。
「若いころから、手がこわばることはありましたけどねえ。
こんなふうに曲がって戻らなくなったのは、ここ十年くらいですわ」
「そうですか」
私は、関節に軽く触れながら、魔力を流し込んでみる。
炎症は、ほとんどない。
代わりに、長い年月をかけて形作られた“歪み”だけがそこにあった。
(……これは)
今さら、元通りの形には戻せない。
痛みを少し和らげる程度が、精一杯。
老女の目が、不安そうにこちらを見つめている。
「リヴィア様……?」
私は息を吸い、ゆっくり吐き出した。
「ごめんなさい。
私の力では、指を真っすぐに戻すことはできません」
老女の肩が、わずかに落ちる。
その動きが、胸に棘のように刺さる。
「ただ――」
私は続けた。
「痛みを少し軽くすることと、今以上にひどくならないようにすることなら、できるかもしれません。
温かい湯で手をさすり、夜は布で支えて休ませる。
そういった工夫を重ねれば、もう少し楽に暮らせるはずです」
「……そう、ですか」
老女の目に、うっすらと水がにじんだ。
落胆だけではない。
でも、期待を完全に裏切られたわけでもない。
そんな複雑な色。
「“奇跡”を期待して来られたのに、申し訳ありません」
そう言うと、老女は首を振った。
「いいや……いいんです。
こうして話を聞いてもらっただけでも、何だか、肩の荷が軽くなった気がしますわ」
その笑顔が、痛々しくて、同時に温かかった。
こうして、ひとり、またひとり。
癒せる者もいれば、そうでない者もいる。
症状が軽いのに大げさに騒ぐ者もいれば、明らかに深刻なのに「大したことない」と笑ってみせる者もいる。
中には――。
「……もう、無理だな」
寝台の上で寝ている男の脈をとり終えたとき、付き添いの男がぼそりと呟いた。
私は、静かに首を振る。
「完全に治すことは、難しいかもしれません。
ですが、痛みを和らげる薬を……」
「いえ。あんたの言いたいことはわかる」
男の目は、冷めていた。
諦めとも、怒りともつかない、妙な温度の低さ。
「“奇跡の公爵令嬢”が来たって話を聞いてな。
“もしかしたら”って思ったのは、俺も同じです」
彼は寝台の男――誰かの兄か父か――の手を握りしめる。
「でも、やっぱり、神様じゃなかった」
その一言は、責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ事実を並べただけのような、乾いた響きだった。
「……ごめんなさい」
私は、また謝ることしかできなかった。
謝罪が、何度重なれば、この国の底に溜まった“足りなさ”は埋まるのだろう。
きっと、何度重ねても足りはしない。
◇ ◇ ◇
「“奇跡のお姉ちゃん”だ!」
そんな中で、救いのように飛び込んでくる声もある。
まだ幼い男の子が、とてとてと駆け寄ってきて、私のスカートの裾を掴んだ。
「こら、駄目でしょう! 並んで――」
「いいえ、大丈夫です」
慌てる母親を手で制し、私は子どもと目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「“奇跡のお姉ちゃん”は、少し大げさな呼び方ですね」
「だって、井戸をなおしたって、お母さんが言ってたもん!」
胸を張って言う子どもの目は、きらきらしている。
その無邪気さに、思わず頬が緩んだ。
「そうですね……。
では、その呼び方を使うときは、小声でお願いしますね?」
「どうして?」
「恥ずかしいですから」
そう言うと、子どもは「ふふ」と笑った。
「わかった。内緒の“奇跡のお姉ちゃん”ね」
「……ええ。二人だけの秘密、ということにしておきましょうか」
馬鹿馬鹿しい会話かもしれない。
けれど、こういうやり取りがあるだけで、私の足腰はもう一度だけ踏ん張ろうと思える。
ただ――。
診察を終え、出口へ向かう人々の中には、私を一瞥もしない者もいる。
「噂ほどのものじゃなかったな」
そんな呟きが、聞こえないふりをしていても、耳に残る。
「やっぱり、神様以外に頼るべきじゃないのかもしれん」
祈りの言葉と一緒に吐き出される、冷えた視線。
中には、私をちらりと見て、震えたように目を逸らす者もいた。
「あの目は、俺たちとは違う場所を見ている」
列の後ろのほうで、誰かがそう囁くのを聞いたとき、背筋を一瞬だけ冷たいものが撫でた。
(違う場所、ですか)
もし、そう見えているのだとしたら――。
それはきっと間違っていないのだろう。
私は、人々の「今日」だけでなく、「明日」や「来年」や「十年後」まで見てしまう。
井戸の水の量や、森の魔物の数、帳簿の数字と同じように。
それが、“普通”ではないことは、自覚している。
◇ ◇ ◇
「リヴィア様、お茶を」
日が傾き始めたころ。
侍女が湯気の立つカップを差し出してくれた。
「ありがとうございます……」
カップを両手で包み込むように持ち、口をつける。
温かさが喉を通って胸に落ちていく感覚に、ほっと息が漏れた。
「今日はここまでにしましょう」
レオン様が、控えめに言った。
「これ以上続ければ、リヴィア様のお体が持ちません」
「まだ、外には――」
「残っている者たちには、明日以降の順番を約束しました。
不満は出るでしょうが、命に関わるほどの者はいません」
そう言われてしまえば、これ以上の我儘は言えない。
「……わかりました」
私は、椅子の背にもたれかかった。
身体のあちこちが、じんじんとだるい。
喉は、乾き切っている。
「声が……少し、枯れましたわね」
自分で言って、少し笑ってしまう。
「それだけ多くの人の話を聞き、多くの言葉をかけたということです」
レオン様の声は、いつもより柔らかかった。
それが、かえって胸に刺さる。
「――“奇跡”という言葉は」
窓の外の空を見上げながら、ふと口をついた。
「思った以上に、重い鎖ですね」
レオン様が、黙って耳を傾けているのを感じる。
「奇跡を望む人がいるかぎり、
奇跡を“起こせなかった”ときの、誰かの涙も生まれてしまう」
井戸の水を待っていた村人たち。
森から帰ってこなかった商隊の人々。
今日、私の力では救いきれなかった病人たち。
噂が広がるほどに、その中には、救われない者も必ず混ざる。
「私ができるのは、“神の代わり”ではありません。
ただ、今日を少しだけ生きやすくする、お手伝いだけ」
それでも――。
城門の前に並んだ、人々の顔。
疲れた目、必死の手、震える肩。
あの列を、最初から門の外で追い返すことは、きっとできない。
「鎖は、重いですが」
私は、カップを握る指に少し力を込めた。
「それを完全に外してしまうのも、何だか違う気がしますわ」
自分で自分に課した鎖。
誰かの期待と失望と、身勝手な願いと。
それらすべてを含めて――今の私は、ここに立っている。
窓の外で、夕陽がゆっくりと沈んでいく。
その光をぼんやりと眺めながら、私は、もう一度だけ喉をさすった。
「……明日は、少しだけ、喉にやさしいお茶を用意していただけるかしら」
「はい」
レオン様の返事は、短く、けれどどこか笑っているように聞こえた。
“奇跡の公爵令嬢”。
きっとこれから先も、その言葉は形を変えながら、私の周りをまとわりつくのだろう。
その重さに押しつぶされないように。
同時に、その言葉に酔いしれてしまわないように。
私は、今日と同じように、明日もまた、目の前の一人と向き合うのだ。




