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世界を敵に回しても、あなたを守りたい 〜国を消した公爵令嬢は、辺境で騎士と未来を選ぶ〜  作者: 深淵 みなも
第1章_婚約破棄と、辺境で始まるささやかな奇跡
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焚き火と、“国の底”の話

 雨は、夜のあいだに、ようやく息切れしたらしい。


 朝、宿を出る頃にはまだ空一面に重い雲が残っていたけれど、昼を過ぎる頃には、その灰色も少しずつ薄くなっていった。


 夕刻になる頃には、雲の切れ間から、淡い橙色の光がこぼれている。


「本日は、ここまでといたしましょう」


 御者台のレオン様の声が、前方から聞こえた。


 馬車がぎしりと軋んで止まる。


 窓から顔を出すと、街道の脇に、少しだけ開けた草地が見えた。

 昨夜の雨の名残で土はまだ湿っていたけれど、水が溜まるほどではない。


「この先、しばらく宿はありません。

 道の状態も、あまりよろしくない」


 レオン様が、いつもの落ち着いた声で説明してくれる。


「それに、ここなら周囲の見通しも良い。

 野営するには悪くない場所です」


「野営」


 口に出してみると、言葉の重みが少しだけ現実味を帯びた。


 王都にいる頃、教本や物語の中でしか知らなかった言葉。

 それを自分がこうして体験する日が来るなんて、以前の私は想像もしなかった。


「分かりましたわ。

 でしたら、私もできることを」


 馬車から降りると、濡れた土が靴の底に少しだけまとわりつく。

 空気には、まだ昨夜の雨の湿り気が残っていた。


 兵たちが手際よく荷台からキャンバス地の布を降ろし、簡易のテントを設営し始める。

 別の者は、周囲から折れ枝や落ちた薪を集めていた。


 焚き火のための石を並べる音。

 馬の鼻息。

 革と金属がこすれる、小さな生活音。


 初めて聞く種類の雑音が、どこか心地よい。


「リヴィア様、こちらに腰掛けを」


 兵の一人が、丸太を転がして簡易の椅子代わりにしてくれた。


「ありがとうございます」


 そこに腰を下ろすと、視界が少しだけ低くなる。

 さっきまで馬の背ばかり見ていたのに、今は草の先や、土の凹凸がよく見えた。


 その真ん中で、火打石の音がカチカチと鳴る。


 しばらくして、小さな火花が乾いた藁に火を移し、細い煙が立ち上った。


 それが枝へ、さらに太い木へと移っていく。


 火が育つ。


 やがて、ぱちり、と音を立てて焚き火が笑った。


「……綺麗ですわね」


 思わず、そんな言葉が零れる。


 王都の屋敷にも暖炉はあったけれど、あれはもっと「整えられた火」だった。

 枠もあり、掃除された石もあり、常に誰かの管理が行き届いている。


 今目の前にある焚き火は、もっと素朴で、荒っぽくて――でも、どこか自由だ。


「こうして外で食べると、不思議とおいしく感じますわね」


 まだ食事にも手をつけていないうちから、私はそんな感想を口にしていた。


 周囲の兵たちが、苦笑混じりに笑う。


「王都では、こんな野営はないでしょう?」


 干し肉を切っていた若い兵が、からかうように言った。


「そうですわね。

 王都では、こうして静かな夜空を見たことがありません」


 空を見上げる。


 雲はだいぶ薄くなり、その隙間から、夕暮れの名残と、夜の青さが混ざり合った色が覗いていた。


 街の明かりも、喧騒も、ここにはない。

 聞こえるのは、焚き火のはぜる音と、風が草を撫でる音だけ。


「贅沢な静けさですわ」


「贅沢、ですか」


 若い兵が少し目を丸くした。


「ええ。

 何もないことを、こんなふうに“贅沢”だと感じるのは、多分初めてですもの」


 そう言うと、彼は少し照れたように笑って、干し肉を串に刺しながら焚き火の上にかざした。


 固いパンと、干し肉。

 それに、昼のうちに摘んでおいた香草を少し。


 質素と言えば質素な食事だけれど、火を通せばそれなりに香りが立つ。


「リヴィア様、パンをどうぞ」


「ありがとうございます」


 差し出されたパンを受け取り、火にかざす。


 じんわりと表面が温まり、硬さが少しずつ和らいでいく。


 まだ乾ききらない土の匂いと、火の匂いと、一緒になって鼻腔をくすぐった。


 ふと、これまで通り過ぎてきた村々のことを思い出す。


 雨に濡れた屋根。

 ひび割れた壁。

 痩せた畑と、少ない家畜。


 子どもたちの、どこか諦めたような目。


(……同じ国、なのに)


 知らないふりをしていれば、きっと今でも屋敷の中で優雅に紅茶を飲んでいられたのだろう。


 それを「運が良かった」と呼ぶのか、「見ないで済んだ幸運」と呼ぶのか――判断は難しい。


「ねえ、教えていただけます?」


 私は、焚き火の向こう側に座る兵たちに声をかけた。


「何をでございますか」


 レオン様が、さりげなく問い返す。


「今日通り過ぎてきた村々のこと。

 あれほど畑が痩せているのに、人がまだあそこに留まっている理由は?」


 兵たちが顔を見合わせる。


「理由、ですか……」


 一人が頭をかいた。


「そこに家があるから、ですね。

 家族も、墓も、思い出も……全部、そこにあるから。

 だから、簡単には動けないんです」


「ならば、なぜあそこまで痩せたまま放置されているのかしら」


 自分でも、少し声が硬くなったのが分かった。


「同じ国の民なのに。

 どうして、あそこまで放っておけたのかしら」


 焚き火の炎が揺れる。

 その向こうで、兵士たちの表情が歪んだ。


「放っておく、というより……」


 年長らしい兵が、苦い顔で言葉を探す。


「上の方の方々は、ああいう場所に、あまり興味をお持ちじゃないので」


「興味、ですって?」


 口の中のパンが、途端に味を失った気がした。


「ええ。

 税さえ入ってくれば、それでいい。

 名目上の治安が保たれていれば、それでいい。

 そんな場所が、王都からは“山ほど”あるように見えるんでしょう」


 兵の声には、諦めと、わずかな怒りが混ざっていた。


「冬には、子どもが何人も死ぬ村もあります。

 でも、それが報告書に載る頃には、数字にしかなっていない。

 『今年は昨年より二人少なかったから、改善』とか、そんな具合で」


「……」


 焚き火の光が、オレンジ色の輪郭を私の視界に刻む。


 数にされた命。

 報告書の行に押し込められた、生活の重さ。


「貴族様方は、ふつう、こういう話を聞きたがらないんで」


 若い兵が、申し訳なさそうに付け加えた。


「せっかくの食事がまずくなるって、よく言われます。

 だから俺たちも、あんまり口にしないようにしてて……」


「聞きたくないからといって、知らなくていいことにはなりませんわ」


 自分でも驚くほど、はっきりと言葉が出た。


 兵たちが、一斉にこちらを見る。


「この国の底の冷たさを知らないまま、上に座っていた私も、同罪なのかもしれません」


 炎が、ぱち、と音を立てる。


「でも――」


 私は、火の向こうの兵たちの目を順に見た。


「知ってしまった以上は、変えずにいるほうが、よほど罪深いでしょう」


 焚き火の光が、私の目に映り込んでいるのが分かる。

 じりじりと焼けるような熱さが、胸の奥から込み上げた。


 怒り、というには静かすぎる。

 でも、決意と呼ぶには、まだ頼りない。


 それでも確かに、何かが心の中で形を取りつつあった。


「……リヴィア様」


 レオン様が、焚き火越しに私を見ていた。


 その目に、一瞬だけ驚きの色が浮かぶ。

 すぐにそれは消えたけれど、彼の喉がかすかに動いたのが、火の明かりでよく見えた。


(この人が、本気で怒ったとき――)


 そんな声が、聞こえた気がした。


 きっと、それは兵の誰かの心の中の言葉だ。


 私自身もまた、同じ問いを胸のどこかに隠している。


(私が本気で怒ったとき、この世界はどうなるのかしら)


 精霊王が囁いた言葉が、ふと頭をよぎる。


 ――お前が守りたいものを守るあいだ、我は力を貸そう。


 あの傲慢な声を、今だけはありがたいと思ってしまう自分がいる。


「教えてくださって、ありがとうございました」


 深く息を吸い込んでから、私はそう言った。


「辛いことを口にするのは、楽しいことを話すよりずっと難しいはずですのに」


「い、いえ……」


 兵たちが、落ち着かない様子で頭を掻いたり、視線を逸らしたりする。


 重くなりかけた空気が、このまま沈んでしまうのは、私も望んでいない。


「では――せめて、このパンだけでも、少しは楽しい思い出になりますように」


 私は手元のパンを、焚き火の上にかざした。


 表面がこんがりと色づき始めたところで、持参していた小瓶から、香草の粉をぱらぱらとふりかける。

 さらに、兵の一人から少し分けてもらった胡椒を、指先でねじるようにして振った。


 じゅ、と、わずかに脂の焦げる音がして、香りがふわりと立ち上る。


「どうぞ。

 少しはましになりますわ」


「うわ……いい匂いだ」


「こんなの、城の厨房みたいだ」


「これでも一応、元・公爵家の食卓の端っこを預かっていたのです」


 冗談めかしてそう言うと、兵たちの表情がやっとほころんだ。


「じゃあ、俺にも一口」


「こら、順番を守れ」


 騒ぐ声を宥めながら、焼きたてのパンをちぎって皆に回す。


 自分の分をひとかけら口に入れてみると――


「……あ」


 気を取られているうちに、火にかざしすぎてしまったらしい。

 端の方が、すっかり黒くなっていた。


「これは……私が責任を取りますわね」


 黒い部分を見ないふりをして、私はそこをぱくりと齧った。


「リヴィア様、無理になさらなくても……」


「大丈夫ですわ。

 焦げたパンも、それはそれで、思い出の味になりますもの」


 少し苦い端を食べながら笑うと、兵たちもつられて笑った。


「こんな上司なら、悪くない」


 誰かが、ぼそりと呟く。


「上司、ですか?」


「辺境に着いたら、俺たちはリヴィア様の兵ですから」


 そう言われると、なんともむず痒い。


「そうですわね。

 そのときまでに、もう少し“上司らしい”顔の作り方を覚えておきますわ」


「今のままで十分ですよ」


 レオン様の静かな声が、焚き火の音に混ざって聞こえた。


 ふと、空を見上げる。


 雲の切れ間から、いくつか星が顔を覗かせていた。


「……見えますわね」


「何がです?」


「星が。

 この国の底からでも、星は同じように見えるのですね」


 王都の高い塔から見上げる星も、きっと同じ形をしている。

 貧しい村の土の上から見上げる星も、同じ光を放っている。


 違うのは、そこに至るまでの道だけだ。


「いつか、あの村々からも――

 『今日も生きていて良かった』と思いながら星を見られるように、できるかしら」


 独り言のように呟くと、焚き火がぱちりと音を立てた。


 それが、賛成なのか反対なのかは分からない。

 けれど、少なくとも今夜この場所にいる誰もが、その言葉を聞いて、何かしらの感情を抱いたはずだ。


 胸が少し苦しくなったので、私はわざと大きめの声で笑ってみせた。


「それにしても――外で食べると、本当においしく感じますわね」


「焦げても、ですか?」


「焦げたところは……そうですわね。

 “努力の味”ということにしておきましょう」


 兵たちがどっと笑う。


 星が一つ、また一つ、雲の隙間から顔を出した。


 国の底だろうと、端っこだろうと。

 この空の下にいる限り、私のやるべきことは、きっと変わらない。


 焚き火の温もりを膝に感じながら、私はそっと目を閉じた。


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