精霊王が見ている夢
意識が、糸のようにほどけていくのが分かった。
井戸の縁から離れた瞬間、膝の力が抜けて座り込んで、そのあとのことは少し曖昧だ。
誰かが名前を呼ぶ声。
逞しい腕に抱き上げられたときの、ふわりとした浮遊感。
頬に当たる、まだ冷たい外気と、遠くに聞こえる村人たちのざわめき。
「リヴィア様、お下がりを……!」
「寝かせる場所を用意します!」
そんな声を、まるで水の底から聞いているみたいに遠くに感じながら、私はされるがままになっていた。
粗末だけれど、きちんと掃き清められた板の床。
干し草の入った薄い寝台の上に横たえられると、背中に伝わる硬ささえ、妙に心地よい。
(……少しだけ、目を閉じても……)
そう思ったところで、視界の端がふっと暗くなった。
次の瞬間。
私は、まったく別の場所に立っていた。
◇
そこは――白い世界だった。
大地とも空ともつかない、“なにか”。
足元にはたしかに「平らな面」があるのに、そこに影は落ちない。
太陽も、月も、星も見えない。
なのに、暗くもない。
ただ、どこまでも続く、均質な白。
(……夢、ですわよね)
自分の頬に触れてみる。感触はある。
けれど、指先が少し遅れてついてくるような、奇妙な違和感があった。
衣服は、いつものドレスの感触に近い。
けれど裾が揺れても、風は感じない。
音も匂いも、ほとんどない世界。
なのに――そこに、「誰か」の気配だけがあった。
背筋に、ひやりとしたものが走る。
足音は、しない。
それでも、こちらへ近づいてくる“視線”だけは、はっきりと分かった。
「……どなた、ですの」
声を出した自分に、少し驚く。
ここでは、声も、呼吸も、本当に必要なのかどうかさえ分からないのに。
その問いに応じるように、白い世界の向こう側から“それ”が現れた。
人間の形をしている。
けれど、人間ではない。
長い髪のように見えるものが、風もないのにゆっくり揺れている。
顔立ちは整っているのに、目の色が一定しない。金にも見えれば、青にも見え、覗き込むたびに、違う色を見せる虹色の瞳。
輪郭が、常にわずかに揺らめいていて、焦点を合わせようとすると、するりと逃げていく。
その存在が口を開いた。
「――ようやく、顔を上げたな」
低くも高くもない、奇妙に耳に残る声だった。
男の声、と言われればそうかもしれない。
女の声だと言われても、否定はできない。
ただひとつ言えるのは、
その声が「人間の声」とは違うということだけだった。
……ああ。
この感覚を、私は知っている。
井戸の前で、詠唱していたとき。
あのとき、背中を撫でた、冷たくて大きな気配。
森の奥で、風の向きが突然変わったときに感じる、目に見えない何かの視線。
(この方が――)
「精霊王、様……なのですか」
問うと、白い世界に、かすかな笑いが広がった。
「人の子のくせに、察しは良い」
その存在は、歩いているようには見えない足取りで、私のすぐ前まで近づいてきた。
距離にして、手を伸ばせば届くかどうか。
けれど、その一歩が、底なしの奈落よりも深い断絶に思える。
私は自然と、背筋を伸ばしていた。
ここで膝を折るべきなのかもしれない。
けれど、この世界では、どう身を処してよいかの「作法」も分からない。
そんな私の戸惑いを、楽しんでいるように――彼(と仮に呼ぶことにする)は、わずかに唇をつり上げた。
「我は、この世界の理を束ねる王。
お前たちが“精霊王”と呼ぶものだ」
やはり。
言葉にされると、胸の内側に、緊張が鋭く刺さった。
「……お会いできて、光栄に存じます」
どこまで通じるかも分からない礼儀を、私はとりあえず尽くしてみせる。
頭を下げようとした、そのとき。
「顔を伏せるな」
短い言葉が、ぴしゃりと飛んできた。
反射的に動きを止める。
驚いて顔を上げると、虹色の瞳が真っ直ぐに私を射抜いていた。
「我は、人間という種を好かぬ」
その瞳の奥に、冷え冷えとした軽蔑が見えた気がした。
「醜く、弱く、すぐに嘘をつき、己が喉を潤すためなら平気で他者の杯を奪う。
信仰を口にしながら、手は血と泥にまみれている」
淡々とした声。
そこに怒りはない。ただ、事実を述べているだけのような響き。
その無感情さが、かえって怖かった。
「我は、それを好かぬ」
「…………」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
否定できない。
私の知る人々の中にも、たしかに、そういう者はいる。
井戸を枯らしても、税を取り立て続けた領主たち。
戦場で、泣き叫ぶ子どもの手からパンを取り上げる兵士たち。
世界を見てきた彼にとって、人間という種が、そう映ってしまうことは――
おそらく、間違いではないのだろう。
それでも。
「……それでも」
口が、勝手に動いていた。
「私の知っている人たちの中には、優しい人もいますわ」
声が、少し震えている。
けれど、引き下がりたくなかった。
「自分の分を削って、他人にパンを分ける人。
怖くても、誰かを守ろうと前に出る人。
……あなたが嫌うような人ばかりではないと、私は知っています」
だから、どうか、そんなに簡単に切り捨てないでほしい――
そんな身の程知らずの願いを、飲み込むことはできなかった。
精霊王は、一瞬だけ黙り込んだ。
虹色の瞳が、じっと私を見つめる。
その視線は、皮膚を通り越して、骨の奥まで覗き込まれているような気がする。
やがて。
「……やはり、お前は少し違う」
ぽつりと、そんな言葉が落ちた。
「違う?」
「人の子のくせに、愚かだと言っている」
口調は相変わらず冷ややかなのに、その奥に、かすかな愉快さが混じっているのが分かる。
「弱いことを弱いと認めた上で、なお、他者のために立とうとする。
己が傷つくことを厭わず、しかし誇示もせぬ。
愚かで、無駄が多く、見ていて危なっかしい」
そこで言葉を切り、彼はふっと微笑んだ。
「――ゆえに、見ていて飽きぬ」
胸の奥が、妙な具合に熱くなった。
褒められているのか、呆れられているのか、よく分からない。
けれど、そこにあるのは、さっきまでの「人間への嫌悪」とは違う温度だ。
精霊王は、白い世界の上を一歩、踏み出した。
距離に変化はないのに、その気配だけが、ぐっと近づく。
「我は、お前のようなものを、人間という括りで扱うのが不服だ」
虹色の瞳が、細められる。
「だからお前だけは、我の“例外”とする」
心臓が、大きく跳ねた。
「れ、例外……?」
「そうだ」
彼は当然のように頷いた。
「お前が願うなら、水は応じよう。
お前が守りたいと望むなら、風も火も、その身の前に立つ盾となろう。
お前に敵意を向けるものがあれば――」
そこで、ほんの少しだけ声が低くなった。
「我はそれを見逃さぬ」
さらりと告げられたその一言に、背筋がぞくりとした。
今まで聞いてきたどんな脅し文句よりも、静かで、重い。
“敵意を向けるもの”が、どうなるのか。
彼は言葉にしなかったけれど、想像は容易かった。
……井戸に戻った一杯の水。
あれを増やすことも、この世界から消してしまうことも――
きっとこの存在にとっては、なんでもないことなのだ。
「ま、待ってくださいませ」
思わず、私は手を伸ばしていた。
白い世界の中で、私の指先と、精霊王の輪郭が、かすかに触れ合う。
冷たい。
けれど、水の冷たさではなく、もっと機械的で、無機質な感触。
「そのように、特別扱いされるのは……困りますわ」
「ほう?」
虹色の瞳が、面白そうに瞬いた。
「私一人が例外になっても、意味がありません。
今日、井戸の水で喉を潤したのは、この村のみなさまです。
私だけが守られて、周りがそのままなら、それは……とても、居心地が悪いですわ」
自分で言いながら、ひどく我儘なことを言っている自覚はあった。
それでも、口にせずにはいられなかった。
「私はただ、できることをしているだけです。
今日みたいに――誰かの喉の渇きを、少しだけ和らげられれば、それで十分で」
「十分ではないだろう」
言葉を遮るように、精霊王が言う。
「お前は、知ってしまった。
井戸一つだけでは、救えぬ渇きが、この世界にいくつもあることを」
その通りだった。
街道沿いの村。
王都のスラム。
名前も知らない子どもたちの、痩せた手足。
(私は、知ってしまった)
知らなかった頃には戻れない。
「知ってしまった者が、何もせぬまま座していれば。
その怠惰は、知らぬ者よりなお罪深い」
静かな声だった。
責めるでも、諭すでもない。
ただ、「そういうものだ」と告げる声。
私は視線を落とした。
胸が、痛い。
けれど、それは責められた痛みではなく――
自分の中にあった答えを、言い当てられた痛みだった。
「……だからこそ、我はお前に力を貸す」
精霊王は、淡々と続けた。
「勘違いするな、人の子よ」
虹色の瞳が、もう一度、真っ直ぐに私を射抜く。
「お前に力を貸すのは、世界のためではない。
この国のためでも、人のためでも、ましてや神のためでもない」
「では……」
「我自身のためだ」
胸の奥で、何かが跳ねた。
「弱く、愚かでありながら、なお立とうとするお前が、
この先どこまで行けるのか――それを見てみたい。
それだけだ」
それだけだ、と言いながら、その声にはどこか、くすぐったそうな響きが混じっていた。
愛玩する猫か、面白い玩具でも眺めるような。
けれどそこには、たしかに“好意”としか呼べない温度もあった。
私は、少しだけ笑った。
「……とても、身勝手な理由ですわね」
「当然だ。王とは、本来そういうものだ」
即答された。
こういうところだけ、妙に人間臭い。
ふと、どうでもいいことが気になる。
(今の私の髪、ぼさぼさじゃないといいのですけれど)
夢の中なのだから、どうでもいいはずなのに。
“王”と名乗る存在の前で、あまりみっともない姿を晒していたら――いや、もう遅いのかしら。
そんなことを考えている私を見透かしたように、精霊王が言う。
「お前の髪の乱れなど、どうでもよい」
「……読まないでくださいませ、心の中まで」
「顔に出ている」
あっさりと言われて、言葉を失う。
……顔に出ていましたの。
「助力には、感謝いたします」
仕方なく、話を戻す。
「ですが――私の歩き方は、私が決めたいのです。
あなたが望む方向にだけ進むつもりは、ありませんわ」
言った瞬間、自分でも“あ、これは怒られるかもしれない”と思った。
精霊王は、しばし黙り込む。
白い世界に、ほんの短い沈黙が落ちた。
やがて。
「……良いだろう」
ぽつりと落ちたその言葉に、私は目を見開いた。
「我は、お前の願いに応じるだけだ。
お前が守りたいと望むものを守り、
お前が壊したくないと願うものには手を出さぬ」
それは、ある意味で、恐ろしい宣言だった。
私の願い一つで、世界の形が少し変わってしまうかもしれない。
けれど――それでも、彼は「お前の歩き方はお前が決めろ」と言ってくれている。
「……ありがとうございます」
本心からの言葉だった。
精霊王は「ああ」とだけ答える。
「覚えておけ、人の子よ。
お前が守りたいと願うあいだ、我は力を貸す。
お前がそれをやめたとき――」
そこで、ふいに視線が脇に逸れた。
白い世界の端で、何かがひび割れるような音がする。
だん、と。
遠くから、誰かが板を踏み鳴らす音。
「……どうやら、目覚めの刻らしい」
精霊王の輪郭が、少しずつ薄れていく。
「続きは、またいずれだ」
そう言い残し、白い世界が、ぱん、と弾けるように消えた。
◇
「――ヴィア様! リヴィア様!」
耳に飛び込んできたのは、聞き慣れた声だった。
まぶたを持ち上げると、見慣れない天井板が目に入る。
粗い木目に、ところどころ染みが浮かんでいる。
鼻をくすぐるのは、湿った木の匂いと、干し草の香り。
どこかで煮立っているスープの匂いもする。
「……ここは……」
「村の家の一つです。井戸のそばの」
すぐそばで、安堵の息をつく音がした。
首を傾けると、椅子に腰かけたレオン様が、こちらを見下ろしていた。
鎧は外し、簡素なシャツ姿だが、その表情にはいつものように硬さが残っている。
「高熱や魔力枯渇の症状はありませんが、少し眠っておられました」
「どれくらい……?」
「半日にはなっておりません。井戸から運ばれてから、二刻ほど」
「そう、ですか……」
じゃあ、あの夢は――ほんの短いあいだに見たもの、ということになる。
夢、なのだと思う。
そういうことにしておかなければ、私の心がもたない。
(とても偉そうな人……いえ、人? でしたわね……)
枕元で、小さくそう呟くと、レオン様がぎょっとした顔をした。
「なにかおっしゃいましたか?」
「いいえ、なんでもありませんわ」
慌てて笑ってごまかす。
胸の内側では、さっきの言葉たちが、まだ生々しく響いていた。
――我は人間が嫌いだ。
だが、お前のことは、気に入っている。
あまりにも身勝手で、あまりにも傲慢で。
それでいて、どうしようもなく救いのある言葉。
(特別にしていただかなくて結構です、と言ったのに)
ほんとうは、少しだけ。
ほんの少しだけ、その言葉に縋りたくなっている自分もいる。
けれど私は、ゆっくりと息を吐いて、その甘さを押し込めた。
(私が守りたいのは、私だけじゃない)
村の井戸の水。
まだ乾いている畑。
街道で出会った子どもたち。
あの白い世界で交わした約束が、本物だったのかどうかは分からない。
けれど、たとえ夢だったとしても――私は、同じことを願うだろう。
誰かの喉の渇きを、少しでも和らげたいと。
「リヴィア様?」
レオン様が、不安そうに眉を寄せる。
私は彼に向き直り、ゆっくりと微笑んだ。
「大丈夫ですわ。少し、不思議な夢を見ていただけです」
「……悪い夢では、なかったのですか」
「さあ。悪いのか、良いのか、判断に困るところですけれど」
私は天井を見上げた。
そこには、白い世界はもうない。
ただの、少し古びた木の板だけ。
けれど、この板の下で、確かに人が生きている。
明日を少しでも楽にしようと、井戸の水を汲み、畑を耕そうとしている。
(――知ってしまった以上、変えずにいるほうが、きっと罪深い)
焚き火の夜に自分で口にした言葉を、もう一度、胸の中でなぞる。
精霊王が見ているのが、私の夢なのか。
それとも、私が見せられているのが、精霊王の夢なのか。
その答えは、まだ分からない。
ただひとつだけ、はっきりしていることがある。
(私は、歩いていく)
たとえ、彼が見ていようと、見ていまいと。
私の足で、この国の底を踏みしめながら。
少しずつ、渇きを減らしていくために。
私は、寝台の上でゆっくりと身を起こした。
「レオン様。井戸の様子は、どうなっていますか?」
「はい。水量は多くはありませんが、絶えず湧き続けております。村人たちは順番に汲んで――」
「でしたら、次は畑を見に行きませんとね」
自分の足で立ち上がりながら、そう告げる。
夢の余韻は、まだ身体のどこかに残っていた。
けれど、それを引きずるように歩くつもりはなかった。
精霊王が見ている夢の続きは、きっとこれから――現実の中で、ゆっくりと紡がれていくのだから。




