枯れた井戸と、“助けてください”と言えない人々
ハルン村を訪れた、その日のことだった。
市場をひととおり回り、数人とことばを交わしたあとで、私は「村の代表とお話ししたいのですが」とレオン様に告げた。
「村長の家を、お借りできますか?」
「承知しました。……村長殿」
レオン様が呼びかけると、人垣の後ろから、中年の男が一歩進み出た。
日焼けした顔。
深く刻まれた皺。
粗末だが、ほかの村人よりは少しだけましな質の服。
「こ、これは、公爵様……」
男は慌てて膝を折ろうとしたが、私はその前に一歩近づき、穏やかに右手を上げた。
「どうぞ、ここでは楽にしてください。
あなたがこの村の代表でいらっしゃるのですね?」
「は、はい。 ハルン村のまとめ役をしております、マルスと申します」
「マルス様。
本日は、突然押しかけてしまってごめんなさい。
少しだけ、お話を聞かせていただいてもよろしいかしら」
「も、もちろんですとも!」
彼に案内され、私たちは村の中央に近い、少し大きな家に入った。
中は、王都の農家と大差ない造りだった。
粗い木のテーブルと椅子がいくつか。
壁には、年季の入った鍋や農具が掛けられている。
椅子を勧められたが、私は首を横に振った。
「立ったままで構いませんわ。……あまり長居するつもりもありませんから」
「そ、そうですか」
マルスは落ち着かない様子で、手をこすり合わせた。
……緊張させ過ぎているかしら、と少し反省する。
けれど、ここから逃げ腰になってしまえば、彼らの警戒心はきっと「やっぱり」と強化されるだけだろう。
「マルス様。
この村で、いま一番困っていることは何でしょう」
正面から問うと、彼は目を瞬いた。
「は、はあ……困っていること……」
「食糧のことかもしれませんし、税のことかもしれません。
教会や、道や、獣や……。
どのようなことでも構いませんわ。
“こんなものだ”と諦めていることまで、教えていただけるのが一番ありがたいのですけれど」
わざと、少し言葉を選んでみせる。
“この辺境は昔から貧しいから仕方ない”という言い訳を、私は聞きたくない。
けれどそれを正面から否定すれば、まずは彼の自尊心を折ってしまう。
マルスは苦笑いを浮かべた。
「お、お気持ちはありがたいのですが……。
その、辺境は……まあ、こんなものです。
冬になれば、いくらか飢える者も出ますし、税も……重いですが……」
「重いですが?」
「……王都に比べれば、たいしたことはないでしょう」
そう言って、彼は笑い飛ばそうとした。
けれど、その笑みは途中でしぼんでしまう。
隅に控えている村人たちも、目を伏せたままだ。
誰も、はっきりとは言おうとしない。
“言っても無駄”――そんな諦めが、この狭い部屋の空気に染みついていた。
「そう、ですか」
私は、あえてそれ以上追及しなかった。
“ここで無理に言わせても、意味はない”。
それは、かつて王都の貴族たちが、散々やってきたことだ。
彼らは自分たちの聞きたい言葉を引き出すためだけに、質問という名の圧力を使った。
私は、同じ手段を使いたくない。
「では、こうしましょうか」
私は少しだけ口調を柔らかくした。
「今日、私は村を歩きながら、皆さまの暮らしを見て回ります。
そのあいだに、もし“これだけは伝えておきたい”ということが思いついたら――」
振り向き、控えているレオン様と兵たちを指さす。
「この者たちに、そっと言づけてください。
どのような内容であっても、必ず私の耳に届くようにいたします」
「そ、それは……」
「“言っても無駄”と、口を閉ざしてしまう気持ちは分かります。
でも、聞こうとする人間がいないままでは、永遠に無駄なままですわ」
言い切ると、マルスは一瞬だけ顔を上げた。
その瞳に浮かんだのは、怒りでも侮蔑でもなく――困惑と、わずかな揺らぎだった。
私はそれ以上、何も言わずに部屋を辞した。
外に出ると、子どもたちが空になった桶を引きずりながら歩いているのが目に入った。
木でできた、底のすり減った桶。
その中は、からっぽだ。
「……ねえ、どこへ行くの?」
声をかけると、子どもたちはびくっと立ち止まった。
昨日クッキーを渡したあの子も、混ざっている。
「お水、取りに」
一番年上らしい子が、おずおずと答えた。
「井戸は、あちらでは?」
私は、村の中央にある石造りの井戸を顎で示した。
見たところ、長いこと使われていないように見える。
縁には苔が生え、他の家々に比べても、そこだけ時間が止まっているような気配があった。
「前は、あそこで」
子どもがつぶやく。
「でも、今は出ないの。からっぽ。
だから、森の方の泉まで行くの」
「森まで?」
この村から森の端まで、どれくらい距離があるだろう。
空になった桶を抱え、小さな足で歩くには、決して短くはない道だ。
「危なくはありませんか」
思わず口をついて出た言葉に、子どもは首をかしげた。
「……危ないけど、お水ないと死んじゃうから」
当たり前のことを言うような声音だった。
その無邪気な当たり前が、胸の奥をぎゅっと掴む。
「喧嘩にも、なるでしょうね」
私はそっと言葉を足した。
「限られた水を、誰がどれだけ使うか。
きっと、大人たちも悩んでいるでしょう」
子どもたちは、顔を見合わせた。
そして、そのうちの一人がぽつりと漏らした。
「……お水がまた出たら、みんな喧嘩しなくて済むのに」
その一言が、深く刺さった。
“お腹が空いている”でも、“寒い”でもなく。
“喧嘩しなくて済むのに”。
この子たちは、きっと何度も、大人たちの怒鳴り声を聞いてきたのだろう。
限られた水をめぐる争いを、嫌でも耳にしてきたのだろう。
「……井戸を、見せていただけますか」
気づけば、私はそう口走っていた。
「え?」
「さきほど、村長様からは何も伺えませんでした。
けれど、あなた方の言葉は、私にとって十分な理由になります」
子どもたちが、混乱したように目を瞬かせる。
その間に、私は近くにいた兵に視線を送った。
「レオン様。
井戸の周りの安全を、確認していただけます?」
「……承知しました」
短い返事。
けれど、その声の奥に、微かなため息が混ざっていた気がした。
(また、私が危ないことを始めると、思われているのでしょうね)
自覚はある。
雨の中、見知らぬ子どもを拾い上げ。
雨漏りの宿では、椅子の上から落ちかけ。
今度は枯れた井戸にまで首を突っ込もうとしている。
自分で言うのもなんだけれど、領主というより、厄介ごとを拾って歩く変わった貴族だ。
……でも。
(ここで背を向けたら、一生後悔する)
そう思ってしまったのだから、もう動かないわけにはいかない。
村の中央にある井戸のそばまで行くと、周囲に自然と人垣ができていた。
村長のマルスも、慌てたように駆け寄ってくる。
「こ、ここは……!」
「井戸、なのでしょう?」
私は、石積みの縁にそっと手を添えた。
ひんやりと冷たい感触。
そこに、かつて水が満ちていた気配は、もうほとんど残っていない。
「前は、この井戸で?」
「は、はい……村の真ん中にありますので、ここが一番楽で……。
でも、数年前から水が細くなり、やがて……」
マルスの声が尻すぼみになる。
「言っても、どうにもならないと思っていたのですね」
「………」
彼は、否定もしなかった。
周りの村人たちも、気まずそうに目をそらす。
“助けてください”と、言えない人々。
言ったところで、誰も聞きはしないと知っているから。
聞いたとしても、笑われるか、叱られるだけだと知っているから。
私は井戸の縁に指を滑らせ、静かに目を閉じた。
(――水の精霊たち)
心の中で、そっと呼びかける。
(ここに、水があった時の記憶を、感じさせてくださいな)
アルディア式の詠唱は、口で唱えるだけがすべてではない。
声に出さなくても、心の底で「敬意」と「願い」を形にできれば、精霊たちは耳を傾けてくれることがある。
……たまに、気まぐれな悪戯をしてくることもあるけれど。
井戸の内側には、乾いた石の匂いが満ちていた。
底を覗き込むと、暗い闇しか見えない。
身を乗り出しすぎたとき、肩を軽く引かれた。
「危険です、リヴィア様」
「……ありがとうございます」
レオン様の指先が、私の肩から離れる。
それだけで、妙に意識してしまって、頬が熱くなった。
(今は、そんな場合ではありませんわ)
こほん、と心の中で咳払いをして、私は再び井戸に向き直った。
村人たちの視線が、一斉に私の背に集まる。
祈りを見ているというより――何か大きなものと繋がろうとしている人間を、息を呑んで見守っているような空気。
誰かが、小さく囁いた。
「……本当に、何か起こすつもりなのか」
「井戸どころか、この村ごと……」
さすがにそれは、少し言い過ぎだと思う。
(そんな大それたことをするつもりはありません。
今はただ、ここに“水が戻る余地”が残っているかどうか、確かめたいだけ)
深く、ゆっくりと息を吸い込む。
胸の奥から、古い言葉が浮かび上がってくる。
「清き水の精霊よ、穢れを洗い流す者よ……」
声には出さず、心の中だけで詠唱をなぞる。
我はリヴィア、汚れをそのままにはせぬと誓う者――。
井戸の縁に置いた手のひらが、少しだけ冷たくなった気がした。
気のせいかもしれない。
けれど、そのわずかな変化に、私はしがみつく。
水脈を探るのは、私にとっても大きな挑戦だ。
治癒や豊穣の歌は、何度も鍛えられてきた。
けれど、「枯れた井戸に水を戻す」ような大掛かりなことは、まだ一度も経験がない。
――失敗する可能性だって、十分にある。
それでも。
「……皆さま」
私は目を開け、井戸の周りの人々を見渡した。
ざわめきが静まる。
「私は、これからここで一つ、試してみます。
うまくいく保証は、どこにもありません」
村人たちの表情が、固くこわばる。
希望と、期待と、それを裏切られたときの痛みを恐れる顔。
「ですから、どうか、私を“奇跡の約束”として受け取らないでください。
私は奇跡を約束することはできません。
ただ――」
言葉を切り、胸の奥をさらけ出すように、ゆっくり続ける。
「ただ、あなた方の諦めに、そっと逆らってみたいだけなのです」
“言っても無駄”と口を閉ざしてきた人々。
“どうせ直らない”と、枯れた井戸を見て見ぬふりをしてきた日々。
その積み重ねに対して、「それでも、ひとつくらいは変えられるかもしれない」と言いたかった。
「うまくいかなかったとしても、どうか私を恨まないでください――と、言うつもりはありません」
村人たちが、驚いたように息を呑む。
レオン様が、わずかに目を見開いた。
「恨みたければ、恨んでくださって構いません。
“あの公爵令嬢は、結局何もできなかった”と、背を向けられても仕方がありません」
自分で言いながら、胸が少し痛む。
それでも、正直に続ける。
「それでも私は、何もしないで見ているほうが、ずっと嫌なのです」
沈黙が落ちた。
焚き火も、高らかな演説もない。
ただ、乾いた井戸と、期待と恐怖に揺れる人々と、それを前に立つ私だけ。
その沈黙の中で、誰かが小さく笑った。
さっきの子どもだった。
「お姉ちゃん、魔法使えるの?」
まっすぐな瞳で、そんなことを聞いてくる。
“公爵様”でも、“領主様”でもなく。
ただの“お姉ちゃん”。
胸の奥が、少しだけ和らいだ。
「少しだけ、ですわ」
私は照れ笑いを浮かべる。
「だからこそ、“少しだけでも”やってみたいのです」
子どもが、なぜか誇らしげに頷いた。
「じゃあ、がんばって」
その一言が、妙に心強かった。
私はもう一度、井戸の縁に手を置き、深く息を吸う。
村人たちは、まだ半信半疑だ。
“この人が本気になったら、井戸どころか、この村そのものも変わってしまうのではないか”。
そんな畏れが、彼らの視線の中に確かにあった。
――それで構わない。
変わることを恐れながら、それでも変わらずにいられない場所だからこそ、私はここに来たのだ。
(どうか、聞こえていますように)
乾いた土の底で眠る、かつての水脈に。
この土地にまだ残っているかもしれない、小さな水の記憶に。
私はそっと、呼びかける。
この時点で、井戸はまだ沈黙したままだった。
けれど、私の中で、何かが確かに動き始めていた。




