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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
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聖女候補と、奪われる席

 王城の謁見の間は、いつもより少しだけ、冷たく感じられた。


 高い天井から吊されたシャンデリアが幾重にも光を放ち、大理石の床には左右に赤い絨毯が敷かれている。壁際には、王侯貴族と教会関係者がずらりと並び、礼服と法衣の白と金が入り混じっていた。


 私は、その中央――王座へと続く絨毯の途中に立っていた。

 昨日と同じように、完璧に整えられた髪と、王太子妃候補としてふさわしいと選ばれたドレス。

 目の前には王と王妃が座し、その少し下の段に、王太子殿下――アルノルト殿下が立っている。


「本日、我らはここに集った」


 殿下の声が、謁見の間に静かに響いた。

 よく通る、よく訓練された、王太子としてふさわしい声。


「アルディア王国の未来と、神と精霊への誓い、その両方を確かめるために」


 視線が、私の背をすべる。

 廷臣たち、教会の高位聖職者たち、貴族たち。

 彼らの目は、一見すると穏やかで敬意に満ちているように見える。


 けれど、その温度は――少しずつ違っていた。


(“王太子妃候補としての私”を見ている目)


(“ヴァルシュタイン公爵家の娘”の背後にある権力を計算している目)


(“そろそろ新しい話題が欲しかった”と退屈を紛らわす目)


 そのあたりを読み取ることには、もう慣れてしまっている。

 だから私は、予定された角度で微笑みを浮かべたまま、呼吸も脈も乱さない。


「皆の者、知っての通り――」


 殿下は一拍置き、ゆっくりと言葉を続けた。


「この度、我が国は“聖女候補”を得た。

 神と精霊の加護を強く受け、ただ祈るだけで傷を癒やす娘だ」


 ざわ、と小さな波が広がる。

 噂はすでに王都中に広まっていたはずだが、こうして王太子自らの口から語られると、その重みはまったく違って聞こえる。


「彼女の名は――セレスティア」


 殿下が手を差し向けた先、教会の列の奥から、一人の少女が歩み出た。


 白い聖女服に身を包み、肩までの淡い金の髪を緩く結い、緊張した面持ちで。

 年は、私より少し下だろうか。十六、七といったところに見える。

 その手はわずかに震え、足取りもぎこちない。


 ……平民出身だ、と噂されている少女。


 彼女の背中に、教会の高位聖職者がぴたりと付き添っている様子を見れば、それがただの噂ではないと分かる。

 あの付き添い方は、「守っている」のではなく、「管理している」のだ。


「彼女は、神と精霊に選ばれた娘だ」


 殿下の言葉に、教会側の列がわずかに誇らしげに胸を張る。


「彼女の祈りは、兵士たちの傷を癒やし、民の病を和らげた。

 その奇跡は、もはや噂ではない。ここにいる者の何人かは、自らの目で見ているだろう」


 聖堂での示範の場に立ち会った貴族たちが、小さく頷き合うのが見えた。

 それを見ながら、私はふと、自分の指先に力がこもっていることに気づく。

 手袋越しに爪が食い込む前に、そっと意識して力を抜いた。


「我らは、その力を、国と民と、神と精霊のために用いなければならない」


 殿下の声は、明確な方向を持って謁見の間を満たしていく。


「それが、王家の義務であり、私の責務だ」


 ――そうね。


 心の中でだけ、私は静かに同意する。


 王太子が、国と神を口にするのは当然だ。

 私もまた、公爵家の娘として、この国を支える一人であることを、幼い頃から叩き込まれてきた。


 だからこそ、この後に続く言葉も、分かっていた。


「ゆえに、私は――」


 殿下は一度深く息を吸い、私の方へと歩み寄ってくる。


 貴族たちの視線が、私と殿下の間を行き交う。

 王妃も、王も、教会の高位聖職者も、誰一人として口を挟まない。

 これは、王太子個人の決断であり、公としての宣言であり――そして、すでに裏側で合意された「結論」なのだ。


 殿下は私の前で立ち止まり、膝を折りはしないものの、わずかに顔を伏せる仕草をした。

 その表情に宿る迷いを、私は見逃さない。


「ヴァルシュタイン公爵令嬢、リヴィア・エルノーラ・ヴァルシュタイン」


「はい、殿下」


 私は一歩前へ出て、裾を持ち上げ軽く礼をする。

 姿勢は正しく、視線はまっすぐに。


「……すまない、リヴィア」


 その言葉は、さすがに予想していなかった。

 王太子が、公衆の面前で、私個人に向かって「すまない」と言うことを。


 謁見の間の空気が、一瞬だけ凍りついたように感じられた。


「君は、素晴らしい女性だ。

 王妃にふさわしい教養と品位を持ち、民を思いやる心を持っている」


 ――さすがに、言葉選びが完璧ね。


 内心で軽く苦笑する。

 誰も傷つけず、誰も責めず、ただ「君は悪くない」と言いながら、結論だけを切り出す、教科書どおりの言葉。


「しかし……」


 殿下の視線が、わずかに揺れる。


「この国は今、揺らいでいる。

 教会の力、貴族たちの思惑、隣国との関係。

 その中で、“聖女候補”との婚姻は、あまりにも大きな意味を持つ」


 その言葉に、教会側の列がわずかに動く。

 誰かが「やはり」と囁き、誰かが安堵し、誰かが計算をしなおしている。


「私は、王太子として――」


 殿下は顔を上げ、私の目をまっすぐに見た。


「国と神のために、セレスティアを妻として迎える道を選ぶべきだと判断した。

 ゆえに、ここに正式に申し出る。

 リヴィア――

 君との婚約を、解消させてほしい」


 謁見の間に、ざわめきが走る。

 それは瞬く間に広がり、波となり、押し寄せては引いていった。


 私は、うつむかなかった。

 視線を逸らさず、殿下の瞳を見つめ返す。


 胸の奥で、何かが鈍く軋む。

 痛みと呼ぶには、あまりにも静かな――けれど、確かに「失われていくもの」の重さを知らせてくる感覚。


(ああ、やっぱり)


 心のどこかで、私はとっくに理解していた。

 私の居場所は、最初からここではなかったのだと。


 王太子の隣。

 王都の中心。

 国の象徴としての「席」。


 そこは、私自身ではなく、私の肩書きのために用意された場所だった。

 ならば、もっと都合のいい象徴が現れたとき、入れ替えられるのは当然だ。


 それでも――。


「殿下」


 私は、ゆっくりと口を開いた。


「どうか、顔をお上げください」


 殿下の肩が、びくりと震える。


「あなたは、国を選んだ。それを責められる人間が、どこにいるでしょう」


 静かに、はっきりと言う。


「私一人の感情のために、この国の行く末を曇らせることなど、私自身が望みません。

 ……いいえ、むしろ私は、ほっとしていますの」


「……ほっと、している?」


 殿下が、驚いたように目を瞬いた。


「ええ。

 私のような者が、あなたの未来を縛ってしまうのではないかと、ずっと怖かったのです。

 あなたは、王太子として、国と神と、民の期待を背負って生きていかれる方。

 その重さの中で、私個人の想いがあなたの足枷になってしまうのなら――」


 私は微笑む。

 完璧な、公爵令嬢としての笑みで。


「その鎖を外していただけるのなら、本望ですわ」


 謁見の間の空気が、変わった。


 誰かが小さく息を呑む音。

 誰かが、信じられないものを見るような視線を向けてくる気配。


「……あれが、公爵令嬢か……」

「婚約を破棄されてなお、あの笑顔……怖ろしいほど自制心のある女だ」


 ひそひそと囁く声が、耳の端をかすめる。


 そう言われるのは、嫌いではなかった。

 これは、私が生きるために身につけた鎧だ。

 簡単にひびを入れられるようなものなら、とっくに捨てている。


「リヴィア……」


 殿下は、言葉を探しているようだった。


「本当に、君は……」


「これ以上、“素晴らしい女性だ”などとおっしゃらないでくださいませ、殿下」


 軽く、釘を刺す。

 殿下が、少しだけ目を丸くする。


「そう言われれば言われるほど、私が惨めになりますわ。

 私の価値を高く語りながら、手放すと宣言なさるのは――

 さすがに、少し意地悪でしょう?」


 瞬間、あちこちで咳払いが起こった。

 笑っていいのかどうか迷っている気配が、空気に混ざる。


 殿下は、遅れて苦笑した。


「……すまない」


「だから、謝らないでくださいませ」


 本気で、そう思った。


 殿下が私に謝らなければならない理由など、どこにもない。

 彼が選んだのは、国と神と、聖女候補との婚姻。

 それはきっと、この王国にとって合理的な選択なのだろう。


 私個人の寂しさや痛みを置き去りにすることを、私は否定できない。


「婚約解消の件、確かに承りました」


 私は一歩下がり、深く礼をした。


「これまで、あなたの隣に立つ機会をいただけたこと、心より感謝いたします。

 どうか、セレスティア様との未来が、この国にとって、そしてあなたにとって、善きものでありますように」


 セレスティア――聖女候補の名を口にするとき、わずかに胸が疼いた。

 けれど、それは彼女への憎しみではない。


(彼女もまた、選ばれた側の“犠牲者”なのだもの)


 平民の娘が、突然「聖女」として祭り上げられる。

 王太子との婚姻を、神と国の名のもとに望まれる。


 その重さを想像するだけで、背筋が冷たくなる。


 私が、王妃候補として背負ってきたものと、きっと似ているのだろう。

 ただ、彼女の方が、ずっと若く、ずっと柔らかい心のまま、それを受け止めなければならない。


 だから――。


(どうか、幸せになって)


 心の中でだけ、そう祈った。


 儀式は、形式どおりに進んでいった。


 王が、婚約解消と新たな婚姻の方針を淡々と告げ、教会が「神と精霊の御心」を言葉にする。

 廷臣たちは頭を垂れ、貴族たちは沈黙のまま結論を受け入れる。


 私は、その場にいる「元・王太子妃候補」として、最後まで乱れずに立ち続けた。


 そして、儀式が終わり、退出の時が来た。


 長い絨毯を、私は一人で歩く。

 殿下の隣ではなく、列の端でもなく、「役目を終えた者」の位置から。


 左右から注がれる視線が、いつもとは違う重さを持っているのが分かった。


「……あれほどのことを言われて、泣きもしないとは」

「さすがは辺境公爵家。肝が据わっている」


「いや、あれは――」


 何かを恐れるような囁きが、耳に届く。


 私がみっともなく取り乱したら、この場にいる誰かが、きっと安心してしまうのだろう。

 「王太子の判断は正しかった」と。

 「あの令嬢は感情的で、王妃には向かなかったのだ」と。


 それだけは、嫌だった。


 私が泣くのは、私一人になったときだけでいい。


 そう自分に言い聞かせながら、私は謁見の間をあとにした。


◇ ◇ ◇


 王城の回廊は、陽光を受けて白く輝いていた。


 高い窓から差し込む光が床に長い影を落とし、その中を、私はひとり歩いていく。

 先ほどまでの喧噪が嘘のように、ここは静かだ。


 歩みを進めるたびに、胸の奥にもじんとした痛みが広がる。

 それは、決して刺すような痛みではない。

 鈍く、重く、じわじわと心の内側を占めていく、湿った痛み。


(本当に、終わってしまったのね)


 王太子殿下の隣に立つ未来。

 王妃として過ごす日々。

 国の象徴の一部として生きていく覚悟。


 全部、今この瞬間まで、私の「これから」として用意されていたはずのもの。


 その席は、今まさに別の誰かのために整え直されている。


「――あ」


 曲がり角を曲がった先で、白い影が立ち止まった。


 セレスティア。

 先ほどの儀式で紹介されたばかりの、聖女候補の少女。


 彼女は、私を見るなり、驚いたように目を見開いた。

 周囲には、教会の者と思しき護衛が二、三人いるだけで、先ほどのような群衆はいない。


 近くで見ると、その瞳は薄い青色で、どこか不安げに揺れていた。

 聖女服の袖の中で、指先がぎゅっと握りしめられているのが分かる。


「……あの」


 彼女は、躊躇いがちに口を開いた。


「先ほどは、その……私のせいで――」


 その瞬間、護衛の一人が慌てて一歩出る。


「セレスティア様、そのようなことをおっしゃる必要はありません。

 すべては、神と国と、王家の御意志によるもの――」


「そうね」


 私は、その言葉をやんわりと遮った。


「あなたの“せい”ではないわ、セレスティア様」


 少女が、はっとしたように私を見つめる。


 私は歩み寄り、彼女と少しだけ距離を詰めた。

 護衛たちが緊張した気配を見せるが、私は何もしない。ただ、静かに微笑む。


「ここで立ち話をするのは、きっと褒められない振る舞いでしょうから。

 ――ただ、一つだけ」


 彼女の瞳に、自分の姿が映る。

 王太子に婚約を解消されたばかりの女の顔。

 それなのに、私はまた、公爵令嬢としての笑みを浮かべているのだろう。


「どうか、幸せになってください」


 声に出したのは、ほんの短い言葉だった。


 理由を語ることも、慰めを装うことも、しなかった。

 そんなことをしても、私の自己満足でしかないから。


 セレスティアは、言葉を失ったように私を見つめ、それから小さく唇を噛んだ。


「……わたし、怖いです」


 かすかな声が漏れる。


「神さまのため、国のためって、皆が言います。

 でも……わたしには、その重さが、まだよく分からなくて……」


 護衛たちが戸惑いの表情を浮かべる。

 私は、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じながら、それでも表情を崩さなかった。


「分からないままでいいと思いますわ」


「え……?」


「分からないままでも、一歩ずつ、考えていけばいい。

 国のため、神のため――その言葉に、自分の心まで全部明け渡してしまわないように。

 あなた自身が、あなたのままでいられるように」


 それがどれほど難しいことか、私はよく知っている。

 だからこそ、彼女には、ほんの少しでも違う道を歩んでほしいと願ってしまう。


「……リヴィア様は」


 セレスティアが、小さく問う。


「おつらく、ないのですか」


 胸の奥の鈍い痛みが、少しだけ強くなった。


 嘘をつくことは、簡単だ。

 「まったく」と笑ってみせることもできる。

 でも、それはきっと、彼女のためにもならない。


「つらくないと言えば、嘘になりますわ」


 私は正直に答えた。


「でも、だからといって、この場で泣き叫ぶつもりもありません。

 私が泣くのは、私一人になったときだけでいい」


 セレスティアの瞳が揺れる。


「あなたは、王太子殿下と共に歩む道を選ばれた。

 それは、きっとこの国にとって善きことなのでしょう。

 ならば、あとはあなたが、あなた自身の幸せを、そこに見出せますように」


 ――どうか、本当に。


 心の中で、もう一度、祈る。


「失礼しましたわ。回廊を塞いでしまって」


 私は一歩下がり、裾を持ち上げて礼をする。

 セレスティアは慌てたように頭を下げ返し、何か言いたげに口を開きかけて――結局、何も言わなかった。


 それでもいい、と思う。


 これはきっと、始まりにすぎない。

 国のため、神のため、という言葉に巻き込まれていく彼女の物語の。


 そして私は――。


 王太子の隣ではない、どこか別の場所で。

 私自身の「居場所」を見つける物語を、これから歩いていくのだろう。


 回廊の先に、外へ続く扉が見えた。


 その向こうには、辺境へ続く道がある。

 寒くて、痩せた土地。

 けれど、そこになら――私は、私の足で立てるかもしれない。


 そんな予感だけを胸に抱きながら、私は静かに歩き出した。


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