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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
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子どもたちの食卓と、減っていく私の皿

 孤児たちの集まりがあると聞いたのは、代官の身柄を拘束してから、そう日も経たない頃だった。


「村外れに、元は納屋だった建物がございましてな。親を亡くした子らや、置いていかれた子らを、村の者が持ち回りで世話をしておるのです」


 案内役の男が、ばつが悪そうに頭を掻く。


「十分とは、とても言えませんが……ないよりは、という程度で」


「それでも、あるだけ良いほうなのでしょうね」


 私は、彼の歩調に合わせながら小さく息をついた。


 城の倉庫は、相変わらず中身が心許ない。

 横領を止めたからといって、明日から急に蓄えが増えるわけではない。

 それでも、ほんの少しだけ余裕ができた穀物や、兵たちの携行食の一部をやりくりして、今日のためのパンとスープを用意した。


(足りると良いのだけれど)


 そんな淡い願いが、胸の奥で小さくきしむ。



 村外れの、小さな丘をひとつ越えたところに、その建物はあった。


 かつては家畜でも入れていただろう木造の納屋。

 壁板の隙間からは風が入り、屋根の一部は布切れで補修されている。


 それでも、入口の前には、子どもたちの小さな靴が並べてあり、窓辺には誰かが拾ってきたのだろう野の花が、錆びた缶に活けてあった。


「ここが、子どもたちの寝床です」


 案内役が、申し訳なさそうに頭を下げた。


 扉を開けると、むわり、とした空気と、乾いた藁の匂いが鼻をついた。


 薄い布を敷いただけの寝床が、床いっぱいに並んでいる。

 隅のほうには、欠けた茶碗と、磨り減った木匙が、人数分もないまま積み重なっていた。


 それでも、そこは確かに「誰かの暮らしている場所」だった。


 小さな手でつぎはぎされた布切れ。

 壁にこすりつけられた、子どもの背丈を記録する線。

 「ここにいる」と、確かに主張している痕跡が、あちこちに刻まれている。


(これが、この子たちの世界の全部)


 そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。


「リヴィア様……」


 背後から、レオン様が慎重な声で呼びかけてくる。


「はい、大丈夫ですわ」


 私は、微笑もうと努力した。


「少し、胸が痛くなっただけです」



 やがて、子どもたちが集められてきた。


 年長の子は十歳くらい、幼い子はまだ歩き始めたばかりだろうか。

 薄い服の裾を握りしめながら、こちらを警戒する目と、期待する目が入り混じった視線で見上げてくる。


「今日は、少しだけですが、パンとスープを持ってきました」


 私はしゃがみこみ、できるだけ目線を合わせるようにした。


「お腹が空いている子は……」


 言い終わる前に、子どもたちの腹から、お揃いのようにぐうと音が鳴った。


 部屋の空気が、一瞬だけ固まって、それからぱらぱらと笑いが漏れる。


 私も、つられて笑った。


「ええと……どうやら、全員、ですね」


 自分の声が、思っていたよりも柔らかく響いたことに、少しだけ安心する。


 私は兵たちに目配せし、持ってきた鍋と籠を運び込んでもらった。


 鍋の中身は、野菜と豆と少しの干し肉を煮込んだ、ささやかなスープ。

 籠の中には、城の厨房で焼いた粗いパンが詰められている。


「わあ……」


 子どもたちの目が、きらりと光った。


 その光が嬉しい反面、私はすぐに現実に引き戻される。


(人数に対して、この量……)


 数は、ぎりぎりか、少し足りないくらいだ。


 どう配ったところで、一人一人の皿に盛られる量は、決して多くない。


「順番に、ね」


 世話役らしき年配の女性が、慣れた手つきで子どもたちを並ばせはじめる。


「小さい子からだよ。押さない、走らない」


 兵の一人が、子どもたちの列を整えるのを手伝う。

 レオン様は、鍋を安定させるために背後で支えてくれている。


 私は柄杓を手に取り、一人一人の皿にスープをよそい始めた。


 薄い木の皿に、熱い湯気。

 浮かぶのは、小さな野菜片と豆と、ほんの少しの肉。


(足りない)


 よそうたびに、それがはっきりと突きつけられる。


 それでも、目の前の子がスープを受け取るたびに、顔を輝かせて「ありがとう」と言うので、途中で手を止めるわけにはいかなかった。


「はい、次の方。火傷しないように気をつけてくださいね」


 ひとつ、またひとつ。


 パンも、一枚を二つ、三つに分けながら、できるだけ公平になるように配る。


 けれど、やはり――鍋の底が見えてくるのは、あまりにも早かった。


「……あ」


 柄杓を鍋に入れたとき、金属が底を打つ鈍い音がした。


 鍋の中に残っているのは、ほんの少しばかりのスープと、沈んだ豆が数粒。


 目の前には、まだ空の皿を持った子どもたちが数人。


 そして、端のほうには、「あとで」と用意していた私自身の皿が一つ。


 迷う時間は、あまりなかった。


「少し、お待ちくださいね」


 私は自分の皿を手に取り、まだ何も入っていないそれを、列の先頭に差し出した。


「リヴィア様?」


 レオン様の声が、背中から聞こえる。


「大丈夫ですわ。私はあとでいただきますから」


 空の皿をじっと見つめていた男の子が、慌てて首を振った。


「で、でも……お姉ちゃんの分が……」


「お姉ちゃん、ですか」


 ふ、と口元が緩む。


 王都では、誰かにそう呼ばれたことなど一度もなかった。


「お姉ちゃんは、ちょっとだけ大人ですからね。

 少しくらい食べるのが遅くなっても、倒れたりはしませんわ」


 それに――と言いながら、私は彼の皿に、鍋の底から掻き集めたスープを注いだ。


「あなたが元気に育ってくれないと、私がここに来た意味がなくなってしまいますもの」


 男の子の喉が、ごくりと鳴る。


 それでも、彼はなおも迷っているように皿を見つめていた。


「……いいの?」


「ええ。いいのです」


 私は頷いた。


「あとは、少しだけお願いをしてみましょうか」


 振り返ると、兵士たちがそれぞれに持っていた椀には、まだ少しずつスープが残っていた。


 本来なら、彼らもまた、決して余裕のある食生活をしているわけではない。

 道中の野営での食事は、いつだって量が限られている。


 それを分かったうえで、私は口を開いた。


「皆様。よろしければ、その……少しだけ、分けていただけませんか」


 兵士たちが、一斉に目を見開く。


 私は、きちんと頭を下げた。


「強制ではありません。

 ただ、もし“今日だけなら”とお考えいただけるのなら、ありがたいのですけれど」


 一瞬、静寂。


 次の瞬間、がさり、と音がした。


「しゃあねえなあ」


 最初に動いたのは、いつも冗談を飛ばして場を和ませてくれる若い兵だった。


「俺の分、半分やるよ。どうせ、晩にはまた固い干し肉が出るんだろうしな」


 彼は自分の椀を傾け、木の皿にスープを移す。


「おい、半分とは言わずに三分の二はやれ」


「お前こそ、さっきから腹の音がうるさいくせに」


 冗談を言い合いながらも、兵たちは次々に自分のスープを少しずつ分け始めた。


「リヴィア様、あんたに頭下げられたら、断れるわけねえだろうが」


 年配の兵が、苦笑混じりにぼやく。


「俺たちより、あの子らのほうが、ずっと長く腹を空かせてきたんだ。今日くらい、腹六分目でも生きていけるさ」


 私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、一人一人に「ありがとうございます」と頭を下げて回った。



 やがて、すべての皿に、どうにかこうにかスープとパンが行き渡った。


 子どもたちは、最初こそ遠慮がちに匙を動かしていたが、次第に夢中になって食べ始める。


 スープを一口飲んで、目を丸くする子。

 パンの匂いを確かめてから、大きくかぶりつく子。


 その様子を見ているだけで、お腹の底から温かいものが湧いてくる。


(……ああ)


 それと同時に、別の種類の感覚が、胃のあたりをきゅうと掴んだ。


 空腹、というやつである。


 そういえば、今日は朝からほとんど何も口にしていなかった。


 でも、この程度――。


 そのとき。


 ぐううううう、と、なんとも間の悪い音が、部屋に響いた。


 部屋の梁か何かが軋んだのだと、最初は思った。

 思いたかった。


 しかし、すぐそばにいた女の子が、じっと私の腹部を見つめていることに気づき、現実を理解した。


「……今のは、木の軋む音ですわ」


 私は、わりと真顔で言った。


「お姉ちゃん、おなかすいてるんでしょ」


 即座に否定された。


 子どもというものは、実に容赦がない。


「い、いえ、その……」


「だってさっきから、ずっと鳴ってるもん」


 別の子まで参戦してくる。


「鳴ってませんわ。ただ、ほんの少し、物思いに耽っていただけで」


「お腹の音で物思いする人、はじめて見た」


 子どもたちの笑い声が、どっと広がる。


 恥ずかしさで耳まで熱くなりながらも、私はどうにか笑って見せた。


「……ええ、そうですね。少しだけ、すいております」


「じゃあ、これあげる」


 さっきの女の子が、自分のパンをちぎって差し出した。


 それは、彼女にとって、きっと貴重な一口分だ。


 私は慌てて首を振った。


「ありがとうございます。でも、それはあなたの分ですわ」


「でも……」


「さっきも申し上げましたけれど。

 あなたが今日、お腹いっぱい眠れるなら、そのぶん私は、明日の朝、少し控えめにいただくだけです」


 女の子の手をそっと押し戻す。


「それに、こうやって笑ってくれている時点で、もう充分にご馳走をいただいていますもの」


「ごちそう?」


「ええ。笑い声は、とても贅沢な音ですわよ」


 そう言うと、女の子は不思議そうな顔をして、それから照れたように笑い、自分のパンに齧りついた。


 その姿を見ていると、先ほどの空腹の痛みが、少しだけ和らぐ気がした。



 食事が終わると、子どもたちは順々に眠りにつき始めた。


 年長の子が年下の子に毛布をかけてやり、世話役の女性が、ひとりずつ額に触れて熱がないか確かめている。


 私は端のほうに腰を下ろし、その光景を静かに眺めていた。


 鍋は、きれいさっぱり空になっている。

 パンの籠も、底が見えていた。


(……足りない)


 やはり、その感想に行き着いてしまう。


 今日、この場はどうにかしのげた。

 でも、明日は? 明後日は? 冬が来たら?


 減っていく鍋と、増えていく子どもの呼吸の音を比べていると、胸の奥に、どうしようもない焦りが広がりかける。


 そのとき、肩に軽く何かが触れた。


「リヴィア様」


 顔を上げると、そこには兵の一人――先ほど「しゃあねえな」と言ってスープを分けてくれた青年が立っていた。


「さっきは、格好つけましたけどね」


 彼は苦笑した。


「あんた、自分の分まで惜しみなく出すのは、ほんとやめてくださいよ」


「そうですね……気をつけますわ」


 一応、口ではそう答える。


 けれど、内心では(それでも足りない)という声が、やはり小さく響いている。


「……まあ、俺たちも止める気はありませんけど」


 青年は、頭をかきながら続けた。


「あんたが自分の皿を差し出したから、俺たちも“しゃあねえな”って思えたんです。

 でも、ずっとそれを続けてたら、いつかあんた自身が倒れちまう」


 彼は、眠っている子どもたちをちらりと見やった。


「この子らのためにも、あんたには倒れてほしくねえんですよ。

 ……なんかもう、俺たちのほうが“守らなきゃ”って気分になってきますしね」


「そんなに頼りなく見えますかしら」


「頼りになりすぎるんです」


 きっぱりと言われて、私は思わず目を丸くした。


「自分を削ることを、当たり前みたいな顔でやる人は――」


 彼は、少しだけ言葉を探すように口ごもった。


「正直、尊敬するし、ついていきたいと思うけど……同時に、なんか怖いですよ」


 怖い。


 その言葉が、静かに胸に落ちた。


 私が何か言葉を探す前に、彼は「失礼しました」と頭を掻き、仲間のほうへ戻っていく。


(怖い、か)


 私は、掌を見つめた。


 この手で、パンを分け、スープをよそい、自分の皿を差し出した。

 帳簿をめくり、代官を断罪し、井戸に水を戻した。


 誰かのために、何かをすることが、いつのまにか自分を削る行為と重なっている。


(……たしかに、少し壊れているのかもしれませんわね、私は)


 自嘲気味にそう思う。


 自分のことなど後回しにしているほうが、楽なのだ。

 自分の分を削って誰かに与えていれば、「もっとできたかもしれない」という後悔が、少しだけ薄まる気がするから。


 でも、それではおそらく、長くはもたない。


 この領地という巨大な穴に、自分一人の身を投げ込んだところで、埋まるわけがない。


(だから――)


 私は、眠る子どもたちの列を見回した。


 小さな背中。

 細い腕。

 穏やかな寝息。


 空になった鍋と、安らかに眠る子どもたち。


 どちらも、今日の“成果”だ。


「あなたが今日、お腹いっぱい眠れるなら」


 先ほど自分で言った言葉を、そっと胸の中で繰り返す。


「そのぶん私は、この領地の前で、少しずつ痩せていくことになりそうですわね」


 鏡の前だけで痩せたいと願っていた、かつての自分を思い出して、小さく笑った。


 でも――それでもきっと、私はまた同じことをするだろう。


 自分の分を削り、この子たちの皿に少しでも多く盛ろうとする。

 その性分は、そう簡単には変えられそうにない。


(だからこそ)


 私は心の中で、城に残してきた書庫と帳簿を思い浮かべる。


 削るのは、私の皿だけであってはならない。


 横領も、無駄も、怠慢も。

 削るべきものが、まだまだ山ほどある。


「……私一人が痩せても、絵にもなりませんものね」


 小さく呟いて、立ち上がる。


 今夜は、この子たちは眠れている。

 空になった鍋は、明日もう一度満たさなくてはならない。


 そのために、するべきことは山ほどある。


 私は、静かに拳を握りしめた。


 空腹は、まだそこにいる。

 けれど、その痛みは、今は悪くない伴侶のように感じられた。


 この痛みを忘れない限り、私はきっと、歩き続けられる――そんな気がした。


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