腐った代官と、公爵令嬢の“宣告”
代官を呼び出すと決めた朝、私はいつもより少しだけ硬い布地のドレスに袖を通した。
派手すぎず、かといって軽んじられることもないように。
鏡に映る自分を見つめながら、胸元のブローチを指先で整える。
(これは、喧嘩をしにいく装いではなくてよ)
自分に言い聞かせる。
私がこれからするのは、怒鳴り合いでも、感情のぶつけ合いでもない。
帳簿と証拠が積み上げてくれた“結論”を、ただ、口にするだけ。
ただ――それが、ひとりの人間の人生を大きく変えてしまう宣告であることも、分かっている。
「リヴィア様、お時間です」
扉の外から、レオン様の声がした。
「すぐ参ります」
深く、ひとつ息を吸ってから、私は執務室へ向かった。
◇
いつもより椅子を一つ多く置いただけの、簡素な執務室。
窓からの光が机の上の書類を照らし、私の正面には、先夜まとめたばかりの帳簿の写しがきちんと並べられている。
背後には、レオン様と数名の兵士。
部屋の隅には、記録用に控える書記が一人。
しばらくして、扉がノックもそこそこに開いた。
「お呼びとあらば、いつでも馳せ参じる所存にございますとも、公爵令嬢様」
脂ぎった声とともに、男が入ってくる。
五十に届くか届かないかの年頃だろうか。
小太りの腹をきつそうな上着で締め付け、遅れた髭には手入れの跡がなく、指には不釣り合いに大きな指輪がいくつも光っている。
笑顔は愛想がよさそうに見えるけれど、その目の奥には、こちらを値踏みする光が露骨に浮かんでいた。
(……腐っている、というのは、こういう人を言うのでしょうね)
心の中でだけ、辛辣な言葉を呟く。
「わざわざお越しいただき、ありがとうございます。お掛けになって」
私が椅子を示すと、男――この領内の代官、ハルツ・メルディンは、わざとらしい大袈裟さで頭を下げた。
「いえいえ、とんでもない。
辺境のつつましい代官にございますれば、公爵家の御令嬢様から直々にお声がかかるなど、光栄の極みにございます」
口先だけの恭順。その中に、“どうせ何も分かっていまい”という侮りが混ざっているのが、はっきりと分かる。
「本日は、領地運営について、いくつか確認したい点がありまして」
私は静かに切り出した。
「まあ、まあ。何なりと。
このグラウベルクの実情は、わたくしめがいちばんよく存じておりますとも。王都育ちの方には、少々驚かれるかもしれませんがね」
その言いぐさは、辺境の現状を盾にして、自分のやり方を正当化しようとする予防線にしか聞こえない。
私は、机の上の帳簿の一番上をめくり、ゆっくりとページを開いた。
「こちら、過去数年分の帳簿と、王都からの送金記録です。
わたくし、ひととおり目を通しました」
ハルツの眉が、ぴくりと動く。
「おやおや、細かい数字までご覧になりましたか。
いやはや、さすがは公爵家のご令嬢。ですが、辺境では、帳簿など形だけのものでしてな。実情に合わせて多少の出入りが生じるのは、どこでも同じ――」
「“多少”というには、少々、桁が違いすぎますわね」
私は彼の言葉を、穏やかに遮った。
ページの一箇所を指先で叩く。
「たとえば、三年前の春。
□□商会から穀物一式を購入したとして、ここに記録された額。
翌年、その同じ商会から武具一式を購入したとして記録された額」
指で、隣り合う支出欄をなぞる。
「それらの合計は、王都からの送金額のほとんどを占めています。
にもかかわらず、倉庫には、その対価に見合う物資が残っていませんでした」
「それは……その、ここ数年の不作続きや、盗難などが重なりましてな」
「不作や盗難の記録は、どこに?」
私が首を傾げると、ハルツは一瞬言葉を詰まらせ、それから笑みを深くした。
「なにぶん、田舎のことでして。すべてを細かく書き残す余裕はございませんで。
帳簿というのも、あくまで目安。王都のようにきっちりきっちりと、とはいかんのですよ」
「そうでしょうかしら」
私はページを閉じ、別の紙束を取り出した。
「□□商会について、王都の商人組合で照会をかけました。
結果――その商会名は、商業登録に存在しませんでした」
執務室の空気が、わずかに揺れたような気がした。
ハルツの笑顔が、その瞬間だけ、ぴたりと止まる。
「……はて。王都にも支店を出していると、聞いていたのですがな」
「“聞いていた”ということは、実際にご覧になったわけではないのですね」
私の問いかけに、彼は目を細めた。
「公爵令嬢様。帳簿上の名前など、いくらでも変わるものです。
王都の貴族方だって、同じような抜け道を使っておられるでしょう? 実態と帳簿がぴたりと合っているなどと、本気でお思いで?」
「王都の他の貴族の話は、今は関係ありませんわ」
私は淡々と返す。
「ここで取り扱っているのは、グラウベルクの帳簿です。
わたくしが預かったのは、この領地と、この民ですから」
「しかしですなあ」
ハルツは、椅子の背にもたれ、あからさまに肩をすくめた。
「辺境というのは、そもそも“余り物”の場所。
王都で使い切れなかった施策や人材や物資が、流されてくる先です。
多少、金が行方知れずになったところで――」
「その“多少”のせいで、飢えている子どもたちを、私は見ました」
声が、自分でも驚くほど静かだった。
井戸の前で、空の桶を引きずっていた子ども。
痩せた腕。割れた唇。
焚き火の夜に聞いた、兵士たちの話。
冬を越せなかった子どもたちの数。
「井戸が枯れる前に、手を打てたはずの金が、ここにはあったのです。
倉庫が空になる前に、対策ができたはずの予算が」
ハルツの頬が、ぴくりと引きつる。
「それを“多少”と呼ぶのなら――」
私は、机の上に広げた帳簿の束を、静かに撫でた。
「あなたが何を大切にしてきたのかが、よく分かりますわ」
「……ほう」
男の目が、笑った。
その笑みには、今度は一片の愛想もない。
「ずいぶんとお強いことを仰る。
王都育ちのお嬢様に、辺境の現場の何が分かると?」
吐き捨てるような口調に、レオン様の背後の兵士たちが、ぴくりと反応する。
「民衆なんぞ、少し飢えていたくらいが大人しくていいんです。
腹がいっぱいになれば、もっと欲しがる。余計なことを考え始める。
だから、こちらで調整してやっているだけのこと。長年、そうしてきたから、この辺境もどうにか回ってきたんですよ」
「……“調整”」
なんて便利な言葉でしょう、と内心で冷ややかに思う。
奪うことを、均すと言い換える。
搾り取ることを、管理と言い換える。
「あなたは“辺境はどうせ見捨てられる”と思っていたのでしょう」
私は、はっきりと言った。
「王都も、貴族も、真面目に見るつもりはない。
だから、自分が少しばかり懐を肥やしたところで、誰も気づかないし、気にしない――」
「事実、これまで誰も何も言わなかったでしょうが!」
ハルツが、初めて声を荒らげた。
「先代の領主も、その前の代官も、みんな見て見ぬふりをしてきた!
今さら、あなただけが綺麗ごとを並べたところで、何が変わる!」
「そうですわね」
私はうなずいた。
「あなたの行いがこれまで見逃されてきたのは、誰も“見ようとしなかった”からです」
倉庫の空っぽの棚も。
薄くしか張られていないスープも。
枯れた井戸も。
痩せた子どもたちも。
「見なければ、楽ですもの。
目を閉じていれば、自分の罪悪感も刺激されません」
けれど、と私は続ける。
「私は見ました」
ハルツが、わずかに身じろぎするのが分かる。
「井戸の底からにじみ出た、一杯の水を。
それを見て笑った子どもたちの顔を。
そして、その水がもっと早くあれば救えた命のことを――想像してしまいました」
胸の奥が、じくりと痛む。
これは、私情だろうか。
いいえ。私情も含めて、私という人間の判断だ。
「だから、あなたの任を、ここで終わらせます」
私は、机の上の帳簿から目を離し、真正面からハルツを見つめた。
「こ、この――」
彼は口をぱくぱくと開いた。
「何を、勝手な! 女に領地運営など務まるものか!
書物で覚えた理屈を振りかざして、現場を混乱させるのが関の山だ!」
ああ、出ましたわね、と心の中でだけ嘆息する。
(それが、あなたの限界ですのね)
自分の行いを正当化するために、他者の能力を下げて語る。
性別を理由に切り捨てようとする。
彼の眼差しには、私の背後に立つレオン様も、兵士たちも、領民たちも存在していない。
見えているのは、自分の椅子と、自分の懐だけ。
「現場のことなど、あなたに――」
「現場を、見てきたうえでの話ですわ」
今度は私が、彼の言葉を遮った。
「井戸の前で、子どもに『水が出たら喧嘩しなくて済むのに』と言われました。
あの子の喉の渇きが、“現場”でなければ、何が現場ですの?」
ハルツは、何か言い返そうとして、できなかった。
唇がわなわなと震え、その額に滲んだ汗が、室内の光を鈍く反射する。
「あなたの罪は、すでに記録として残りました」
私は、机の上の紙束に目を落とし、書記をちらりと見る。
彼はこくり、と小さくうなずき、記録帳にさらさらとペンを走らせていた。
「王都からの送金記録。
あなたの署名入りの帳簿。
実在しない商会への多額の支払い。
倉庫の現状。村の証言。……そして、先ほどのあなたの発言」
「わ、私の発言など!」
「記録しておりますわ」
書記のペンが止まることなく動いているのを、ハルツはようやく認識したらしい。
「この部屋で交わされた言葉は、すべて。
後ほど、王都へ送る報告書に添付いたします」
「貴様――!」
ハルツの顔が、怒りと恐怖で真っ赤になった。
「私は、王都の後ろ盾があるのだぞ! これまで見逃されてきたのは、その証拠!
あんたのような小娘が、一人でひっくり返せると思っているのか!」
「王都には、私から正式に報告いたします」
私は淡々と言った。
「公爵家の名において、この領地の現状と、代官の不正の疑いについて。
……そして、あなたが、“民衆は少し飢えていたほうがいい”と発言したことも、余さず」
ハルツの喉が、ごくりと鳴る。
それは、口に出した言葉を、自分で取り消すことができないと知った者の音だった。
「私情ではありません」
私は、椅子から立ち上がる。
大きく身を乗り出す必要はない。
ただ、視線の高さを合わせるために。
「これは、この土地を預かった者としての“義務”です。
あなたが奪ったものを、すべて元に戻すことはできません。
それでも、これ以上、同じことを繰り返させない責任が、私にはあります」
深く息を吸い、吐く。
心臓は早鐘のように打っているのに、声だけは、不思議と落ち着いていた。
「ハルツ・メルディン代官」
正式な名を呼ぶ。
「あなたを、この場をもって、領内のすべての執務から外します。
今後、詳細な調査が終わるまで、あなたの身柄は城内で拘束されます」
静かに告げてから、私はレオン様へと視線を向けた。
「レオン様。代官の身柄を拘束し、逃亡および証拠隠滅の恐れがないよう手配をお願いいたします」
「はっ」
レオン様の返事は、少しも迷いがなかった。
彼が目配せをすると、背後の兵士たちが一斉に動く。
二人がハルツの左右に立ち、もう一人が扉の前を塞いだ。
「な、何をする! 私は代官だぞ! まだ何も――!」
「あなたはもう、“代官”ではありませんわ」
私は、静かに首を振った。
「この宣告をもって、その座から降りていただきます。
この先、あなたに与えられる権限は、今後の調査に必要な証言をすることのみです」
「ふざけるな……! こんなこと、王都が許すものか!」
「許すかどうかは、王都が決めますわ」
私は淡々と告げた。
「ただ一つ確かなのは――
あなたがこの土地をどう扱ってきたか、私は見てしまったということ。
そして、一度見たものから、私は二度と目を背けないということです」
部屋の空気が、ぴん、と張りつめた。
ハルツの顔から血の気が引いていく。
兵士たちは無言のまま、しかしその目の奥には、確かな震えと、どこか安堵にも似た光が混ざっていた。
(ああ)
彼らは今、悟っているのだろう。
私は――優しくあろうと努めてはいるけれど、それだけの人間ではないのだと。
必要ならば、誰かにとって“死刑宣告”に等しい言葉を、こうして平然と口にする人間なのだと。
本当は、平然ではないのだけれど。
「連れて行け」
レオン様の短い指示とともに、ハルツはなおも何か叫び続けながら、執務室から引き立てられていった。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
◇
誰もいなくなった執務室で、私はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
(…………)
両手を膝の上に載せる。
指先が、かすかに震えている。
「……ああもう」
誰に聞かせるわけでもなく、ぽつりとこぼれた。
「手が、ずっと震えていましたわ」
さっきまで、机の上の帳簿を指さしていた右手。
代官の名を読み上げたときの左手。
どちらも、冷たくなっている。
深く、深く息を吐いた。
「リヴィア様」
そっと、扉がノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、レオン様だった。
彼は一礼し、少しだけ眉を寄せる。
「先ほどは、お見事でした」
「お見事、というほどのものでもありませんわ。
言うべきことを、言っただけですもの」
「それが……簡単にできることではないと、皆、分かっております」
レオン様の視線が、私の手元に落ちる。
私は、苦笑した。
「見えてしまいました?」
「少しだけ」
「内側は、ふるふるでしたのよ」
震える指先を、わざとひらひらと振って見せる。
「正直、途中で喉がからからになって、井戸の水が恋しくなったくらいですわ」
レオン様が、ふっと息を漏らした。
笑いとも、安堵ともつかない、小さな吐息。
「……リヴィア様は、本当に」
「本当に?」
「本当に、怖い方だと思いました」
正面からそう言われて、私は思わず瞬きをした。
「怖い、と仰いますの?」
「ええ」
彼は真剣な顔でうなずく。
「優しいのに、決して引かない。
情を持ちながらも、情だけで判断しない。
そのうえで、他人の人生を変える宣告を、今のように――静かに、下せる」
一拍、間。
「それは、“裁く側”の人間にしかできないことです」
私の胸の奥で、何かがちくりとした。
(裁く側)
そんなつもりでいたわけではない。
ただ、義務を果たそうとしただけ。
けれど、その義務は、誰かにとって裁きになってしまう。
「……そうだとしても」
私は、膝の上で組んだ手をぎゅっと握った。
「いつか、自分が間違うこともあるでしょう。
怒りに駆られて、視野が狭くなることも。
だからこそ、今日は、あなたにお願いしたのです」
「怒りの矛先が間違いそうになったら、止めてほしい、と?」
「ええ」
少し照れくさくなって、視線を逸らす。
「その役目は重すぎると、おっしゃっていましたけれど。
……私一人で、何もかも正しく判断できるほど、強くはありませんもの」
レオン様は、しばし私を見つめていたが、やがて柔らかく頭を下げた。
「そのときは、全力でお止めします」
「頼もしいですわね」
自然と、口元がゆるむ。
震えていた指先も、少しずつ感覚を取り戻し始めていた。
(大丈夫)
心の中で、自分に言い聞かせる。
私は、優しいだけではない。
でも、冷たいだけにもならない。
そのあわいを歩き続けるのは、とても骨が折れることだろう。
きっと、これから先も何度も、今日のように手を震わせながら、誰かに宣告を下さなければならない。
それでも。
「見なかったふりをするほうが楽」だと知りながら、あえて見て、あえて口を開いた今日の自分を――
私は、少しだけ、誇ってもいいのかもしれない。
そんなふうに、そっと思った。




