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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
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精霊王が見ている夢

 意識が、糸のようにほどけていくのが分かった。


 井戸の縁から離れた瞬間、膝の力が抜けて座り込んで、そのあとのことは少し曖昧だ。


 誰かが名前を呼ぶ声。

 逞しい腕に抱き上げられたときの、ふわりとした浮遊感。

 頬に当たる、まだ冷たい外気と、遠くに聞こえる村人たちのざわめき。


「リヴィア様、お下がりを……!」


「寝かせる場所を用意します!」


 そんな声を、まるで水の底から聞いているみたいに遠くに感じながら、私はされるがままになっていた。


 粗末だけれど、きちんと掃き清められた板の床。

 干し草の入った薄い寝台の上に横たえられると、背中に伝わる硬ささえ、妙に心地よい。


(……少しだけ、目を閉じても……)


 そう思ったところで、視界の端がふっと暗くなった。


 次の瞬間。


 私は、まったく別の場所に立っていた。



 そこは――白い世界だった。


 大地とも空ともつかない、“なにか”。

 足元にはたしかに「平らな面」があるのに、そこに影は落ちない。


 太陽も、月も、星も見えない。

 なのに、暗くもない。


 ただ、どこまでも続く、均質な白。


(……夢、ですわよね)


 自分の頬に触れてみる。感触はある。

 けれど、指先が少し遅れてついてくるような、奇妙な違和感があった。


 衣服は、いつものドレスの感触に近い。

 けれど裾が揺れても、風は感じない。


 音も匂いも、ほとんどない世界。


 なのに――そこに、「誰か」の気配だけがあった。


 背筋に、ひやりとしたものが走る。


 足音は、しない。

 それでも、こちらへ近づいてくる“視線”だけは、はっきりと分かった。


「……どなた、ですの」


 声を出した自分に、少し驚く。

 ここでは、声も、呼吸も、本当に必要なのかどうかさえ分からないのに。


 その問いに応じるように、白い世界の向こう側から“それ”が現れた。


 人間の形をしている。

 けれど、人間ではない。


 長い髪のように見えるものが、風もないのにゆっくり揺れている。

 顔立ちは整っているのに、目の色が一定しない。金にも見えれば、青にも見え、覗き込むたびに、違う色を見せる虹色の瞳。


 輪郭が、常にわずかに揺らめいていて、焦点を合わせようとすると、するりと逃げていく。


 その存在が口を開いた。


「――ようやく、顔を上げたな」


 低くも高くもない、奇妙に耳に残る声だった。


 男の声、と言われればそうかもしれない。

 女の声だと言われても、否定はできない。


 ただひとつ言えるのは、

 その声が「人間の声」とは違うということだけだった。


 ……ああ。


 この感覚を、私は知っている。


 井戸の前で、詠唱していたとき。

 あのとき、背中を撫でた、冷たくて大きな気配。


 森の奥で、風の向きが突然変わったときに感じる、目に見えない何かの視線。


(この方が――)


「精霊王、様……なのですか」


 問うと、白い世界に、かすかな笑いが広がった。


「人の子のくせに、察しは良い」


 その存在は、歩いているようには見えない足取りで、私のすぐ前まで近づいてきた。


 距離にして、手を伸ばせば届くかどうか。

 けれど、その一歩が、底なしの奈落よりも深い断絶に思える。


 私は自然と、背筋を伸ばしていた。


 ここで膝を折るべきなのかもしれない。

 けれど、この世界では、どう身を処してよいかの「作法」も分からない。


 そんな私の戸惑いを、楽しんでいるように――彼(と仮に呼ぶことにする)は、わずかに唇をつり上げた。


「我は、この世界の理を束ねる王。

 お前たちが“精霊王”と呼ぶものだ」


 やはり。


 言葉にされると、胸の内側に、緊張が鋭く刺さった。


「……お会いできて、光栄に存じます」


 どこまで通じるかも分からない礼儀を、私はとりあえず尽くしてみせる。


 頭を下げようとした、そのとき。


「顔を伏せるな」


 短い言葉が、ぴしゃりと飛んできた。


 反射的に動きを止める。

 驚いて顔を上げると、虹色の瞳が真っ直ぐに私を射抜いていた。


「我は、人間という種を好かぬ」


 その瞳の奥に、冷え冷えとした軽蔑が見えた気がした。


「醜く、弱く、すぐに嘘をつき、己が喉を潤すためなら平気で他者の杯を奪う。

 信仰を口にしながら、手は血と泥にまみれている」


 淡々とした声。

 そこに怒りはない。ただ、事実を述べているだけのような響き。


 その無感情さが、かえって怖かった。


「我は、それを好かぬ」


「…………」


 胸の奥が、ずきりと痛んだ。


 否定できない。

 私の知る人々の中にも、たしかに、そういう者はいる。


 井戸を枯らしても、税を取り立て続けた領主たち。

 戦場で、泣き叫ぶ子どもの手からパンを取り上げる兵士たち。


 世界を見てきた彼にとって、人間という種が、そう映ってしまうことは――

 おそらく、間違いではないのだろう。


 それでも。


「……それでも」


 口が、勝手に動いていた。


「私の知っている人たちの中には、優しい人もいますわ」


 声が、少し震えている。


 けれど、引き下がりたくなかった。


「自分の分を削って、他人にパンを分ける人。

 怖くても、誰かを守ろうと前に出る人。

 ……あなたが嫌うような人ばかりではないと、私は知っています」


 だから、どうか、そんなに簡単に切り捨てないでほしい――

 そんな身の程知らずの願いを、飲み込むことはできなかった。


 精霊王は、一瞬だけ黙り込んだ。


 虹色の瞳が、じっと私を見つめる。

 その視線は、皮膚を通り越して、骨の奥まで覗き込まれているような気がする。


 やがて。


「……やはり、お前は少し違う」


 ぽつりと、そんな言葉が落ちた。


「違う?」


「人の子のくせに、愚かだと言っている」


 口調は相変わらず冷ややかなのに、その奥に、かすかな愉快さが混じっているのが分かる。


「弱いことを弱いと認めた上で、なお、他者のために立とうとする。

 己が傷つくことを厭わず、しかし誇示もせぬ。

 愚かで、無駄が多く、見ていて危なっかしい」


 そこで言葉を切り、彼はふっと微笑んだ。


「――ゆえに、見ていて飽きぬ」


 胸の奥が、妙な具合に熱くなった。


 褒められているのか、呆れられているのか、よく分からない。

 けれど、そこにあるのは、さっきまでの「人間への嫌悪」とは違う温度だ。


 精霊王は、白い世界の上を一歩、踏み出した。

 距離に変化はないのに、その気配だけが、ぐっと近づく。


「我は、お前のようなものを、人間という括りで扱うのが不服だ」


 虹色の瞳が、細められる。


「だからお前だけは、我の“例外”とする」


 心臓が、大きく跳ねた。


「れ、例外……?」


「そうだ」


 彼は当然のように頷いた。


「お前が願うなら、水は応じよう。

 お前が守りたいと望むなら、風も火も、その身の前に立つ盾となろう。

 お前に敵意を向けるものがあれば――」


 そこで、ほんの少しだけ声が低くなった。


「我はそれを見逃さぬ」


 さらりと告げられたその一言に、背筋がぞくりとした。


 今まで聞いてきたどんな脅し文句よりも、静かで、重い。


 “敵意を向けるもの”が、どうなるのか。

 彼は言葉にしなかったけれど、想像は容易かった。


 ……井戸に戻った一杯の水。


 あれを増やすことも、この世界から消してしまうことも――

 きっとこの存在にとっては、なんでもないことなのだ。


「ま、待ってくださいませ」


 思わず、私は手を伸ばしていた。


 白い世界の中で、私の指先と、精霊王の輪郭が、かすかに触れ合う。


 冷たい。

 けれど、水の冷たさではなく、もっと機械的で、無機質な感触。


「そのように、特別扱いされるのは……困りますわ」


「ほう?」


 虹色の瞳が、面白そうに瞬いた。


「私一人が例外になっても、意味がありません。

 今日、井戸の水で喉を潤したのは、この村のみなさまです。

 私だけが守られて、周りがそのままなら、それは……とても、居心地が悪いですわ」


 自分で言いながら、ひどく我儘なことを言っている自覚はあった。


 それでも、口にせずにはいられなかった。


「私はただ、できることをしているだけです。

 今日みたいに――誰かの喉の渇きを、少しだけ和らげられれば、それで十分で」


「十分ではないだろう」


 言葉を遮るように、精霊王が言う。


「お前は、知ってしまった。

 井戸一つだけでは、救えぬ渇きが、この世界にいくつもあることを」


 その通りだった。


 街道沿いの村。

 王都のスラム。

 名前も知らない子どもたちの、痩せた手足。


(私は、知ってしまった)


 知らなかった頃には戻れない。


「知ってしまった者が、何もせぬまま座していれば。

 その怠惰は、知らぬ者よりなお罪深い」


 静かな声だった。


 責めるでも、諭すでもない。

 ただ、「そういうものだ」と告げる声。


 私は視線を落とした。


 胸が、痛い。


 けれど、それは責められた痛みではなく――

 自分の中にあった答えを、言い当てられた痛みだった。


「……だからこそ、我はお前に力を貸す」


 精霊王は、淡々と続けた。


「勘違いするな、人の子よ」


 虹色の瞳が、もう一度、真っ直ぐに私を射抜く。


「お前に力を貸すのは、世界のためではない。

 この国のためでも、人のためでも、ましてや神のためでもない」


「では……」


「我自身のためだ」


 胸の奥で、何かが跳ねた。


「弱く、愚かでありながら、なお立とうとするお前が、

 この先どこまで行けるのか――それを見てみたい。

 それだけだ」


 それだけだ、と言いながら、その声にはどこか、くすぐったそうな響きが混じっていた。


 愛玩する猫か、面白い玩具でも眺めるような。

 けれどそこには、たしかに“好意”としか呼べない温度もあった。


 私は、少しだけ笑った。


「……とても、身勝手な理由ですわね」


「当然だ。王とは、本来そういうものだ」


 即答された。


 こういうところだけ、妙に人間臭い。


 ふと、どうでもいいことが気になる。


(今の私の髪、ぼさぼさじゃないといいのですけれど)


 夢の中なのだから、どうでもいいはずなのに。

 “王”と名乗る存在の前で、あまりみっともない姿を晒していたら――いや、もう遅いのかしら。


 そんなことを考えている私を見透かしたように、精霊王が言う。


「お前の髪の乱れなど、どうでもよい」


「……読まないでくださいませ、心の中まで」


「顔に出ている」


 あっさりと言われて、言葉を失う。


 ……顔に出ていましたの。


「助力には、感謝いたします」


 仕方なく、話を戻す。


「ですが――私の歩き方は、私が決めたいのです。

 あなたが望む方向にだけ進むつもりは、ありませんわ」


 言った瞬間、自分でも“あ、これは怒られるかもしれない”と思った。


 精霊王は、しばし黙り込む。


 白い世界に、ほんの短い沈黙が落ちた。


 やがて。


「……良いだろう」


 ぽつりと落ちたその言葉に、私は目を見開いた。


「我は、お前の願いに応じるだけだ。

 お前が守りたいと望むものを守り、

 お前が壊したくないと願うものには手を出さぬ」


 それは、ある意味で、恐ろしい宣言だった。


 私の願い一つで、世界の形が少し変わってしまうかもしれない。


 けれど――それでも、彼は「お前の歩き方はお前が決めろ」と言ってくれている。


「……ありがとうございます」


 本心からの言葉だった。


 精霊王は「ああ」とだけ答える。


「覚えておけ、人の子よ。

 お前が守りたいと願うあいだ、我は力を貸す。

 お前がそれをやめたとき――」


 そこで、ふいに視線が脇に逸れた。


 白い世界の端で、何かがひび割れるような音がする。


 だん、と。

 遠くから、誰かが板を踏み鳴らす音。


「……どうやら、目覚めの刻らしい」


 精霊王の輪郭が、少しずつ薄れていく。


「続きは、またいずれだ」


 そう言い残し、白い世界が、ぱん、と弾けるように消えた。



「――ヴィア様! リヴィア様!」


 耳に飛び込んできたのは、聞き慣れた声だった。


 まぶたを持ち上げると、見慣れない天井板が目に入る。

 粗い木目に、ところどころ染みが浮かんでいる。


 鼻をくすぐるのは、湿った木の匂いと、干し草の香り。

 どこかで煮立っているスープの匂いもする。


「……ここは……」


「村の家の一つです。井戸のそばの」


 すぐそばで、安堵の息をつく音がした。


 首を傾けると、椅子に腰かけたレオン様が、こちらを見下ろしていた。

 鎧は外し、簡素なシャツ姿だが、その表情にはいつものように硬さが残っている。


「高熱や魔力枯渇の症状はありませんが、少し眠っておられました」


「どれくらい……?」


「半日にはなっておりません。井戸から運ばれてから、二刻ほど」


「そう、ですか……」


 じゃあ、あの夢は――ほんの短いあいだに見たもの、ということになる。


 夢、なのだと思う。

 そういうことにしておかなければ、私の心がもたない。


(とても偉そうな人……いえ、人? でしたわね……)


 枕元で、小さくそう呟くと、レオン様がぎょっとした顔をした。


「なにかおっしゃいましたか?」


「いいえ、なんでもありませんわ」


 慌てて笑ってごまかす。


 胸の内側では、さっきの言葉たちが、まだ生々しく響いていた。


 ――我は人間が嫌いだ。

 だが、お前のことは、気に入っている。


 あまりにも身勝手で、あまりにも傲慢で。

 それでいて、どうしようもなく救いのある言葉。


(特別にしていただかなくて結構です、と言ったのに)


 ほんとうは、少しだけ。

 ほんの少しだけ、その言葉に縋りたくなっている自分もいる。


 けれど私は、ゆっくりと息を吐いて、その甘さを押し込めた。


(私が守りたいのは、私だけじゃない)


 村の井戸の水。

 まだ乾いている畑。

 街道で出会った子どもたち。


 あの白い世界で交わした約束が、本物だったのかどうかは分からない。

 けれど、たとえ夢だったとしても――私は、同じことを願うだろう。


 誰かの喉の渇きを、少しでも和らげたいと。


「リヴィア様?」


 レオン様が、不安そうに眉を寄せる。


 私は彼に向き直り、ゆっくりと微笑んだ。


「大丈夫ですわ。少し、不思議な夢を見ていただけです」


「……悪い夢では、なかったのですか」


「さあ。悪いのか、良いのか、判断に困るところですけれど」


 私は天井を見上げた。


 そこには、白い世界はもうない。

 ただの、少し古びた木の板だけ。


 けれど、この板の下で、確かに人が生きている。

 明日を少しでも楽にしようと、井戸の水を汲み、畑を耕そうとしている。


(――知ってしまった以上、変えずにいるほうが、きっと罪深い)


 焚き火の夜に自分で口にした言葉を、もう一度、胸の中でなぞる。


 精霊王が見ているのが、私の夢なのか。

 それとも、私が見せられているのが、精霊王の夢なのか。


 その答えは、まだ分からない。


 ただひとつだけ、はっきりしていることがある。


(私は、歩いていく)


 たとえ、彼が見ていようと、見ていまいと。


 私の足で、この国の底を踏みしめながら。

 少しずつ、渇きを減らしていくために。


 私は、寝台の上でゆっくりと身を起こした。


「レオン様。井戸の様子は、どうなっていますか?」


「はい。水量は多くはありませんが、絶えず湧き続けております。村人たちは順番に汲んで――」


「でしたら、次は畑を見に行きませんとね」


 自分の足で立ち上がりながら、そう告げる。


 夢の余韻は、まだ身体のどこかに残っていた。

 けれど、それを引きずるように歩くつもりはなかった。


 精霊王が見ている夢の続きは、きっとこれから――現実の中で、ゆっくりと紡がれていくのだから。


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