焚き火と、“国の底”の話
雨は、夜のあいだに、ようやく息切れしたらしい。
朝、宿を出る頃にはまだ空一面に重い雲が残っていたけれど、昼を過ぎる頃には、その灰色も少しずつ薄くなっていった。
夕刻になる頃には、雲の切れ間から、淡い橙色の光がこぼれている。
「本日は、ここまでといたしましょう」
御者台のレオン様の声が、前方から聞こえた。
馬車がぎしりと軋んで止まる。
窓から顔を出すと、街道の脇に、少しだけ開けた草地が見えた。
昨夜の雨の名残で土はまだ湿っていたけれど、水が溜まるほどではない。
「この先、しばらく宿はありません。
道の状態も、あまりよろしくない」
レオン様が、いつもの落ち着いた声で説明してくれる。
「それに、ここなら周囲の見通しも良い。
野営するには悪くない場所です」
「野営」
口に出してみると、言葉の重みが少しだけ現実味を帯びた。
王都にいる頃、教本や物語の中でしか知らなかった言葉。
それを自分がこうして体験する日が来るなんて、以前の私は想像もしなかった。
「分かりましたわ。
でしたら、私もできることを」
馬車から降りると、濡れた土が靴の底に少しだけまとわりつく。
空気には、まだ昨夜の雨の湿り気が残っていた。
兵たちが手際よく荷台からキャンバス地の布を降ろし、簡易のテントを設営し始める。
別の者は、周囲から折れ枝や落ちた薪を集めていた。
焚き火のための石を並べる音。
馬の鼻息。
革と金属がこすれる、小さな生活音。
初めて聞く種類の雑音が、どこか心地よい。
「リヴィア様、こちらに腰掛けを」
兵の一人が、丸太を転がして簡易の椅子代わりにしてくれた。
「ありがとうございます」
そこに腰を下ろすと、視界が少しだけ低くなる。
さっきまで馬の背ばかり見ていたのに、今は草の先や、土の凹凸がよく見えた。
その真ん中で、火打石の音がカチカチと鳴る。
しばらくして、小さな火花が乾いた藁に火を移し、細い煙が立ち上った。
それが枝へ、さらに太い木へと移っていく。
火が育つ。
やがて、ぱちり、と音を立てて焚き火が笑った。
「……綺麗ですわね」
思わず、そんな言葉が零れる。
王都の屋敷にも暖炉はあったけれど、あれはもっと「整えられた火」だった。
枠もあり、掃除された石もあり、常に誰かの管理が行き届いている。
今目の前にある焚き火は、もっと素朴で、荒っぽくて――でも、どこか自由だ。
「こうして外で食べると、不思議とおいしく感じますわね」
まだ食事にも手をつけていないうちから、私はそんな感想を口にしていた。
周囲の兵たちが、苦笑混じりに笑う。
「王都では、こんな野営はないでしょう?」
干し肉を切っていた若い兵が、からかうように言った。
「そうですわね。
王都では、こうして静かな夜空を見たことがありません」
空を見上げる。
雲はだいぶ薄くなり、その隙間から、夕暮れの名残と、夜の青さが混ざり合った色が覗いていた。
街の明かりも、喧騒も、ここにはない。
聞こえるのは、焚き火のはぜる音と、風が草を撫でる音だけ。
「贅沢な静けさですわ」
「贅沢、ですか」
若い兵が少し目を丸くした。
「ええ。
何もないことを、こんなふうに“贅沢”だと感じるのは、多分初めてですもの」
そう言うと、彼は少し照れたように笑って、干し肉を串に刺しながら焚き火の上にかざした。
固いパンと、干し肉。
それに、昼のうちに摘んでおいた香草を少し。
質素と言えば質素な食事だけれど、火を通せばそれなりに香りが立つ。
「リヴィア様、パンをどうぞ」
「ありがとうございます」
差し出されたパンを受け取り、火にかざす。
じんわりと表面が温まり、硬さが少しずつ和らいでいく。
まだ乾ききらない土の匂いと、火の匂いと、一緒になって鼻腔をくすぐった。
ふと、これまで通り過ぎてきた村々のことを思い出す。
雨に濡れた屋根。
ひび割れた壁。
痩せた畑と、少ない家畜。
子どもたちの、どこか諦めたような目。
(……同じ国、なのに)
知らないふりをしていれば、きっと今でも屋敷の中で優雅に紅茶を飲んでいられたのだろう。
それを「運が良かった」と呼ぶのか、「見ないで済んだ幸運」と呼ぶのか――判断は難しい。
「ねえ、教えていただけます?」
私は、焚き火の向こう側に座る兵たちに声をかけた。
「何をでございますか」
レオン様が、さりげなく問い返す。
「今日通り過ぎてきた村々のこと。
あれほど畑が痩せているのに、人がまだあそこに留まっている理由は?」
兵たちが顔を見合わせる。
「理由、ですか……」
一人が頭をかいた。
「そこに家があるから、ですね。
家族も、墓も、思い出も……全部、そこにあるから。
だから、簡単には動けないんです」
「ならば、なぜあそこまで痩せたまま放置されているのかしら」
自分でも、少し声が硬くなったのが分かった。
「同じ国の民なのに。
どうして、あそこまで放っておけたのかしら」
焚き火の炎が揺れる。
その向こうで、兵士たちの表情が歪んだ。
「放っておく、というより……」
年長らしい兵が、苦い顔で言葉を探す。
「上の方の方々は、ああいう場所に、あまり興味をお持ちじゃないので」
「興味、ですって?」
口の中のパンが、途端に味を失った気がした。
「ええ。
税さえ入ってくれば、それでいい。
名目上の治安が保たれていれば、それでいい。
そんな場所が、王都からは“山ほど”あるように見えるんでしょう」
兵の声には、諦めと、わずかな怒りが混ざっていた。
「冬には、子どもが何人も死ぬ村もあります。
でも、それが報告書に載る頃には、数字にしかなっていない。
『今年は昨年より二人少なかったから、改善』とか、そんな具合で」
「……」
焚き火の光が、オレンジ色の輪郭を私の視界に刻む。
数にされた命。
報告書の行に押し込められた、生活の重さ。
「貴族様方は、ふつう、こういう話を聞きたがらないんで」
若い兵が、申し訳なさそうに付け加えた。
「せっかくの食事がまずくなるって、よく言われます。
だから俺たちも、あんまり口にしないようにしてて……」
「聞きたくないからといって、知らなくていいことにはなりませんわ」
自分でも驚くほど、はっきりと言葉が出た。
兵たちが、一斉にこちらを見る。
「この国の底の冷たさを知らないまま、上に座っていた私も、同罪なのかもしれません」
炎が、ぱち、と音を立てる。
「でも――」
私は、火の向こうの兵たちの目を順に見た。
「知ってしまった以上は、変えずにいるほうが、よほど罪深いでしょう」
焚き火の光が、私の目に映り込んでいるのが分かる。
じりじりと焼けるような熱さが、胸の奥から込み上げた。
怒り、というには静かすぎる。
でも、決意と呼ぶには、まだ頼りない。
それでも確かに、何かが心の中で形を取りつつあった。
「……リヴィア様」
レオン様が、焚き火越しに私を見ていた。
その目に、一瞬だけ驚きの色が浮かぶ。
すぐにそれは消えたけれど、彼の喉がかすかに動いたのが、火の明かりでよく見えた。
(この人が、本気で怒ったとき――)
そんな声が、聞こえた気がした。
きっと、それは兵の誰かの心の中の言葉だ。
私自身もまた、同じ問いを胸のどこかに隠している。
(私が本気で怒ったとき、この世界はどうなるのかしら)
精霊王が囁いた言葉が、ふと頭をよぎる。
――お前が守りたいものを守るあいだ、我は力を貸そう。
あの傲慢な声を、今だけはありがたいと思ってしまう自分がいる。
「教えてくださって、ありがとうございました」
深く息を吸い込んでから、私はそう言った。
「辛いことを口にするのは、楽しいことを話すよりずっと難しいはずですのに」
「い、いえ……」
兵たちが、落ち着かない様子で頭を掻いたり、視線を逸らしたりする。
重くなりかけた空気が、このまま沈んでしまうのは、私も望んでいない。
「では――せめて、このパンだけでも、少しは楽しい思い出になりますように」
私は手元のパンを、焚き火の上にかざした。
表面がこんがりと色づき始めたところで、持参していた小瓶から、香草の粉をぱらぱらとふりかける。
さらに、兵の一人から少し分けてもらった胡椒を、指先でねじるようにして振った。
じゅ、と、わずかに脂の焦げる音がして、香りがふわりと立ち上る。
「どうぞ。
少しはましになりますわ」
「うわ……いい匂いだ」
「こんなの、城の厨房みたいだ」
「これでも一応、元・公爵家の食卓の端っこを預かっていたのです」
冗談めかしてそう言うと、兵たちの表情がやっとほころんだ。
「じゃあ、俺にも一口」
「こら、順番を守れ」
騒ぐ声を宥めながら、焼きたてのパンをちぎって皆に回す。
自分の分をひとかけら口に入れてみると――
「……あ」
気を取られているうちに、火にかざしすぎてしまったらしい。
端の方が、すっかり黒くなっていた。
「これは……私が責任を取りますわね」
黒い部分を見ないふりをして、私はそこをぱくりと齧った。
「リヴィア様、無理になさらなくても……」
「大丈夫ですわ。
焦げたパンも、それはそれで、思い出の味になりますもの」
少し苦い端を食べながら笑うと、兵たちもつられて笑った。
「こんな上司なら、悪くない」
誰かが、ぼそりと呟く。
「上司、ですか?」
「辺境に着いたら、俺たちはリヴィア様の兵ですから」
そう言われると、なんともむず痒い。
「そうですわね。
そのときまでに、もう少し“上司らしい”顔の作り方を覚えておきますわ」
「今のままで十分ですよ」
レオン様の静かな声が、焚き火の音に混ざって聞こえた。
ふと、空を見上げる。
雲の切れ間から、いくつか星が顔を覗かせていた。
「……見えますわね」
「何がです?」
「星が。
この国の底からでも、星は同じように見えるのですね」
王都の高い塔から見上げる星も、きっと同じ形をしている。
貧しい村の土の上から見上げる星も、同じ光を放っている。
違うのは、そこに至るまでの道だけだ。
「いつか、あの村々からも――
『今日も生きていて良かった』と思いながら星を見られるように、できるかしら」
独り言のように呟くと、焚き火がぱちりと音を立てた。
それが、賛成なのか反対なのかは分からない。
けれど、少なくとも今夜この場所にいる誰もが、その言葉を聞いて、何かしらの感情を抱いたはずだ。
胸が少し苦しくなったので、私はわざと大きめの声で笑ってみせた。
「それにしても――外で食べると、本当においしく感じますわね」
「焦げても、ですか?」
「焦げたところは……そうですわね。
“努力の味”ということにしておきましょう」
兵たちがどっと笑う。
星が一つ、また一つ、雲の隙間から顔を出した。
国の底だろうと、端っこだろうと。
この空の下にいる限り、私のやるべきことは、きっと変わらない。
焚き火の温もりを膝に感じながら、私はそっと目を閉じた。




