はじめての辺境の村と、疑いのまなざし
城に着いてから、三日が過ぎた。
荷ほどきと最低限の整頓だけで過ぎていった日々のあと、私はようやく「外」に出ることにした。
――私が治めると命じられた土地を、まだ一度も自分の目で見ていないまま、仕事を語るわけにはいかない。
そう言ったら、レオン様は少しだけ眉を動かし、「まだ道も人心も安定しているとは言えませんが」と前置きしたうえで、最も近い村を選んでくれた。
城から半刻ほど馬車に揺られると、やがて視界の先に低い石壁が見えてきた。
「……ここが」
近づくにつれ、その輪郭がはっきりしていく。
崩れかけた納屋。
石を積んだだけの柵。
ひび割れた土の道。
雨上がりの湿気に、藁と獣と人の匂いが混ざっていた。
王都の外れにも貧しい地区はあったけれど、これはそれとは質の違う光景だ。
「貧しい生活」ではなく、「長く放っておかれた結果」がむき出しになっている場所。
「グラウベルク領内、ハルン村でございます」
御者台から、レオン様の声が落ちてきた。
「はい……」
胸の奥が、きゅっと縮む。
ここが、私の領地。
紙の上の地図でしか知らなかった名前が、ひとつ、現実の重みを持った。
馬車は、村の広場らしき場所で止まった。
井戸と、小さな祈りの像と、傾いた屋台が何台か並んでいる。
村人たちが、ぱらぱらとこちらを振り返った。
薄く色あせた服。
ほころびを何度も縫い直した跡。
土に慣れた、ひび割れた手。
その視線の多くに、歓迎の色はない。
驚きと、警戒と――少しの諦め。
「扉は、私が開けますわ」
御者が慌てて飛び降りてくるより早く、私は自分で馬車の扉に手をかけた。
なるべくゆっくりと、動作を大きくしないように。
いきなり高い位置から見下ろすのではなく、「自分の足で地面に立つ」ことを、最初の一歩にしたかった。
土の感触が、靴底越しに伝わる。
村人たちの視線が、いっせいにこちらへ集まった。
怖がらせないよう、私はできるだけ柔らかい笑みを作る。
「本日より、この辺りをお預かりすることになりました、リヴィア・エルノーラ・ヴァルシュタインと申します」
名乗りながら、深く頭を下げた。
驚いたようなざわめきが、広場を走る。
貴族が、村で、頭を下げた。
その事実だけで、もう充分に異物なのだと、彼らの表情が教えてくれる。
「本日は、あなた方の暮らしを少しだけ見せていただきたくて参りました。
ご迷惑をおかけするつもりはありません。
むしろ――今日は、“奪うため”ではなく、“支払うため”にここへ来ましたの」
あえて、そう言った。
何人かの顔が、ぴくりと歪む。
奪う。
支払う。
この土地で、その二つの言葉はきっと、あまりにもはっきりとした線で分かたれてきたのだろう。
「レオン様」
「はっ」
「少し、市場を見て回ります。
兵の皆さまは、村の出入りを邪魔しないよう、広場の外でお待ちいただけます?」
「承知しました」
レオン様が手短に指示を飛ばす。
兵たちが距離を取り、広場の外周に散った。
私は一人、屋台の並ぶ方へ歩き出す。
……本当は、一人ではない。
すぐ後ろにレオン様の気配を感じている。
けれど、村人の目にまず映るのが「武装した男たち」ではなく「一人の女」であるように――その程度の工夫は、私にもできる。
最初に目についたのは、粗末な木箱の上に並べられた小さな芋だった。
形もいびつで、ところどころ芽が出ている。
けれど、その皮の下には、きっとちゃんとした実りが隠れているはずだ。
「こんにちは」
木箱の向こう側に座る老人に声をかける。
「……へ、へい」
腰の曲がった老人が、慌てて立ち上がろうとして、危うくよろめいた。
「どうぞ、そのままで」
私は手を伸ばして支え、そのまましゃがみ込むようにして目線を合わせた。
「本日の芋は、おいしそうですわね」
「こ、こんな小さいもんで……」
「小さいからこそ、火が通りやすくて重宝しますのよ」
微笑みながら、木箱の中からいくつかの芋を手に取る。
芽の少ないもの。
しっかりと重みのあるもの。
選びながら、老人の様子を横目で窺う。
彼の目には、警戒と困惑とが入り混じっていた。
……でしょうね。
これまでここに来た貴族たちは、きっと別の目線でこの村を見てきたのだろうから。
「こちらの芋を、そうですわね……この籠ひとつ分、いただけます?」
「は、はあ」
「おいくらかしら」
「え、ええと……その、小銅十枚もいただければ……」
十枚。
――安すぎますわ。
思わず、喉の奥で苦笑がこぼれた。
相場は、正直に言えばまだ私も把握しきれていない。
それでも、この量と、今日の彼の一日の働きとを考えれば、それはあまりにも少ない。
「でしたら、銀貨一枚で」
「はぁっ!?」
老人だけでなく、周囲で様子を見ていた村人たちの声がいっせいに裏返った。
「あ、いえ……ええと」
本当はもう少し高くてもいいくらいだけれど。
さすがに初日から金貨を出せば、それこそ恐怖の対象になってしまうだろう。
私は掌に銀貨を載せ、老人の前に差し出した。
「今まで搾られてきた分の、ほんの一部の前払いですわ。
これで、しばらくは少し楽ができるでしょう?」
「い、いえ、そんな……こんな大金、私なんか……!」
「あなた“なんか”ではなく、あなたです」
私は首を横に振る。
「あなたの芋を私が買う。
それだけの、普通の取引ですわ」
老人の手が震えながら、銀貨に伸びる。
受け取っていいのかどうかを、何度も何度も自分に問い直しているような動きだった。
その様子が、胸に刺さる。
(……ここまでされなければ、『正当な対価』を信じられないほどに、搾られてきたのね)
私の視線を追って、レオン様がほんのわずかに眉根を寄せた。
「そんなにいただけません」と老人がまだうろたえているので、私は少しだけきつめに笑って見せる。
「では、今日だけの特別価格ということで。
私が損をしていると思うなら――いつか、もっとおいしい芋を売ってくださいな」
それでも、彼の目には感謝と同じくらい強い、別の色が浮かんでいた。
不安。
恐れ。
“何を考えているのか分からないもの”に対する、生き物としての警戒。
「貴族様が、買ってくださった……?」
「銀貨だぞ、銀貨……」
「何か、裏があるんじゃないか」
ひそひそ声が、背中越しに聞こえる。
想定の範囲内だ。
疑われるのは当然。
今までそうさせてきたのが、他ならぬ“貴族”なのだから。
市場を歩いていると、腰の曲がった老婆が薪の束を苦労しながら運んでいる姿が目についた。
「お手伝いしてもよろしいかしら」
「い、いえいえっ、そんな……!」
「私の手は飾りではありませんもの」
笑って、彼女の腕から薪の束を受け取る。
思っていたよりも重かった。
「……っ」
腕に少し力を込めると、背中の筋が悲鳴を上げた。
ああ、やっぱりまだまだ鍛え方が足りませんわね、私。
「どちらまで?」
「あ、あそこの小屋で」
指さされた先は、村の端の小さな家だった。
軒先に干された洗濯物が、風に揺れている。
薄く色あせた布きれが、空の色と溶け合って、なんだか切なく見えた。
薪を下ろすと、老婆が何度も頭を下げた。
「ありがとうございますだ、貴族様……!」
「いえ。
その代わり、次に来たときには、あなたの自慢話を一つ聞かせてくださいな」
「じ、自慢話……?」
「はい。
お孫さんのことでも、ご自身の昔話でも」
老婆が、きょとんとした顔をする。
やがて、くしゃりと目尻を下げて笑った。
「……考えときますだ」
その笑みにもまた、少しの戸惑いと、ほんの一匙の希望とが入り混じっていた。
広場に戻る途中、小さな人影が私の裾の影から覗いた。
振り向くと、ぼろぼろのシャツを着た子どもが、じっとこちらを見上げている。
土で黒くなった頬。
痩せた腕。
けれど、その瞳だけは、驚くほど澄んでいた。
「お腹、空いてないの?」
その子が、ぽつりと聞いた。
周りの大人たちが息を呑むのが分かった。
「こら、失礼なことを……!」
誰かが慌てて子どもの肩を掴もうとする。
私は手を上げて、それを制した。
「ええ、少しだけ。
でも、あなたたちのほうが、もっと空いているでしょう?」
「……うん」
子どもが、正直に頷く。
私は腰を落とし、目線を合わせた。
「今日、私はここで少し買い物をしました。
そのお金が、あなたやあなたの家族のお腹を満たすために使われるのなら――それが一番、嬉しいですわ」
「……よく、わかんない」
それもそうだ。
子どもに政治の話をしても仕方がない。
「じゃあ、簡単に言うと、こうですわ」
私は、昨日の街道宿で女将から譲ってもらった小さなクッキーを一枚、ポケットから取り出した。
「これは、私が持っていたもの。
これをあなたに渡すと、あなたのお腹が少し満たされて、私のお腹は少し空きます」
「うん」
「でも、その代わりに、あなたの笑顔と、あなたが今ここにいてくれるという事実を、私はもらえますの。
私は、それが欲しい」
子どもの瞳が、ぱちぱちと瞬く。
「……変な貴族」
「あら、よく言われますわ」
くすりと笑ってクッキーを渡すと、子どもは一瞬ためらってから、がぶりと齧った。
その頬の動きを見ているだけで、胸が少し温かくなる。
その背後で、大人たちの目がさらに複雑な色を帯びた。
感謝。
困惑。
畏怖。
たぶん、その全部だ。
――笑顔で、ここまでやる貴族は、きっと彼らにとって「理解の外側」にいる。
「あの人を怒らせたら、きっとひどい目に遭うぞ」
そんな囁きが、どこかから聞こえた気がした。
怒るつもりなどないのに。
それでも、そう思われてしまうのは、私が背負っているもののせいだ。
「リヴィア様」
背後から、低い声がかかった。
振り返ると、レオン様がいた。
彼は村全体を、私とは別の目線で見ていたのだろう。
兵として、護衛として、危険の種を探すように。
「そろそろ、城に戻る頃合いかと」
「そうですわね」
私は広場をぐるりと見回した。
崩れかけた家々。
痩せた土地。
疑いと恐れの色を宿したままの瞳たち。
「本日は、急に押しかけてしまってごめんなさい。
また、必ず参りますわ」
そう告げると、誰かが小さく頭を下げた。
それに釣られるように、ぽつ、ぽつ、と礼の動作が連鎖していく。
貴族に対する「服従の礼」ではなく、戸惑い混じりの、ぎこちない礼。
それで充分だ。
馬車に乗り込む前、私はもう一度だけ、村を振り返った。
(ここを、“生きていける場所”に変えたい)
裕福ではなくてもいい。
華やかでなくてもいい。
ただ、「今日より明日のほうが少しだけましだ」と思いながら眠れる場所へ。
(疑われる覚悟も、今日ここに来るときに一緒に持ってきましたもの)
だから、彼らが今すぐ私を信じなくてもいい。
信じてほしいと泣きつくつもりもない。
ただ、積み上げていくしかないのだろう。
一つずつ。
一人ずつ。
一日ずつ。
馬車の扉が閉まり、車輪が軋む。
揺れる視界の中で、村が少しずつ遠ざかっていく。
その背中に向かって、私は小さく囁いた。
「いつか、あなたたちが“戻りたい”と思える場所にしてみせますわ」
それが、今日この日の、自分自身への誓いだった。




