帳簿と嘘──消えたはずの金
グラウベルク城の倉庫は、思っていた以上に静かだった。
扉を開けたとき、まず鼻をついたのは、乾いた木と古い藁の匂い。
それから、かすかに漂う錆と油のにおい。……そして、なにより。
(……少なすぎますわね)
積み上がった穀物袋は、思わず数えるのをためらうほど心許ない。
壁際に並ぶ樽の多くは、蓋を開けるまでもなく、乾いた音しかしないことが分かる。
反対側に視線を向ければ、武具置き場。
剣の刃には赤茶けた錆が浮き、革の鞘はひび割れている。
盾はところどころ打ち直されているものの、板が薄く、心細い。
「……こちらが、現在の在庫のすべて、ですか?」
私が問うと、横に立つ兵士の一人が、気まずそうにうなずいた。
「はい、リヴィア様。冬越えの分を少し残してはいますが……正直、今年の収穫が悪ければ、すぐに底が見えるかと」
「武具は?」
今度はレオン様を見る。彼は、無言で一本の槍を手に取り、穂先に指を滑らせた。
刃のかけた部分に、指先が引っかかる。
「最低限、戦える物だけを残しています。……本来なら、とっくに鍛冶に回すべき品も多いのですが」
「そうでしょうね」
私は槍の穂先を見つめ、そっとため息を飲み込んだ。
この倉庫の“軽さ”は、ただの一冬の不作では説明できない。
少なくとも、ここ数年、継続的に不足していたとしか思えない。
「ですが……王都からの送金は、毎年あったはずですわよね?」
兵士たちが顔を見合わせる。
「俺たちには、詳しい額は……。ただ、いつも『金がない』『余裕がない』とだけ言われてきました」
「そう」
金がない。余裕がない。
便利な言葉だ。そう言って肩をすくめれば、多くの人間はそれ以上問い詰めない。
けれど、ここは私の領地だ。
そして私は、もう「知らなかった」で済ませないと決めた。
「分かりました。倉庫の目録と、王都からの送金記録を照らし合わせましょう。……今日は、少し長い夜になりそうですわね」
覚悟を決めて微笑むと、レオン様がわずかに目を細めた。
「俺たちも、お供します」
「ええ。でも、倒れてしまわれては困りますから、交代で。私は――」
自分の胸に手を当てる。
「徹夜の覚悟で、数字とお友達になってきますわ」
数字は嫌いではない。
ただ、こうして山ほど積まれていると、少しだけ怯むだけで。
◇
書庫は、思っていたよりも整頓されていた。
ひんやりとした石壁に囲まれた部屋。
棚には、年ごとに綴じられた帳簿や書簡がきちんと並べられている。
(形式だけは、立派ですわね)
心の中で皮肉をひとつ。
灯りの下に机を引き寄せ、帳簿を何冊も積み上げる。
脇には、王都から届いた送金記録の控え。
そして、グラウベルク側で作成された決算書類。
「書記は?」
「以前の代官に仕えていた者は、何人かおりますが……皆、呼びましょうか」
レオン様の問いに、私は首を振った。
「いいえ。今はまだ結構ですわ。
人手を増やせば、その分、口も増えます。確証を得るまでは、狭い輪の中で」
まだ誰も疑いたくはない。
けれど、疑いを持たずに済むほど、世界は甘くないことも知っている。
「手伝っていただくなら、数字に強い方を一人、二人。……あまり大声で喋らない方を」
レオン様は苦笑し、小さく頷いた。
「承知しました。信頼できる者を、連れてきます」
やがて、兵士出身とは思えないほど綺麗な字を書く若い男と、無口な中年の書記が呼ばれてきた。
「ここの合計を出していただけますか? 王都からの送金は、この金額。
それに対して、この領地内での支出が――」
ペンを走らせながら、私はひとつひとつ、項目を読み上げていく。
穀物購入。武具の補充。道路の修繕。教会への寄付。
どれも、一見はもっともらしい。
けれど、ページをめくり、年を遡っていくうちに、少しずつ違和感が積もってきた。
「……おかしいですわね」
思わず、声に出ていた。
「どうかされましたか、リヴィア様」
若い兵書記が顔を上げる。
「いえ。この“おかしさ”が、果たして帳簿の癖なのか、不正なのかを見極めているところですわ」
数字の列を指でなぞる。
王都からの送金額は、たしかに記されている。
額も、辺境とはいえ、一領地を維持するには十分すぎるほどだ。
一方で、出費の内訳は――何年か前までは細かかったのに、ある年を境に、急に大雑把になっている。
『○年○月○日 □□商会より穀物一式 ××金』
『○年○月○日 □□商会より武具一式 ××金』
“□□商会”という名前が、やたらと目につく。
(……一式、という言葉は便利ですが)
中身をごまかすには、格好の表現だ。
「この□□商会について、記録はありますか?」
私は顔を上げ、中年書記に尋ねた。
彼は一瞬、わずかに身をこわばらせ、それから、こくりと頷く。
「代官様の頃から、よくお名前の出ていた大口の商会です。城に出入りした記録も……ある、はずですが」
「“はず”ですのね?」
わずかな言い淀みを逃さずに、問い返す。
書記は気まずそうに視線を落とした。
「最近は、その……帳簿の扱いが雑で。出入りの記録が、何冊か見当たりません」
(見当たらない、帳簿)
それはたいてい、なくなって困る人がいる帳簿だ。
私は、□□商会の名が並ぶページに印をつけた。
「レオン様」
「はい」
「後日、この□□商会について、王都側の商人組合で照会をかける必要がありますわね。
実在するのか、どの規模の商会なのか。……本当に、この額の取引をしているのか」
「承知しました」
レオン様の返事は短い。
けれど、その声の奥には、静かな緊張があった。
私は再び、帳簿に視線を戻す。
ページをめくる手が、だんだんと重くなっていく。
紙のざらりとした感触が指先に残り、夜が深まるにつれて、羊皮紙の匂いが鼻にこびりつく。
最初のうちは丁寧に書かれていた数字も、近年になると、どこか雑だ。
桁の書き方に一貫性がなく、訂正の跡も多い。
(数字は嫌いではありませんが……もう少し、控えめな量でもよかったと思いますわね)
思わず、小さく愚痴が口から漏れた。
対面で数字を写していた若い兵書記が、噴き出しそうになって慌てて咳払いをする。
「も、申し訳ありません」
「いいえ。私も、今のは少し本音でしたから」
肩をすくめると、レオン様が、ほんのわずかに口元を緩めた。
「リヴィア様でも、そういうことを言われるのですね」
「ええ。人間ですもの」
そう答えてから、長時間座りっぱなしだった腰を伸ばそうと立ち上がる。
「……っ」
背中から腰にかけて、ぴきりとした痛みが走り、思わず変な声が出た。
「あいたた……」
自分でも驚くほど、おばあちゃんのような声だった。
椅子の背もたれに片手をつきながら中腰になっている私を見て、レオン様が、今度こそぷっと吹き出しそうになる。
「笑ってくださっても結構ですわよ?」
「いえ……その、失礼かと思いまして」
「状況によっては、笑いも必要ですわ。破産さえしていなければ」
冗談めかして言いながら、もう片方の手で腰を押さえる。
無理な体勢を続けるのも考えものだと、あらためて実感する。
深呼吸をひとつ。
「さて」
私は机の上の紙束に視線を戻し、集中を取り戻した。
王都からの送金額。
グラウベルクでの支出。
倉庫の現物。
この三つを頭の中で並べ替え、つながりを探る。
やがて、脳裏に一本の線が浮かび上がるのを感じた。
「……そういうこと、ですのね」
小さく呟いた言葉に、レオン様が反応する。
「何か?」
「はい。だいぶ、輪郭が見えてきましたわ」
私は机の隅に置いた別紙に、簡単な図を描き始めた。
「王都からの送金は、確かにこの城に届いていました。
記録によれば、毎年、ほぼ同じ額が」
ペン先で、送金記録の欄を軽く叩く。
「ところが、ここからが問題ですわね。
城の帳簿上は、その多くが“□□商会”を通じて、物資として支払われていることになっている」
次に、支出の列を指す。
「ですが、倉庫の状態を見れば――とても、その額に見合う物資が届いていたとは思えません。
そして、その不足分を埋めている形跡も、どこにもない」
つまり。
「この差額は、どこかで消えている。
誰かが、帳簿上は“支出”に見せかけて、別の場所へ運び出しているのです」
レオン様の目が、鋭くなった。
「代官……ですか?」
「有力候補、ではありますわね」
私は頷く。
「ただし、彼ひとりでできる仕事ではありません。
帳簿に印を押した者。倉庫の鍵を預かっていた者。物資を運び出した者。……関わった手は、きっと複数ある」
そして、そのどれもが、いまもこの領地のどこかで息をしている。
指先に力が入るのを、自分で自覚した。
「ここに並んでいるのは、ただの数字ではありません」
静かに、口を開く。
「本来なら、パンに、薬に、服に変わっていたはずの“命綱”ですわ。
あの村の井戸が、枯れる前に手を打つことだってできたかもしれない」
紙の上の数字の列が、途端に重さを持って胸にのしかかってくる。
「その命綱を、自分の懐にしまい込んだ者がいる。
そう考えると――」
一度、言葉を切る。
灯火が揺れ、机の上の影が揺らいだ。
「怒っているのですよ、私」
自分で驚くほど、声は静かだった。
怒鳴り散らしたいわけではない。
物を投げつけて、感情をぶつけたいわけでもない。
ただ、ひたひたと胸の底から湧き上がる怒りが、どこにも行き場を失って、内側でじりじりと燃えている。
「けれど、怒鳴るより先に――きちんと、詰め将棋をしたくてたまりませんの」
「詰め……将棋、ですか」
レオン様が思わず聞き返す。
「はい。盤上の駒をすべて見渡して、逃げ道を潰して、最後に王手をかける。
感情ではなく、事実と証拠で、ですわ」
ペンを握っていた手をいったん机の上に置き、拳を軽く握る。
「領民を責めるつもりはありません。
この結果は、“上に立つ者”の罪ですから」
たとえ、その“上に立つ者”の一角に、自分自身も含まれているのだとしても。
知らなかったから、と言って、罪が軽くなるわけではない。
だからこそ、今ここで、きちんと向き合わなければならない。
少し離れた場所で、若い兵書記と中年書記が息を詰めている気配がした。
普段の私を知る彼らは、おそらく初めて見る顔なのだろう。
優しくて、少し抜けていて、泥だらけの花壇に突っ込んだりする私とは、別の顔。
(……怖がらせてしまったかしら)
内心で自嘲気味に呟きながらも、表情を崩す気にはなれなかった。
これは、崩してはいけない場面だ。
「お二人は、もう休んでくださいな」
机の上の資料の山を見渡しながら、私は書記たちに声をかけた。
「これ以上付き合わせて、明日のお仕事に差し支えが出ては困ります。
続きは、私とレオン様で十分ですわ」
「ですが、リヴィア様こそ」
「私は明日も、同じ顔で数字と向き合うだけですから。
外で動くあなた方のほうが、睡眠は重要ですわよ」
冗談めかして言うと、二人は戸惑いながらも頭を下げ、部屋を出て行った。
扉が閉まり、書庫に静寂が戻る。
残ったのは、私とレオン様と、山積みの紙束だけ。
「リヴィア様」
彼が、いつになく真剣な声音で私を呼んだ。
「……はい?」
「先ほどの、その……『叩き潰す』という言葉。
あれは、本気で?」
さきほど、無意識に漏れた言葉を、彼は聞き逃していなかったらしい。
私は少しだけ首をかしげ、微笑んだ。
「もちろん、本気ですわ」
レオン様の喉が、ごくりと鳴る。
「ただ、暴力で、ではありません」
ペン先で、□□商会の名を囲む丸に印をつける。
「証拠が揃いました。
あとは、正しい場で、正しい順番で、切り札を出すだけです」
王都に送る報告書。
この領内で開くべき会合。
関係者を一人ずつ呼び出し、話を聞く順番。
やるべきことは山ほどある。
けれど、不思議と気持ちは落ち着いていた。
「逃げ道を塞いで、言い訳を許さず、正面から向き合っていただく。
その結果、何が起こるかは――あちらの選択次第ですわね」
灯りの火が、揺れもせずに燃えている。
その炎を見つめながら、私は静かに息を吐いた。
優しさだけでは、救えないものがある。
けれど、怒りだけでも、守れないものがある。
だから私は、その両方を抱えたまま、盤面に向かうのだろう。
「レオン様」
「はい」
「もし、私の怒りの矛先が、間違った方向へ向かいそうになったら――そのときは、止めてくださいね」
冗談とも本気ともつかない声音で言うと、レオン様は一瞬、言葉を失い、それから、ゆっくりと頷いた。
「……その役目は、重すぎます」
「でしょうね」
くすっと笑う。
「でも、あなたなら、できると思っていますわ」
彼が何か言いかけて、結局言葉を飲み込んだ。
その沈黙を背中に感じながら、私はもう一度、帳簿に視線を落とす。
紙の上の数字は、冷たく、無機質だ。
けれど、その一つ一つの裏側には、確かに人の生活がある。
それを奪った者たちの顔を、私はまだ知らない。
知らないからこそ――必ず、知る。
そして、決して見逃さない。
静かにそう決意しながら、私はまた一本、ペン先にインクを含ませた。




