子どもたちの食卓と、減っていく私の皿
孤児たちの集まりがあると聞いたのは、代官の身柄を拘束してから、そう日も経たない頃だった。
「村外れに、元は納屋だった建物がございましてな。親を亡くした子らや、置いていかれた子らを、村の者が持ち回りで世話をしておるのです」
案内役の男が、ばつが悪そうに頭を掻く。
「十分とは、とても言えませんが……ないよりは、という程度で」
「それでも、あるだけ良いほうなのでしょうね」
私は、彼の歩調に合わせながら小さく息をついた。
城の倉庫は、相変わらず中身が心許ない。
横領を止めたからといって、明日から急に蓄えが増えるわけではない。
それでも、ほんの少しだけ余裕ができた穀物や、兵たちの携行食の一部をやりくりして、今日のためのパンとスープを用意した。
(足りると良いのだけれど)
そんな淡い願いが、胸の奥で小さくきしむ。
◇
村外れの、小さな丘をひとつ越えたところに、その建物はあった。
かつては家畜でも入れていただろう木造の納屋。
壁板の隙間からは風が入り、屋根の一部は布切れで補修されている。
それでも、入口の前には、子どもたちの小さな靴が並べてあり、窓辺には誰かが拾ってきたのだろう野の花が、錆びた缶に活けてあった。
「ここが、子どもたちの寝床です」
案内役が、申し訳なさそうに頭を下げた。
扉を開けると、むわり、とした空気と、乾いた藁の匂いが鼻をついた。
薄い布を敷いただけの寝床が、床いっぱいに並んでいる。
隅のほうには、欠けた茶碗と、磨り減った木匙が、人数分もないまま積み重なっていた。
それでも、そこは確かに「誰かの暮らしている場所」だった。
小さな手でつぎはぎされた布切れ。
壁にこすりつけられた、子どもの背丈を記録する線。
「ここにいる」と、確かに主張している痕跡が、あちこちに刻まれている。
(これが、この子たちの世界の全部)
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「リヴィア様……」
背後から、レオン様が慎重な声で呼びかけてくる。
「はい、大丈夫ですわ」
私は、微笑もうと努力した。
「少し、胸が痛くなっただけです」
◇
やがて、子どもたちが集められてきた。
年長の子は十歳くらい、幼い子はまだ歩き始めたばかりだろうか。
薄い服の裾を握りしめながら、こちらを警戒する目と、期待する目が入り混じった視線で見上げてくる。
「今日は、少しだけですが、パンとスープを持ってきました」
私はしゃがみこみ、できるだけ目線を合わせるようにした。
「お腹が空いている子は……」
言い終わる前に、子どもたちの腹から、お揃いのようにぐうと音が鳴った。
部屋の空気が、一瞬だけ固まって、それからぱらぱらと笑いが漏れる。
私も、つられて笑った。
「ええと……どうやら、全員、ですね」
自分の声が、思っていたよりも柔らかく響いたことに、少しだけ安心する。
私は兵たちに目配せし、持ってきた鍋と籠を運び込んでもらった。
鍋の中身は、野菜と豆と少しの干し肉を煮込んだ、ささやかなスープ。
籠の中には、城の厨房で焼いた粗いパンが詰められている。
「わあ……」
子どもたちの目が、きらりと光った。
その光が嬉しい反面、私はすぐに現実に引き戻される。
(人数に対して、この量……)
数は、ぎりぎりか、少し足りないくらいだ。
どう配ったところで、一人一人の皿に盛られる量は、決して多くない。
「順番に、ね」
世話役らしき年配の女性が、慣れた手つきで子どもたちを並ばせはじめる。
「小さい子からだよ。押さない、走らない」
兵の一人が、子どもたちの列を整えるのを手伝う。
レオン様は、鍋を安定させるために背後で支えてくれている。
私は柄杓を手に取り、一人一人の皿にスープをよそい始めた。
薄い木の皿に、熱い湯気。
浮かぶのは、小さな野菜片と豆と、ほんの少しの肉。
(足りない)
よそうたびに、それがはっきりと突きつけられる。
それでも、目の前の子がスープを受け取るたびに、顔を輝かせて「ありがとう」と言うので、途中で手を止めるわけにはいかなかった。
「はい、次の方。火傷しないように気をつけてくださいね」
ひとつ、またひとつ。
パンも、一枚を二つ、三つに分けながら、できるだけ公平になるように配る。
けれど、やはり――鍋の底が見えてくるのは、あまりにも早かった。
「……あ」
柄杓を鍋に入れたとき、金属が底を打つ鈍い音がした。
鍋の中に残っているのは、ほんの少しばかりのスープと、沈んだ豆が数粒。
目の前には、まだ空の皿を持った子どもたちが数人。
そして、端のほうには、「あとで」と用意していた私自身の皿が一つ。
迷う時間は、あまりなかった。
「少し、お待ちくださいね」
私は自分の皿を手に取り、まだ何も入っていないそれを、列の先頭に差し出した。
「リヴィア様?」
レオン様の声が、背中から聞こえる。
「大丈夫ですわ。私はあとでいただきますから」
空の皿をじっと見つめていた男の子が、慌てて首を振った。
「で、でも……お姉ちゃんの分が……」
「お姉ちゃん、ですか」
ふ、と口元が緩む。
王都では、誰かにそう呼ばれたことなど一度もなかった。
「お姉ちゃんは、ちょっとだけ大人ですからね。
少しくらい食べるのが遅くなっても、倒れたりはしませんわ」
それに――と言いながら、私は彼の皿に、鍋の底から掻き集めたスープを注いだ。
「あなたが元気に育ってくれないと、私がここに来た意味がなくなってしまいますもの」
男の子の喉が、ごくりと鳴る。
それでも、彼はなおも迷っているように皿を見つめていた。
「……いいの?」
「ええ。いいのです」
私は頷いた。
「あとは、少しだけお願いをしてみましょうか」
振り返ると、兵士たちがそれぞれに持っていた椀には、まだ少しずつスープが残っていた。
本来なら、彼らもまた、決して余裕のある食生活をしているわけではない。
道中の野営での食事は、いつだって量が限られている。
それを分かったうえで、私は口を開いた。
「皆様。よろしければ、その……少しだけ、分けていただけませんか」
兵士たちが、一斉に目を見開く。
私は、きちんと頭を下げた。
「強制ではありません。
ただ、もし“今日だけなら”とお考えいただけるのなら、ありがたいのですけれど」
一瞬、静寂。
次の瞬間、がさり、と音がした。
「しゃあねえなあ」
最初に動いたのは、いつも冗談を飛ばして場を和ませてくれる若い兵だった。
「俺の分、半分やるよ。どうせ、晩にはまた固い干し肉が出るんだろうしな」
彼は自分の椀を傾け、木の皿にスープを移す。
「おい、半分とは言わずに三分の二はやれ」
「お前こそ、さっきから腹の音がうるさいくせに」
冗談を言い合いながらも、兵たちは次々に自分のスープを少しずつ分け始めた。
「リヴィア様、あんたに頭下げられたら、断れるわけねえだろうが」
年配の兵が、苦笑混じりにぼやく。
「俺たちより、あの子らのほうが、ずっと長く腹を空かせてきたんだ。今日くらい、腹六分目でも生きていけるさ」
私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、一人一人に「ありがとうございます」と頭を下げて回った。
◇
やがて、すべての皿に、どうにかこうにかスープとパンが行き渡った。
子どもたちは、最初こそ遠慮がちに匙を動かしていたが、次第に夢中になって食べ始める。
スープを一口飲んで、目を丸くする子。
パンの匂いを確かめてから、大きくかぶりつく子。
その様子を見ているだけで、お腹の底から温かいものが湧いてくる。
(……ああ)
それと同時に、別の種類の感覚が、胃のあたりをきゅうと掴んだ。
空腹、というやつである。
そういえば、今日は朝からほとんど何も口にしていなかった。
でも、この程度――。
そのとき。
ぐううううう、と、なんとも間の悪い音が、部屋に響いた。
部屋の梁か何かが軋んだのだと、最初は思った。
思いたかった。
しかし、すぐそばにいた女の子が、じっと私の腹部を見つめていることに気づき、現実を理解した。
「……今のは、木の軋む音ですわ」
私は、わりと真顔で言った。
「お姉ちゃん、おなかすいてるんでしょ」
即座に否定された。
子どもというものは、実に容赦がない。
「い、いえ、その……」
「だってさっきから、ずっと鳴ってるもん」
別の子まで参戦してくる。
「鳴ってませんわ。ただ、ほんの少し、物思いに耽っていただけで」
「お腹の音で物思いする人、はじめて見た」
子どもたちの笑い声が、どっと広がる。
恥ずかしさで耳まで熱くなりながらも、私はどうにか笑って見せた。
「……ええ、そうですね。少しだけ、すいております」
「じゃあ、これあげる」
さっきの女の子が、自分のパンをちぎって差し出した。
それは、彼女にとって、きっと貴重な一口分だ。
私は慌てて首を振った。
「ありがとうございます。でも、それはあなたの分ですわ」
「でも……」
「さっきも申し上げましたけれど。
あなたが今日、お腹いっぱい眠れるなら、そのぶん私は、明日の朝、少し控えめにいただくだけです」
女の子の手をそっと押し戻す。
「それに、こうやって笑ってくれている時点で、もう充分にご馳走をいただいていますもの」
「ごちそう?」
「ええ。笑い声は、とても贅沢な音ですわよ」
そう言うと、女の子は不思議そうな顔をして、それから照れたように笑い、自分のパンに齧りついた。
その姿を見ていると、先ほどの空腹の痛みが、少しだけ和らぐ気がした。
◇
食事が終わると、子どもたちは順々に眠りにつき始めた。
年長の子が年下の子に毛布をかけてやり、世話役の女性が、ひとりずつ額に触れて熱がないか確かめている。
私は端のほうに腰を下ろし、その光景を静かに眺めていた。
鍋は、きれいさっぱり空になっている。
パンの籠も、底が見えていた。
(……足りない)
やはり、その感想に行き着いてしまう。
今日、この場はどうにかしのげた。
でも、明日は? 明後日は? 冬が来たら?
減っていく鍋と、増えていく子どもの呼吸の音を比べていると、胸の奥に、どうしようもない焦りが広がりかける。
そのとき、肩に軽く何かが触れた。
「リヴィア様」
顔を上げると、そこには兵の一人――先ほど「しゃあねえな」と言ってスープを分けてくれた青年が立っていた。
「さっきは、格好つけましたけどね」
彼は苦笑した。
「あんた、自分の分まで惜しみなく出すのは、ほんとやめてくださいよ」
「そうですね……気をつけますわ」
一応、口ではそう答える。
けれど、内心では(それでも足りない)という声が、やはり小さく響いている。
「……まあ、俺たちも止める気はありませんけど」
青年は、頭をかきながら続けた。
「あんたが自分の皿を差し出したから、俺たちも“しゃあねえな”って思えたんです。
でも、ずっとそれを続けてたら、いつかあんた自身が倒れちまう」
彼は、眠っている子どもたちをちらりと見やった。
「この子らのためにも、あんたには倒れてほしくねえんですよ。
……なんかもう、俺たちのほうが“守らなきゃ”って気分になってきますしね」
「そんなに頼りなく見えますかしら」
「頼りになりすぎるんです」
きっぱりと言われて、私は思わず目を丸くした。
「自分を削ることを、当たり前みたいな顔でやる人は――」
彼は、少しだけ言葉を探すように口ごもった。
「正直、尊敬するし、ついていきたいと思うけど……同時に、なんか怖いですよ」
怖い。
その言葉が、静かに胸に落ちた。
私が何か言葉を探す前に、彼は「失礼しました」と頭を掻き、仲間のほうへ戻っていく。
(怖い、か)
私は、掌を見つめた。
この手で、パンを分け、スープをよそい、自分の皿を差し出した。
帳簿をめくり、代官を断罪し、井戸に水を戻した。
誰かのために、何かをすることが、いつのまにか自分を削る行為と重なっている。
(……たしかに、少し壊れているのかもしれませんわね、私は)
自嘲気味にそう思う。
自分のことなど後回しにしているほうが、楽なのだ。
自分の分を削って誰かに与えていれば、「もっとできたかもしれない」という後悔が、少しだけ薄まる気がするから。
でも、それではおそらく、長くはもたない。
この領地という巨大な穴に、自分一人の身を投げ込んだところで、埋まるわけがない。
(だから――)
私は、眠る子どもたちの列を見回した。
小さな背中。
細い腕。
穏やかな寝息。
空になった鍋と、安らかに眠る子どもたち。
どちらも、今日の“成果”だ。
「あなたが今日、お腹いっぱい眠れるなら」
先ほど自分で言った言葉を、そっと胸の中で繰り返す。
「そのぶん私は、この領地の前で、少しずつ痩せていくことになりそうですわね」
鏡の前だけで痩せたいと願っていた、かつての自分を思い出して、小さく笑った。
でも――それでもきっと、私はまた同じことをするだろう。
自分の分を削り、この子たちの皿に少しでも多く盛ろうとする。
その性分は、そう簡単には変えられそうにない。
(だからこそ)
私は心の中で、城に残してきた書庫と帳簿を思い浮かべる。
削るのは、私の皿だけであってはならない。
横領も、無駄も、怠慢も。
削るべきものが、まだまだ山ほどある。
「……私一人が痩せても、絵にもなりませんものね」
小さく呟いて、立ち上がる。
今夜は、この子たちは眠れている。
空になった鍋は、明日もう一度満たさなくてはならない。
そのために、するべきことは山ほどある。
私は、静かに拳を握りしめた。
空腹は、まだそこにいる。
けれど、その痛みは、今は悪くない伴侶のように感じられた。
この痛みを忘れない限り、私はきっと、歩き続けられる――そんな気がした。




