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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
19/82

誰も死なせない初陣

 森の中の空気は、城のそれとはまるで別物だった。


 湿った土の匂い。葉と葉が擦れ合う微かな音。どこかで流れる小さな水の音。

 それらが、さっきまで胸の中に渦巻いていた不安を、ほんの少しだけ紛らわせてくれる。


 ――と思ったのは、ほんの数分前までの話だ。


「……静かですね」


 思わず、馬を進めながら呟いた。


 レオン様が、隣で小さく頷く。


「ああ。静かすぎる」


 その一言で、背筋に冷たいものが走った。


 さっきまで聞こえていた鳥の声が、ぴたりと途絶えている。

 風は吹いているのに、葉のさざめきは、どこか遠くに引いてしまったようだ。


 森の空気そのものが、様子をうかがって息をひそめている――そんな感じ。


「全員、少し陣形を詰めろ」


 レオン様の声が低く飛ぶ。


「前衛、盾を構えろ。弓はすぐに射てるように。

 リヴィア様は、中央に」


「私はここで結構です」


 私は、馬の歩調を少しだけ落として、前後の兵との距離を一定に保つ。


 中央。確かに安全な位置だ。

 だからこそ、ここから見えるものは、全部見逃さずに覚えておかなければならない。


 息を整えようと深く吸い込んだ空気は、冷たくて重かった。


(怖い――)


 胸の奥で、小さな声が震える。


 けれど、その声を押さえ込んでしまうのではなく、そっと抱きしめる。


(怖いわよね。そりゃそうですわ)


 認めたうえで、それでも、前へ。


 その瞬間だった。


 茂みの奥から、ごそり、と何かが動く音がした。


「……っ」


 先頭の兵が、わずかに盾を上げる。

 馬の鼻息が荒くなり、蹄が土を掻いた。


 音は、右から。いや、左からも。前方からも。


 複数――?


「構えろ!」


 レオン様の号令と同時に、それは姿を現した。


 暗い茂みを裂くように、黒い影が飛び出す。

 犬よりも大きく、熊よりも低く、細い。

 ぎらりと光る赤い瞳。口の奥で白く光る牙。

 体毛は煤けたように黒く、その隙間から、どろりとした瘴気が漏れているように見えた。


「魔物……!」


 誰かが叫んだ。


 黒い獣は、唸り声を上げながら、先頭の兵に襲いかかる。

 鋭い爪が、振り下ろされる。


 金属が軋む音。

 盾が後ろに弾かれ、兵士の体がぐらりと揺れた。


「陣形を崩さないで!」


 我ながらよく通る声が出た、と後になって思う。

 そのときはただ、喉から飛び出した言葉に自分で驚いていた。


「前衛、盾を重ねて! 後衛は、前衛の隙間から突きなさい!

 下がるときは、必ず隣と足並みを!」


 兵たちが、訓練通りに動いてくれるのを見て、心の底から安堵した。


(剣を振るうのは、彼らの役目。

 なら、私の役目は――)


 私は馬から飛び降り、素早く裾をからげる。

 鞍のそばに魔法用の杖はない。持ち歩きにくいからと、今日は短い指揮棒だけにしてきた。


 けれど、問題はない。


 私の魔法は、形よりも「言葉」と「意志」が大切だ。


「レオン様!」


「ここだ!」


 彼の位置を確認し、その背後――ちょうど、前衛と後衛の境目あたりに立つ。


 剣を構えている兵たちの肩越しに、黒い獣の姿がちらちらと見えた。

 ひとつだけではない。茂みの奥、木の陰。

 うごめく影が、二つ、三つ――少なくとも四体以上。


(想像していたより、多いですわね)


 喉が、からからに乾いた。


「深く息を吸って、吐く」


 自分に言い聞かせながら、胸に手を当てる。


 井戸の前で詠唱したときと、同じだ。

 けれど、今回は――失敗したら誰かが死ぬ。


 胃のあたりがきゅっと縮まる感覚を、ぐっと踏みとどまる。


 怖い? ええ、怖い。

 でも、それでもやると決めたでしょう、リヴィア。


「……大地に宿りし、見えざる盾よ」


 古い言葉が、自然と口の中に転がる。


 精霊たちの耳に届きやすいよう、少しだけ、声の調子を変える。


 高すぎず、低すぎず。

 囁きよりも強く、叫びよりも穏やかに。


「我らの足もとを支え、刃を鈍らせる壁となりて――

 ここにある命の、明日をひとつ、二つ、先へと押しやってくださいな」


 詠唱とともに、足下の土が、微かに震えた。


 最初はほんの気のせいかと思うほどの揺れ。

 けれど次第に、その震えが、兵たちの足元から身体へと広がっていく。


「お、おい、これ……」


「足が……軽い?」


 兵士たちがざわめく。


 彼らの周囲に、淡い光が薄膜のように広がっていくのが見えた。


 色を言葉で表すなら――透明なまま、ほんの少しだけ青みを帯びた光。


 井戸の水面に差し込んだ朝の光に、どこか似ている。


(……来てくれたのですね)


 胸の奥で、何かがふっと笑った気がした。


『弱い身でありながら、汚れずに立とうとするお前を、面白いと思った』


 夢の中で聞いた声が、耳の奥で蘇る。


 精霊王。

 あの尊大で、どこか退屈そうで、それでいて好奇心に満ちた存在。


(今は――退屈していないといいのですけれど)


 そんな場違いなことを一瞬だけ考えて、すぐに頭を振った。


 黒い獣が、一体、盾に飛びかかる。

 爪が、鋼をえぐるように叩きつけられ――


「っ!」


 甲高い音が響く。


 砕け散るはずだった盾は、ぎりりと軋みながらも、辛うじて持ちこたえた。


 その表面で、淡い光が波紋のように広がっては消えた。


「今です!」


 私は叫ぶ。


「盾に重心を預けて! 反対側の足で踏み込んで、突いて!」


「おうっ!」


 前衛の兵たちが、訓練で何度も繰り返した通りに動く。


 槍の穂先が、獣の側面をかすめ、黒い体毛に血の筋が浮かぶ。


 魔物は痛みよりも怒りを露わにし、さらに激しく暴れ始めた。


 爪が、再び盾を叩く。

 今度は二体同時に。


 鈍い衝撃に、前衛が一瞬よろめく。


「崩れないで!」


 私は、指揮棒を握る手に力を込める。


『誰も死なせない』


 それは、声にならない誓いだった。


 この森で、商隊の誰かが地に伏し、ここまで届かなかった。

 それは事実だ。私がここに来る前に、すでに失われた命がある。


 だからこそ――これ以上は、増やしたくない。


「――古き盾よ、その身を重ねて」


 私はもう一節、古言を紡いだ。


 足元の土から、ぐっと何かが押し上げてくる感覚がする。


 光の膜は、先ほどよりも濃くなり、兵たちの盾と鎧の境界線に沿って集まっていく。


 魔物の爪が、再び打ちつけられる――その瞬間。


 ぱん、と何か弾かれるような音がした。


「うおっ!?」


 前衛の兵のひとりが思わず声を上げる。


 魔物の爪は、盾に届く前に見えない壁に阻まれ、その勢いを殺されていた。


 爪の先端から、黒い破片が飛び散る。


 魔物が、苦痛と怒りに満ちた吠え声を上げた。


(……ごめんなさい)


 心の中で、ほんの少しだけ謝る。


 相手が魔物だからといって、まったくの無感情でいられるほど、私は達観していない。

 けれど、これ以上、人間の血を増やすわけにはいかないのだ。


「後衛、今です!」


 私は、レオン様の姿を探す。


 彼はすでに動いていた。


 前衛の間隙をするりとすり抜け、黒い獣の懐に滑り込む。

 剣が、まるでそこに元々線が引かれていたかのような滑らかさで振るわれた。


 銀の軌跡が一閃し、黒い体毛の間から赤が噴き出す。


 魔物が、ひときわ高い悲鳴を上げた。


 ぐらりと体勢を崩し――倒れる。


 その背後から、もう一体が飛びかかる。


「レオン様!」


 思わず叫ぶ。


 けれど彼は振り返らない。

 かわりに、後衛の槍が、その魔物の側面に突き立つ。


「やった!」


 誰かの声。


 しかし喜ぶには早い。

 茂みの中から、まだ影が動いている。


「慌てないで。数を数えますわよ!」


 私は、息を整えながら目を細める。


 左の茂み、一。右の木の影、二。背後に回り込もうとしている影、三。


「三体。左から順に!」


 指示に従って、兵たちが体勢を整える。

 私の防御魔法は、まだ保っている。光の膜は、薄くなりながらも、兵たちの周囲に寄り添っていた。


 魔物たちが一斉に飛びかかる。


 牙がきらめき、爪が振り下ろされる。


 そのたびに、光の膜が衝撃を吸収し、盾と鎧が砕けるのを防ぐ。


 もちろん、すべてを完全に防げるわけではない。

 何度も弾かれた魔物の爪が、別の角度から滑り込み、兵の腕に浅い傷を刻む。


「くそっ!」


 血が飛び散る。

 けれど、その傷は致命的ではない。


 私は胸の前で指揮棒を握りしめ、呼吸を整えた。


(ここで誰かを失ったら――)


 森の音は、一生、私の喉に棘を残すだろう。

 焚き火の匂いも、風のざわめきも、全部、誰かの悲鳴と結びついてしまう。


(そんなのは、嫌です)


 井戸の前で、枯れた石の冷たさに触れたときの感覚を思い出す。

 あのとき、私は「できるかどうかわからない」ことに挑んだ。


 今も同じだ。


 絶対に誰も死なせない――なんて保証はどこにもない。

 それでも、「そうありたい」と願い、できる限りのことをするのが、私の我儘だ。


「――もうひと押し、お願いできます?」


 心の中でそっと問いかける。


 返事は、言葉では返ってこなかった。

 ただ、足元の大地が、もう一度だけ、力強く脈打つ。


 光が、兵たちの周囲で一瞬だけ強く輝いた。


 その瞬間――魔物たちの動きが、わずかに鈍ったように見えた。


 足元が絡まるような、泥に沈むような、そんな一瞬の違和感。


「今です!」


 レオン様の声が、鋭く響く。


 彼の剣が、二体目の首筋を薙ぎ、三体目の前足の腱を断ち切る。


 槍が、残りの一体の胸を貫いた。


 黒い影が、ばらばらに、大地へと崩れ落ちる。


 森に響いていた唸り声が、嘘のように途絶えた。


 あとに残ったのは、兵たちの荒い息と、葉擦れの音だけ。


「……終わった、のか?」


 誰かが、半ば信じられないというような声で呟いた。


 私は、その場に膝をつきそうになる寸前で、なんとか踏みとどまる。


 足が、情けないほど震えていた。


「全員、無事ですか!」


 声を張ると、喉がひりついた。


「負傷者は!」


「かすり傷が数人! 深手は……」


 隊長の一人が、周囲を見回してから報告する。


「深手はいません!」


 その言葉に、胸の奥がじん、と熱くなった。


「本当に……?」


 思わず、確認するように聞き返してしまう。


「はい! 盾が、なんというか……いつもより、固かったといいますか……」


「そうだ。爪が当たったとき、妙な感触がした。

 まるで分厚い壁に叩きつけられたみたいで……」


 兵たちが、口々に言う。


 私は、少しだけ視線を落とした。


 彼らの周囲に広がっていた光の膜は、いつの間にか薄れて消えかけている。

 けれど、その名残が、まだ空気の中に微かに残っていた。


(“普通の人間”の魔法では、ないのでしょうね)


 精霊王が、「お前だけは例外だ」と言った声が、再び耳の奥で響いた。


 例外。

 その言葉は、甘い。危うい。


 けれど――今だけは、その甘さにすがっても許される気がした。


「よく、耐えてくださいました」


 私は、前衛の兵たちに歩み寄る。


 盾に走ったひび、鎧についた爪痕。

 それらを一つ一つ目で追いながら、彼らの顔をしっかり見る。


 恐怖と、安堵と、まだ消えきらない興奮。

 そして、その奥に――私を見る目に、うっすらとした畏怖が混じっているのがわかった。


 まるで、「人間」と「それ以外」の境界線を探るような視線。


「大丈夫です」


 私は、できるだけ穏やかに微笑んだ。


「これは、皆さまが日頃から鍛えてくださっていたおかげですわ。

 私の魔法だけでは、とても持ちこたえられませんでした」


「い、いえ……そんな」


 兵士の一人が、戸惑うように視線を逸らす。


 その様子に、少しだけ胸が痛んだ。


(……怖がられているのでしょうね、きっと)


 “優しい”だけではないと、もう皆、気づき始めている。


 誰も死なせない――という、少し身勝手な誓い。

 そのためなら、どこまでも力を求めてしまいそうな自分がいる。


(その危うさも含めて、見ておいていただきたいのですけれど)


 心の中だけで、そう呟く。


「負傷している方は、先に馬まで戻ってください。

 私もあとで簡単な治療をしますから」


 そう指示を出したところで、ふと気が抜けた。


 足元の土が、妙に柔らかく感じる。


「リヴィア様?」


 レオン様が振り返った瞬間、私は近くの木に手をついた。


「……すみません。少しだけ、立っているふりをさせてください」


 太ももが、笑っている。

 さっきまで踏ん張っていたせいで、筋肉が抗議しているのだろう。


 緊張が解けた途端にこれなのだから、本当に我ながら情けない。


「無茶をなさる」


 レオン様は小さく溜息をつきながらも、さりげなく私の隣に立ってくれた。


「だいぶ魔力をお使いになったでしょう。顔色が少し、悪い」


「そうでしょうか?」


 自分の頬に触れてみると、確かに少し冷たい。


 そのとき――ふと、視界の端で何かが揺れた。


「……?」


「どうかされましたか?」


「いえ、その……」


 レオン様が視線で促すので、仕方なく口にする。


「森の枝が、私の髪を気に入ったようでして」


 頭の横から、ぴょこんと緑の葉が飛び出していた。


 戦闘の最中に枝に引っかかったらしい。


「……」


 一瞬の沈黙のあと、レオン様が小さく笑った。


「戦場で葉飾りを流行らせるおつもりですか」


「違いますわ! そんなつもりは一切ありません!」


 慌てて葉っぱを引き抜き、両手で握りつぶしそうになって、慌てて力を緩める。


(いけません。森の枝を八つ当たりで折るなんて、行儀が悪い)


 手の中の葉っぱをそっと開くと、少しだけ欠けただけで、まだ元気そうだった。


「……ええと。ごめんなさいね」


 小声で謝りながら、地面にそっと置く。


 そんな私の様子を見ていた兵の一人が、ぽつりと呟いた。


「……誰も死んでない……」


 その声は、森の静寂の中で、やけに大きく響いた。


「俺たちも、怪我は浅い。魔物相手に、この程度で済むなんて……」


「これが、本物の……」


 言葉の続きを、彼は飲み込んだ。


 本物の、何なのか。


 騎士団の戦いなのか、領主の力なのか――それとも。


「今日は、私のわがままに付き合わせてしまいましたね」


 帰り道、馬に乗り直しながら、私はぽつりと言った。


 森の緊張は、少しずつ薄れている。

 鳥のさえずりが、遠慮がちに戻ってきつつあった。


「私が『前に出る』と言わなければ、あなた方は、もっと安全な距離からでも戦えたかもしれません」


「いえ」


 レオン様は首を振る。


「生きて帰ることほど、ありがたいわがままはありません」


 その言葉に、胸が温かくなった。


 けれど同時に、その温かさが、少し怖くもある。


(この人のためなら命を張れる、と思わせてしまうのは――危険ですわ)


 レオン様だけではない。

 今日の戦いを共にした兵たちの中にも、そんなふうに思い始めている人がいるのかもしれない。


 誰かのために命を張ることを、当たり前のように選んでしまう人たち。

 その覚悟に甘えないようにするのが、私の仕事だ。


「……では、せめて」


 私は、空を見上げた。


 木々の隙間から覗く空は、思ったよりも明るかった。


「次は、誰も怪我をしないように、わがままのハードルを上げてもよろしいでしょうか」


「それは、さすがに高望みでは」


「でしょうね」


 自分でも苦笑してしまう。


「でも――試してみたいのです。

 誰かの死を“必要な犠牲”と呼ぶ前に、どれだけ足掻けるのか」


 馬の歩みはゆっくりだ。

 森の出口までは、まだ少し距離がある。


 その間に、私は自分の震えかけた指先を、そっと握りしめ直した。


 誰も死なせなかった初陣。

 それは、きっと奇跡ではない。

 けれど――私にとっては、確かに、大切な始まりだった。


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