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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
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森にひそむ影と、“前に出る”という選択

 森で商隊が襲われかけた――その報せは、朝の帳簿仕事をようやくひと区切りつけた頃、駆け込んできた兵の息で運ばれてきた。


「リ、リヴィア様!」


 扉が強く叩かれる前に、私は「どうぞ」と声をかけた。乱暴な音は、できるだけ避けさせたい。


 飛び込んできたのは、まだ若い兵士だった。額には汗がにじみ、息は荒い。

 ただの狼騒ぎ、という程度ではないのだと、それだけで察せられる。


「そんなに急いで階段を駆け上がるから、転びますわよ」と軽く冗談を飛ばしかけて――やめた。


「落ち着いて。順番に報告してください」


「は、はい……っ」


 彼は胸に手を当て、二度、三度深呼吸してから、言葉を絞り出した。


「領内北側の森の道で、商隊が襲われました。荷馬車が一台横転し、護衛が数名負傷。生き残りの商人が、先ほど城に転がり込んできまして……」


「襲ったのは?」


「そこが……魔物か、盗賊か、はっきりしないとのことです。黒い影が飛びかかってきて、牙のようなものが光ったと……」


 黒い影。牙。


 ただの盗賊ではない可能性が高い。

 けれど、人の悪意と獣のそれは、しばしば入り混じる。


「わかりました。まず、負傷者の手当てを最優先に。すぐに軍議を開きます。レオン様と、詰所の隊長格を全員、執務室に」


「はっ!」


 若い兵は敬礼し、また全速力で走り去っていった。


 私は、机の上に広げていた帳簿をそっと閉じる。


(これもまた、“数字の向こう側”で起きていること)


 紙の上での予算や兵の配置は、こういうときにこそ、その真価を問われる。


 椅子から立ち上がり、私は執務室の窓から一瞬だけ外を見やった。


 城の外壁の向こう、遠くに見える森の縁が、灰色の雲の下で静かに揺れている。


 そこに、今まさに血を流している人がいるのだと思うと、胸の奥がざわりとした。



 簡易な軍議の場に集まったのは、レオン様をはじめ、数名の隊長格と、書記役の若者だった。


 地図の上に、報告があった地点を印で示す。


「ここが、襲撃の現場付近です。森に入って間もなくの、道が少し狭まるあたりだそうです」


「ちょうど見通しが悪くなる場所だな」


 レオン様が地図に目を落とし、低く言った。


「魔物の巣か、盗賊のアジトか、どちらにとっても都合の良い場所ではあります」


 別の隊長が鼻を鳴らす。


「どちらにしても、放っておけませんわ」


 私は椅子から身を乗り出した。


「商隊の護衛は何人?」


「報告では六名。そのうち二名負傷、一名が重傷とのことです」


「残りは?」


「……逃げるので精いっぱいだったようで。襲撃者の数も、正確には把握できておりません」


 つまり、こちらも手探りだ。


「偵察隊を出しましょう。森の様子を探らせ、その上で討伐隊を編成するべきかと」


 隊長の一人が進言する。


 もっともだ。普通なら、それで終わりだろう。


「ええ。偵察は必要ですね」


 私は頷いた。


「ただし――」


 そこで一度、言葉を切った。


 レオン様の視線が、静かにこちらに向けられる。


「私は、その後ろからでも構いませんから、現場に向かいます」


 室内の空気が、ぴしりと張り詰めた。


「リヴィア様」


 先に口を開いたのは、案の定レオン様だった。


「危険です。相手が魔物であれ盗賊であれ、まだ何者かもわからない状況で、あなたが前線に出るなど――」


「前線に“立つ”とは言っておりませんわ。あくまで、“近くまで行く”だけです」


 私は微笑みながら言い換える。


「偵察と討伐は、あなた方にお任せします。ただ、その場で何が起きているのか、この目で見たいのです」


 他の隊長たちも口々に反対の声を上げた。


「せめて城にお残りくだされ。商隊の安全は我らの仕事で……」


「森の魔物や盗賊退治は、騎士の役目にございます。領主様は、城で我らの帰りをお待ちいただければ」


「“待っているだけ”の領主が多かったから、今の有様なのではありませんか?」


 自分の声が、思っていたよりも冷静に響いているのを自覚する。


「申し訳ありません。今のは少し、刺がありましたね」


 私は息を整えながら続けた。


「けれど――民を危険に晒しておいて、城に籠もるつもりはないのです」


 レオン様が、眉を僅かに寄せる。


「あなたは、この領の……最後の盾です」


「盾が、最初から城に閉じこもっていては、誰も守れません」


 言葉が、自然と口をついて出た。


「……怖くないわけが、ありませんのよ」


 私は、自分の膝の上で組んでいた手を、そっと開いて見せた。


 指先が、わずかに震えていた。


 それを隠さずに晒すのは、少しだけ勇気がいった。


「森に魔物が潜んでいるのだとしたら、怖いに決まっています。

 盗賊だとしても、刃物を向けられるのは、できれば御免です」


 隊長たちが、戸惑いの表情を見せる。


 領主が、こんなふうに自分の恐怖を言葉にする場面など、今まで見たことがなかったのだろう。


「けれど、“怖いから行かない”と口にした瞬間、きっと私は、この席に座る資格を失います」


 私は静かに言った。


「森の道を通るのは、商人や旅人たちです。彼らには選択肢がありません。

 この道を通らなければ、仕事も、家族のもとにも戻れない」


 森の中で倒れているかもしれない誰かの姿が、ぼんやりと脳裏に浮かぶ。


 血だまり。折れた車輪。泣いている子ども。

 それらは、どれもまだ、想像に過ぎない。だが――想像できる以上、現実にも起こりうる。


「守るべきものの後ろに隠れている領主には、なりたくないのです」


 レオン様と、まっすぐに目を合わせた。


 彼はしばらく黙っていた。

 室内を流れる時間が、ひどく長く感じられる。


 やがて、彼は低く息を吐いた。


「……わかりました」


 諦めた、ではなく、受け入れた、という声音だった。


「では、私が必ずお守りします。

 リヴィア様が森に入るなら、その一歩先には、必ず私が立ちます」


「ありがとうございます」


 私は、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


「ただし、条件がひとつあります」


「条件?」


「いざというときは、迷わず私の後ろに下がってください」


 彼の目が、真剣そのものだった。


「あなたに何かあれば、この領地の希望は、あっけなく潰えます。

 私の命など比べものにならないほどの重さです」


「そんなことはありませんわ」


 思わず即座に否定する。


「あなたがいなければ、私がどれほど“前に出たい”と望んでも、一歩も動けません。

 その意味では、レオン様の命も、この領地にとっては同じだけ大事です」


「買いかぶりすぎです」


「いいえ、必要な評価です」


 睨み合うように言葉を交わし――先に折れたのは、私のほうだった。


「……わかりました。

 いざというときは、きちんと後ろに下がります」


 ほんの一拍置いて、付け加える。


「そのときは、あなたの背中ごと押しますけれど」


 室内に、くすり、と笑いが漏れた。


 レオン様も、ほんのわずかに口元を緩める。


「それは、前に出るときにしていただきたい」


「前にも後ろにも、押すことになりそうですわね」


 少しだけ和らいだ空気の中で、軍議は具体的な段取りの話へと移っていった。



 森へ向かう道は、思ったよりも近くて、思ったよりも遠かった。


 馬上から見下ろす景色は、城の高みから眺めるそれとはまるで違う。

 湿った土の匂い。草むらに潜む小さな虫のざわめき。遠くで鳴く鳥の声。


 手綱を持つ手に、力が入りすぎているのを自覚する。


(……ごめんなさい)


 心の中で、馬に謝った。


「前に乗ったときは、舞踏会の“乗馬ごっこ”でしたものね」


 馬車に装飾された偽物の鞍。綺麗なドレスと、作り物の笑顔。

 あれは、馬に乗っていたというより、「乗っているふり」をしていただけだ。


 今、私の足は本物の鐙にかかり、手は生きた馬の体温を感じる革の手綱を握っている。


「速度は、少し落としましょうか」


 隣を走るレオン様の声が、風に紛れて届いた。


「いえ、大丈夫です」


 即答したものの、事実、馬の歩みはゆっくりだった。


 森に近づくほど、木々の影は濃くなり、空の色は狭まっていく。

 遠くで雷鳴がしたような気がして、思わず空を見上げたが、雲はまだそこまで厚くない。


 ただ、風の匂いが変わった。


 湿った土と、少しの腐葉土の匂い。

 その奥に、鉄のような、乾いた何かの匂いが、微かに混じる。


(……嫌な匂い)


 血、とまでは言わない。

 けれど、何かが「壊れた」あとの空気に近い。


 私は無意識に背筋を伸ばした。


 手綱を持つ右手の指先が、また震え出す。


 震えが止まるのを待っていては、一生動けない――さっき、自分でそう言ったばかりだ。


(なら、震えたまま進めばいい)


 私は、手綱を握る指に力を込めた。


 森の入り口が、目前に迫る。

 木々が幾重にも重なり合い、昼だというのに薄暗い。


 後方では、数名の兵が距離を取りつつついてきている。

 先行した偵察隊は、すでに森の中――何事もなければいいが。


「……リヴィア様」


 レオン様が、さりげなく馬を寄せてきた。


「いざとなれば、ためらわずに私の後ろに下がってください」


「さっきも聞きましたわ」


 私は、少し唇を尖らせる。


「前に出るのは、あなたの仕事でしょう? 私は、あなたの背中を押す役目です」


「押されて倒れては、元も子もないのですが」


「そのときは、一緒に転びますわ」


 自分でも何を言っているのかと思うが、口に出してしまったものは仕方がない。


 レオン様は、一瞬だけ目を瞬かせ――ふっと喉の奥で笑った。


「それは困りますね」


「でしょう?」


「……では、転ばないように、しっかり立っていてください」


 そう言って、彼は前を向いた。


 私は、彼の背中を見つめる。


 広い背中。

 鎧越しでもわかる、しなやかな筋肉の線。

 あの背中の向こう側に、森の影と、まだ姿の見えない敵がいる。


(前に出る、と決めたのは私)


 それでも一人では、きっとここまで来られなかった。


 恐怖は消えていない。

 むしろ、森の影が迫るほどに、濃くなっている。


 けれど、その恐怖は、もう私を止める理由にはならなかった。


「私の役目は、城の中で綺麗に座っていることではなく――」


 誰にともなく呟く。


「この土地で起きている“痛み”の近くまで行くことですわ」


 馬の蹄が、湿った土を踏みしめる音が、森の入り口で少し重たく響いた。


 木々の影の中へ、一歩、また一歩。


 私は震える指先を握りしめたまま、それでも、前へと進んだ。


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