聖女候補と、奪われる席
王城の謁見の間は、いつもより少しだけ、冷たく感じられた。
高い天井から吊されたシャンデリアが幾重にも光を放ち、大理石の床には左右に赤い絨毯が敷かれている。壁際には、王侯貴族と教会関係者がずらりと並び、礼服と法衣の白と金が入り混じっていた。
私は、その中央――王座へと続く絨毯の途中に立っていた。
昨日と同じように、完璧に整えられた髪と、王太子妃候補としてふさわしいと選ばれたドレス。
目の前には王と王妃が座し、その少し下の段に、王太子殿下――アルノルト殿下が立っている。
「本日、我らはここに集った」
殿下の声が、謁見の間に静かに響いた。
よく通る、よく訓練された、王太子としてふさわしい声。
「アルディア王国の未来と、神と精霊への誓い、その両方を確かめるために」
視線が、私の背をすべる。
廷臣たち、教会の高位聖職者たち、貴族たち。
彼らの目は、一見すると穏やかで敬意に満ちているように見える。
けれど、その温度は――少しずつ違っていた。
(“王太子妃候補としての私”を見ている目)
(“ヴァルシュタイン公爵家の娘”の背後にある権力を計算している目)
(“そろそろ新しい話題が欲しかった”と退屈を紛らわす目)
そのあたりを読み取ることには、もう慣れてしまっている。
だから私は、予定された角度で微笑みを浮かべたまま、呼吸も脈も乱さない。
「皆の者、知っての通り――」
殿下は一拍置き、ゆっくりと言葉を続けた。
「この度、我が国は“聖女候補”を得た。
神と精霊の加護を強く受け、ただ祈るだけで傷を癒やす娘だ」
ざわ、と小さな波が広がる。
噂はすでに王都中に広まっていたはずだが、こうして王太子自らの口から語られると、その重みはまったく違って聞こえる。
「彼女の名は――セレスティア」
殿下が手を差し向けた先、教会の列の奥から、一人の少女が歩み出た。
白い聖女服に身を包み、肩までの淡い金の髪を緩く結い、緊張した面持ちで。
年は、私より少し下だろうか。十六、七といったところに見える。
その手はわずかに震え、足取りもぎこちない。
……平民出身だ、と噂されている少女。
彼女の背中に、教会の高位聖職者がぴたりと付き添っている様子を見れば、それがただの噂ではないと分かる。
あの付き添い方は、「守っている」のではなく、「管理している」のだ。
「彼女は、神と精霊に選ばれた娘だ」
殿下の言葉に、教会側の列がわずかに誇らしげに胸を張る。
「彼女の祈りは、兵士たちの傷を癒やし、民の病を和らげた。
その奇跡は、もはや噂ではない。ここにいる者の何人かは、自らの目で見ているだろう」
聖堂での示範の場に立ち会った貴族たちが、小さく頷き合うのが見えた。
それを見ながら、私はふと、自分の指先に力がこもっていることに気づく。
手袋越しに爪が食い込む前に、そっと意識して力を抜いた。
「我らは、その力を、国と民と、神と精霊のために用いなければならない」
殿下の声は、明確な方向を持って謁見の間を満たしていく。
「それが、王家の義務であり、私の責務だ」
――そうね。
心の中でだけ、私は静かに同意する。
王太子が、国と神を口にするのは当然だ。
私もまた、公爵家の娘として、この国を支える一人であることを、幼い頃から叩き込まれてきた。
だからこそ、この後に続く言葉も、分かっていた。
「ゆえに、私は――」
殿下は一度深く息を吸い、私の方へと歩み寄ってくる。
貴族たちの視線が、私と殿下の間を行き交う。
王妃も、王も、教会の高位聖職者も、誰一人として口を挟まない。
これは、王太子個人の決断であり、公としての宣言であり――そして、すでに裏側で合意された「結論」なのだ。
殿下は私の前で立ち止まり、膝を折りはしないものの、わずかに顔を伏せる仕草をした。
その表情に宿る迷いを、私は見逃さない。
「ヴァルシュタイン公爵令嬢、リヴィア・エルノーラ・ヴァルシュタイン」
「はい、殿下」
私は一歩前へ出て、裾を持ち上げ軽く礼をする。
姿勢は正しく、視線はまっすぐに。
「……すまない、リヴィア」
その言葉は、さすがに予想していなかった。
王太子が、公衆の面前で、私個人に向かって「すまない」と言うことを。
謁見の間の空気が、一瞬だけ凍りついたように感じられた。
「君は、素晴らしい女性だ。
王妃にふさわしい教養と品位を持ち、民を思いやる心を持っている」
――さすがに、言葉選びが完璧ね。
内心で軽く苦笑する。
誰も傷つけず、誰も責めず、ただ「君は悪くない」と言いながら、結論だけを切り出す、教科書どおりの言葉。
「しかし……」
殿下の視線が、わずかに揺れる。
「この国は今、揺らいでいる。
教会の力、貴族たちの思惑、隣国との関係。
その中で、“聖女候補”との婚姻は、あまりにも大きな意味を持つ」
その言葉に、教会側の列がわずかに動く。
誰かが「やはり」と囁き、誰かが安堵し、誰かが計算をしなおしている。
「私は、王太子として――」
殿下は顔を上げ、私の目をまっすぐに見た。
「国と神のために、セレスティアを妻として迎える道を選ぶべきだと判断した。
ゆえに、ここに正式に申し出る。
リヴィア――
君との婚約を、解消させてほしい」
謁見の間に、ざわめきが走る。
それは瞬く間に広がり、波となり、押し寄せては引いていった。
私は、うつむかなかった。
視線を逸らさず、殿下の瞳を見つめ返す。
胸の奥で、何かが鈍く軋む。
痛みと呼ぶには、あまりにも静かな――けれど、確かに「失われていくもの」の重さを知らせてくる感覚。
(ああ、やっぱり)
心のどこかで、私はとっくに理解していた。
私の居場所は、最初からここではなかったのだと。
王太子の隣。
王都の中心。
国の象徴としての「席」。
そこは、私自身ではなく、私の肩書きのために用意された場所だった。
ならば、もっと都合のいい象徴が現れたとき、入れ替えられるのは当然だ。
それでも――。
「殿下」
私は、ゆっくりと口を開いた。
「どうか、顔をお上げください」
殿下の肩が、びくりと震える。
「あなたは、国を選んだ。それを責められる人間が、どこにいるでしょう」
静かに、はっきりと言う。
「私一人の感情のために、この国の行く末を曇らせることなど、私自身が望みません。
……いいえ、むしろ私は、ほっとしていますの」
「……ほっと、している?」
殿下が、驚いたように目を瞬いた。
「ええ。
私のような者が、あなたの未来を縛ってしまうのではないかと、ずっと怖かったのです。
あなたは、王太子として、国と神と、民の期待を背負って生きていかれる方。
その重さの中で、私個人の想いがあなたの足枷になってしまうのなら――」
私は微笑む。
完璧な、公爵令嬢としての笑みで。
「その鎖を外していただけるのなら、本望ですわ」
謁見の間の空気が、変わった。
誰かが小さく息を呑む音。
誰かが、信じられないものを見るような視線を向けてくる気配。
「……あれが、公爵令嬢か……」
「婚約を破棄されてなお、あの笑顔……怖ろしいほど自制心のある女だ」
ひそひそと囁く声が、耳の端をかすめる。
そう言われるのは、嫌いではなかった。
これは、私が生きるために身につけた鎧だ。
簡単にひびを入れられるようなものなら、とっくに捨てている。
「リヴィア……」
殿下は、言葉を探しているようだった。
「本当に、君は……」
「これ以上、“素晴らしい女性だ”などとおっしゃらないでくださいませ、殿下」
軽く、釘を刺す。
殿下が、少しだけ目を丸くする。
「そう言われれば言われるほど、私が惨めになりますわ。
私の価値を高く語りながら、手放すと宣言なさるのは――
さすがに、少し意地悪でしょう?」
瞬間、あちこちで咳払いが起こった。
笑っていいのかどうか迷っている気配が、空気に混ざる。
殿下は、遅れて苦笑した。
「……すまない」
「だから、謝らないでくださいませ」
本気で、そう思った。
殿下が私に謝らなければならない理由など、どこにもない。
彼が選んだのは、国と神と、聖女候補との婚姻。
それはきっと、この王国にとって合理的な選択なのだろう。
私個人の寂しさや痛みを置き去りにすることを、私は否定できない。
「婚約解消の件、確かに承りました」
私は一歩下がり、深く礼をした。
「これまで、あなたの隣に立つ機会をいただけたこと、心より感謝いたします。
どうか、セレスティア様との未来が、この国にとって、そしてあなたにとって、善きものでありますように」
セレスティア――聖女候補の名を口にするとき、わずかに胸が疼いた。
けれど、それは彼女への憎しみではない。
(彼女もまた、選ばれた側の“犠牲者”なのだもの)
平民の娘が、突然「聖女」として祭り上げられる。
王太子との婚姻を、神と国の名のもとに望まれる。
その重さを想像するだけで、背筋が冷たくなる。
私が、王妃候補として背負ってきたものと、きっと似ているのだろう。
ただ、彼女の方が、ずっと若く、ずっと柔らかい心のまま、それを受け止めなければならない。
だから――。
(どうか、幸せになって)
心の中でだけ、そう祈った。
儀式は、形式どおりに進んでいった。
王が、婚約解消と新たな婚姻の方針を淡々と告げ、教会が「神と精霊の御心」を言葉にする。
廷臣たちは頭を垂れ、貴族たちは沈黙のまま結論を受け入れる。
私は、その場にいる「元・王太子妃候補」として、最後まで乱れずに立ち続けた。
そして、儀式が終わり、退出の時が来た。
長い絨毯を、私は一人で歩く。
殿下の隣ではなく、列の端でもなく、「役目を終えた者」の位置から。
左右から注がれる視線が、いつもとは違う重さを持っているのが分かった。
「……あれほどのことを言われて、泣きもしないとは」
「さすがは辺境公爵家。肝が据わっている」
「いや、あれは――」
何かを恐れるような囁きが、耳に届く。
私がみっともなく取り乱したら、この場にいる誰かが、きっと安心してしまうのだろう。
「王太子の判断は正しかった」と。
「あの令嬢は感情的で、王妃には向かなかったのだ」と。
それだけは、嫌だった。
私が泣くのは、私一人になったときだけでいい。
そう自分に言い聞かせながら、私は謁見の間をあとにした。
◇ ◇ ◇
王城の回廊は、陽光を受けて白く輝いていた。
高い窓から差し込む光が床に長い影を落とし、その中を、私はひとり歩いていく。
先ほどまでの喧噪が嘘のように、ここは静かだ。
歩みを進めるたびに、胸の奥にもじんとした痛みが広がる。
それは、決して刺すような痛みではない。
鈍く、重く、じわじわと心の内側を占めていく、湿った痛み。
(本当に、終わってしまったのね)
王太子殿下の隣に立つ未来。
王妃として過ごす日々。
国の象徴の一部として生きていく覚悟。
全部、今この瞬間まで、私の「これから」として用意されていたはずのもの。
その席は、今まさに別の誰かのために整え直されている。
「――あ」
曲がり角を曲がった先で、白い影が立ち止まった。
セレスティア。
先ほどの儀式で紹介されたばかりの、聖女候補の少女。
彼女は、私を見るなり、驚いたように目を見開いた。
周囲には、教会の者と思しき護衛が二、三人いるだけで、先ほどのような群衆はいない。
近くで見ると、その瞳は薄い青色で、どこか不安げに揺れていた。
聖女服の袖の中で、指先がぎゅっと握りしめられているのが分かる。
「……あの」
彼女は、躊躇いがちに口を開いた。
「先ほどは、その……私のせいで――」
その瞬間、護衛の一人が慌てて一歩出る。
「セレスティア様、そのようなことをおっしゃる必要はありません。
すべては、神と国と、王家の御意志によるもの――」
「そうね」
私は、その言葉をやんわりと遮った。
「あなたの“せい”ではないわ、セレスティア様」
少女が、はっとしたように私を見つめる。
私は歩み寄り、彼女と少しだけ距離を詰めた。
護衛たちが緊張した気配を見せるが、私は何もしない。ただ、静かに微笑む。
「ここで立ち話をするのは、きっと褒められない振る舞いでしょうから。
――ただ、一つだけ」
彼女の瞳に、自分の姿が映る。
王太子に婚約を解消されたばかりの女の顔。
それなのに、私はまた、公爵令嬢としての笑みを浮かべているのだろう。
「どうか、幸せになってください」
声に出したのは、ほんの短い言葉だった。
理由を語ることも、慰めを装うことも、しなかった。
そんなことをしても、私の自己満足でしかないから。
セレスティアは、言葉を失ったように私を見つめ、それから小さく唇を噛んだ。
「……わたし、怖いです」
かすかな声が漏れる。
「神さまのため、国のためって、皆が言います。
でも……わたしには、その重さが、まだよく分からなくて……」
護衛たちが戸惑いの表情を浮かべる。
私は、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じながら、それでも表情を崩さなかった。
「分からないままでいいと思いますわ」
「え……?」
「分からないままでも、一歩ずつ、考えていけばいい。
国のため、神のため――その言葉に、自分の心まで全部明け渡してしまわないように。
あなた自身が、あなたのままでいられるように」
それがどれほど難しいことか、私はよく知っている。
だからこそ、彼女には、ほんの少しでも違う道を歩んでほしいと願ってしまう。
「……リヴィア様は」
セレスティアが、小さく問う。
「おつらく、ないのですか」
胸の奥の鈍い痛みが、少しだけ強くなった。
嘘をつくことは、簡単だ。
「まったく」と笑ってみせることもできる。
でも、それはきっと、彼女のためにもならない。
「つらくないと言えば、嘘になりますわ」
私は正直に答えた。
「でも、だからといって、この場で泣き叫ぶつもりもありません。
私が泣くのは、私一人になったときだけでいい」
セレスティアの瞳が揺れる。
「あなたは、王太子殿下と共に歩む道を選ばれた。
それは、きっとこの国にとって善きことなのでしょう。
ならば、あとはあなたが、あなた自身の幸せを、そこに見出せますように」
――どうか、本当に。
心の中で、もう一度、祈る。
「失礼しましたわ。回廊を塞いでしまって」
私は一歩下がり、裾を持ち上げて礼をする。
セレスティアは慌てたように頭を下げ返し、何か言いたげに口を開きかけて――結局、何も言わなかった。
それでもいい、と思う。
これはきっと、始まりにすぎない。
国のため、神のため、という言葉に巻き込まれていく彼女の物語の。
そして私は――。
王太子の隣ではない、どこか別の場所で。
私自身の「居場所」を見つける物語を、これから歩いていくのだろう。
回廊の先に、外へ続く扉が見えた。
その向こうには、辺境へ続く道がある。
寒くて、痩せた土地。
けれど、そこになら――私は、私の足で立てるかもしれない。
そんな予感だけを胸に抱きながら、私は静かに歩き出した。




