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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
20/82

“奇跡の公爵令嬢”という噂

 最初に、その言葉を耳にしたのは、視察から戻る途中のことだった。


「――聞いたか? 隣の村の井戸が、また水を噴いたらしいぞ」


「噴いたってなんだ、噴いたって」


「だからよ、枯れてた井戸だ。石がひび割れて、もう駄目だって皆諦めてたやつだ。そこに、ほら……新しく来た公爵令嬢様が、歌のような言葉を詠んで、底から水を呼んだって話だ」


「へえ……本当に? どうせ、誰かが他所から水を引いてきたんじゃないのか」


「さあな。けど、森で魔物を追い払ったときも、兵が一人も死ななかったっていうしよ。“奇跡の公爵令嬢”だなんて呼ぶ奴もいるくらいだ」


 馬を歩かせながら、すれ違った荷馬車の御者たちのひそひそ声が、風に乗って耳に届いた。


(……奇跡、ねえ)


 私は、手綱を持つ指先に少し力を込める。


 井戸が再び水を返したのは、確かに、私にとっても大きな出来事だった。

 森で誰も死ななかったことも、胸を撫で下ろすほどの“結果”だった。


 けれど、それを「奇跡」と言われると――どこかむず痒いような、落ち着かない気持ちになる。


(私が何かをしたというより……精霊たちが、気まぐれに応えてくれただけですのに)


 あの夢の中で、精霊王は言った。


『我は人間が嫌いだ。だが、お前のことは、気に入っている』


 あの高慢な声を思い出すと、どうにも「奇跡」という言葉は、似合わない気がする。

 どちらかといえば、彼の“暇つぶし”に付き合わされているだけではないかとすら思うのだ。


 そんなふうに、心の中で苦笑していたその翌朝。


「リヴィア様」


 執務室の扉を叩く音とともに、レオン様が姿を見せた。


 いつも通りの無表情――に見えるが、わずかに眉間に皺が寄っている。


「どうかなさいました?」


「城門前に……人々の列ができています」


「列?」


 私は首を傾げた。


「税の支払いでしたら、まだ日が……」


「いえ。そうではなく」


 レオン様は、少し言いよどんでから続ける。


「“奇跡の公爵令嬢”に会いたいと。そう申しております」


 頭が、ほんの少しだけ痛くなった。


◇ ◇ ◇


 城門へ向かう途中から、ざわめきが聞こえてきた。


 石畳を踏みしめる靴の音。

 子どものぐずる声。

 疲れ切ったような咳。


 門塔の影を抜けた先に広がっていたのは、人、人、人――。


「……これは」


 思わず足を止める。


 門の前から、外の曲がり角の先まで、ずらりと人の列が伸びていた。


 病人を背負った男。

 布にくるまれた赤子を抱く女。

 杖をついた老人、片足を引きずる若い職人。

 その中に混じって、いかにも商人然とした恰幅のいい男や、やけにきらびやかな装飾品をつけた婦人の姿も見えた。


(……私利私欲の願いをしに来た人も、混ざっていそうですわね)


 隣で、レオン様が小さく息をつく気配がした。


「皆、ここ数日で集まったようです。

 井戸と森での件が、思った以上の速さで広まっている」


「そうでしょうね」


 噂は、火よりも速く広がる。

 特に、それが“奇跡”と呼ばれる類のものであれば。


 人々の視線が、一斉にこちらを向いた。


「あ……!」


「公爵令嬢様だ……!」


 ざわざわ、と列が波打つ。


 そのうちの誰かが、震える声で叫んだ。


「どうか、うちの子を……! 熱が下がらないんです!」


「俺の足を、動くようにしてくれ! 仕事ができねえんだ!」


「目が……目が見えねえ。どうか、もう一度だけ、嫁の顔が見たい……!」


「商売が、さっぱりなんです。どうか、客が来るように――」


 最後の一人は、さすがに列の中でも肩身が狭そうな顔をしていた。

 けれど、彼の願いが完全に場違いとも言い切れない。


 病も怪我も、生活も。

 どれも、人が生きていく上での「痛み」には変わりないのだから。


「……まず、落ち着いてくださいませ」


 私は一歩前へ出て、できる限り穏やかな声を出した。


「私の名は、リヴィア・エルンスト。

 けれど――“聖女”でも、“精霊の花嫁”でもありませんわ」


 列のあちこちで、小さなどよめきが上がる。


「噂がどのように広がっているかは、ある程度うかがっております。

 ですが、私は神の代わりではありません。

 扱える魔法にも限りがありますし、万能でもありません」


 そう前置きしたうえで、私は続けた。


「それでも、それでも――今日ここに、何かを期待して足を運んでくださったことは、無駄にはしたくありません」


 胸の前で手を組み、列を見渡す。


(“声の大きい人”から、では、駄目ですわね)


 叫んでいる人のほうが、目立つし、耳に届きやすい。

 けれど、本当に苦しんでいる人が、同じように叫べるとは限らない。


「まず、お願いします」


 私は、城の門兵たちに視線を向ける。


「列を崩さないようにしながらも、具合の悪さがひどそうな方から順に、別の部屋へ案内してください。

 熱で意識の朦朧とした人、小さなお子さん、今にも倒れそうな方々です」


「はっ!」


 兵たちが動き出す。


 列の中から、「そんな順番、聞いてない」と不満げな声が上がりかけたが、それは別の誰かの咳払いにかき消された。


 背中を丸めていた女が、戸惑いながら子どもを抱えて前に出てくる。

 真っ赤な顔の幼子。

 息は浅く早い。胸の上下動が苦しそうだ。


「こちらへ」


 私は自ら、その腕を支えた。


 刺激しすぎないように、優しく。


◇ ◇ ◇


 その日、城の一室は、急遽“診察室”になった。


 窓を開けて風を通し、机を端に寄せ、椅子と寝台をできる限り並べる。

 湯を沸かし、清潔な布と、薬草の袋と、小さなナイフと糸。


 本格的な医者ではない。

 けれど、この辺境には、そもそも医者と呼べる専門家がほとんどいないのだ。


(最低限の衛生と、少しの魔法と、休息の確保――できることは、そこまで)


 それでも、やらないよりはずっとましだ。


「リヴィア様、水です」


「ありがとうございます」


 侍女が差し出してくれた水をひと口飲み、私は最初の患者に向き合う。


 熱にうなされる子ども。

 脈を取り、胸に耳を当て、喉の腫れを確かめる。


 炎症を鎮める薬草を煎じ、少量の魔力を添える。

 精霊たちに、ほんの少しだけ手を貸してもらう。


「今夜が峠ですが……このまま熱が下がってくれれば、きっと大丈夫です」


 そう告げると、子どもの母親が、涙を浮かべて頭を下げた。


「ありがとうございます、ありがとうございます……!」


「まだ安心するには早いですわ。

 こまめな水分補給と、体を冷やしすぎないように」


 細かい指示を出しながら、次の患者へ。


 擦り傷や浅い切り傷は、魔法と薬草でどうにかなる。

 骨折も、きちんと固定すれば、時間はかかるが治る。


 問題は――そうではないものたちだ。


「……いつからですか?」


 私は、椅子に座る老女の手を取った。


 彼女の指は節くれだっていて、関節が不自然な方向に曲がっている。

 皮膚は薄く、触れたところから骨の感触が伝わってくる。


「若いころから、手がこわばることはありましたけどねえ。

 こんなふうに曲がって戻らなくなったのは、ここ十年くらいですわ」


「そうですか」


 私は、関節に軽く触れながら、魔力を流し込んでみる。


 炎症は、ほとんどない。

 代わりに、長い年月をかけて形作られた“歪み”だけがそこにあった。


(……これは)


 今さら、元通りの形には戻せない。

 痛みを少し和らげる程度が、精一杯。


 老女の目が、不安そうにこちらを見つめている。


「リヴィア様……?」


 私は息を吸い、ゆっくり吐き出した。


「ごめんなさい。

 私の力では、指を真っすぐに戻すことはできません」


 老女の肩が、わずかに落ちる。


 その動きが、胸に棘のように刺さる。


「ただ――」


 私は続けた。


「痛みを少し軽くすることと、今以上にひどくならないようにすることなら、できるかもしれません。

 温かい湯で手をさすり、夜は布で支えて休ませる。

 そういった工夫を重ねれば、もう少し楽に暮らせるはずです」


「……そう、ですか」


 老女の目に、うっすらと水がにじんだ。


 落胆だけではない。

 でも、期待を完全に裏切られたわけでもない。

 そんな複雑な色。


「“奇跡”を期待して来られたのに、申し訳ありません」


 そう言うと、老女は首を振った。


「いいや……いいんです。

 こうして話を聞いてもらっただけでも、何だか、肩の荷が軽くなった気がしますわ」


 その笑顔が、痛々しくて、同時に温かかった。


 こうして、ひとり、またひとり。


 癒せる者もいれば、そうでない者もいる。

 症状が軽いのに大げさに騒ぐ者もいれば、明らかに深刻なのに「大したことない」と笑ってみせる者もいる。


 中には――。


「……もう、無理だな」


 寝台の上で寝ている男の脈をとり終えたとき、付き添いの男がぼそりと呟いた。


 私は、静かに首を振る。


「完全に治すことは、難しいかもしれません。

 ですが、痛みを和らげる薬を……」


「いえ。あんたの言いたいことはわかる」


 男の目は、冷めていた。


 諦めとも、怒りともつかない、妙な温度の低さ。


「“奇跡の公爵令嬢”が来たって話を聞いてな。

 “もしかしたら”って思ったのは、俺も同じです」


 彼は寝台の男――誰かの兄か父か――の手を握りしめる。


「でも、やっぱり、神様じゃなかった」


 その一言は、責めるでもなく、慰めるでもなく。

 ただ事実を並べただけのような、乾いた響きだった。


「……ごめんなさい」


 私は、また謝ることしかできなかった。


 謝罪が、何度重なれば、この国の底に溜まった“足りなさ”は埋まるのだろう。


 きっと、何度重ねても足りはしない。


◇ ◇ ◇


「“奇跡のお姉ちゃん”だ!」


 そんな中で、救いのように飛び込んでくる声もある。


 まだ幼い男の子が、とてとてと駆け寄ってきて、私のスカートの裾を掴んだ。


「こら、駄目でしょう! 並んで――」


「いいえ、大丈夫です」


 慌てる母親を手で制し、私は子どもと目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。


「“奇跡のお姉ちゃん”は、少し大げさな呼び方ですね」


「だって、井戸をなおしたって、お母さんが言ってたもん!」


 胸を張って言う子どもの目は、きらきらしている。


 その無邪気さに、思わず頬が緩んだ。


「そうですね……。

 では、その呼び方を使うときは、小声でお願いしますね?」


「どうして?」


「恥ずかしいですから」


 そう言うと、子どもは「ふふ」と笑った。


「わかった。内緒の“奇跡のお姉ちゃん”ね」


「……ええ。二人だけの秘密、ということにしておきましょうか」


 馬鹿馬鹿しい会話かもしれない。

 けれど、こういうやり取りがあるだけで、私の足腰はもう一度だけ踏ん張ろうと思える。


 ただ――。


 診察を終え、出口へ向かう人々の中には、私を一瞥もしない者もいる。


「噂ほどのものじゃなかったな」


 そんな呟きが、聞こえないふりをしていても、耳に残る。


「やっぱり、神様以外に頼るべきじゃないのかもしれん」


 祈りの言葉と一緒に吐き出される、冷えた視線。


 中には、私をちらりと見て、震えたように目を逸らす者もいた。


「あの目は、俺たちとは違う場所を見ている」


 列の後ろのほうで、誰かがそう囁くのを聞いたとき、背筋を一瞬だけ冷たいものが撫でた。


(違う場所、ですか)


 もし、そう見えているのだとしたら――。


 それはきっと間違っていないのだろう。


 私は、人々の「今日」だけでなく、「明日」や「来年」や「十年後」まで見てしまう。

 井戸の水の量や、森の魔物の数、帳簿の数字と同じように。


 それが、“普通”ではないことは、自覚している。


◇ ◇ ◇


「リヴィア様、お茶を」


 日が傾き始めたころ。

 侍女が湯気の立つカップを差し出してくれた。


「ありがとうございます……」


 カップを両手で包み込むように持ち、口をつける。


 温かさが喉を通って胸に落ちていく感覚に、ほっと息が漏れた。


「今日はここまでにしましょう」


 レオン様が、控えめに言った。


「これ以上続ければ、リヴィア様のお体が持ちません」


「まだ、外には――」


「残っている者たちには、明日以降の順番を約束しました。

 不満は出るでしょうが、命に関わるほどの者はいません」


 そう言われてしまえば、これ以上の我儘は言えない。


「……わかりました」


 私は、椅子の背にもたれかかった。


 身体のあちこちが、じんじんとだるい。

 喉は、乾き切っている。


「声が……少し、枯れましたわね」


 自分で言って、少し笑ってしまう。


「それだけ多くの人の話を聞き、多くの言葉をかけたということです」


 レオン様の声は、いつもより柔らかかった。


 それが、かえって胸に刺さる。


「――“奇跡”という言葉は」


 窓の外の空を見上げながら、ふと口をついた。


「思った以上に、重い鎖ですね」


 レオン様が、黙って耳を傾けているのを感じる。


「奇跡を望む人がいるかぎり、

 奇跡を“起こせなかった”ときの、誰かの涙も生まれてしまう」


 井戸の水を待っていた村人たち。

 森から帰ってこなかった商隊の人々。

 今日、私の力では救いきれなかった病人たち。


 噂が広がるほどに、その中には、救われない者も必ず混ざる。


「私ができるのは、“神の代わり”ではありません。

 ただ、今日を少しだけ生きやすくする、お手伝いだけ」


 それでも――。


 城門の前に並んだ、人々の顔。

 疲れた目、必死の手、震える肩。


 あの列を、最初から門の外で追い返すことは、きっとできない。


「鎖は、重いですが」


 私は、カップを握る指に少し力を込めた。


「それを完全に外してしまうのも、何だか違う気がしますわ」


 自分で自分に課した鎖。

 誰かの期待と失望と、身勝手な願いと。

 それらすべてを含めて――今の私は、ここに立っている。


 窓の外で、夕陽がゆっくりと沈んでいく。


 その光をぼんやりと眺めながら、私は、もう一度だけ喉をさすった。


「……明日は、少しだけ、喉にやさしいお茶を用意していただけるかしら」


「はい」


 レオン様の返事は、短く、けれどどこか笑っているように聞こえた。


 “奇跡の公爵令嬢”。


 きっとこれから先も、その言葉は形を変えながら、私の周りをまとわりつくのだろう。


 その重さに押しつぶされないように。

 同時に、その言葉に酔いしれてしまわないように。


 私は、今日と同じように、明日もまた、目の前の一人と向き合うのだ。


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