森にひそむ影と、“前に出る”という選択
森で商隊が襲われかけた――その報せは、朝の帳簿仕事をようやくひと区切りつけた頃、駆け込んできた兵の息で運ばれてきた。
「リ、リヴィア様!」
扉が強く叩かれる前に、私は「どうぞ」と声をかけた。乱暴な音は、できるだけ避けさせたい。
飛び込んできたのは、まだ若い兵士だった。額には汗がにじみ、息は荒い。
ただの狼騒ぎ、という程度ではないのだと、それだけで察せられる。
「そんなに急いで階段を駆け上がるから、転びますわよ」と軽く冗談を飛ばしかけて――やめた。
「落ち着いて。順番に報告してください」
「は、はい……っ」
彼は胸に手を当て、二度、三度深呼吸してから、言葉を絞り出した。
「領内北側の森の道で、商隊が襲われました。荷馬車が一台横転し、護衛が数名負傷。生き残りの商人が、先ほど城に転がり込んできまして……」
「襲ったのは?」
「そこが……魔物か、盗賊か、はっきりしないとのことです。黒い影が飛びかかってきて、牙のようなものが光ったと……」
黒い影。牙。
ただの盗賊ではない可能性が高い。
けれど、人の悪意と獣のそれは、しばしば入り混じる。
「わかりました。まず、負傷者の手当てを最優先に。すぐに軍議を開きます。レオン様と、詰所の隊長格を全員、執務室に」
「はっ!」
若い兵は敬礼し、また全速力で走り去っていった。
私は、机の上に広げていた帳簿をそっと閉じる。
(これもまた、“数字の向こう側”で起きていること)
紙の上での予算や兵の配置は、こういうときにこそ、その真価を問われる。
椅子から立ち上がり、私は執務室の窓から一瞬だけ外を見やった。
城の外壁の向こう、遠くに見える森の縁が、灰色の雲の下で静かに揺れている。
そこに、今まさに血を流している人がいるのだと思うと、胸の奥がざわりとした。
◇
簡易な軍議の場に集まったのは、レオン様をはじめ、数名の隊長格と、書記役の若者だった。
地図の上に、報告があった地点を印で示す。
「ここが、襲撃の現場付近です。森に入って間もなくの、道が少し狭まるあたりだそうです」
「ちょうど見通しが悪くなる場所だな」
レオン様が地図に目を落とし、低く言った。
「魔物の巣か、盗賊のアジトか、どちらにとっても都合の良い場所ではあります」
別の隊長が鼻を鳴らす。
「どちらにしても、放っておけませんわ」
私は椅子から身を乗り出した。
「商隊の護衛は何人?」
「報告では六名。そのうち二名負傷、一名が重傷とのことです」
「残りは?」
「……逃げるので精いっぱいだったようで。襲撃者の数も、正確には把握できておりません」
つまり、こちらも手探りだ。
「偵察隊を出しましょう。森の様子を探らせ、その上で討伐隊を編成するべきかと」
隊長の一人が進言する。
もっともだ。普通なら、それで終わりだろう。
「ええ。偵察は必要ですね」
私は頷いた。
「ただし――」
そこで一度、言葉を切った。
レオン様の視線が、静かにこちらに向けられる。
「私は、その後ろからでも構いませんから、現場に向かいます」
室内の空気が、ぴしりと張り詰めた。
「リヴィア様」
先に口を開いたのは、案の定レオン様だった。
「危険です。相手が魔物であれ盗賊であれ、まだ何者かもわからない状況で、あなたが前線に出るなど――」
「前線に“立つ”とは言っておりませんわ。あくまで、“近くまで行く”だけです」
私は微笑みながら言い換える。
「偵察と討伐は、あなた方にお任せします。ただ、その場で何が起きているのか、この目で見たいのです」
他の隊長たちも口々に反対の声を上げた。
「せめて城にお残りくだされ。商隊の安全は我らの仕事で……」
「森の魔物や盗賊退治は、騎士の役目にございます。領主様は、城で我らの帰りをお待ちいただければ」
「“待っているだけ”の領主が多かったから、今の有様なのではありませんか?」
自分の声が、思っていたよりも冷静に響いているのを自覚する。
「申し訳ありません。今のは少し、刺がありましたね」
私は息を整えながら続けた。
「けれど――民を危険に晒しておいて、城に籠もるつもりはないのです」
レオン様が、眉を僅かに寄せる。
「あなたは、この領の……最後の盾です」
「盾が、最初から城に閉じこもっていては、誰も守れません」
言葉が、自然と口をついて出た。
「……怖くないわけが、ありませんのよ」
私は、自分の膝の上で組んでいた手を、そっと開いて見せた。
指先が、わずかに震えていた。
それを隠さずに晒すのは、少しだけ勇気がいった。
「森に魔物が潜んでいるのだとしたら、怖いに決まっています。
盗賊だとしても、刃物を向けられるのは、できれば御免です」
隊長たちが、戸惑いの表情を見せる。
領主が、こんなふうに自分の恐怖を言葉にする場面など、今まで見たことがなかったのだろう。
「けれど、“怖いから行かない”と口にした瞬間、きっと私は、この席に座る資格を失います」
私は静かに言った。
「森の道を通るのは、商人や旅人たちです。彼らには選択肢がありません。
この道を通らなければ、仕事も、家族のもとにも戻れない」
森の中で倒れているかもしれない誰かの姿が、ぼんやりと脳裏に浮かぶ。
血だまり。折れた車輪。泣いている子ども。
それらは、どれもまだ、想像に過ぎない。だが――想像できる以上、現実にも起こりうる。
「守るべきものの後ろに隠れている領主には、なりたくないのです」
レオン様と、まっすぐに目を合わせた。
彼はしばらく黙っていた。
室内を流れる時間が、ひどく長く感じられる。
やがて、彼は低く息を吐いた。
「……わかりました」
諦めた、ではなく、受け入れた、という声音だった。
「では、私が必ずお守りします。
リヴィア様が森に入るなら、その一歩先には、必ず私が立ちます」
「ありがとうございます」
私は、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「ただし、条件がひとつあります」
「条件?」
「いざというときは、迷わず私の後ろに下がってください」
彼の目が、真剣そのものだった。
「あなたに何かあれば、この領地の希望は、あっけなく潰えます。
私の命など比べものにならないほどの重さです」
「そんなことはありませんわ」
思わず即座に否定する。
「あなたがいなければ、私がどれほど“前に出たい”と望んでも、一歩も動けません。
その意味では、レオン様の命も、この領地にとっては同じだけ大事です」
「買いかぶりすぎです」
「いいえ、必要な評価です」
睨み合うように言葉を交わし――先に折れたのは、私のほうだった。
「……わかりました。
いざというときは、きちんと後ろに下がります」
ほんの一拍置いて、付け加える。
「そのときは、あなたの背中ごと押しますけれど」
室内に、くすり、と笑いが漏れた。
レオン様も、ほんのわずかに口元を緩める。
「それは、前に出るときにしていただきたい」
「前にも後ろにも、押すことになりそうですわね」
少しだけ和らいだ空気の中で、軍議は具体的な段取りの話へと移っていった。
◇
森へ向かう道は、思ったよりも近くて、思ったよりも遠かった。
馬上から見下ろす景色は、城の高みから眺めるそれとはまるで違う。
湿った土の匂い。草むらに潜む小さな虫のざわめき。遠くで鳴く鳥の声。
手綱を持つ手に、力が入りすぎているのを自覚する。
(……ごめんなさい)
心の中で、馬に謝った。
「前に乗ったときは、舞踏会の“乗馬ごっこ”でしたものね」
馬車に装飾された偽物の鞍。綺麗なドレスと、作り物の笑顔。
あれは、馬に乗っていたというより、「乗っているふり」をしていただけだ。
今、私の足は本物の鐙にかかり、手は生きた馬の体温を感じる革の手綱を握っている。
「速度は、少し落としましょうか」
隣を走るレオン様の声が、風に紛れて届いた。
「いえ、大丈夫です」
即答したものの、事実、馬の歩みはゆっくりだった。
森に近づくほど、木々の影は濃くなり、空の色は狭まっていく。
遠くで雷鳴がしたような気がして、思わず空を見上げたが、雲はまだそこまで厚くない。
ただ、風の匂いが変わった。
湿った土と、少しの腐葉土の匂い。
その奥に、鉄のような、乾いた何かの匂いが、微かに混じる。
(……嫌な匂い)
血、とまでは言わない。
けれど、何かが「壊れた」あとの空気に近い。
私は無意識に背筋を伸ばした。
手綱を持つ右手の指先が、また震え出す。
震えが止まるのを待っていては、一生動けない――さっき、自分でそう言ったばかりだ。
(なら、震えたまま進めばいい)
私は、手綱を握る指に力を込めた。
森の入り口が、目前に迫る。
木々が幾重にも重なり合い、昼だというのに薄暗い。
後方では、数名の兵が距離を取りつつついてきている。
先行した偵察隊は、すでに森の中――何事もなければいいが。
「……リヴィア様」
レオン様が、さりげなく馬を寄せてきた。
「いざとなれば、ためらわずに私の後ろに下がってください」
「さっきも聞きましたわ」
私は、少し唇を尖らせる。
「前に出るのは、あなたの仕事でしょう? 私は、あなたの背中を押す役目です」
「押されて倒れては、元も子もないのですが」
「そのときは、一緒に転びますわ」
自分でも何を言っているのかと思うが、口に出してしまったものは仕方がない。
レオン様は、一瞬だけ目を瞬かせ――ふっと喉の奥で笑った。
「それは困りますね」
「でしょう?」
「……では、転ばないように、しっかり立っていてください」
そう言って、彼は前を向いた。
私は、彼の背中を見つめる。
広い背中。
鎧越しでもわかる、しなやかな筋肉の線。
あの背中の向こう側に、森の影と、まだ姿の見えない敵がいる。
(前に出る、と決めたのは私)
それでも一人では、きっとここまで来られなかった。
恐怖は消えていない。
むしろ、森の影が迫るほどに、濃くなっている。
けれど、その恐怖は、もう私を止める理由にはならなかった。
「私の役目は、城の中で綺麗に座っていることではなく――」
誰にともなく呟く。
「この土地で起きている“痛み”の近くまで行くことですわ」
馬の蹄が、湿った土を踏みしめる音が、森の入り口で少し重たく響いた。
木々の影の中へ、一歩、また一歩。
私は震える指先を握りしめたまま、それでも、前へと進んだ。




