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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
16/82

腐った代官と、公爵令嬢の“宣告”

 代官を呼び出すと決めた朝、私はいつもより少しだけ硬い布地のドレスに袖を通した。


 派手すぎず、かといって軽んじられることもないように。

 鏡に映る自分を見つめながら、胸元のブローチを指先で整える。


(これは、喧嘩をしにいく装いではなくてよ)


 自分に言い聞かせる。


 私がこれからするのは、怒鳴り合いでも、感情のぶつけ合いでもない。

 帳簿と証拠が積み上げてくれた“結論”を、ただ、口にするだけ。


 ただ――それが、ひとりの人間の人生を大きく変えてしまう宣告であることも、分かっている。


「リヴィア様、お時間です」


 扉の外から、レオン様の声がした。


「すぐ参ります」


 深く、ひとつ息を吸ってから、私は執務室へ向かった。



 いつもより椅子を一つ多く置いただけの、簡素な執務室。


 窓からの光が机の上の書類を照らし、私の正面には、先夜まとめたばかりの帳簿の写しがきちんと並べられている。


 背後には、レオン様と数名の兵士。

 部屋の隅には、記録用に控える書記が一人。


 しばらくして、扉がノックもそこそこに開いた。


「お呼びとあらば、いつでも馳せ参じる所存にございますとも、公爵令嬢様」


 脂ぎった声とともに、男が入ってくる。


 五十に届くか届かないかの年頃だろうか。

 小太りの腹をきつそうな上着で締め付け、遅れた髭には手入れの跡がなく、指には不釣り合いに大きな指輪がいくつも光っている。


 笑顔は愛想がよさそうに見えるけれど、その目の奥には、こちらを値踏みする光が露骨に浮かんでいた。


(……腐っている、というのは、こういう人を言うのでしょうね)


 心の中でだけ、辛辣な言葉を呟く。


「わざわざお越しいただき、ありがとうございます。お掛けになって」


 私が椅子を示すと、男――この領内の代官、ハルツ・メルディンは、わざとらしい大袈裟さで頭を下げた。


「いえいえ、とんでもない。

 辺境のつつましい代官にございますれば、公爵家の御令嬢様から直々にお声がかかるなど、光栄の極みにございます」


 口先だけの恭順。その中に、“どうせ何も分かっていまい”という侮りが混ざっているのが、はっきりと分かる。


「本日は、領地運営について、いくつか確認したい点がありまして」


 私は静かに切り出した。


「まあ、まあ。何なりと。

 このグラウベルクの実情は、わたくしめがいちばんよく存じておりますとも。王都育ちの方には、少々驚かれるかもしれませんがね」


 その言いぐさは、辺境の現状を盾にして、自分のやり方を正当化しようとする予防線にしか聞こえない。


 私は、机の上の帳簿の一番上をめくり、ゆっくりとページを開いた。


「こちら、過去数年分の帳簿と、王都からの送金記録です。

 わたくし、ひととおり目を通しました」


 ハルツの眉が、ぴくりと動く。


「おやおや、細かい数字までご覧になりましたか。

 いやはや、さすがは公爵家のご令嬢。ですが、辺境では、帳簿など形だけのものでしてな。実情に合わせて多少の出入りが生じるのは、どこでも同じ――」


「“多少”というには、少々、桁が違いすぎますわね」


 私は彼の言葉を、穏やかに遮った。


 ページの一箇所を指先で叩く。


「たとえば、三年前の春。

 □□商会から穀物一式を購入したとして、ここに記録された額。

 翌年、その同じ商会から武具一式を購入したとして記録された額」


 指で、隣り合う支出欄をなぞる。


「それらの合計は、王都からの送金額のほとんどを占めています。

 にもかかわらず、倉庫には、その対価に見合う物資が残っていませんでした」


「それは……その、ここ数年の不作続きや、盗難などが重なりましてな」


「不作や盗難の記録は、どこに?」


 私が首を傾げると、ハルツは一瞬言葉を詰まらせ、それから笑みを深くした。


「なにぶん、田舎のことでして。すべてを細かく書き残す余裕はございませんで。

 帳簿というのも、あくまで目安。王都のようにきっちりきっちりと、とはいかんのですよ」


「そうでしょうかしら」


 私はページを閉じ、別の紙束を取り出した。


「□□商会について、王都の商人組合で照会をかけました。

 結果――その商会名は、商業登録に存在しませんでした」


 執務室の空気が、わずかに揺れたような気がした。


 ハルツの笑顔が、その瞬間だけ、ぴたりと止まる。


「……はて。王都にも支店を出していると、聞いていたのですがな」


「“聞いていた”ということは、実際にご覧になったわけではないのですね」


 私の問いかけに、彼は目を細めた。


「公爵令嬢様。帳簿上の名前など、いくらでも変わるものです。

 王都の貴族方だって、同じような抜け道を使っておられるでしょう? 実態と帳簿がぴたりと合っているなどと、本気でお思いで?」


「王都の他の貴族の話は、今は関係ありませんわ」


 私は淡々と返す。


「ここで取り扱っているのは、グラウベルクの帳簿です。

 わたくしが預かったのは、この領地と、この民ですから」


「しかしですなあ」


 ハルツは、椅子の背にもたれ、あからさまに肩をすくめた。


「辺境というのは、そもそも“余り物”の場所。

 王都で使い切れなかった施策や人材や物資が、流されてくる先です。

 多少、金が行方知れずになったところで――」


「その“多少”のせいで、飢えている子どもたちを、私は見ました」


 声が、自分でも驚くほど静かだった。


 井戸の前で、空の桶を引きずっていた子ども。

 痩せた腕。割れた唇。


 焚き火の夜に聞いた、兵士たちの話。

 冬を越せなかった子どもたちの数。


「井戸が枯れる前に、手を打てたはずの金が、ここにはあったのです。

 倉庫が空になる前に、対策ができたはずの予算が」


 ハルツの頬が、ぴくりと引きつる。


「それを“多少”と呼ぶのなら――」


 私は、机の上に広げた帳簿の束を、静かに撫でた。


「あなたが何を大切にしてきたのかが、よく分かりますわ」


「……ほう」


 男の目が、笑った。


 その笑みには、今度は一片の愛想もない。


「ずいぶんとお強いことを仰る。

 王都育ちのお嬢様に、辺境の現場の何が分かると?」


 吐き捨てるような口調に、レオン様の背後の兵士たちが、ぴくりと反応する。


「民衆なんぞ、少し飢えていたくらいが大人しくていいんです。

 腹がいっぱいになれば、もっと欲しがる。余計なことを考え始める。

 だから、こちらで調整してやっているだけのこと。長年、そうしてきたから、この辺境もどうにか回ってきたんですよ」


「……“調整”」


 なんて便利な言葉でしょう、と内心で冷ややかに思う。


 奪うことを、均すと言い換える。

 搾り取ることを、管理と言い換える。


「あなたは“辺境はどうせ見捨てられる”と思っていたのでしょう」


 私は、はっきりと言った。


「王都も、貴族も、真面目に見るつもりはない。

 だから、自分が少しばかり懐を肥やしたところで、誰も気づかないし、気にしない――」


「事実、これまで誰も何も言わなかったでしょうが!」


 ハルツが、初めて声を荒らげた。


「先代の領主も、その前の代官も、みんな見て見ぬふりをしてきた!

 今さら、あなただけが綺麗ごとを並べたところで、何が変わる!」


「そうですわね」


 私はうなずいた。


「あなたの行いがこれまで見逃されてきたのは、誰も“見ようとしなかった”からです」


 倉庫の空っぽの棚も。

 薄くしか張られていないスープも。

 枯れた井戸も。

 痩せた子どもたちも。


「見なければ、楽ですもの。

 目を閉じていれば、自分の罪悪感も刺激されません」


 けれど、と私は続ける。


「私は見ました」


 ハルツが、わずかに身じろぎするのが分かる。


「井戸の底からにじみ出た、一杯の水を。

 それを見て笑った子どもたちの顔を。

 そして、その水がもっと早くあれば救えた命のことを――想像してしまいました」


 胸の奥が、じくりと痛む。


 これは、私情だろうか。

 いいえ。私情も含めて、私という人間の判断だ。


「だから、あなたの任を、ここで終わらせます」


 私は、机の上の帳簿から目を離し、真正面からハルツを見つめた。


「こ、この――」


 彼は口をぱくぱくと開いた。


「何を、勝手な! 女に領地運営など務まるものか!

 書物で覚えた理屈を振りかざして、現場を混乱させるのが関の山だ!」


 ああ、出ましたわね、と心の中でだけ嘆息する。


(それが、あなたの限界ですのね)


 自分の行いを正当化するために、他者の能力を下げて語る。

 性別を理由に切り捨てようとする。


 彼の眼差しには、私の背後に立つレオン様も、兵士たちも、領民たちも存在していない。

 見えているのは、自分の椅子と、自分の懐だけ。


「現場のことなど、あなたに――」


「現場を、見てきたうえでの話ですわ」


 今度は私が、彼の言葉を遮った。


「井戸の前で、子どもに『水が出たら喧嘩しなくて済むのに』と言われました。

 あの子の喉の渇きが、“現場”でなければ、何が現場ですの?」


 ハルツは、何か言い返そうとして、できなかった。


 唇がわなわなと震え、その額に滲んだ汗が、室内の光を鈍く反射する。


「あなたの罪は、すでに記録として残りました」


 私は、机の上の紙束に目を落とし、書記をちらりと見る。


 彼はこくり、と小さくうなずき、記録帳にさらさらとペンを走らせていた。


「王都からの送金記録。

 あなたの署名入りの帳簿。

 実在しない商会への多額の支払い。

 倉庫の現状。村の証言。……そして、先ほどのあなたの発言」


「わ、私の発言など!」


「記録しておりますわ」


 書記のペンが止まることなく動いているのを、ハルツはようやく認識したらしい。


「この部屋で交わされた言葉は、すべて。

 後ほど、王都へ送る報告書に添付いたします」


「貴様――!」


 ハルツの顔が、怒りと恐怖で真っ赤になった。


「私は、王都の後ろ盾があるのだぞ! これまで見逃されてきたのは、その証拠!

 あんたのような小娘が、一人でひっくり返せると思っているのか!」


「王都には、私から正式に報告いたします」


 私は淡々と言った。


「公爵家の名において、この領地の現状と、代官の不正の疑いについて。

 ……そして、あなたが、“民衆は少し飢えていたほうがいい”と発言したことも、余さず」


 ハルツの喉が、ごくりと鳴る。


 それは、口に出した言葉を、自分で取り消すことができないと知った者の音だった。


「私情ではありません」


 私は、椅子から立ち上がる。


 大きく身を乗り出す必要はない。

 ただ、視線の高さを合わせるために。


「これは、この土地を預かった者としての“義務”です。

 あなたが奪ったものを、すべて元に戻すことはできません。

 それでも、これ以上、同じことを繰り返させない責任が、私にはあります」


 深く息を吸い、吐く。


 心臓は早鐘のように打っているのに、声だけは、不思議と落ち着いていた。


「ハルツ・メルディン代官」


 正式な名を呼ぶ。


「あなたを、この場をもって、領内のすべての執務から外します。

 今後、詳細な調査が終わるまで、あなたの身柄は城内で拘束されます」


 静かに告げてから、私はレオン様へと視線を向けた。


「レオン様。代官の身柄を拘束し、逃亡および証拠隠滅の恐れがないよう手配をお願いいたします」


「はっ」


 レオン様の返事は、少しも迷いがなかった。


 彼が目配せをすると、背後の兵士たちが一斉に動く。

 二人がハルツの左右に立ち、もう一人が扉の前を塞いだ。


「な、何をする! 私は代官だぞ! まだ何も――!」


「あなたはもう、“代官”ではありませんわ」


 私は、静かに首を振った。


「この宣告をもって、その座から降りていただきます。

 この先、あなたに与えられる権限は、今後の調査に必要な証言をすることのみです」


「ふざけるな……! こんなこと、王都が許すものか!」


「許すかどうかは、王都が決めますわ」


 私は淡々と告げた。


「ただ一つ確かなのは――

 あなたがこの土地をどう扱ってきたか、私は見てしまったということ。

 そして、一度見たものから、私は二度と目を背けないということです」


 部屋の空気が、ぴん、と張りつめた。


 ハルツの顔から血の気が引いていく。

 兵士たちは無言のまま、しかしその目の奥には、確かな震えと、どこか安堵にも似た光が混ざっていた。


(ああ)


 彼らは今、悟っているのだろう。


 私は――優しくあろうと努めてはいるけれど、それだけの人間ではないのだと。


 必要ならば、誰かにとって“死刑宣告”に等しい言葉を、こうして平然と口にする人間なのだと。


 本当は、平然ではないのだけれど。


「連れて行け」


 レオン様の短い指示とともに、ハルツはなおも何か叫び続けながら、執務室から引き立てられていった。


 扉が閉まり、再び静寂が戻る。



 誰もいなくなった執務室で、私はゆっくりと椅子に腰を下ろした。


(…………)


 両手を膝の上に載せる。


 指先が、かすかに震えている。


「……ああもう」


 誰に聞かせるわけでもなく、ぽつりとこぼれた。


「手が、ずっと震えていましたわ」


 さっきまで、机の上の帳簿を指さしていた右手。

 代官の名を読み上げたときの左手。


 どちらも、冷たくなっている。


 深く、深く息を吐いた。


「リヴィア様」


 そっと、扉がノックされた。


「どうぞ」


 入ってきたのは、レオン様だった。

 彼は一礼し、少しだけ眉を寄せる。


「先ほどは、お見事でした」


「お見事、というほどのものでもありませんわ。

 言うべきことを、言っただけですもの」


「それが……簡単にできることではないと、皆、分かっております」


 レオン様の視線が、私の手元に落ちる。


 私は、苦笑した。


「見えてしまいました?」


「少しだけ」


「内側は、ふるふるでしたのよ」


 震える指先を、わざとひらひらと振って見せる。


「正直、途中で喉がからからになって、井戸の水が恋しくなったくらいですわ」


 レオン様が、ふっと息を漏らした。

 笑いとも、安堵ともつかない、小さな吐息。


「……リヴィア様は、本当に」


「本当に?」


「本当に、怖い方だと思いました」


 正面からそう言われて、私は思わず瞬きをした。


「怖い、と仰いますの?」


「ええ」


 彼は真剣な顔でうなずく。


「優しいのに、決して引かない。

 情を持ちながらも、情だけで判断しない。

 そのうえで、他人の人生を変える宣告を、今のように――静かに、下せる」


 一拍、間。


「それは、“裁く側”の人間にしかできないことです」


 私の胸の奥で、何かがちくりとした。


(裁く側)


 そんなつもりでいたわけではない。

 ただ、義務を果たそうとしただけ。


 けれど、その義務は、誰かにとって裁きになってしまう。


「……そうだとしても」


 私は、膝の上で組んだ手をぎゅっと握った。


「いつか、自分が間違うこともあるでしょう。

 怒りに駆られて、視野が狭くなることも。

 だからこそ、今日は、あなたにお願いしたのです」


「怒りの矛先が間違いそうになったら、止めてほしい、と?」


「ええ」


 少し照れくさくなって、視線を逸らす。


「その役目は重すぎると、おっしゃっていましたけれど。

 ……私一人で、何もかも正しく判断できるほど、強くはありませんもの」


 レオン様は、しばし私を見つめていたが、やがて柔らかく頭を下げた。


「そのときは、全力でお止めします」


「頼もしいですわね」


 自然と、口元がゆるむ。


 震えていた指先も、少しずつ感覚を取り戻し始めていた。


(大丈夫)


 心の中で、自分に言い聞かせる。


 私は、優しいだけではない。

 でも、冷たいだけにもならない。


 そのあわいを歩き続けるのは、とても骨が折れることだろう。

 きっと、これから先も何度も、今日のように手を震わせながら、誰かに宣告を下さなければならない。


 それでも。


「見なかったふりをするほうが楽」だと知りながら、あえて見て、あえて口を開いた今日の自分を――

 私は、少しだけ、誇ってもいいのかもしれない。


 そんなふうに、そっと思った。


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